2004/04/30

トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』を読んでみる


“消音器付きの郵便喇叭”が重要なシンボルとして繰り返しあらわれる
Thomas Pynchonの中篇小説The Crying of Lot 49 (1966)と
その邦訳『競売ナンバー49の叫び』(志村正雄訳)の読書日記は、
その67」でずっと中断していましたが、2011年5月から再開しました。
そもそものきっかけ
「ユリイカ」2003年10月号『フーコーの振り子』『エーコの文学講義』

はじまり あらすじ

第1章
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14 その15 その16

第2章
その17 その18 その19 その20 その21 その22 その23 その24 その25 その26 その27 その28 その29 その30 その31 その32 その33 その34 その35 その36 その37 その38 その39 その40

第3章
その41 その42 その43 その44 その45 その46 その47 その48 その49 その50 その51 その52 その53 その54 その55 その56 その57 その58 その59 その60 その61 その62 その63 その64 その65 その66 その67  (休憩)  その68 その69 その70 その71 その72 その73 その74 その75 その76 その77 その78 その79 その80 その81 その82 その83 その84 その85 その86 その87 その88

第4章
その89 その90 その91 その92 その93 その94 その95 その96 その97 その98 その99 その100 その101 その102 その103 その104 その105 その106 その107 その108 その109 その110 その111

第5章
その112 その113 その114 その115 その116 その117 その118 その119 その120 その121 その122 その123 その124 その125・・・・・・

■ 引用について

 たとえばこのように引用がある場合:
Oedipa headed for the ladies' room. She looked idly around for the symbol she'd seen the other night in The Scope, but all the walls, surprisingly, were blank. She could not say why, exactly, but felt threatened by this absence of even the marginal try at communication latrines are known for. (p53)

《エディパは婦人用化粧室へ向かった。彼女はぼんやりあたりを見まわして、先夜〈ザ・スコープ〉で見た印はないかと思ったが、驚いたことに、どの壁もブランクだった。なぜだか正確にはわからなかったが、便所はコミュニケーションの場として知られるのに、コミュニケーションの周縁的な試みさえ不在なのに威嚇を感じた。》p83/p93

 英文の末尾のページ数「p53」は、この版(HarperPerennial, 1999)のページ数。
 訳文の引用は、志村正雄訳の単行本版(筑摩書房、1992)から。ただし、末尾のページ数は「p83/p93」のように、スラッシュの左側に単行本のページ数、右側には文庫版(同、2010)の対応するページ数をつける。
(文庫化に際し、改訳されて訳文がズレている場合でも、よほどのズレでなければスルーする。よほどのズレがあったらそれについて書くと思う)

■ ときどき参照(するかも)

J.Kerry Grant A Companion to The Crying of Lot 49 2nd edition  (The University of Georgia Press, 2008)  *これはこちら(1994)の増補版

Pynchon Wiki: The Crying of Lot 49
2004/04/11

その125 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ネファスティスのアパートを逃げ出したエディパは、気がつくと、ベイブリッジに向かって車を走らせていた。
 自動車の排気ガスに包まれたラッシュアワーにごく微妙な角度で西日が射し、橋から見渡されるサン・フランシスコには、この時間だけ靄が発生している。そして、そんな汗と喧噪のまっただなかで瞑想にふける運転席のエディパのあたまにも、トライステロのイメージが靄のように立ちこめてくる。
 ネファスティスは、熱力学のエントロピーと情報のエントロピーというふたつの別種の概念を、〈マックスウェルの悪魔〉を仲立ちにしてひとつにつなげることができた。エディパのほうでは、これまでに見つけた数かずの手掛かりを結びつけられそうなものといえばただ、〈トライステロ〉の一語があるだけだ。手掛かり、すなわち〈トライステロ〉の隠喩がいくつあったかは、もはや神様にしかわからない。
Now here was Oedipa, faced with a metaphor of God knew how many parts; more than two, anyway. With coincidences blossoming these days wherever she looked, she had nothing but a sound, a word, Trystero, to hold them together. (p87)

《さてエディパのほうは、というのに、何とも多数の部分から成り立つ〈神〉の隠喩に直面している。少なくとも、二つ以上の部分から成り立っている。このごろはどちらを向いても偶然ばかりが花ざかり、その偶然を結びつけるものは、ただ一つの音、一つの単語、〈トライステロ〉。》p134/pp151-2

 下線を引いた隠喩の部分に関し、おそらくこの志村訳はちょっと変で、ここの英語が《〈神〉の隠喩》ということにはならないと思う。エディパは隠喩に直面している、その隠喩は「いくつあるかは神が知っているparts」で構成されている → 「隠喩を構成する部品がどれだけの数になるかは誰も知らない」、ということだろう。
 ただ、Lot 49 に〈神〉という語が頻出するのは解注で触れられている事実でもあり、それが慣用句だったりした場合、原文で確かに使われているGodの文字が翻訳では消えてしまう場合が多いので、ここで強引にでも〈神〉という日本語を出しておくつもりがあったのかもしれない。そんな気がする。

 ところで、2011年刊の佐藤良明訳では、上の引用部分はこうなっている。
《自分の場合はどうだろう。自分の前にあらわれたメタファーは、一体いくつのパーツから成っているのか。二つ以上あるのは確か。このごろはどっちを向いても「偶然の一致」が花開くという状況なのに、それらを結わえておくものが、一つの音[サウンド]しかない。一つの単語、「トリステロ」という言葉があるだけだ。》p136

 Godの語うんぬんよりもはるかにおどろくのはOedipaを《自分》ととる処理で、これによって“地の文-エディパ”の距離は、志村訳の場合に較べ、ぐっと近くなった。近いどころか、エディパの独白になっている(!)。
 これは「やりすぎ」「訳しすぎ」の域ではないのか。しかし、そんなことをする(しないといけない)理由について、訳者ご本人が丁寧に説明しているのをブログで読むことができる。非常に、非常に面白いので、ぜひリンク先を読まれたい。

 脱SVO:心情の論理を追う翻訳術 -sgtsugar.com.blog
 http://sgtsugar.seesaa.net/article/219990891.html

 とくに最後の「まとめ」に注目である。
《英語小説の翻訳においては、脱SVOの処理がポイントの一つとなる。それと絡んで、間接話法/直接話法、三人称/一人称の差異構造を,日本語でいかに(部分的に)崩していくかが、物語を日本語フォーマットに移し替えるさいには重要だ。英文の構造を保ったままでは、三人称の語り手と主人公との視点とが、変に干渉しあってしまうことがある。》

 この読書ノートでたびたび気にしてきたのは、まさに「三人称の語り手と主人公との視点」、地の文と主人公とのあいだの距離だった。
 それについてこれまで書いてきたなかからいくつか拾えば、第2章の冒頭→その17、第3章の冒頭→その41、これ見よがしの語り→その51、登場人物と読者と小説の知識のズレ→その79、第4章の冒頭→その89、そして第5章の冒頭→その112などなどがあった。

 この小説の展開を伝える地の文は――というか、この小説の展開そのものである地の文は――ときおりエディパに寄り添い、彼女の内面を実況するかと思えば、とくに各章の冒頭で顕著だったようにたびたびエディパを遠くに突き放し、ずっと先のページで何が起こるかを(エディパではなく)読者に向かって思わせぶりに予告しさえする。
 そのような、自由だったり唐突だったりする距離の動かしかた、つまり不自然さを自在に操る手つきでもって、主人公との位相のちがいを果敢に作り出しながら小説を進めてきたのがLot 49 の地の文である。
 どんな小説にでもあるだろう地の文のそのようなふるまいが、ことこのLot 49 においてはいくらか過剰であるように見える。だから、地の文とエディパ、両者の距離が開いたり縮んだりするたびにこちらも逐一反応することが、つまり、ズレるたびに何度でもつまずくのを繰り返すことが、この小説の書かれ方の秘密にわずかでも近づく方策になるかもしれない。
 そんなふうに期待して、つまずきのたびにおぼえる困惑とおどろきを書きつけたメモが重なって、この貧しいノートになっている。そんなつもりだった。

 そのような手掛かりとして考えていたズレは――もっといえば、この小説のキモじゃないかと予感していた“地の文-エディパ”の距離は、(すべてではないのかもしれないが)なによりも英語という言語の特性のために発生しているのではないか。だとすれば、そういったズレは、英語をよりまともな日本語に翻訳する過程で(場合によっては)埋められてしかるべきではないか。
 佐藤ブログに書かれてあるのは、上記ふたつのカッコ内の譲歩を吹き飛ばしてあまりある、クリティカルな指摘である。早い話が、あれらのズレの数かずを、「言語の移し換えに際し、消せるものなら消せればよかったが、どうしても消しきれず残ってしまったもの」でしかないと思い切ってしまえば、小説を読み取っていくうえで、気にしなくてよいことになる。
 だったら、いったいここまで自分は何を読んできたのか。これから何を読んでいけばいいのか――

 これまでと同じように読んでいくのがいいと思う。
 そもそも、これまで何をどう読んできたのだったか。かっこよくいえば、「英語」と「日本語」のあいだを読んでいた。より正確には、「ろくに読めない英語」と、「日本語とはちがった英語の論理を組み込んで紡がれた日本語」の、両方を読んでいた。原書と邦訳のどちらかだけを読む場合に較べれば、その両者のあいだで、英語のほうに3ミリくらいは近づいたところを読んでいた、ということになるかと思う。
 そうやって読んでいる最中に、訳書とペーパーバックのページの真ん中にゆらゆらと隆起しているのがかすかに感知されていたズレとは、じつは地の文とエディパのあいだに開いていた段差ではなく、英語と日本語のあいだの不整合として、たまさかそこに浮かんでいるように見えた蜃気楼にすぎなかったのかもしれない。
 そのような、「ある」のか「ない」のかわからない曖昧なものに翻弄されながら、小説をなるべく丁寧に読みたいとは言いながら、むしろみずから翻弄されにいくような読みかたは、馴染み深い日常と馴染みのない非日常のはざまに幻視される、「ある」のか「ない」のか定かでない〈トライステロ〉の手掛かりらしきものにつまずいて、探求するとは言いながら、なかば自分の意志で翻弄されにいく主人公エディパの姿に似ている。そんな気がする。そんなことはない気もする。読み終えるころには答えは出るかもしれない。

 だからこのノートはこれまでのまま、原文+志村訳の組み合わせをもとに続けていこうと思う。けれども、気になった部分は躊躇なく、佐藤訳と見比べるつもりでいる。
 節操がない。だが、「なるべく丁寧に読む」とは、できる限り節操なく読むことであるはずだ。いまはそう思っているし、これからもそう思うことにした。
 ちなみに、佐藤良明はこうも書いている。
《なおこれはあくまで安全策だ。原文の長くてポップな実験文体を創造的に移し替えるには、また別のチャレンジが必要とされるだろう。》

…続き

競売ナンバー49の叫び (Thomas Pynchon Complete Collection)
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2004/04/10

その124 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次

How wonderful they might be to share. For fifteen minutes more she tried; repeating, if you are there, whatever you are, show yourself to me, I need you, show yourself. But nothing happened. (p86)

《幻覚を共有できたら何てすばらしいことかしら。さらに十五分間エディパはやってみた。繰り返し、繰り返し、あなたがそこにいるんなら、あなたがだれにせよ、私に姿を見せて、あなたが必要なのよ。姿を見せて、と。しかし何も起こらなかった。》p132/p149

 トライステロに関係のありそうな謎を追いかけて、という理由は当然あるものの、エディパがネファスティスの住居を訪ねたのには、自分にも幻覚(=別の現実)を分け与えてほしいという気持もあっただろう。
 このふたつの動機は別々のふたつなのか――とまで書いたら先走りすぎだが、ネファスティスの登場よりずっと前、小説の始まり近くにも、大きな幻覚を与えてくれそうな人間はいた。

その4」「その5」で精神科医ヒレリアスがほのめかす薬物への誘いに対し、本当に拒絶するならエディパは関係を断ってしまえばよかった。幻覚をはっきり拒みながら、それができないでいるのは、やはり、自分ひとりのサイズを越えた幻覚へのあこがれがあったからではなかったか。
 その前、夫のムーチョは、彼じしんが幻覚の中でおおっぴらに格闘中であるために、エディパのほうは醒めていなければならなかった→その3。そんな彼との関係を含めた生活の全体が彼女の中に、いまの現実への不満、この現実ではない別のどこかへ移る願望を生んでいた。
 では、さらにさかのぼったとき、ピアス・インヴェラリティは彼女にとってどのような存在だったのかを思わずにはいられない。不在のピアスの存在感がいまのエディパを、ひいては小説を動かしているのだから。

 まともな男はいないのか、と近くを見ると、メツガーは現実的な弁護士で、何にせよ怪しい信仰もなさそうだし、エディパののめり込みにブレーキをかけてくれてもいる→その81。ただしたいへんに軽薄そうな彼が、ピアスの遺言の共同執行人という立場を越えて(そして一時的な浮気相手という関係も越えて)これからも彼女を支えてくれるかはまったく確かではない。

『急使の悲劇』の演出家、ドリブレットは醒めていた。彼は、目の前の現実を幻想で覆い尽くして別の現実を作ろうなどとは考えていない。そうではなくて、自分の頭の中にある現実を、外部に投射しようとしていただけだ→その85
 だが、「そうではなくて」「だけ」と書いたものの、そこまで行くと「醒めている」の意味までズレてくる。自分の現実をおもてに出すのが第一義で、それを他人に共有させようとは考えていなかった、いわば節度あるドリブレットが、ひどく孤独を感じさせる描かれ方をされていた→その87のも忘れがたい。まともな男は、いないのか。

 ネファスティスのアパートの〈ネファスティス・マシン〉の前に戻ると、どうしても悪魔と交信できないエディパは泣き出さんばかりになって発明家を呼ぶ。私は "the sensitive" じゃないんだわ、と。
 ここまでの反応のぜんたいが「感じやすい人」「思いの強すぎる人」であるエディパに対し、ネファスティスの返答は「性交をしよう」だった。
 悲鳴を上げてエディパは部屋を逃げ出し、ネファスティスと、〈マックスウェルの悪魔〉と、〈ネファスティス・マシン〉をめぐる話は終わりになる。これまでの苦労は何だったのか。

 エントロピーについての知識を持たないエディパは、知識を持ったネファスティスの前で圧倒的に劣勢だった。これもまた、第2章の終わりのほうで、映画の筋を知らないエディパが、知っている(その映画に出演していた)メツガーと賭けをして、いいようにあしらわれてしまった構図→その36と同じである。
「知らない」エディパは、「知っている」何者かをおそれながら、しかし、誘蛾灯に惹かれるようにそちらへ向かわずにはいられなかった。
 それでわかったのは、いまのところ、まともな男はいそうにないということだけである。

…続き



*なお、2010年11月の「よくわからないけどおどろいた」ニュースは、中央大学+東京大学で“情報をエネルギーへ変換することに成功”というものだった。
[…] これまで理論上の存在であった「マックスウェルの悪魔」を、世界で初めて実験により実現しました。これにより、観察から得た「情報」を用いて「エネルギー」を取り出すこと、すなわち「情報をエネルギーへ変換できること」を実証しました。

 こんなことが中央大学の「新着ニュース」に書かれていたが、もうリンクが切れている。別のニュースサイトをあらためて探すとこんな話のようだった。
 ほかにここなど眺めてみても、即座に「永久機関が」という話ではないけれども、解説書が出たら読んでみたい。ピンチョンはこのニュースを知っているだろうか。知っているだろうな。
2004/04/10

その123 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 ・真の霊能者(the sensitive)とは、人間の幻覚を共有できる者のこと
 ・幻覚を共有できたら何てすばらしいことかしら

 本当に感度が強ければ、共感能力が高ければ、他人がその中にすっぽり包まれてしまっている幻覚に、同じように包まれることができる。独りではなく、2人以上で内側に入り込んでいっしょに外を見られるようになれば、幻覚はもはや幻覚ではない現実となるだろう。そして、それはすばらしいことである。
 動かないピストンに押し出され噴出した、エディパの心理はこのようなものだ。何よりここでは「そのすばらしいことが、できない私」という否定的な感情の側から、幻覚の共有がいっそう強く願われている。欲しいのは、手に入らないからなのだ。

 いっぽうで、これまでエディパの感度強化(sensitized)は、あらゆる些細な兆候から意味を見出す傾向として発現していた。いや、あらゆる些細な事物を、裏に意味を隠した兆候としてとらえることじたいが感度強化なのだった→その93
 このことは、たびたび思い込みに衝き動かされる彼女のふるまいを地の文が高見から読者に伝えるだけでなく、ほかならぬエディパ当人にも、なかば自覚されていた。

〈ネファスティス・マシン〉の原理を、発明者ネファスティスじしんはもちろん完全に信じ切っている。このエディパという女にも自分の発見した真理を教えてあげようというつもりで話しているはずで、ウソを吹き込んでやろうという意味での「騙すつもり」は彼にはない。ただ、実際には動かないマシンを「素質があれば動かせる」と信じさせ、テストを受けさせた点において、ネファスティスの行動はエディパを結果的に「罠にかける」ことになった。
 それではエディパのほうでは、見事にネファスティスの「罠にはまった」のかといえば、彼女は罠にはまりたかったのだ。怪しげなシャツを着た怪しげな男が怪しげな機械を通して差し出してくる怪しげな罠にはまりたいのに、完全にははまりきれない、しかも、そんな自分の姿が嫌でも自覚されてしまう。
 幻覚を完全には信じ切れないし、かといってそこから自由にもなれない。その宙吊り状態であがいているのもわかっている。パラノイアになりきれない疑似パラノイアの、疑似パラノイアなりの悩みが彼女を締めつける。それで思わずにはいられない――《幻覚を共有できたら何てすばらしいことかしら。》

 だれかと幻覚が共有できたら。だれかと幻覚の中に立てこもることができたら。それが、自分を閉じ込める自我の塔からの脱出口になるかもしれない。幻覚の中で自分から解放される、というアクロバット。
 それは本当に解放になるのか、と考えるより前に、「私には、このネファスティスの提供する幻覚は共有できなかった」とエディパは思い知ったのだった。

…続き
2004/04/10

その122 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


〈マックスウェルの悪魔〉の基本モデルとは異なって、〈ネファスティス・マシン〉の場合、悪魔は情報を得ることを(分子を「見る」ことを)自分でせずに済んでいた。「見る」のは "the sensitive" に任せて、悪魔は分子を分類するだけである。結果、彼の体内でエントロピーは増加しない。だから、マシン全体としてエントロピーは大きくならず、無限にエネルギーを生み出すことが可能になる。
 悪魔の代わりにエントロピーの増加を引き受けるのはマシンの外にいる "the sensitive"のほうで、その存在があってはじめてマシンの内部は万事滞りなく、永久に運動を続けられるかのようにふるまうことができる。
〈ネファスティス・マシン〉は、エントロピーを外部に排出する=特定の "the sensitive" に押しつけることで、はじめて成り立つシステムなのである。

 この構図から連想されることはいろいろあるが――じつにいろいろあるが――ともあれ、いまのエディパには当然、ここまではわかっていない。
 話が理解できないのなら、エントロピーは熱力学の世界と情報理論の世界を結びつける一種の隠喩と解してくれてもよい、と説くネファスティスに、「その隠喩のせいで〈悪魔〉が存在するように見えているだけなのじゃないか」と返すが、ネファスティスは少しも動じない。
 Nefastis smiled; impenetrable, calm, a believer. "He existed for Clerk Maxwell long before the days of the metaphor."
But had Clerk Maxwell been such a fanatic about his Demon's reality? She looked at the picture on the outside of the box. (p85)

《ネファスティスは微笑した。不可解で、平静で、信じるものの顔だ。「〈悪魔〉は隠喩が騒がれているきょうこのごろよりずっとまえ、クラーク・マックスウェルには存在したんだよ」
 だけどクラーク・マックスウェルって、この〈悪魔〉の実在をそんなに狂信していたのかしら? エディパは箱の外側に貼ってある写真を見た。》pp130-1/pp147-8

 写真をじっと見る。そして、マシンから出ている2本のシリンダーのどちらかに精神を集中する。ネファスティスによる説明はそれだけで、彼はエディパを残してテレビアニメを見に行ってしまう。
 本物の "the sensitive" なら、悪魔との通路が開けてメッセージが届くはずだと言われたエディパは生真面目に写真を見つめ、呼びかけさえする。
 Are you there, little fellow, Oedipa asked the Demon, or is Nefastis putting me on. Unless a piston moved, she'd never know. (pp85-6)

《そこにいるの、おちびさん、とエディパは〈悪魔〉に向かって問いかけた――それともネファスティスが私をかついでいるのかしら。ピストンが動かないかぎり、ほんとうのところはわからない。》p131/p148

“ネファスティスが私をかついでいるのかもしれない”とは疑っても、マシンの原理をわかっていないエディパには、“その原理は実現可能なのか”という根本的な問いは生まれていないように見える。
 しかし、これで充分だろう。《ピストンが動かないかぎり、ほんとうのところはわからない。》というおどろくような決めつけからしても、彼女が自覚なく“その原理は確かなもので、ネファスティスは自分をかついでいない”という信頼の圏内にあるのはまちがいない。
 それは信頼というより期待なのだろう。エディパは自分が "the sensitive" でありますようにと願いながら、マックスウェルの写真に向き合っている。一瞬、かすかに見えたようなピストンの動きは目の痙攣で、ほかに何の兆候もないことに急な怒りをおぼえる姿からもそのことは明らかだ。
Did the true sensitive see more? In her colon now she was afraid, growing more so, that nothing would happen. Why worry, she worried; Nefastis is a nut, forget it, a sincere nut. The true sensitive is the one that can share in the man's hallucinations, that's all.

《真の霊能者にはそれ以上のものが見えるのか? 腹の底に不安が生まれ、大きくなって行く――何も起こらないのではないか。気にすることはない、と、彼女は気にする。ネファスティスなんて気違い、もういい、正真正銘の気違い。真の霊能者っていうのは人間の幻覚を共有できる者のこと、それだけの話。》p132/p149

*太字は引用者。くどいようだが、「霊能者」= the sensitive(感度の強い人、高感度人間) である

 そして、こう続くのだ。
 How wonderful they might be to share.

 《幻覚を共有できたら何てすばらしいことかしら。》


…続き
2004/04/10

その121 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次

As the Demon sat and sorted his molescules into hot and cold, the system was said to lose entropy. But somehow the loss was offset by the information the Demon gained about what molescules were where.
 "Communication is the key," cried Nefastis. "The Demon passes his date on to the sensitive, and the sensitive must reply in kind. There are untold billions of molescules in that box. The Demon collects date on each and every one. At some deep psychic level he must get through. The sensitive must receive that staggering set of energies, and feed back something like the same quantity of information. To keep it all cycling. On the secular level all we can see is one piston, hopefully moving. One little movement, against all that massive complex of information, destroyed over and over with each power stroke."
 "Help," said Oedipa, "you're not reaching me." (pp84-5)

《〈悪魔〉が坐っていて、分子を熱いのと冷たいのに選り分けると、その系はエントロピーが低くなると言われる。しかし、なぜか、低くなった分は、どの分子がどこにいるかについて悪魔が得た情報によって相殺される。
「コミュニケーションが鍵になるんだよ」とネファスティスは叫んだ。「悪魔が自分のデータを霊能者に伝える、すると霊能者も同種のもので応じなければならない。その箱には何十億という分子が入っている。〈悪魔〉はその分子の一つ一つぜんぶについてデータを収集する。深い霊的な次元のようなところで〈悪魔〉は通達しなければならないんだ。霊能者はこの膨大な諸エネルギーの集合を受け取って、それとほぼ同量の情報をフィードバックしてやらなければならない。すべてを循環させるためにね。俗な次元で見えるものと言えばピストン一つだけさ、それが動いてくれればいいわけだ。その巨大な情報の複合体に対して、ちょっとした動きが一つ、ピストンが一回動くごとに、その複合体が次から次へと崩されて行くのさ」
「お手あげよ」とエディパ――「意味が私にとどかないわ」》pp129-30/pp146-7

 これが〈ネファスティス・マシン〉の原理だが、ひどくミスリーディングである。まず、
《〈悪魔〉が坐っていて、分子を熱いのと冷たいのに選り分けると、その系はエントロピーが低くなると言われる。しかし、なぜか、低くなった分は、どの分子がどこにいるかについて悪魔が得た情報によって相殺される。》

 この部分は〈ネファスティス・マシン〉ではなく、「どうしてマックスウェルの悪魔を用いても永久機関が不可能なのか」という、前回書いた一般的な理由の説明になっている。分類という、分子の情報を得て箱の中のエントロピーを減らそうとする行為が、悪魔の中にかえってより大きなエントロピーを溜め込むことになり、全体として見ると、「やはりエントロピーは増えてしまう」という話だ。
 それがこんなに舌足らずな書き方になっているのは、小説が、エディパがネファスティスからおぼろげに聞き取った内容を、ほとんどそのまま地の文に流し込んでこの場はこと足れりとしているからだろう。読んでいるこちらがヒヤヒヤする。
 では〈ネファスティス・マシン〉では、この悪魔内部のエントロピー増加をどうやってクリアするか。そこで
《「コミュニケーションが鍵になるんだよ」とネファスティスは叫んだ。》

 ここからが〈ネファスティス・マシン〉の原理である。
 鍵になる「コミュニケーション」とは、マシンの中の悪魔と、マシンの外にいる強い感度を持った人間、すなわち "the sensitive"(志村訳では「霊能者」)との間で行われるコミュニケーションのことなのだ―― と言ってからはっきり書いておくのは、以下の内容が、木原善彦『トマス・ピンチョン 無政府主義的奇跡の宇宙』(2001)の、Lot 49 を扱った第三章でなされている解説の引き写しだということである。先ほどまとめて小説から引用した部分のうち、必要な箇所を再掲する(太字は引用者)
"The Demon passes his date on to the sensitive, and the sensitive must reply in kind. There are untold billions of molescules in that box. The Demon collects date on each and every one. At some deep psychic level he must get through. The sensitive must receive that staggering set of energies, and feed back something like the same quantity of information. To keep it all cycling. On the secular level all we can see is one piston, hopefully moving. One little movement, against all that massive complex of information, destroyed over and over with each power stroke."

《「悪魔が自分のデータを霊能者に伝える、すると霊能者も同種のもので応じなければならない。その箱には何十億という分子が入っている。〈悪魔〉はその分子の一つ一つぜんぶについてデータを収集する。深い霊的な次元のようなところで〈悪魔〉は通達しなければならないんだ。霊能者はこの膨大な諸エネルギーの集合を受け取って、それとほぼ同量の情報をフィードバックしてやらなければならない。すべてを循環させるためにね。俗な次元で見えるものと言えばピストン一つだけさ、それが動いてくれればいいわけだ。その巨大な情報の複合体に対して、ちょっとした動きが一つ、ピストンが一回動くごとに、その複合体が次から次へと崩されて行くのさ」》

 分子を「見る」=情報を得る行為は、それをおこなう者の内部にエントロピーを生んでしまう。ここで、引用文中で「データ」と「情報」が区別されているのが重大なポイントである。
 悪魔は、箱の中を飛び交う分子について、自分では「見る」ことをしない。ただデータを外の "the sensitive"(木原氏の訳では「高感度人間」)に送るだけである。データから分子の状態を「見る」、つまり情報を得るのは悪魔ではなく "the sensitive" の役目である。言い換えれば、悪魔は "the sensitive" がマシン内をのぞき込む、窓としてしか働かない。
 そして "the sensitive" は情報を悪魔に送り返す。
[…] デモンは、受け取った情報をもとに、分子を選り分け、マシン内のエントロピー(利用不可能な無秩序なエネルギー)を減らし、同時に自由エネルギー(利用可能な秩序あるエネルギー)を得て、これでピストンを動かす。
 こうしてみると、熱力学の第二法則、「エントロピー増大の法則」が破られているわけではないことが明らかになる。マシン内で減少するエントロピーと同等のエントロピーが、外部にいる高感度人間の体内に生まれているである。マシンは、いわばエントロピーポンプとして作用し、内部のエントロピーを外部に排出することによって、見かけ上、永久運動をするように見えるのだ。》木原 p49(太字は引用者)

 このようなことを木原氏は、“小説をきちんとに読めば、こういうことになっています”というような堅実な書き方で述べているけれども、そしてそれは確かにその通りなのだろうけれども、もしこの明快な解説がなかったら、独力ではぜったいに〈ネファスティス・マシン〉の工夫とメカニズムはわからなかった。
注釈書のP106~108あたりにある解説は、悪魔が "the sensitive" を通じてエントロピーを外に捨てるからくりについてはほぼ同じまとめになっているが、そのあと「情報」の取り扱いになると混乱を来たしてしまっていると思う。それはこちらの理解が追いつかないということかもしれないのだが)

 しかし、わかってしまえばこの仕組みはLot 49 の縮図のようなものなのである――と、これも木原氏の書いていることだった。

…続き



トマス・ピンチョン―無政府主義的奇跡の宇宙
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2004/04/10

その120 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


〈ネファスティス・マシン〉は、理論上の存在である〈マックスウェルの悪魔〉を実際に組み込んだ装置だということになっているが、それはそもそもどんなものだったのか。
 前々回で書いたように、あるひとつの系の中で「温度差がある」状態は「温度差がない」状態(熱平衡)へ向かっていく。温度差があればエネルギーが取り出せるが、徐々にそれはできなくなっていく。これが熱力学の分野でエントロピーが増えるということだった。
 だが、ここでひとつの思考実験として、「温度差がない」状態から「温度差がある」状態に逆転させることができたとしたら、と考案されたのが〈マックスウェルの悪魔〉だった。その働きは「その91」と「その92」に書いたけど、ここでもう一度まとめておく。

 ふつうの空気で満たされた箱をふたつに区切り、極小のドアを作ってそこに悪魔(知的生命体)がいるとする。悪魔は、動きの速い分子を右の部屋に、遅い分子を左の部屋へと選り分けていく。分けるだけではエネルギーが消費されないのに、この作業を続けていくうちに箱の中には温度差ができていくから、その差を用いてたとえばピストンを動かすことが可能になり、外から力を加えなくても永久に上下動を続けさせることができる。これって、熱力学の法則を守りながらそれを破ってしまう、永久機関の完成じゃないだろうか、というのがマックスウェルの提起したパラドックスだった。
 ここでは、動きの激しい分子とそうでない分子が入り混じっているはじめの状態(エントロピーが高い)から、両者がきれいに区別された状態(エントロピーの低い)へと、箱の中の状態が変化している。悪魔は、分類を行うことで熱力学的エントロピーを減らす働きをしたのだった。分類がエントロピーを減らす

 この変化は、情報の面から見ても面白い。最初、分子が乱雑に入り混じった状態では、ある分子ひとつが、箱の中で右側にあるか左側にあるかは知りようがなかった。ごちゃごちゃに混ざっているのだから、どっちに「ある」のか確かな情報はない。
 それから始まる悪魔の分類作業は、速い分子は右、遅い分子は左、というふうに分子の位置をひとつずつ確定していく作業、つまり分子の動きと位置の情報を得る作業でもあった。次第に、位置を知りたい分子が「動きが速いのなら右側にあるよ」「遅いのなら左側にあるよ」と、確かさをもって答えられるようになっていくだろう。分子の位置について不確かだった状態(エントロピーが高い)が、より不確かさの減った状態(エントロピーが低い)に変化していく。
 乱雑な状態から整理された状態へ、分類が進むほど、情報が増える。それは、情報が増えるほど分類が進む、ということでもある。情報を得る作業がエントロピーを減らすのだ。
 いま太字にした部分と、上で太字にした部分を見比べれば、なんだか同じようなことを言っているではないか。

 それはともかく、この仮想上の悪魔を実装したのが〈ネファスティス・マシン〉だったが、大事なのは、
(1)そんな悪魔がいたとしても上に書いたシステムは実現せず、
(2)だからネファスティスはある工夫を加えて〈ネファスティス・マシン〉を作り上げた、ということだ。

 まず(1)、どうして永久機関が実現しないのか。「そんな悪魔はいないから」ではなくて、そんな悪魔がいたとしても実現しない。
 スタンレー・コーテックスがエディパにマシンの原理を説明してくれたとき→その92、彼女は素朴にこう訊いた。
《「選り分けるのは仕事じゃないの?」とエディパは言った。「そんなことを郵便局で言ってごらんなさい。郵便袋に詰めこまれてアラスカのフェアバンク行きよ、〈こわれもの注意〉の貼り紙もつけてはくれないわ」
「それは頭脳労働だけど」とコーテックス――「熱力学的な意味での仕事じゃないんだ」 》p106/p119

 じつはここではコーテックスは半可通にすぎず、まったくの無知であるエディパのほうが正しいらしいことが、前回も参照した入門書に書いてある。

 悪魔が分子を選り分けるためには、少なくとも彼に分子が見えなくてはならない。「見る」ために必要なのは光である。分類じたいは「熱力学的な意味での仕事じゃない」のかもしれないが、「見る=情報を得る」ことはそうはいかない。
《まずガスも魔物も包み込んだ閉じた系を考える。この中で魔物は分子を認識し、その運動に関する情報を得なければならない。そのためには、魔物と分子の間にエネルギーの交換が必要で、それは光子によって媒介されるとする。この光子のエントロピーに対応する温度が魔物の体温よりも高くないと、魔物はそれを認識できない。
魔物のまわりには、魔物の体温に相当する黒体放射が満ちているからである。その結果、魔物が光子を受け取る過程は非可逆過程で、エントロピーが生成される。その値を計算すると、魔物が分子を認識することによって得た情報量に相当するネゲントロピーよりも、大きいことがわかる。だから、情報のネゲントロピーがそのままガスに返されても、全体としては、エントロピーが増えてしまうのである。》杉本 p124
*「ネゲントロピー」は、「負のエントロピー」「エントロピーの低さ」のこと

 注釈書でさらりと紹介されている(pp101-2)のもこの説で、マックスウェルの悪魔については、これが公式見解のようである。
 マックスウェル以降の物理学者のおかげで、たとえ分子を選り分けることのできる悪魔が存在したとしても、エントロピー増大の過程をひっくり返してエネルギーを作り出す役には立たないことが明らかにされているのだった。
(この話に出てくる“悪魔:Demon”は「知的生命体」の意味だけど、ネットを検索していて複数ぶつかった「こうしてマックスウェルの悪魔は除霊された」、という言い方をしてみたくなる気持はわからなくもない)

 だから、「選り分けるのは仕事じゃない」と言い切った(←イエローカード)コーテックスが、ただ単純に悪魔の存在を信じ、「本物の悪魔が入っているから〈ネファスティス・マシン〉はすごいんだ」と主張するのだとしたら(←イエローカード)明確にアウトで退場ものなのだが、曲がりなりにもヨーヨーダインの技術者、何度読み返してもさすがにそこまではっきりとは言っておらず、彼の理解の程度はうやむやなままに、あのシーンは終わっていた。件のマシンの説明は、いま、発明者たるジョン・ネファスティス本人に引き継がれたわけである。

 発明者までが、「悪魔はエントロピーを減らせない」ことを知らないはずはないだろう。悪魔の問題を解決した論文は、1929年には発表されているのだ→そのPDF
 実際、彼にはわかっているのだ――というところでもう1冊、やはり前回も引いた入門書から、悪魔のパラドックスを否定した部分を書き写す。さっきの引用と同じような説明で、悪魔が分子を「見る」ために増えてしまうエントロピーの量まで数式で示してから、
《要するに、マックスウェルの魔がせっかく仕事をして気体のエントロピーを減らしても、その分以上に魔自身のエントロピーが増えてしまうのである。だから、魔は決して熱力学の第二法則を超越した超能力者ではなく、やはり第二法則がちゃんとあてはまる「ただの人」だった、ということになってしまうのである。
[…] 光が吸収されて彼の体内のエントロピーが増え続けるということは、光のエネルギーが熱の形でどんどん体内に入ってくるということであるから、彼の体はどんどん熱くなってゆく。そして、その小さい体はすぐに熱病状態になって、間もなく死んでしまうだろう。いわば、エントロピーにうなされて死ぬのである。》堀 pp236-7

 仮定上の悪魔が仮定の上で確実に死ぬと宣告されるのを見て気の毒に思うのは不思議な感情だが、ところで、このあとにこう続いている。
《もっとも、体内にたまってくるエントロピーをどこかへ持ち運んで捨てることが出来れば、魔はいつまでも仕事を続けて、気体のエントロピーをどんどん小さくしてゆくことができ、またエントロピーの小さい状態を保っておくことができるだろう。しかしそれは系の外へ熱の形でエネルギーをはこび出すのと同じことだから、系を外界へ対して開くことであり、エントロピーの小さい状態を保つために系を外に対して開き、エネルギーの流れの中に置く、という、はじめに述べた状況に話はもどってしまう。》

 悪魔の体に溜まったエントロピーを、どうにかして外に捨てる。それができれば、この箱からエネルギーを取り出すことも可能になる。でもそんなことは無理だから、やはり永久機関は実現しないのだ――と、そのような説明のために上記の引用部分は書かれているのだが、じつは、小説中の〈ネファスティス・マシン〉を可能にしているのは、まさにここに書かれている通りのアイディアなのである。
 そしてそのために必要とされるものこそ、"the sensitive"(感度の強い人間)なのだった。

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その119 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 いっぽう、情報の理論でもエントロピーの考え方が使われようになった。こちらでも、エントロピーは「乱雑さ・でたらめさ」とされる。さらに、情報なんだから、これは「曖昧さ・不確定さ」ということにもなるらしい。
 そして、入門書を読んでみても言われていることがいまひとつ統一されているように見えないのである。こちらの理解不足にちがいないが、仕方ないからそのまま書いてみる。

 ふたつの情報源があるとする。片方は乱雑でごちゃごちゃで(エントロピーが大きい)、もう片方は整理されてシンプルにまとまっている(エントロピーが小さい)。
 この両者からどれだけの情報が出てきうるか考えると、ごちゃごちゃの前者から出てくるもののほうがバリエーションに富み、それに比べてシンプルな後者のほうは、出てくる結果の幅が狭いように思われる。
(サイコロを振るなら結果は6通りありえるが、コインを投げた結果は表・裏の2通りしかない。サイコロのほうが結果にばらつきがある)
 だから、エントロピーが大きい=情報量が大きいエントロピーが小さい=情報量が小さい、ということになる。この本にはそう書いてある。

 ところが、いま例に出した乱雑でごちゃごちゃの情報源と、整理されてシンプルな情報源を、そのままふたつの情報だととらえると、前者は曖昧で不確かなために何を言っているのかよくわからないから情報量が小さく、後者はすっきりまとまっているから言いたいことがよくわかり情報量が大きい、ということになる。
(なんだかさっきと逆である。「情報源」に目をつけるか、出てくる「情報」に目をつけるかのちがいなのだろうか)

 あるいは、こう考えたらどうなるか。
 乱雑でごちゃごちゃの情報源と、整理されてシンプルな情報源があって、そのそれぞれから何らかの結果がひとつ確定されたとする。前者のほうがどんな結果が出たのか可能性がいろいろあるだけに正解を絞るのはより難しく、後者は可能性が限られているぶん、より高い精度で正解を絞ることができる。
(サイコロを振ってどの目が出たか、よりも、コインを投げて表になったか裏になったか、のほうが当てやすい)

 より正しい答えに近づける情報のほうが情報として有用なわけだから、つまり情報量が大きいということになる、と考えると、乱雑でごちゃごちゃの(エントロピーが大きい)情報源は、曖昧で有用性が低い、つまり情報量が乏しい情報にしかならず、整理されたシンプルな(エントロピーが小さい)情報源は、大きな情報量をもった情報になると言える。
 だから、エントロピーが大きい=情報量が小さいエントロピーが小さい=情報量が大きいことになる。この本にはそう書いてある。
(こちらをもとにすると、先に書いたエントロピーが大きい=情報量が大きいエントロピーが小さい=情報量が小さいという、いまのと正反対に見える考え方は、このように換言されるとまで書いてあった―― 情報源が乱雑でごちゃごちゃで曖昧なほど、つまり、もとの状態のエントロピーが大きいほど、「確定された状態が何か」という情報の持っている情報量は大きい)

 情報源/情報/情報量という言葉をごたまぜにして使っているために、上に書いたことはよくわからなくなっているが、それは参考にした本2冊のせいではなく、この読書ノートを書いている人間の理解力と、まとめ力の不足のためである。とりあえずこう考えることにした:

 でたらめで曖昧で、どうなっているのかわからない状態があるとして、それに関する情報を得ることは、わからなさを減らすことになる。
 よりでたらめである状態をエントロピーが大きい、よりでたらめでない状態をエントロピーが小さい、と考えれば、情報の分野では、情報を得ることがエントロピーを減らすことになる
(逆に、情報が伝えられていく過程でノイズが混じり、不確定さが増え曖昧になっていくのは、エントロピーが大きくなると表現できる)

 前回、熱力学のところの最後に「エントロピーは概念だけど、量を計算する式だってできた」と書いた。そしてこちら、情報理論のほうでも、エントロピーの量を計算する式が作られた。両者とも対数を使い、エントロピーの量を S とすると

 S =K logW

 こんな感じにするそうで、式が似ていることをLot 49 のジョン・ネファスティスは「偶然」のひとことで片付けていたが、両分野は、取り扱う数の桁数に大きなちがいがあっても、同じ変化を別の面から見ているだけなのだ、という方向で考えるのがどうやら正しいらしい。
 そんなことについてあれこれ言うには、これだけでは何の説明にもなっていない上の式の K と W が、各々の分野で何を表しているのかをまとめるところから、いや、まとめられるよう勉強するところから始めないといけないはずだが、一応これくらいで小説に戻ることはできる。

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2004/04/10

その118 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 エントロピーは、でたらめさ・乱雑さを測るものさし、というふうに説明されることが多い。
 この考え方がはじめに使われるようになったのは熱力学の分野だという。

 閉じた系の中で、温度が高いものと温度の低いものが接している場合、前者から後者へと次第に熱が移り、しまいには両方が同じ温度になる(熱平衡)。この熱が移動する方向は一方通行で、不可逆的である。
 温度差があればエネルギーを取り出せるけれども、放っておくと状態は熱平衡に向かい、温度差はなくなっていく。この変化を“エントロピーが増大していく”ととらえると、いろいろなことにうまく説明がつくようになった。でも、それがどうして「乱雑さ・でたらめさ」の増加なのか。

 温度が高いというのは分子の動きが激しいということ、低いというのは動きがおとなしいということで、ちがいがある。激しいにしろおとなしいにしろ、それぞれがそれぞれだけで集められていれば(温度が「高い」「低い」で区別されていれば)、ふたつのグループは整理されていることになる。そんなふうにはじめは分かれていたふたつのグループも、時間の経過とともに、乱雑に入り乱れていって、混ざりきった状態が熱平衡である。混ざったものは、自然には分かれていかない。
 外から手を加えない限り、でたらめでない状態(エントロピーが小さい)は、必ず、もっとでたらめな状態(エントロピーが大きい)に向かう。方向を逆にして、乱雑に動き回る分子の動きをそろえ、エネルギーに変えることはできない。

 これを確率の考え方から見ると、実現する確率が低い状態は、実現する確率がもっと高い状態へ移っていく、ということになる。「整然と区別されている状態」よりも、「乱雑に混ざっている状態」のほうがずっと場合の数が多いので、実現する確率が高い。そして、実現するのはつねに確率の高いほうである。“確率には勝てない”、というのと、上の“エントロピー増大の過程は不可逆的”というのは、同じことを言っている。
 ところで「その92」で、こういうメモをした。

■ 熱力学の第二法則
・持っているエネルギーのすべてを何か意味のある作業に使うことはできず、かならずエネルギーの一部を無駄に捨てなくてはならない
・分離の状態は、やがて混合という結果に追い込まれる

 エネルギーの総量は不変、という熱力学の第一法則だけから見ると可能であるように思える永久機関(熱機関から生まれたエネルギーをまたその機関を動かすのに使う)は、第二法則から否定される。エネルギーは、総量としては減らないが、しだいに使えないかたちに変わっていく。
 この第二法則が述べていることにはいろんな表し方があって、エントロピーの考え方を使った表現法もそのひとつ。使えるエネルギーは減っていく、という法則は、エントロピーは増えていく、とも言い換えられる。

 エントロピーは概念なので、顕微鏡でも見られないし、それじたいを測量することもできないけれど、これを使うと第二法則がうまく説明できるし、計算によって量を測る式だってできている。

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2004/04/10

その117 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 カリフォルニア州バークレーにあるジョン・ネファスティスのアパートで、〈ネファスティス・マシン〉を前に、発明家本人によるエントロピー講義が始まっている。
But it was too technical for her. She did gather that there were two distinct kinds of this entropy. One having to do with heat-engines, the other to do with communication. The equation for one, back in the '30's, had looked very like the equation for the other. It was a coincidence. The two fields were entirely unconnected, except at one point: Maxwell's Demon. (p84)

《しかし、エディパには、話があまりに専門的だった。確かにわかったのは、このエントロピーというものに、二種類あるということである。一つは熱機関と関係があり、もう一つはコミュニケーションと関係がある。一方の方程式は一九三〇年代にできたものだが、他方の方程式とじつに似ていた。偶然である。この二つの領域はまったく無関係であるが、一点において関係がある――〈マックスウェルの悪魔〉だ。》p129/p146

 この「エントロピー」をめぐる話のわかりにくさは、Lot 49 を構成する数かずの奇妙な謎の中でも独特のものだということになっている。
 というのは、ここには、エントロピーと〈マックスウェルの悪魔〉と〈ネファスティス・マシン〉の話じたいがそれぞれわかりにくいということと、それらの話がこの小説の中でどういう役割を果たしているのかがわかりにくいという、少なくとも二重のわかりにくさがあるからで、不透明な話ほど大事なものに見えるのはエディパも読者も同じである。

 いまあらためてこのあたりのページを読んでいて思うのは、文章に不思議な距離があるということだ。
 エントロピーについての知識を持ったネファスティスが、それを持たないエディパに向かって語る話のうち、彼女がかろうじて「こういうことか?」と理解できた内容だけが地の文に乗せて語られている。書きぶりは、そこに誤解が含まれていれば(読者に向かって)訂正を加えてくれる調子ではない
 ネファスティスじしんの言葉が出てきても、エディパには謎かけのようにしか受け取れないし、地の文の側でもやはり、それを解きほぐしてこちらの理解を助けてくれる様子はない。理解できないエディパの「理解できない!」という叫びはそのまま書かれる。
 ひどく率直で、だからこそ距離を感じる書き方だと思う。距離というのは、“ページの上に印刷されている文字面のうしろにあるはずの背景”から、自分が隔てられている感じのことだ。
 内容がよくわからないからここにはもっと説明があってもいいはずだ、ということだけはわかる、そんな種類の話が持ち出されて、しかし説明は与えられない。小説のこういう書かれ方は、エディパにも読者にも不親切に見える。
「いいのか、それで」と言いたくなるが、このネファスティスの部屋に来る前、スタンレー・コーテックスがはじめてマシンの話をした場面もそんな調子だった→その91

 エントロピーという奇妙な概念を扱った奇妙なマシンを扱いながら、理解と誤解をまぜこぜにし、説明をあえて自制したまま素っ気なく進む地の文。「それでいいのだ」と、たぶんピンチョンは思っている。
 だから次第に、この“解説を加えない”書き方は不親切というより勇気だと感じるようになったのだが、意図的にしろ結果的にしろ、そのせいで〈ネファスティス・マシン〉がいっそう「わけのわからない機械」としてこちらの気にかかるようになっている。
 小説がそんなふうにこちらを翻弄してくるために、注釈書でこの部分についた解説はP97からP111まで、15ページにも延びている(たぶん、全項目中で最長ではないか)。それを読むと、エントロピーについて、少なくとも「エディパよりはわかった」と言えるようになることはなる。
(「ひと通りわかった」とはとても言えない。「簡単には“ひと通りわかった”なんて言えない話であるよな」ということがわかる)

 だが、肝心のエディパがわかっていないのだから、こちらもわからないまま読むほうが、より彼女に近づけるのではないか、という気持も抜きがたいのである。
 エディパに近づくのはこの小説に近づくのと同じことだと思う。近づいて近づいて、できることならこの小説の内側に入れないものかと、ずっと考えている。それには、エディパの外にある知識は邪魔でしかない。
 いっぽう、エディパの持たない知識を集め、外側から彼女の立場を可能な限りよく見ていくことで小説に近づくアプローチもきっとある。小説はエディパではない。読書は外側から行われるが、十全な知識を持って向かえば、こちらと小説との段差は乗り越えられるのじゃないかとときどき本気で思っている。
 しかし、ここで迷ったところで、できることが増えるわけでも変わるわけでもない。結局のところ、エディパに乗り移るほどには読者としての立場を失えず、ついつい調べてしまった小説外の情報を書き込まずにはいられないくせに調べ尽くすこともできない、どっちつかずで中途半端のままページをめくり、キーボードを叩いている次第である。このおぼつかない足取りで、エディパのあとを追って行くほかない。
 へんなことを書いた。以後、数回に分けて書く「エントロピー」についての話は、まちがいだらけか、正誤の判断以前のものでしかないだろう。

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2004/04/09

その116 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 まさかの永久機関〈ネファスティス・マシン〉を発明したジョン・ネファスティスの住所は電話帳に載っていた。
She then drove to a Pseudo-Mexican apartment house, looked for his name among the U.S. mailboxes, ascended outside steps and walked down a row of draped windows till she found his door. (pp83-4)

《それからメキシコ建築ふうのアパートに着いて、並んでいる郵便受けに彼の名前を探し、外の階段をのぼってカーテンのかかった窓の列に沿って歩き、ついに彼の部屋のドアを見つけた。》p128/p145

 ここで下線を引いた部分が、たんに"the mailboxes"ではなく"the U.S. mailboxes"(合衆国郵便)と詳しく書いてある点を注釈書は見逃さない。「その96」で、コーテックスとネファスティスは「WASTE印」の関係する何らかの通信方法を行っているのではないかとエディパはにらんでおり、それを確かめるのがバークレーまで来た目的のひとつだったのだ。
 ここでは公式な政府の郵便を使っているのがわかったが、地の文がそう強調するのはかえって思わせぶりに映るとも言える。

 装置の中にいる〈マックスウェルの悪魔〉と交信して箱の中の分子を選り分け、エネルギーがないところからそれを作り出し熱力学の第二法則を突破する。マシンの(むちゃくちゃな)原理は「その91」以降で大まかに紹介されていた。これからいよいよ実物がお目見えするわけである。
 Introducing herself, she invoked the name of Stanley Koteks. "He said you could tell me whether or not I'm a 'sensitive'." (p84)

《自己紹介してから、エディパはスタンレー・コーテックスの名前を出した。「あなたなら私が『霊能者』かどうか教えてくださるだろうって言われたんです」》p128/p145

 ここでいう "sensitive" が、マシンを動かすのに必要な、悪魔と交信できる「高い感度を持った人間」の意味であるのは「その93」で触れたとおりだが、
you could tell me whether or not I'm a 'sensitive'.

 この文字面だけ見ると、エディパはまるで「私が気にしすぎなのかどうか、ありもしない企みを妄想のかたちで感じ取りやすすぎるのかどうか、それをあなたが教えてくれるのではないですか」と期待を寄せているかのようで面白い。
 というのは、さっそく奥の仕事部屋からマシンを出してきたこの男じしんが紛れもないマッドサイエンティストで、自分の正気をはかる大事な判断を預けるうえで、不適格といったらこれほど不適格な人間もいないはずだからだ。視野狭窄のエディパはしかし、まだそんな雰囲気を「感じ取って」はいない。
 He began then, bewilderingly, to talk about something called entropy. The word bothered him as much as "Trystero" bothered Oedipa. (p84)

《すると、彼がエントロピーということについて話し出したので困ってしまった。エディパが〈トライステロ〉という言葉にこだわっているのと同じくらいに彼はエントロピーという言葉にこだわっていた。》p129/p146

 マシンをめぐる話がいっそうややこしくなるのはここからである。

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2004/04/09

その115 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


『急使の悲劇』本文の謎に捕まったエディパは、エモリー・ボーツに会うべくカリフォルニア大学へ突撃するが、ボーツ教授はもうこの大学にいなかった。いまはカリフォルニア州サン・ナルシソ市のサン・ナルシソ大学で教えているという。
 結局、またもこのサン・ナルシソ――ピアス・インヴェラリティ肝煎りの土地――にすべてが集まっていく成り行きを、エディパは「当然」だと受け入れるようになっている。しかしここでは、いま28歳のはずのエディパが大学のキャンパスに足を踏み入れて、自分の学生時代とのギャップにおどろく、という出来事への寄り道がなされる。
 作中の「今」は60年代中頃のはず→その16なので、学生たちは活発に政治運動へコミットしている。エディパが学生だった、10年くらい前の「臆病」で「退屈」で「後退」していた時代とはまるで別の宇宙だと書いてある。
In another world. Along another pattern of track, another string of decisions taken, switches closed, the faceless pointsmem who'd thrown them now all transferred, deserted, in stir, fleeing the skip-tracers, out of their skull, on horse, alcoholic, fanatic, under aliases, dead, impossible to find ever again. (p83)

《別世界の話。別な軌道のパターンへと一連の別な決断が下され、転轍機のスイッチは切られ、かつてスイッチを入れた、顔なき転轍手たちが、いまはみなあわてふためいて転職し、脱走し、捜索を逃れ、発狂し、ヘロインに手を出し、アルコール中毒になり、狂信者になり、偽名を使い、死に、二度と見つけられなくなっている。》p128/pp144-5

 この陰惨なイメージの妥当性は判断がつきかねるのというのが正直なところだが、「時代は決定的に、不可逆的に変わった」、「エディパはデモには向かないが、戯曲のおかしな語句を追跡するのは上手である」ということが、変わる前の時代に対して、そしてエディパに対して、いくらか冷笑的な様子で語られているようなのはわかる。
 冷笑的という言葉がよくなければ、あたらしい世代が古い世代のことを、時代の順番を逆にして、大人が子供を見るような調子で語っている、という言い方にでもなるだろうか(このLot 49 が発表されたのは1966年で、いわば変革の渦中だったはずだ)。
 それで、と言おうか、それにもかかわらず、と言おうか、エディパは自分が得意であるところの調査を再開し、今度はジョン・ネファスティスの住居を訪ねる。

…続き
2004/04/09

その114 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 ランドルフ・ドリブレットが『急使の悲劇』の台本にした→その83、『ジェイムズ朝復讐劇』(ペーパーバック):
No hallowed skein of stars can ward, I trow,
Who's once been set his tryst with Trystero.


いかに聖なる星の桛[かせ]といえども護れない――
ひとたびトライステロとの出会い[トライスト]を定められた者の運命[さだめ]

 いまエディパが手に取っている『フォード、ウェブスター、ターナー、ウォーフィンガー戯曲集』(ハードカバー、1957年刊):
No hallowed skein of stars can ward, I trow,
Who once has crossed the lusts of Angelo.


いかに聖なる星の桛[かせ]といえども護れない――
ひとたびアンジェロの欲望に逆らった者の運命[さだめ]

 2行めのズレはどうしたわけだろう。このハードカバーには、その部分に長い脚注がついていた。

・テキストは四つ折判(1687年刊)にのみ従う
(※ペーパーバックでは「出版年不明の二つ折判からとった」、と書いてあったから、ここでもうズレている。あのとき「一六八七年版の異文参照」との書き込みがあり、それがこの四つ折判のことだと思われる。異文を参照したら目当ての語がなくなってしまった)

・二つ折判では、結びの行が削除されている
(では、それをもとにしたはずのペーパーバックの結びの行は、いったいどこから持ってきたのか)

・さらに、『急使の悲劇』には「ホワイトチャペル版」(1670年頃)という信頼性に欠けるバージョンもあり、その結びの行はこうである:
This tryst or odious awry, O Niccolo,
この出会い[トライスト]をか、憎らしき歪みの、おお、ニコロ

 これでは苦しすぎるし意味も不明だ。しかし、ほかの注釈者の説ではこの行は、
This trystero dies irae....
このトライステロ、神くらき怒りの日・・・・・・

をもとにした語呂合わせだという。しかししかし、そうなると今度は「トライステロ(trystero)」という語の意味がわからない。とにかくホワイトチャペル版は信頼できない。

 ――ここまでが脚注の内容で、もうぐちゃぐちゃである。「二つ折判」「四つ折判」「ホワイトチャペル版」。ぜんぶ異同があるのだ。
『急使の悲劇』の終盤で、アンジェロがしたためニコロに渡した手紙が、ニコロの死後に発見されると書き変わっているという“奇跡”が起きたこと→その77をも連想させる、テキストの謎の入り乱れ具合がここに発生している。
 その混乱の中で、肝心の「トライステロ(Trystero)」の語は行方不明になってしまった。あのときニコロを殺したのが「トライステロ」の刺客であるらしかったのに、舞台の上でたしかに発されたその語はどこから来たのか。

 この脚注を施したのはカリフォルニア大学英文科教授のエモリー・ボーツ(Emory Bortz)だとはっきり書いてあったので、エディパは直接、この専門家に訊きに行くことにする。その反応は正しい。

…続き
2004/04/09

その113 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ホテルで案内された部屋には、レメディオス・バロの絵の複製が飾ってあった。「その9」からしばらく見たように、エディパにとっては呪いのように重要な画家である。
She fell asleep almost at once, but kept waking from a nightmare about something in the mirror, across from her bed. Nothing specific, only a possibility, nothing she could see. (p81)

《たちまちのうちに寝ついたが、何回も悪夢にうなされて目を覚ました。ベッドの向こうにある、鏡の中の映像に関係のある夢だった。特にこれという映像ではない。単なる可能性のようなもの、目に見えるようなものではなかった。》p124/p140

《鏡の中の映像》と言ったら自分の顔のはずである。だから志村氏は、ここで壁に掛かっているバロの絵はこの「出会い」(Encuentroじゃないかという説を解注で紹介している。いっぽうで、それは《特にこれという映像ではない》、《目に見えるようなものではなかった》、と説明されている。彼女を脅かすのは可能性なのだと。
 探したすえに見つかるのが自分の顔だったら、それは世界がすべて自分の織ったタペストリーでしかないと決めつける→その10のと同様、どこまでいっても「自分しかいない」孤独な状況である。それとも、彼女の敏感すぎるアンテナは、また別の状況のありうる可能性を、はっきりした自覚のないままに感じ取っているのだろうか。いずれにせよ不吉な予感(悪夢)であるのが気にかかる。

 ともあれ、ぐったり疲れたエディパは夫のムーチョとセックスしている夢を見て、いっそう疲れて目を覚ます。向かう先はレクターン出版社。
その100」でメモしたことをまとめ直すと、タンク劇場で見た『急使の悲劇』は『ジェイムズ朝復讐劇』というペーパーバックに入っていたが、それのもとであるハードカバー、『フォード、ウェブスター、ターナー、ウォーフィンガー戯曲集』を出しているのがこのレクターン出版社なのだった。
 すでにして相当ややこしいが、さらに当の会社を訪ねてみると、その戯曲集は在庫が無く、エディパは会社から離れた倉庫の住所まで教えてもらってようやく手に入れる。彼女が調べたいのは、あの芝居で一度だけ「トライステロ」の語が発される箇所→その77だった。
She skimmed through to find the line that had brought her all the way up here. And in the leaf-fractured sunlight, froze.
 No hallowed skein of stars can ward, I trow, ran the couplet, Who once has crossed the lusts of Angelo.
 "No," she protested aloud, "'Who's once been set his tryst with Trystero.' "

《ぱらぱらとページを繰って、わざわざこんなところまで足をのばしてくる原因となった例の台詞を探した。見つけたとたん、木洩れ日の中で、体の凍りつく思いであった。
いかに聖なる星の桛[かせ]といえども護れない 」とその二行連句は始まる――「ひとたびアンジェロの欲望に逆らった者の運命[さだめ]
「違うわ」と彼女は声に出して異議をとなえた。「『ひとたびトライステロとの出会い[トライスト]を定められた者の運命は 』だわ」。》pp124-5/p141

 そう、語句が違うのである。ペーパーバックにあった「トライステロ」の語が、親本であるハードカバーにはなかった。そんなことがありえるのか。

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2004/04/09

その112 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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 第5章がはじまる。
 Though her next move should have been to contact Randolph Driblette again, she decided instead to drive up to Berkeley. She wanted to find out where Richard Wharfinger had got his information about Trystero. Possibly also take a look at how the inventor John Nefastis picked up his mail. (p80)

《エディパが次に打つ手はランドルフ・ドリブレットにもう一度連絡を取ることであったろうが、その代わりに車でバークレーまで行こうと決心した。リチャード・ウォーフィンガーがトライステロに関する情報をどこで手に入れたものか、知りたいと思った。ついでに発明家ジョン・ネファスティスがどんなふうにして郵便物を受け取るのか、見たいものだと思った。》p123/p139

 章のはじめのこういった語りかたも恒例になってきた。第3章→その41でも第4章→その89でも、いや、第2章→その17の冒頭でもすでに、章があらたまるたびにこの小説は、その時点でのエディパよりずっと先の、すべてを見通せる地点から、しかも彼女の探求の進めかたに評価を下すような距離を置いて、語りはじめるのだった。
 そして、そのような身ぶりを各章の冒頭でだけ見られる特徴として限定するのはむしろ不自然なので、全篇がじつはそのような場所から語られているととらえてもよいのではないかと、あたらしい章に入るたびにそのことを強く思い知らされながらここまで読んできた。
 だから、部分部分で時にはエディパの心内語を中継し、彼女のそばに寄り添う語り口が選ばれていても、それはそれとして、小説は主人公と別のところにいる、という気持がどうしても抜けない。次第に強くなる。
 そんな猜疑心を持って読んでいくのだが、しかし、この章もまた導入がすばらしく、2ページくらいまるまる引用したくなってしまう。つまりエディパばかりか、こちらもまったく、翻弄されているわけだ。
She purred along up the east side of the bay, presently climed into the Berkeley hills and arrived close to midnight at a sprawling, many-leveled, German-baroque hotel, carpeted in deep green, going in for curved corridors and ornamental chandeliers. A sign in the lobby said WELCOME CALIFORNIA CHAPTER AMERICAN DEAF-MUTE ASSEMBLY. Every light in the place burned, alarmingly bright;

《低いエンジンの音を立ててサン・フランシスコ湾の東側を海岸ぞいに走って、まもなくバークレー丘陵地帯に入り、真夜中近くに、幾層にもなって不規則にひろがるドイツ・バロックふうのホテルに到着した。なかは深緑色のカーペット、曲がりくねった廊下、装飾的シャンデリアというスタイルのホテルだ。ロビーの標示には〈歓迎 アメリカ聾唖者カリフォルニア支部集会〉とあった。この場所の照明はどれも胸騒ぎを覚えるほど明るく輝いている。》

 沈黙したホテルのドアをエディパは独りで開ける。そこはたまたま用意されていた、言葉の発されない場所である。抽象的な“真実”、いわば神の御言葉(Words)が、発されているのに自分には聞こえないのじゃないかとおそれる彼女→その19が到着する場所として、この設定(聾唖者の支部集会)はあからさまなメタファーのようであり、あんまりあからさまにすぎるためにメタファーであることを突き抜けて実際にエディパが開いたドアの向こうにあらわれてしまったかのようである。
 メタファーが《曲がりくねった廊下》を通って具体的な現実に顔を出した。そのすべてが小説である。めまいがする思いだ。
A clerk popped up from behind the desk where he'd been sleeping and began making sign language at her. Oedipa considered giving him the finger to see what would happen. But she'd driven straight through, and all at once the fatigue of it had caught up with her. (pp80-1)

《フロント・デスクのうしろで眠っていた受付係が起きあがり、身振りで話しかけてきた。エディパは手話で応じてようすを見ようかと思った。しかしここまでノン・ストップで車を飛ばして来たので、どっと疲れがまわってきた。》p124/p140

 いや、そしてエディパも何をしているんだ。

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2004/04/08

その111 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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 何世紀にもわたって〈テュルーン、タクシス〉の敵であり、そして切手を偽造してきた集団がいるのではないか、と2ページちょっとでまとめて喋ったあとで、コーエンは押し黙ってしまう。どうやら、自分の口から出た可能性におそれを抱いているようだ。
 W・A・S・T・Eの頭文字についてエディパが訊いても答えてくれず、そして丁寧に、こんなことまで書いてある。
She'd lost him. He said no, but so abruptly out of phase now with her own thoughts he could even have been lying. (p79)

《もう彼は手の届かないところへ行ってしまった。彼は、知りませんと言ったが、彼女じしんが考えていることとは、にわかに位相を異にしていたから、嘘をついているとも思われた。》p122/p137

 少し前にファローピアンに話を聞いたとき、彼も最後は曖昧に言葉を濁して逃げており→その105、エディパはエディパで徹底的に問い詰めることはできないでいたのだった。ここでも、彼女の聞いた話はウソかもしれない、と含みが残せるように登場人物の心理が調整してある。
 うまいんだけどズルいのじゃないかという読者の気持にお構いなく、コーエンはエディパのグラスにタンポポ酒を注ぎ足す。この酒は、季節がめぐってタンポポの咲く季節になると発酵を始めるという。「まるでタンポポに記憶があるみたいなんですよ」。
 No, thought Oedipa, sad. As if their home cemetery in some way still did exist, in a land where you could somehow walk, and not need the East San Narciso Freeway, and bones still could rest in peace, nourishing ghosts of dandelions, no one plow them up. As if the dead really do persist, even in a bottle of wine. (p79)

《ちがうわ、とエディパは思った。悲しかった。まるでタンポポのふるさとの墓地が何らかの形でいまも存在しているみたい、と言うべきだわ。どこか、ひとが、ともかく歩ける国、そうして東サン・ナルシソ高速道路などを必要としないところ、そうして骨がいまも安らかに眠っていて、タンポポの幽霊に養分を与え、骨を掘り起こす者などいない国で・・・・・・まるで死者がほんとうに生きつづけている、酒瓶の中にさえ生きつづけているみたい、と。》p122/pp137-8

 自分が今いる世界とは異なった、別の世界をエディパは幻視している。そんな場所が「あるみたい」、と。これを、可能性の中に潜む世界、ととらえれば、自分には触れられない真実→その107の属する世界や、あるいはそれこそ〈テュルーン、タクシス〉の敵が活動している世界といった、この章で急に活性化してきた“別世界”たちが思い浮かぶ。
 そして“別世界”が活性化するというのは、そういったものへのエディパの感度が強化されたということでもある。

 ともあれ、この玄妙な名文で第4章は終わる。WASTE印を落書きしていたコーテックスに始まり、史碑や指輪、そして何より偽造切手といった、具体的で手に取れる手掛かりが次々にエディパのもとへ集まってきて、それらの手掛かりが指し示すのは黒衣の集団、とまとめられそうである。
 それだけなら、どんどん謎を追いかけようと一直線に進んでいきそうなものなのに、並行してエディパの中では、探求を探求として成り立たせなくする変化も起きて、話を複雑にしている。「手掛かりを結ぶ秩序は(見つけるのではなく)私が自分で創るものだ」→その100、「いや、そもそも真実なんて私には知覚できないものなのでは・・・」→その107~108

 探求を進める方向と、探求をいわば解体する方向。ふたつの方向を行き来する往復運動でLot 49 は進んでいくようだ。
 いま、一歩引いて読者として考えてみると、なんとも不思議なやり方で動力を取り出してくる小説であることだなあと感心するが、いっぽうで、主人公の心労は察するに余りある。
 小説はあと半分だ。

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2004/04/08

その110 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ヨーロッパ随一の郵便組織〈テュルーン、タクシス〉の郵便喇叭を消音する、WASTEの喇叭。幾度となくエディパの前にあらわれたあのマークは、そういうものではないか。そしてこのマークを持つ黒衣の集団が、ほかにも〈ウェルズ、ファーゴ〉や〈小馬速達便〉といった民間の郵便組織に敵対していたことを示す手掛かりがエディパのもとに押し寄せるのが、この第4章だったわけである。

 コーエンが最初に見せてくれた切手に戻れば、〈小馬速達便〉をあしらった合衆国郵便の記念切手には、本来、透かしはない。ピアスが持っていたのは偽造切手だったのだ。
 切手の本物は PynchonWikiのここで見ることができる。いまエディパの目の前にある切手はこれとそっくりなのだが、一点、はっきり違いがあって――
The picture had a Pony Express rider galloping out of a western fort. From shrubbery over on the right-hand side and possibly in the direction the rider would be heading, protruded a single, paintstakingly engraved, black feather. "Why put in a deliberate mistake?" he asked, ignoring --- if he saw it --- the look on her face. "I've come up so far with eight in all. Each one has an error like this, laboriously worked into the design, like a taunt." (p78)

《図案は、小馬速達便の騎手が西部の交易場から馬を飛ばして出て行くところだ。右側の茂みから、騎手が向かって行くと思われる方向に一枚、丹念に彫った黒い羽根が突き出ている。「なぜ、わざとこんな間違いを?」と彼は質問した。エディパの顔の表情を――見たとしても――無視していた。「これまでのところ、ぜんぶで八枚出てきました。どれにも、この手のエラーが入念に図案に入れてあります。嘲笑しているみたいです。」》p120/p135

 「黒い羽根」といえば、数ページ前でトート氏から聞いた話→その102に出てきた重要アイテムだ。さらにほかの切手には文字の入れ換えもあって、それはエディパに、「その45」でムーチョから届いた手紙のスタンプにあった誤植のことを否応なく思い出させる。
 近年のもので入れ換えがあったのは1954年のリンカーン切手→これで、ほかは1893年までさかのぼるそうだから、時間の幅からいって個人の仕業とは考えにくい。
 コーエンは一息に、これらの切手を偽造した者たちは〈テュルーン、タクシス〉と同じほどの歴史を持っているのではないかと示唆する。急に浮かび上がってきた謎の存在の可能性を前にふたりはしばし沈黙し、エディパはこれまでに見たWASTE印のことをすべて打明ける。
"Whatever it is," he hardly needed to say, "they're apparently still quite active."
 "Do we tell the government, or what?"
 "I'm sure they know more than we do." He sounded nervous, or suddenly in retreat. "No, I wouldn't. It isn't our business, is it?" (p79)
 
《「その印が何であれ」と彼は言わずもがなのことを言った――「彼らはどうやらまだ活動しているのでしょう」
「政府に報告したほうがいいのかしら?」
「政府はきっと私たちよりも知っているでしょう」その声は不安げというか、急に退却開始という調子だった。「いや、私なら報告しません。そんなことは私たちの知ったことじゃないわけですからねえ」》pp121-2/p137

 自分で言っておきながら、コーエンも退き気味(in retreat)である。これはエディパの「ためらい→その99と似たものかもしれない。
 名の通った郵便組織に対抗し、切手を偽造している「彼ら」とは何者なのか。そして何より、どうしてピアスはそんな切手を集めていたのか。

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2004/04/08

その109 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 ピアスの切手コレクションから、コーエンはエディパに使用済みの切手を見せる。1940年発行の、〈小馬速達便〉を記念する3セント切手。
"Look," he said, switching on a small, intense lamp, handing her an oblong magnifying glass.
 "It's the wrong side," she said, as he swabbed the stamp gently with benzine and placed it on a black tray.
 "The watermark."
 Oedipa peered. There it was again, her WASTE symbol, showing up black, a little right of center.
 "What is this?" she asked, wondering how much time had gone by. (p77)

《「ごらんください」と言って小型の強力ランプをつけ、彼女に楕円形の拡大鏡を手渡した。
「これじゃ裏側だわ」彼がベンジンで切手を軽く濡らして黒い皿の上に置いたときに、彼女はそう言った。
「その透かしです」
 エディパは凝視した。こんども、だ。例のWASTE印が中央より少し右寄りに黒く浮いている。
「これは何なの?」とききながら、どれくらいの時間が経過したのだろうかと思った。》pp118-9/p133

lot49 また、このマークなのである。今度は合衆国郵便の切手に透かしとして印されていた。正体は、切手のプロであるコーエンにも彼の同業者にもわからない。

 コーエンは次に別の切手を見せる。古いドイツの切手で、真ん中に「1/4」、上部に「Freimarke」、右側に「Thurn und Taxis(テュルーン・ウント・タクシス)」と銘がある。もちろん、『急使の悲劇』に出てきた大手郵便組織だ。
 その切手の実物を目の前に置いて、コーエンが解説を加える。1300年ごろから1867年にビスマルクに買い取られるまで、ヨーロッパの郵便事業はこの〈テュルーン・ウント・タクシス〉が一手に担っていたという。
Decorating each corner of the stamp, Oedipa saw a horn with a single loop in it. Almost like the WASTE symbol. "A post horn," Cohen siad; "the Thurn and Taxis symbol. It was in their coat of arms."
 And Tacit lies the gold once-knotted horn , Oedipa remembered. Sure.

《切手の四隅を飾っているのは、ひとつ輪の喇叭である。ほとんどWASTE印に近い。「郵便喇叭です」とコーエン――「テュルーン、タクシス家の印です。家紋の一部なのです」
 黄金のひとつ輪の喇叭はただ沈黙[しじま]、という台詞をエディパは思い出した。やっぱり。》

 この切手はウィキメディア・コモンズにあった。拡大すると四隅を飾る“ひとつ輪の喇叭"が確認できる。

          Thurn und Taxis 1866 45
(筑摩の単行本でも文庫でも、この切手は「解注」に載っている。また、この喇叭や、当の〈テュルーン、タクシス家〉のサイトにでかでかとある喇叭によく似たマークは、いまの日本の住宅の郵便受けでもよく見かけるものである。ヨーロッパでは「郵便といったらひとつ輪の喇叭」、というくらいにこの家名と家紋がスタンダードになっていて、それがそのまま日本に持ち込まれたということだろうか。なお、〈テュルーン、タクシス〉の家紋そのものもウィキペディアに置いてあるのだが、どの部分が喇叭なのかはいまひとつよくわからない)

"Then the watermark you found," she said, "is nearly the same thing, except for the extra little doojigger sort of coming out of the bell."
 "It sounds ridiculous," Cohen said, "but my guess is it's a mute."
 She nodded. The black costumes, the silence, the secrecy. Whoever they were their aim was to mute the Thurn and Taxis post horn. (pp77-8)

《「すると、さっきの透かしは」とエディパは言った――「ほとんど同じものだけど、鐘形のところから出かかっているような感じの、ちょっとしたものが余計ね」
「ばかげていると思われるかもしれませんが」とコーエン――「私の推測では、それは消音器[ミュート]です」
 エディパはうなずいた。黒装束、沈黙、秘密主義。彼らが何者であったにせよ、目的はテュルーン、タクシスの郵便喇叭を消音することであった。》pp119-20/pp134-5

 強調せずにはいられない。たいへんなことになっている。

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2004/04/08

その108 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 (ここは前回の引用部分からつながって流れている)
In the space of a sip of dandelion wine it came to her that she would never know how many times such a seizure may already have visited, or how to grasp it should it visit again. Perhaps even in this last second --- but there was no way to tell. She glanced down the corridor of Cohen's rooms in the rain and saw, for the very first time, how far it might be possible to get lost in this. (p76)

《タンポポ酒を一口すするだけの時間にエディパが思ったことは、すでにいままでに何回そのような発作に見舞われているのか、次に見舞われたら、どのようにして掴まえたらよいのか、まるっきりわからないだろうということだった。ひょっとしたら、いま、この一秒間にも――だが、わかりようもない。エディパは雨の日のコーエンのアパートの続き部屋の通路を見はるかしながら、いまはじめて、このようにして果てもなく迷うことがありうることを知った。》pp117-8/p132

 手掛かりを探してあちこち動き回りながらエディパが求めているのは、気になる事物の意味を明らかにし、つながりのありそうな出来事のすべてに説明をつける、合理的な解答ではなかった。表向きはそういうものを追っていても、事物のあいだのつながりは「自分で埋める」、意味は「自分で創る」ものだというのが彼女の自覚したスタートラインであるはずだった(→その89→その100)。

 それが前回と今回の部分を読んでみると、エディパは「自分でつながりを創ろう」と思いながら、やっぱり自分の外に真実を求めていたように見える。
 あるいは、自分でつながりを創るといっても、そのつながりは、みずからの体を張った探求の報酬として、自分の外から自分のもとに真実として到来する――そのような事態として「つながりを創る」行為をとらえているのかもしれない。
 いずれにしても重要なのは、エディパにとって真実とは“聖なる体験"で、それゆえ俗なる自分の知覚を越えるのじゃないか、というところまで突き抜けてしまっていることだ。
 これから探求の果てに真実を体験しても、あとから確かめられないのは大きな問題だが、《すでにいままでに何回そのような発作に見舞われているのか》わからない、というのも問題だ。じつはもう真実は到来しているのかもしれない。そもそも、何を探すのか。
《いまはじめて、このようにして果てもなく迷うことがありうることを知った。》

 あらためて、この小説はこれからどうなるのだろう。
 探求物語としてのLot 49 は、「私はひとつの世界を投射すべきか?→その89の時点で底が抜け、いまの“真実=聖なる体験=届かない”で、天井も開いてしまった。この小説の中に謎を閉じ込めておくのは、無理であるように思われる。

 しかし、こういったちゃぶ台返しが、様々な手掛かりの発見と並行して起きるのがこの第4章のめまぐるしさである。
 呆然とタンポポ酒をすするエディパ(それは読者の姿でもある)の前に、すかさず今度は、ごくふつうの意味で重要な手掛かりが――具体的で、世俗にまみれた小さな手掛かりが――コーエンから示されて、小説の軌道は再び“謎を追いかける”方向へ戻される。

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2004/04/08

その107 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 独り者のコーエンは、エディパに自家製のタンポポ酒を出してくれる。タンポポは2年前に墓地で摘んだもので、その墓地はもう高速道路を作るために取り壊されてしまいましてね――

 たちまちエディパは「信号を識別」する。というのは、高速道路の建設会社が墓地を取り壊す際に、掘り起こした人骨を煙草会社にフィルターの材料として売る、という話を以前に聞いていた→その58からだ。つながりがある、と彼女には確信されるのだろう。
 だがあのときの会話では、「ピアスの場合は墓地ではなくて、イタリアの湖から引き揚げられた人骨を使っていた」と説明されていたのだから、この連想は、つながりと言ってもいわば“空白のつながり”のようなものである。それは、つながっているのかどうか。
 しかしそんな疑問を挟ませまいとするかのように、というよりはむしろ、ないつながりをつなげる理路を拓こうとするかのように、地の文は一気に畳みかける。今回と次回の引用文はひと続きであり、ひと続きであることに意味の大半がかかっているのだけど、便宜上2回に分けて読む。
She could, at this stage of things, recognize signals like that, as the epileptic is said to --- an odor, color, pure piercing grace note announcing his seizure. Afterward it is only this signal, really dross, this secular announcement, and never what is revealed during the attack, that he remembers. Oedipa wondered whether, at the end of this (if it were supposed to end), she too might not be left with only compiled memories of clues, announcements, intimations, but never the central truth itself, which must somehow each time be too bright for her memory to hold; which must always blaze out, destroying its own message irreversibly, leaving an overexposed blank when the ordinary world came back. (p76)

《事態がここまで進展して来ると、この種の信号を識別することができるようになっていた。癲癇患者に識別できると言われているのと同じだ――発作を予告する、ある種の匂い、色、澄んだ、突き刺すような装飾音などを。あとになってから憶えているのは、この信号だけ。信号とは、じつは無価値なかす、世俗的な予告であって、発作中に啓示されたものとは無関係である。エディパは、これが終わったとき(終わるものだとして)、自分にもまた、残っているものは手掛かり、予告、暗示などの記憶が集まっているだけで、中心にある真実そのものが残ることはないのではないかと思った。中心にある真実は、なぜか、いつ出現しても明かる過ぎて記憶に耐えない。いつだってパッと燃えあがって、そのメッセージを復元できないように破壊してしまい、日常的な世界が戻ってきたときに残っているのは露出過多のための白紙だけということになるのではないか。》p117/p132 *下線・太字は引用者

 たぶんここでは、小さな事物から啓示の予告を感じ取る → 啓示の到来 → 啓示が過ぎたあと、の3段階が語られている。はじめと終わりは世俗的=日常世界の出来事であり、ただ啓示だけがそのような世界を離れた、非日常、あるいは超常的なものである真実を一挙に開示する、とエディパは考えている――と地の文は語る。

 とつぜん手掛かりのほうで自分のところまでやって来て、そこから一瞬、真実を幻視しかける。取り逃がした、と生々しく実感することにより、真実をもたらす啓示があったことが事後的に認知される。そんな経験をエディパは重ねてきた。
 それは感度強化ゆえの思い込みかもしれない、との可能性を残す補足はこれまでも丁寧に施されていたが、ここでいよいよ、そんな真実ははなから自分の手には掴めないものなのではないか、という地点にまで彼女は至っている。
 手掛かりも予告も、真実そのものとは無関係である、と地の文は言う。世俗の物事に囲まれて暮らす普通の人間にとって、啓示を組立てる素材は、些細でつまらない日常の事物に決まっている。それは「その3」で夫ムーチョの神経を苛んだ、中古車の車内に残された生活の残りかすと変わりがない。日常世界の手掛かりが、完全につながりの切れたところにある非日常の真実を示しても、生身の肉体を持ち俗世に生きる人間には届きようがない。自分と真実とでは、属している場所が違うのだ。
 だから、手掛かり(日常)の先にそんな真実(非日常)が本当に待っているとして、それを告げる啓示を感知したとしても、真実はその瞬間にのみ体験されるものとしてあるだけで、啓示の過ぎたあとには持ち帰れない。

 日常を“俗世"というならば、非日常は“聖"となる。聖なる体験は、保存することも、世俗の言葉に翻訳することもできない。そうまとめればそんな気もしてくるが、この小説ではそれはどういうことになるのか。

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(なお、引用した原文中で1ヶ所だけ下線を引いた not を素直に取ると、たぶんおそらく原文は訳文よりも、もう1段階、遠回しだったのではないかと思うのだが、修辞として日本語に加えることはできるだろうか。しばらく考えたが無理だった)