趣味は引用
その16 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 Lot 49 以外の作品の話を持ち出すと、たとえば、18世紀のアメリカを舞台にしたMason & Dixon (1997)という長篇がある。自分は十分の一くらいで挫折してヘタレの面目を躍如たるものにしてしまったのだが、ある専門家によれば、これを書くにあたってピンチョンは当時の気象記録まで調べ、作中の日付と天候が合致するようにしているという。
 そんな話を聞いてしまうと、どうしたってLot 49 にも現実との整合性を探したくなる。たとえ、これから読んでいく第2章以降で主たる舞台になるのが〈サン・ナルシソ〉という架空の町であってもだ。
 とは言いながら、作中の「現在」が1964年なのか65年なのか66年なのかは、いまいちはっきりしない。これをどうとらえればいいのか。
 自分はこう考える。

 読んでみても年代を特定できないのは、年代を特定できないようにしておこうという作為のもとに書かれているからだ。

 この時代特有の風俗についてのコメントや、正確な年代つきで行われる歴史への言及をあちこちに組み込みながら、いっぽうでLot 49 は、寓話に接近しようとしている。現在時の曖昧さはそのあらわれではないだろうか。
 前回触れた、堂々と「1964年を舞台に」と書いている論文は、じつは次のように続いていた。
《しかしながらLot 49 は、決して1964年についての小説ではない。この小説は1957年から64年までスライドして、かかる「変化」の時代に生きる感触を写し取った作品である。雌伏してあたらしい時代が生まれるのを「待機」するのに費やされた、あの7年間についての小説なのである。》

 なんで64年で区切りますかという疑問はあり、その疑問はちょっと歴史を勉強すれば常識なのかもという不安に拡大するのだが、このとらえ方じたいは悪くないように思う。
 いま考えられるのは、これまで書いたので全部である。また別の情報が見つかったらお知らせしたい。そういうわけで、作中の現在時については「1960年代の中頃~後半のどこか・どこでもありうる」ということにして先に進むことにする。
 Lot 49 には、年代だけでなく不確定な要素がたくさんある。作品の根っこにかかわるような部分まで、人によって正反対の受け取り方をされてきたようだし、これからもされていくのかもしれない。
(この小説を論じるときによく用いられるお決まりの言葉は「曖昧さ」である。さっき自分も1回使ってしまった)

…続き

追記1:
 引用した「1964年」と断定する論文は、Pierre-Yves Petillon"A Re-cognition of Her Errand into the Wilderness"で、これはPatrick O'Donnell編の論集New Essays on The Crying of Lot49 (1991)に収められている。

追記2:
 2011年刊行の佐藤良明訳『競売ナンバー49の叫び』(新潮社)では、FSMともうひとつ、第5章で名前が出てくるVDC(Vietnam Day Committee)という政治組織に触れ、これが1965年に活動を始めたことから小説の舞台を1965年と確定している。これは、メキシコでバロ展があったのは1962年、というのと同じくらい確かな証拠であると思う。
その14」に並べた5つの出来事を収めつつ「現在」を1965年にするのは「難しい」とあのとき書いたが、ムーチョがDJになったのを1960年の後半、エディパがムーチョと結婚したのを1963年の前半とし、DJ歴が2年を越えているのを四捨五入して「2年」とカウントしていると考えればこれは可能になる。
 バロ展は1964年にも開かれているが、こちらを採るとさすがに数字を合わせるのは無理である。
その15 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 Lot 49 の舞台は何年なのかという話の続き。

 1964年なのか1965年なのか、それとも1966年なのか?
 自分としては、計算から出てくる1966年であってほしいと思うが、この計算は数字が大づかみなので、答えがちがってくる余地もある(たとえば「1年前」が正確に12ヶ月前とは限らない)。それにLot 49 は、刊行の前年である1965年に一部が雑誌に掲載されたというから、舞台が1966年と未来になっているのは不自然かもしれない。
 以前読んだLot 49 論の中には、特に理由はあげないまま「1964年を舞台に」とはっきり書いているものもあったのでおどろいた。その著者はもしかしたらピンチョンと同世代かもしれず、見る人が見れば容易にそれとわかる根拠があったのかもしれない(だったら書いてほしいと切に思った)。

 結局、自分には年代ひとつについてさえ確かなことはわからない。

 ところで、作中でエディパの行ったバロ展が、現実に開催された2回の展覧会(1962、1964)のどちらかであると考えるような読み方がそもそも正しくない、という意見もあろうかと思う。小説内の架空の世界で、架空の人物が架空のバロ展に行ったとして読めばいいじゃないか、と。そうすれば作中の年代はどうとでも辻褄が合わせられるだろうし、そもそも、そんなデータは明示されていないのだから、変に特定しようとすることで作品の姿が歪んでしまうともいえばいえるだろう。

 しかし自分は、実際にあった出来事その他に全面的には立脚していないことが明らかな作品であっても、こちらの現実世界にいくつかでも接点があるのなら、それがハイヒールのかかと程度の小さな点であれ、その接点の限りにおいて小説の中というひとつの現実を小説の外というもうひとつの現実の地面に立たせ、もともとないのかもしれない整合性をあれこれ探してみる――もっといえば、整合性をつくってみる――読み方のほうが好きである。
 好きである、という以上の理由を説明するのは正直、手に余り、またぞろ他人の文章を引用するしかないような、その程度のヘタレな読者ではあるが、そういう読み方をする「べき」だ、とはいわないまでも、そんな読み方にはそんな読み方なりの意味があると考えている。
 そういった作業に向かない類の小説はたくさんあるだろうし、その向く・向かないと、作品の面白さが別の話であるのはもちろんだが、デビュー以来ずっと凝りに凝った小説を書いてきたピンチョンの作品は、そんな詮索にじゅうぶん耐えるし、むしろ、執拗な詮索というこちらからの働きかけを待っているんじゃないかと思うのだ。

…続き
その14 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 第1章には次のようなエピソードがあった。これまで触れてなかったものもあるけど。

(a) エディパとピアスは、メキシコのバロ展にいったあとで別れる
(b) ムーチョと結婚する1年前にエディパとピアスは別れている
(c) ムーチョは中古車販売店に2年勤め、それからDJに転職した
(d) エディパと結婚した時点で、ムーチョはDJになって2年が経っている
(e) ムーチョがうなされる中古車の悪夢に、エディパは「もう5年も経っているのになぜ」とうんざりする

 これらを時系列に沿って整理してみたい。
 でもその前に、(e)の「5年」について補足を。中古車が持ち主の生を体現するものだというオブセッションについて、
[…] whatever it was about the lot that had stayed so alarmingly with him for going on five years. Five years. (p6)

《実体はなんであれ、五年にもわたってこんなに不安を感じさせるほど残っている中古車自動車売り場のこと(…)》p14/p16

とあった。この「5年」は、「中古車販売店を辞めてから5年」経っても妄想がつきまとうという意味だろうか。それとも、「販売店に勤め始めて以来5年」、妄想がつきまとっているという意味だろうか。「残っている(stay with)」という言葉の印象からすると、前者である気がする。自信はない。

 まず(a)のバロ展を1962年のほうだと決め、ここを基準にする。
 (b)について、エディパとピアスはいつ別れたのか。「大地のマントを織りつむぐ」が、「その10」と「その11」に書いたような強い諦念をエディパに与えたとすれば、そのあともだらだらピアスと付き合っていたとは考えにくい。なので、バロ展(1962)の直後にピアスと別れ、すぐさまムーチョと出会い翌年結婚したとすると、つまりいちばん時間を短くとると、それは1963年のことになる。
 それで次に、(c)と(d)より、ムーチョは1959年途中から61年途中まで中古車販売店に勤め、その後DJになったと考える。そして(e)だが、最初に補足したように、ムーチョが中古車と職業上の縁を切った61年から5年経ったのを「現在」とすれば、それは1966年となる。
 不自然だとは思うが、(e)の解釈を「販売店に勤め始めて以来5年」とすると、今度は「現在」が1964年になる。

 どちらにしろ、(a)~(e)を収めようとすると、「現在」を志村氏のいう1965年とするのは難しいようなのである。

 (まだ続く)
…続き
その13 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 第2章に入る前に、第1章が終わった時点での人物表を:

 ● エディパ・マース Oedipa Maas:
    主人公。カリフォルニアの主婦。神経症の気がある。
 ● ムーチョ・マース Mucho Maas:
    エディパの夫。本名はウェンデル。いまはDJ。
    以前勤めていた中古車販売店にトラウマをもつ。神経過敏。
 ● ピアス・インヴェラリティ Pierce Inverarity:
    死んだ大実業家。かつてエディパと付き合っており、
    遺書でなぜか彼女に遺産の処理を任せる。
 ● ヒレリアス Dr Hilarius:
    エディパのかかっている精神分析医。エキセントリック。
 ● ローズマン Roseman:
    弁護士。脇役らしい脇役。なにしろもう出てこない。

 ついでに、ここらで作中の時間を整理してみたい。

 Lot 49 が今あるかたちで発表されたのは1966年だから、作中の「現在」はそれより前だと考えられる。この小説が時間を未来に設定する理由はない。
 では正確にはいつなのか。
 季節は夏と書いてあるが、小説の中にはっきり「いまは19XX年」という記述はない。以前紹介した注釈本Companion を一通り読んでみても、年代を特定する注はなかったと思う。
 なのでまた志村氏の「解注」を受け売りする(そればっかり)と、

 ■ 小説の中盤でちょっとだけ言及される、FSMという学生の政治運動組織

 これを根拠に志村氏は、舞台を1965年の夏としている(単行本版でp276、文庫版でp306)。
 1964年10月に設立されたFSM(Free Speech Movement、こういうところみたい)が、作中では「すでにあるもの」として触れられるため、「現在」は少なくともその翌年以降と考えられるからである。

 すると、エディパが回想するバロ展はいつなのだろう。

 メキシコでバロ展が開かれたのは1962年と1964年だと解注にある。バロについての詳細な年譜を調べても、これ以前の開催は1956年だけだし、これ以降は1971年になってしまうジャネット・A・カプラン『レメディオス・バロ 予期せぬさすらい』リブロポート、1992。三部作の完成は1962年だから、同年の個展にも出品できたかもしれない。

(まだ続きます。なお、三部作の完成、すなわち三作目の「逃亡」が描かれた年を、1961年としている本もあった。どっち?)
…続き


レメディオス・バロ―予期せぬさすらい
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その12 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 レメディオス・バロは1913年にスペインで生まれ、パリを経由し、第二次大戦中にシュルレアリストの仲間とメキシコまで亡命して絵を描き続けた。1963年の死の前年に三部作は完成している。やはりメキシコあたりをうろついていたピンチョンはそこの美術館で彼女の作品に出会ったらしい。オクタビオ・パスなんかもバロ好きで画集をつくったという(現在は稀覯本)。
 南米の小説でもっとも有名であるだろうガルシア=マルケス『百年の孤独』の訳書(新潮社)も、1999年に出た新装版ではバロの「螺旋の回廊」という絵をカバーに使っている
(しかし新装版は活字が2段組じゃないのが不満だよな――って、別に旧版しか持ってないからひがんでるわけではない。というか、バロの絵とマコンドの印象ってそんなに近いだろうか――って、ひがんでるわけではない)
 ガルシア=マルケスがバロについて何か言っているかは知らないが、このノーベル賞をもらったコロンビア人とトマス・ピンチョンというニ大作家の代表作をいまの日本で買い求めるともれなくバロがついてくる、というまとまり方は、愉快なような、それでいいのかと言いたくなるような気もする。
(追記:ご存知のように、『百年の孤独』は2006年に“ガルシア=マルケス全作品”の1冊としてさらにあたらしい版が出た)

 ところで、日本でも1999年に新宿の伊勢丹美術館でバロ展が開催されている。ネタ元である絵の実物が見れる、なにしろ実物というのはかつてメキシコでピンチョンが見たのと同じものなのだ……というミーハー根性に動悸を起こしつつ行ってみたところ、三部作中の13はあったのに、肝心の2)「大地のマントを織りつむぐ」だけは展示されていなかった。
 資料によれば、「大地のマントを織りつむぐ」はどこかの美術館ではなく「個人蔵」ということで、この所有者が展覧会への貸し出しを許可しなかったのかもしれない。ほかのバロ作品がたくさん見れたとはいえ、これでは片手落ちである。残念で、その独り占め「個人」(←想像)に怒りを覚えながら売店でバロ作品のポストカードを買いあさって帰った。

「大地のマントを織りつむぐ」を所有しているのはトマス・ピンチョンその人ではないか――という噂があるのを知ったのはそのあとだった。

…続き
その11 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


「現実とは、自分がそうだと思っていることに過ぎない」のなら、「現実は自分の意図するとおりのものにできる」。
 そうやって自我の塔からの脱出に成功するバロの三部作を見ることによって、皮肉なことにエディパは、脱出の不可能性を悟ったのだった。
 大実業家ピアスが自分をどこまで連れて行ってくれたとしても、やはり周囲の世界はわたしが編んだものでしかない――おそらくは、だから別れた。
 それでも生きていくための方策としてこの部分で提示される案は、「迷信を信じる」(いつか王子様が/神様が…)、あるいは「実用的な趣味を身につける」(それこそ刺繍とか)、もしくは「狂う」、さもなければ「DJと結婚する」、だった。
If the tower is everywhere and the knight of deliverance no proof against its magic, what else? (p12)

《塔がいたるところに延び、解放してくれるはずの騎士に魔法を解いてくれるという証拠がない以上、ほかにどうしたらよいというのか?》p23/p26

 これが第1章最後の文章である。唐突にピアスの遺言が伝えられたとき、エディパはそうやってなんとか日々をやりすごしているところだった。
 これから始まる、ピアスの遺産をめぐる探求は、彼女に何をもたらすのか。上の4つ以外に、ほかの何か(something else)は見つかるのだろうか。第2章に続く、と思う。

 それにしても、最初の第1章、12ページに11回も費やすとは思わなかった。


*なお、「大地のマントを織りつむぐ」に描かれた少女-世界-エディパの関係を考える志村氏の翻訳「解注」はそこだけで8ページにおよび、あんまり見事すぎるので全文を引用したいくらいである。
 筑摩版『競売ナンバー49の叫び』(1992)には、バロの絵がきれいな折り込みカラー図版でついており、そのいわば親本であるサンリオ文庫版(1985、ここのA-8a。こんなに集めたのはすごいが、バロの名前を間違えちゃいけないと思います)も、しっかりこの絵をカバーにしていた。これは志村氏の要求によるそうで、聞き入れた出版社もえらいと思う。これまで見たことのある4種類のペーパーバックでは、どれもこういう配慮はされていなかった。。

…続き
その10 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 問題のバロの作品は、三部作のニ作めである。エディパもまとめて見たと書いてあるものの、作中で他のふたつの絵については言及されていないので、ここにリンクを貼ってしまう。
 まず最初が(1)「塔に向かう」で、ここで連れてこられた少女たちが塔に幽閉され、(2)「大地のマントを織りつむぐ」ことになるのだが、主人公らしきひとりは男と共に(3)「逃亡」する、という展開になっている。
 バロの画集も図書館から借りてきたけれども、結局は志村氏の翻訳「解注」に書いてあった。いわく、世界のすべてを自分が織っていると気付いた少女は、刺繍のなかに「落とし戸」を織りこんで塔から脱出するのだ(上の画像ではちょっと見づらい)。逆転である。エディパにはこれができない。

 まわりの世界のすべてが自分のつくりだしたものに思えてならない。それがエディパの「塔に閉じこもる」状態である。
「いまそこにあるように見える現実は、私がそのようにあると思っているだけのものなんだ」という認識は、はたから眺める限り、それじたいでは毒にも薬にもならないはずだが、そう信じ込んでしまった者には絶望となるだろう。どうか、エディパの陥った苦境を「小学校高学年みたいだ」と馬鹿にしないでほしい。存在に直接かかわるおそれに脅かされることができるのは、そもそも子供だけのはずなのだ。そんな世界観に根拠はない。根拠がないからたいへんなのである。
[…] soon realizes that her tower, its height and architecture, are like her ego only incidental: that what really keeps her where she is is magic, anonymous and malignant, visited on her from outside and for no reason at all. (pp11-2)

[…] まもなく、自分のいる塔が、その高さも、建築様式も、自分のエゴと同じく偶然のものに過ぎないと知る。自分をこの場所に引きとめておくものは魔法、無名の、悪意ある者の魔法で、外から理由もなく襲ってきたものだと知る。》p23/p26

 すべては自分の「内」でしかないと考える人間にとって、孤独の原因は「外」に求められるほかなく、「外」である以上、「内」の自分にはどうにもならない。

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その9 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 付き合っていたころ、エディパはピアスとふたりでメキシコを訪れたことがあった。そこでたまたま、レメディオス・バロの個展に入ったのだ。
 バロはスペイン生まれの女性画家で、その作品「大地のマントを織りつむぐ」を前に、エディパは思わず泣いてしまう。
 
 絵の中では、塔に閉じ込められた少女たちが巨大なつづれ織りを刺繍している。
[…] embroidering a kind of tapestry which spilled out the slit windows and into a void, seeking hopelessly to fill the void: for all the other buildings and creatures, all the waves, ships and forests of the earth were contained in this tapestry, and the tapestry was the world. (p11)

《そのつづれ織りは横に細長く切り開かれた窓から虚空にこぼれ出て、その虚空を満たそうと叶わぬ努力をしているのだ。それというのも、ほかのあらゆる建物、生きもの、あらゆる波、船、森など、地上のあらゆるものがこのつづれ織りのなかに織り出されていて、そのつづれ織りが世界なのである。》p22/p25

 この絵から感じた哀しみを、一生抱き続けるだろうとさえエディパは思う。ピアスを含め、まわりのだれも彼女の涙に気付かない。そこがまさに哀しいのだし、そこに哀しみをおぼえることで彼女は自分を塔の少女に重ねる。
She had looked down at her feet and known, then, because of a painting, that what she stood on had only been woven together a couple thousand miles away in her own tower, was only by accident known as Mexico, and so Pierce had taken her away from nothing, there'd been no escape. What did she so desire escape from?

《足もとを見おろすと、そのとき、一つの画のせいでわかったのだ、いま立っているところは単に織り合わされたもの、自分の住んでいる塔から発して、二千マイルつづいているものに過ぎない、まったく偶然にそれがメキシコというところで、つまりピアスは自分をどこからも連れ出してきているのではない、どこにも逃げ出せるところなどないのだ、と。》

 太字にした部分が翻訳では飛んでいるが、なくてもわかるだろう。
《どこにも逃げ出せるところなどないのだ》――しかし、いったい何からそんなにも逃げたかったというのか?

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その8 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 くだんの「ズレ」ほど大事ではない気もするが、前回出てきた「啓示」(revelation)という言葉にもいちおう注意しておきたい。これは“隠れていたもの・隠されていたものが、おもてに出てくること”であり、“それを告げる予言や知らせ”のことでもある。探求を扱ったこの小説では山ほど使われ、ほとんど鍵言葉にされているといっていいだろう。ただし種類はふたつあるはずだと思う。

(1) 何か秘密がある。それを追いかけていると、真相が啓示を通してあらわれる。
(2) 何かを追いかけるからこそ、その何かのうしろに秘密の真相があるように思えて、目についたものをそこにつながる啓示だと考えてしまう。

あらゆる種類の啓示が出てくる》とは、さまざまなヒントがエディパの前にあらわれるということだろう。だが、それらのどれが本当に真相につながるものなのか、あるいはエディパの勝手な思い込みでしかないものなのか、彼女自身はそれを区別できる立場にいない。これも追い追い見ていくことになるはずだ。

 ところで、小説が動きはじめる前から、エディパは自分の置かれた状態をふたつのイメージになぞらえていた。
 ひとつめはグリム童話のラプンツェル。邦訳についた志村氏の解注をまとめると、これは魔女によって高い塔に幽閉された女の子のお話で、彼女は長い髪を窓から下ろし、それを王子が昇ってきたことで(紆余曲折の末に)解放される。
 自分にとって王子様になりえるのはピアスなのかも、と夢想さえしたエディパだが、そもそも彼女を塔に閉じ込めた「何か不吉な魔術(some sinister sorcery)」が何だったのか、この小説には書かれていない。そして結局、エディパはピアスを捨てたのだ。なぜなら、
[…] all that had then gone on between them had really never escaped the confinement of that tower. (p11)

《そのころ二人のあいだに起こったことは、じつはみな、その塔のなかから出ることがなかったのだろう。》p22/p25

 エディパがこの悟りにいたるきっかけになったのは、レメディオス・バロという画家の描いた絵画である。そこからふたつめのイメージがもたらされる。

…続き
その7 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次

“But aren't you even interested?”
“In what?”
“In what you might find out.”
 As things developed, she was to have all manner of revelations. Hardly about Pierce Inverarity, or herself; but about what remained yet had somehow, before this, stayed away. There had hung the sense of buffering, insulation, she had noticed the absence of an intensity, as if watching a movie, just perceptibly out of focus, that the projectionist refused to fix. (p10)

《「だけどあなた、興味がないのかな?」
「何に対して?」
「何が飛び出してくるかってことに、さ」
 事態が進行するにつれて、あらゆる種類の啓示が出てくることになった。ピアス・インヴェラリティにも、エディパ自身にも、ほとんどかかわらないことなのだが、これまで存在していながら、なぜか、いままで見えていなかったものにかかわっていた。なにか干渉阻止的な、絶縁体的な感じがたちこめていて、ある種の強度というものが不在であることにエディパは気づいていた。まるで、わずかにそれと感じられるくらいに焦点がぼけているのに映写技師がなおそうとしない映画を見ているようなのだ。》p21/pp23-4

 一読して何のことかわからない。それはいいのだ。
 問題にしたいのは、この地の文とエディパとのあいだに開いている距離である。
《事態が進行するにつれて、あらゆる種類の啓示が出てくることになった。》

 エディパの探求は、いま始まろうとしているところである。それなのにこんなことが書けるからには、地の文は彼女より先にいる。もっといえば、すべてが終わった時点から、振り返るようにして主人公の言動を描いている。小説が三人称の過去形で語られるというのはそんな意味合いをもつだろう。

 あらかじめ書いてしまうと、Lot 49 の進行はかなり普通である。作中の時間が混乱したり、突然形式が変わったりといった構成上の仕掛けはない。視点人物はほぼつねにエディパで、時間はまっすぐ進んでいく。
 そういう小説はいくらでもある。山ほどある。それなら、引用したような書き方もありふれたものではないのか。
 そうではない、という理由を説明するためにはもう少し読み進めないといけない。
「主人公と、主人公を描く語りにズレがある。それはまあ当たり前な気もするんだけど」ということで、ズレるたびにしつこく指摘してみよう。そう、このズレは、何らかの意図をもって繰り返されるように見えるのである。

…続き
その6 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 エディパとムーチョが雇っている弁護士はローズマンという。
 彼は彼なりの問題を抱えていた。というのは、この男、TVドラマのペリー・メイスンに強い羨望と嫉妬をおぼえており、それは彼の妻がメイスンの大ファンだからという理由もあるのだが、あんな腕利きの弁護士になりたい/でもなれない、という二律背反な感情は、彼においてメイスンを中傷するドラマの台本を書き続けるというかたちで発現しているのだ。なんでだ。

 むかしの恋人を遺言執行人に指名。ピアスがどうしてこんなことをする気になったのかいぶかしむローズマンにエディパは、あの人は「何をやるかわからないひと」だったから、と答えている(“He was unpredictable.”)。
 一緒にランチを食べている間、ローズマンはテーブルの下でエディパにちょっかいを出すが、厚いブーツを履いて「絶縁された」彼女は無反応を決め込む。
“Run away with me,” said Roseman when the coffee came.
“Where?” she asked. That shut him up. (p10)

《「ぼくと駆け落ちしようよ」コーヒーが出て来たときにローズマンが言った。
 「行く先を言って」と彼女がきいた。それで彼は黙ってしまった。》p20/p23

 つまるところ遺産の執行とは、細かく帳簿を調べてピアスの事業の概要を知る・遺言の検認・貸付を回収・財産目録の作成・不動産を査定し、現金化するもの/しないものを分ける・賠償請求の支払い・税金を清算し遺産を分配する……といった、ひたすら面倒な作業なのだった。説明を聞いただけで早くもエディパは音をあげている。自分じゃやりたくない。
“But aren't you even interested?”
“In what?”
“In what you might find out.”

《「だけどあなた、興味がないのかな?」
 「何に対して?」
 「何が飛び出してくるかってことに、さ」》

 これに続く地の文は、おそらくLot 49 の要ともいうべき特徴を有しており非常に興味深いのだが、長くなるので引用は次回である。
 精神分析医ヒレリアス、弁護士ローズマン、と立て続けに困ったキャラが登場し、そういう変人は今後ますます多くなっていって、次第にエディパは他人を評定する立場にたてなくなる、などと書くと思わせぶりだろうか。

 つけくわえると、個人的にはこのローズマンという男はけっこう好きである。

…続き
その5 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 ヒレリアスの百面相治療はこんなものらしい。
He claimed to have once cured a case of hysterical blindness with his number 37, the“Fu-Manchu”(many of the face having like German symphonies both a number and nickname), which involved slanting the eyes up with the index fingers, enlarging the nostiles with the middle fingers, pulling the mouth wide with the pinkies and protruding the tongue. (p9)

《彼はかつてヒステリー性盲目症を第三十七番〈フー・マンチュー〉の顔(彼の百面相の多くはドイツの交響曲のように番号と通称がついている)をして治したことがあるという。それは両手の人差指で目尻を吊りあげ、中指で鼻孔を開き、小指で口を左右に大きく引っぱり、舌を突き出すという顔である。》p19/p21

 指示に従って、この顔を作ってみた。童心に返れるのでおすすめしたい。
 手は使わないにしろ、こういう人のキメの顔がこんな感じだろうか。いま失礼なことを書いた気がする。何の関係もないがこの人もすごいと思った。子供には出せない味である→いちおう元ページ

 幻覚に囚われること、そのせいで自分が自分でなくなることを、エディパはひどくおそれている。そこには、「すでに自分は幻覚のなかにいるのではないか?」という疑問形のおそれも含まれている、と思う。答えを知るのがいちばん怖いのだ。だから自分を保つため、他人に(それもこんな医者に)依存してしまうという逆転が起こる。「治療中」である限り、自分を宙吊りの未決定状態においておけるからだ。
 しかし、「幻覚に囚われたくない」という思いもまた強迫観念になって彼女を縛りうるのだから、じつはすでに逃げ場はなくなっているのかもしれない。いま大事なことを書いた気がする。

 例の通知によれば、ピアスがエディパの名前を遺言執行人として書類に書き入れたのは1年前だという(それから半年たった春に彼は死んだ)。
 そのころのことを思い出そうにも、平々凡々な生活の毎日はどの日もどの日も似たものばかり、《厚い一組のトランプの札のような日々》だったことにエディパは気付く。事件や事故が一切なくても、まさにその「何もなかった」という気付きが、これはこれで静かに怖い。郊外の主婦は危険である。

 要するに、ヒレリアスの電話はただの迷惑電話だった。しかしエディパは、フー・マンチューの顔があたまを離れず眠れない。
 翌朝、睡眠不足でメイクの乗りもいまいちなのだが、それでも彼女は弁護士のところへ出かけて行く。がんばれ主人公。

…続き
その4 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 電話をかけてきたのはエディパのかかっている精神分析医、ドクター・ヒレリアスだった。かかりつけの弁護士にかかりつけの精神分析医。たいそうなことである。
 専業主婦に向かって午前3時に「起こしてしまったんではなかろうね」とのたまうこの医者は無茶な男で、LSDやメスカリンなどのドラッグを郊外の主婦に投与して効能を調べる、通称「橋計画― die Brücke」(内面への橋)なる実験を行っており、エディパをその104番目の実験台として欲している。どうして自分でなくてはいけないのか、彼女は訊けない。答えを聞くのが怖いのだ。
“I am having a hallucination now, I don't need drugs for that.” (p8)

《「こっちはいま幻覚のまっさいちゅうよ、そのための薬なんかお断り」》 p18/p20

 ということでエディパはドラッグを拒む。断じて手を出さない。精神安定剤として処方された薬も飲まないほどこの医者を信用していないのに、それでも通院を続けないわけにはいかないのが現在の彼女の状況であるらしい。
 以下は診察の折りに交わされた会話の回想。
She didn't want to get hooked in any way, she'd told him that.
“So,”he shrugged, “on me you are not hooked? Leave then. You're cured.”
She didn't leave. Not that the shrink held any dark power over her. But it was easier to stay. Who'd know the day she was cured?

《どんな形にせよ麻薬のとりこになりたくない、それは彼に言ったことがある。
 「そうかい」と彼は肩をすくめ「私のとりこになっていないってわけだね。じゃ出て行きなさい。きみは治ったんだから」
 彼女は出て行かなかった。医者の魔力のとりこになっているわけではない。が、このままでいるほうが楽なのだ。いつ治るかなんて、だれにわかるものか?》

 このとき、エディパの話を聞いてヒレリアスはmade a faceする。
 "make a face"は「顔をしかめる」という慣用句だが、彼の場合は字義通り、自分の百面相によって患者の治療を行うこともあるという説明が続く。なんだそれは。

…続き
その3 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 遺言の執行などしたことのないエディパには、何から手をつければいいのかわからないし、この通知を送ってきた法律事務所に「わからない」と伝えるにはどうすればいいかもわからない。そもそも、どうして自分が指名されたのか? 何ひとつわからず、彼女ははじめから「勝負をおろされた」と感じる。

 そこに夫のムーチョが帰宅して、妻の話も聞かずに愚痴りはじめる。
 かつて中古車販売店に勤めていたムーチョは、中古車の意義を過剰に信じており、そのころ生まれた強迫観念がいまだにぶり返して当人とエディパを悩ませている。というのもムーチョには、自分より貧しい白人・黒人・ヒスパニックが売りに来るボロ車が、彼らの人生そのものの延長であるように見えてしまったからだ。
 車の内部に散らかっているのは持ち主の生活の残り滓、ゴミなのか単に紛失したものなのかは区別がつかない。何より痛いのは、持ち主たちがそんな自分の分身を、同じように別の人間の人生が投影された他の中古車と交換してゆくやり方で、ムーチョに言わせるなら、これは終わりのない近親相姦なのだった。
 廃車処理場ならまだよかった、というのが面白い。
the violence that had caused each wreck being infrequent enough, far enough away from him, to be miraculous, as each death, up till the moment of our own, is miraculous. But the endless rituals of trade-in, week after week, never got as far as violence or blood, and so were too plausible for the impressionable Mucho to take for long. (p5)

《車を押しつぶした暴力もしょっちゅうではないから、身から離れたところで起きた奇跡みたいなものだ。ひとりひとりの死が、自分の番になるまでは奇跡のように見えるのと同じことだ。ところが果てしなくつづく下取りの儀式は毎週毎週、暴力や流血にいたることは絶対になくて、いかにもまことしやかにおこなわれ、感じやすいムーチョに長く耐えられるものではなかった。》pp13-4/p15

 現在のムーチョはラジオ局でDJをしているが、逆にこちらの仕事の価値は自分でまったく認めておらず、トークを検閲しようとする上司とたびたびケンカになる。結局、遺言の執行については雇っている弁護士に相談するしかない。結婚前のエディパとピアスの関係はムーチョも知るところである。

 午前3時、突然の電話のベルに叩き起こされて、エディパは心臓が止まりそうになる。

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その2 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 本国アメリカでは、Lot 49 について小説そのものより分量のある注釈本が出版されており(A Companion to The Crying of Lot 49 、エディパの名前に関し、いきなり丸3ページ解説が始まる)、翻訳版でも巻末に50ページを越える訳者の“解注”が付いていて、丁寧な説明がされている。
 そういう資料によると、「その1」の一文からも相当な情報を読みとることが可能であるらしい。
 たとえば「タッパーウェア」を「密閉され、外界と隔絶された内の空間」と見て、これはすなわち退屈な日常に囚われているエディパの状態を示すものだとしてみたり、「タッパーウェアのパーティ」というのは、この商品を会社から請け負った主婦がホームパーティを開いて仲間に紹介するという販売形態のことだから、一般の流通ルートを介さないネットワークになっている点が、じつは小説の中盤以降を予告するものになっている、としてみたり。エトセトラエトセトラ。
 こういった解説の類は、小説冒頭のディテールでも、作品の全体や繰り返されるモチーフと照らし合わせて読み解いた成果の集積である。だから、いちどなりと小説を最後まで読み通し、再読する人なら「なるほど」とか「それはちがう」とか「限りなくどうでもいい」と反応できる。逆に言えば、はじめて読むときは、解注まで見てもさっぱりわかりません。
 しかし、それならまずは本文だけ読めばいい、ということにはならない気がする。
 何のことを言っているのかわからないにもかかわらず、本文と解注を並行して読み進め、過剰に増えてゆく情報に溺れる。『競売ナンバー49の叫び』をはじめて読むときの楽しみは、その苦労にあった。ついでに書くと、読者がすすんで享受するこの苦労は、エディパが強いられる苦労でもある。

 それにしても、ペーパーバックのLot 49 だと、うしろに注がついているわけでもないし、これを読むだけでは、作中でエディパが見ることになる実在の絵画がどんなものかもわからない。翻訳版には上記の通り懇切丁寧な解注が施され、その絵画(いずれ触れるでしょう)は折り込みのカラー図版になっている。翻訳という作業そのものに注釈・解説という面が含まれる以上当然のことかもしれないが、Lot 49 1冊を読んだアメリカ人と邦訳の『競売』を読んだ日本人では、ぜったい後者のほうが楽めると思うんだが。

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A Companion to The Crying of Lot 49
J. Kerry Grant
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その1 ― ピンチョン Lot 49 (1966)
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 One summer afternoon Mrs Oedipa Maas came home from a Tupperware party whose hostess had put perhaps too much kirsch in the fondue to find that she, Oedipa, had been named executor, or she supposed executrix, of the estate of one Pierce Inverarity, a California real estate mogul who had once lost two million dollars in his spare time but still had assets numerous and tangled enough to make the job of sorting it all out more than honorary. (p1)

 これが冒頭の一文である。
 たいへん長いのは最初だから気合が入っているためで、以後もずっとこんな調子で続くわけではない。
《ある夏の日の午後、エディパ・マース夫人はタッパーウェア製品宣伝のためのホーム・パーティから帰って来たが、そのパーティのホステスがいささかフォンデュ料理にキルシュ酒を入れすぎたのではなかったかと思われた。家に帰ってみると自分――エディパ――が、カリフォルニア州不動産業界の大立者ピアス・インヴェラリティという男の遺言執行人に指名されたという通知が来ていた。死んだピアスは暇なときの道楽に二百万ドルをすってしまったこともあるような男だが、それでもなお遺産はおびただしい量で、錯綜しているものだから、そのすべてを整理するとなればとても名義だけの執行人というわけにはいくまい。》p7/p8

 アメリカの西海岸で平凡な家庭生活を送っているエディパ・マースは、結婚前の一時期、ピアス・インヴェラリティという大富豪と付き合っていたことがある。関係が切れてからこれまで連絡は1回きり(しかも意味不明なイタズラ電話)だったのに、それが突然、遺言の執行人に指名されるというかたちでこの男とのつながりがよみがえる。
 死んだ男によって召還される主人公。一方的に課された任務は、「錯綜している」遺産の「すべてを整理する(sort it all out)」こと。
 エディパ(Oedipa)の名前がオイディプス(Oedipus)から採ってあるのは明らかで、オイディプスといえば「謎を解こうとする主人公」のプロトタイプなんだそうである。これに限らず、この小説に出てくる人名はほとんどが作りものくさい、現実にはまずありえない名前だといわれている。つまりこれは「お話」なのだ。
 主人公当人には寝耳に水ながら、こうしてLot 49 は探求物語のようにして幕を開けた。

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その0 ― Thomas Pynchon, The Crying of Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 これからThe Crying of Lot 49Lot 49 と略記することにする。
 どう考えても、「まるで初めて読むようなふりをして進めていく」芸当はできそうにないので、先に大まかなあらすじをまとめてしまうことにした。Lot 49 は、あらすじがわかってしまうと魅力がなくなる=1回しか読めない小説ではないのだから。

 舞台は1960年代のアメリカ西海岸。主婦をしている28歳のエディパ・マースは、かつて愛人関係にあった実業家にして大富豪のピアスが死に、彼の遺言で自分が遺産の執行人に任命されたと知らされる。架空の街サン・ナルシソに点在するピアスの所有していた地所をあちこちめぐるうち、エディパは何度となく郵便喇叭[らっぱ]のマークを目にする。
 さまざまな奇人変人に出会って話を聞くなかで、ピアスが集めていた偽造切手からも喇叭マークが発見されて、これが「トライステロ」なる謎のグループのシンボルであることがわかる。どうやら彼らは、ヨーロッパに根をもち数世紀にわたって社会の裏で工作を続けてきた反体制秘密郵便組織で、今もアメリカで活動中らしい。それではピアスの遺産とは何なのか。
 暗示と啓示が増加を続ける一方、探求するエディパの心を離れないのは、これら全部が自分のパラノイア的な精神がつくりだした妄想に過ぎないのではないかという疑いである。さらには、すべてはピアスの仕組んだジョークで、自分を騙そうとする壮大な陰謀が周囲に張りめぐらされている可能性も捨て切れない。迷いながらエディパは、アメリカの繁栄の陰でうち捨てられた人びとの姿を見る。
「トライステロ」は実在するのか? 陰謀はあるのか? エディパにも読者にも証拠は与えられないまま、いちどは彼女に手掛かりを提供した者たちが次々と姿を消す(あるいは、消されたのかもしれない)。やがてピアスの切手が競売にかけられることになり、ある正体不明の人物が入札にやって来るという情報が入る。その男こそが「トライステロ」の使者なのか。
 何ひとつわからないまま、当日、エディパは会場に入って待つ。競売の始まる瞬間、小説は終わる。

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トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(1966)

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 そういうわけで、しばらくピンチョン『競売ナンバー49の叫び』を読み直してみたい。
 で、せっかく毎日コツコツ書くことが可能な(というか本来そういう形式の)「日記」であることだし、ごく少しずつ原書で読み、なにかしらその感想を中継してみようかと思う。
 原題はThe Crying of Lot 49 で、手元にあるのはこのペーパーバック。表紙がかっこいい。

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)
(1999/04)
Thomas Pynchon

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 もちろん並行して、志村正雄による翻訳(筑摩書房刊)をめくる。これもいい装丁。訳本を見ないとさっぱりわからない部分も多いのだ。
(だったら訳本だけにしろよという気もする。途中からそうするかもしれない)

競売ナンバー49の叫び競売ナンバー49の叫び
(1992/11)
トマス ピンチョン

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 やりかたはやりながら考えるとして、原文からの引用と翻訳からの引用を並べることになれば、自前の文章はかなり減るだろう。よかった。

 どれぐらい続くか見当もつかないが、原書が約150ページなので、1日5ページ読めば1ヶ月で終わる。しかしそうスムーズには進まないだろうし、なにより、毎日更新するとも思えないので、やっぱり見当はつかない。 
 そのうえ、ほかに読んだ本のことも時どきは挿み込むだろうから、この「キッチンに入るな」は相当読みづらいスペースになるにちがいない。こんなところを見に来てくださっているみなさまには申し訳ない、申し訳ないが、あまり考えてません。

 ものすごく暇な方とか、ものすごく現実逃避したい方とか、どちらでもないが「ピンチョン」なんてふざけた名前のやつ(れっきとしたアメリカ人)がどんな小説を書くのか気にならないでもない方とかには、ここで汚される前にさらりと自分で読んでしまうことをおすすめします。
 というのも、さえない読みをちんたら続けているうちに『競売』自体つまんなく見えるかもしれず、しかしこの小説がたいへん面白いものであるのはたぶんおそらくきっとまちがいないはずだと思っているからで、それでもつまんなく見えたらおれのせいだ。ああ。

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『エーコの文学講義』続き

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 本題。
 全6回の講義の第5回で、エーコは、1982年のフォークランド紛争に際し、アルゼンチンの新聞が示した反応の記録を追う。

 新聞は「イギリスの原潜が近海に接近中」だとすっぱ抜くが、イギリス側はこれを風説としてしりぞける。翌日、新聞が原潜の詳細と人員数を掲載し、噂が徐々に具体的な情報をまとったニュースとなっても、イギリスは曖昧に明言を避ける。やがてアルゼンチン側には「沿岸で艦影が確認された」との報が入り、ヨーロッパのメディアも英軍の配備状況と情報隠匿についてさまざまな報道を行うようになる。
 ところが、最初のスクープから約1ヶ月が過ぎ、誰もが原潜の存在を信じて疑わなくなったころ明らかにされたのは、この間、当の原潜が一度もスコットランドを離れていなかったという事実だった。
 噂がひとり歩きしてどんどん成長していったこの物語を受け取る者すべてにとって、しかしそれでも、「やってくる原潜」は確かに存在していた。書かれたものは存在するのである。
《この話は、存在命題のもつ力を示しています。固有名詞や定義された描写を含む言説はどれも、そのなかであらかじめ告げられているなにかをもとに、受け手(読者もしくは聴衆)が実体の存在を疑問の余地のないものとみなすことを想定しているのです。》

《ひとたびマスメディアの言説によって、言説のなかに位置づけられると、潜水艦はそこに存在したのです。[…] 例の「イエロー・サブマリン」はマスメディアによって措定されたわけですが、措定されたとたん、だれもがその存在を疑う余地のないものとして受け止めたのでした。》pp142-4

「物語をつくる意志」を『フーコーの振り子』の中心としたとき、とうとうテンプル騎士団が本当に登場してしまう展開を、自分は支持する。こうでなくちゃ、と思う。しかし一方で、物語を編んだ主人公たちと同じレベルに騎士団が現れてしまうのは、「物語」と「その相対化」において、前者に力を入れすぎたようにも思う。
 完成されたエーコの物語とは別に妄言を続けると、騎士団の存在をあくまで可能性にとどめ、つまりは騎士団を主人公とは別の世界に属させて、なお小説としての結構を保たせるやりかたもあったのではないかと考えたくなる。

 というのも、“書かれたものは存在してしまう"原理を用い、テンプル騎士団並みに不可思議な秘密組織を作中に導き入れて、しかもその実在を最後まで宙吊りにしおおせた小説を、自分は知っているからだ。
 その作者の名はトマス・ピンチョン、問題の作品は『競売ナンバー49の叫び』という中篇である。
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ウンベルト・エーコ『エーコの文学講義』(1994)

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エーコの文学講義―小説の森散策
和田忠彦訳、岩波書店(1996)

《「私たちは関連性をでっちあげることはできません。あるのです」》

 このように断言する人物も出てくる『フーコーの振り子』において、解明しようという働きかけによって秘密が生まれているのだとしたら、まさに主人公たちの創作作業がテンプル騎士団の末裔を作りあげてしまったことになる。
《「間違いなく、その陰謀は存在している。これまでの歴史は、その失われたメッセージを復元させるための血みどろの戦いの結果にほかならない。我々には彼らの姿が見えないのだから、彼らは誰にも気づかれずに我々のまわりを徘徊しているのに違いない」》

 何かについての物語をつくることがその存在を生む、という展開は、一見逆のような気がしても、書かれたものは存在してしまうという文章表現の素朴な原理(こことか参照)からすれば、ごくストレートな帰結ではないか。
 まるでこのことを説明するために書かれたようなエピソードを収めているのが『エーコの文学講義』である。

 これはエーコの講演をまとめたもので、小説をはじめとする物語の読み解きかたを教えてくれる本だ。物語論の入門書として類まれなくらい手際よく、しかも、そういった入門書から洩れがちな「そんなことを学ぶ理由」の説明として、エーコなりの信念が語られている。
 人間が生きていくうえではどうしたって現実を物語化する能力が必要になる。しかしいっぽう、粗雑な物語にもおそろしい力が宿りうる。14世紀に端を発するある物語は、手記や書簡、大衆小説、ゴシップ紙の中で徐々に形を整え、20世紀にいたり“シオンの議定書”として結実した。これがもたらした災厄たるや……という話だが、しかし、
《わたしたちは、小説の森を散策したおかげで、小説という虚構が現実の人生を侵食するメカニズムを理解することができたのです。 […] こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となりうるのです。》p202、太字は引用者

 人間はついに物語の外部には立てないのだから、せめて外部に立とうと努めることをやめてはならない、と、たぶんエーコはそういっている。物語論とは相対化の技法なのかもしれない。
 念のためいっておくと、エーコの真剣さは「すべては物語なんだよ」みたいなうつけた物言いの対極にある。なのにこの日記の文章は物語という語をひどく杜撰に使っており、エーコにはほんと申し訳ない。『エーコの文学講義』はとてもいい本なので読んでみてください。
 で、続く。
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エーコの文学講義―小説の森散策エーコの文学講義―小説の森散策
(1996/05)
ウンベルト・エーコ

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