2004/03/31

ウンベルト・エーコ『エーコの文学講義』(1994)


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エーコの文学講義―小説の森散策
和田忠彦訳、岩波書店(1996)

《「私たちは関連性をでっちあげることはできません。あるのです」》

 このように断言する人物も出てくる『フーコーの振り子』において、解明しようという働きかけによって秘密が生まれているのだとしたら、まさに主人公たちの創作作業がテンプル騎士団の末裔を作りあげてしまったことになる。
《「間違いなく、その陰謀は存在している。これまでの歴史は、その失われたメッセージを復元させるための血みどろの戦いの結果にほかならない。我々には彼らの姿が見えないのだから、彼らは誰にも気づかれずに我々のまわりを徘徊しているのに違いない」》

 何かについての物語をつくることがその存在を生む、という展開は、一見逆のような気がしても、書かれたものは存在してしまうという文章表現の素朴な原理(こことか参照)からすれば、ごくストレートな帰結ではないか。
 まるでこのことを説明するために書かれたようなエピソードを収めているのが『エーコの文学講義』である。

 これはエーコの講演をまとめたもので、小説をはじめとする物語の読み解きかたを教えてくれる本だ。物語論の入門書として類まれなくらい手際よく、しかも、そういった入門書から洩れがちな「そんなことを学ぶ理由」の説明として、エーコなりの信念が語られている。
 人間が生きていくうえではどうしたって現実を物語化する能力が必要になる。しかしいっぽう、粗雑な物語にもおそろしい力が宿りうる。14世紀に端を発するある物語は、手記や書簡、大衆小説、ゴシップ紙の中で徐々に形を整え、20世紀にいたり“シオンの議定書”として結実した。これがもたらした災厄たるや……という話だが、しかし、
《わたしたちは、小説の森を散策したおかげで、小説という虚構が現実の人生を侵食するメカニズムを理解することができたのです。 […] こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となりうるのです。》p202、太字は引用者

 人間はついに物語の外部には立てないのだから、せめて外部に立とうと努めることをやめてはならない、と、たぶんエーコはそういっている。物語論とは相対化の技法なのかもしれない。
 念のためいっておくと、エーコの真剣さは「すべては物語なんだよ」みたいなうつけた物言いの対極にある。なのにこの日記の文章は物語という語をひどく杜撰に使っており、エーコにはほんと申し訳ない。『エーコの文学講義』はとてもいい本なので読んでみてください。
 で、続く。
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エーコの文学講義―小説の森散策エーコの文学講義―小説の森散策
(1996/05)
ウンベルト・エーコ

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2004/03/31

エーコ『フーコーの振り子』の続き

フーコーの振り子〈下〉
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 陰謀を捏造するため資料の山にのめり込むうち、あちこちで偶然とも思えない符号があらわれて、本当に自分が秘密を「発見」しているのではないかとなかば信じはじめる『フーコーの振り子』の主人公には聡明な恋人がおり、愛ゆえに(←そう書いてある)真摯な反駁をしてくれる。これはかなり滋味深い主張だと思う。
《「人間というのはね、妊婦の体に触れる前に医者に手を消毒するよう忠告したゼンメルヴァイスを信用しなかったでしょ? 彼は単純明快なことを言ってたのにね。逆に、毛生え薬を売りつけるような連中の言葉はすぐに信用してしまうものなの。[…] それはね、眉唾な話ほど最も奇跡に似ているからで、いいこと、あなたたちの作り出した話は、この毛生え薬みたいなものだわ。わたしは嫌いよ」》下巻p383

「この毛生え薬みたいなものだわ」!

 フォントを大きくしたりしないところに感動を読み取っていただきたい。このセリフを信じて生きてゆこう。しかし、何かを信じる/信じないの選択がすでに物語の圏内にあることも、エーコは知りぬいている。以下、今度こそ次回。

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2004/03/31

ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(1988)


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フーコーの振り子〈上〉
藤村昌昭訳、文春文庫(上下、1999)

《関連性はどこにでも転がっている。ただそれを見つけ出そうという意欲さえあればいいのだ。》上巻p387

 きっと面白いと確信して買ったまま4年間放置していたが、いざ読んでみるとやはり面白い。しかしその面白さは予想していたのとちょっと違う。

 小さな出版社で一緒になった主人公たち三人の男は、無数の陰謀史観や神秘主義など、素人著述家たちが持ち込んでくるトンデモ原稿の山(「ムー」数十年分)に心底うんざりし、いっそ自分たちでそれらを繋ぎ合わせ、すべての謎を説明できる究極の説を編んでやろうと思いつく。
《「世界に現存するあらゆる秘密結社の年鑑をフランスから送ってもらったが、どうして秘密結社の年鑑が一般に公表されておるかということは訊かんように」》上巻p456

 かくて小説は、聖杯伝説やノストラダムス、占星術に占数術、カバラから地球空洞説その他のオカルト大集合といった様相を呈する。テンプル騎士団の残党が、ある『計画』に従い世界を支配しているという方向でこれらすべてを(そう、すべてを!)結び付けようと知恵をしぼる三人の推測は次第にエスカレートし、どんな事象も意味を隠した暗号となる。ミッキーの恋人がミニーであるのは何故なのか?
 ついに壮大な冗談として『計画』は完成するが、読者の期待を裏切ることなく、同時にこの『計画』にあらゆる点で合致する組織が三人の前に姿を現して、彼らに現実の危険が及ぶ。
 すべては作りごと、嘘だったはずだ。しかし事実が虚構に先行した以上、主人公たちは「秘密を暴いてしまった」のか。いや、そもそも秘密とは、それを解明しようとする行為によってはじめて生み出されるものではなかったか。

 これは、どんな陰謀も信じないために陰謀を捏造した者たちをめぐる物語である。計1100ページを越える120章に、意味を見出そうとする欲望、物語を作らずにいられない人間の心性が充満する。そしてここが何より興味深いのだが、開陳される陰謀のひとつひとつ、引用、ほのめかしの数かずがどこまでも深く読み込めるよう書かれているに違いないという確信のために、この長篇は猛烈に早く読める。いいかえれば、この物語はたえず読者を物語の外部に置こうとするのだ。
 であればこれは、物語からの解毒剤であるだろう。しかし困ったことに、解毒剤にさえ中毒できるのが物語の読者であることを、エーコは知りぬいている。以下次回。
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2004/03/31

メモ

目次


 青土社の「ユリイカ」2003年10月号は、「特集・煙草異論」とかいって喫煙者だけから原稿を募っているんだからご苦労様である。
 そのなかに「煙草・喫煙について気になること、心掛けることは?」というアンケートがあり、下は蓮實重彦の回答。
《喫煙について意識的になるのを避けるために、「気になること」や「心掛けること」は持たないことにしていますが、千代田区で吸ったわけではない吸い殻をわざわざ千代田区の歩道に捨ててまわるときなど、やはり何かを「心掛けている」のかも知れません。》

 これを読んで自分は笑い、コピーまでしてしまった(図書館だった)が、あらためて考えてみると難しい。

 おかしかったのはたぶん、書いてあることが大嘘だと思ったからだった。
 でも、はっきり「捨ててまわる」と書いてあるんだし、その通りに受け取ってもいいはずである。なのに嘘だと受け取ることもできるのはなぜか。拠りどころは「そんなことするやつはいない」といった常識、いわば文脈だろうか。
 しかし、根拠よりもその文章がもたらす結果のほうが不思議なので方向を変える。
 
 引用の内容が虚偽である(実際には捨てていない)ことはありうる。というか虚偽だろう。しかしながら、文章表現には「内容が虚偽かどうか」とは次元の違った効果があるのではないか。
 というのも、上の文章が書かれたことで、現実の蓮實重彦とは別に「千代田区に吸い殻を捨ててまわる蓮實」という存在が生まれていると思えてならないのである。
 読者と文章のあいだに、そんな存在が属する虚構のレベルがあるんじゃなかろうか。

 うまく書けないので他人に頼ろう。佐藤信夫の『レトリック感覚』によると、中原中也にこんな詩があるという。

《海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。》

 つまり人魚はいない。そういう内容だ。
 しかしこれが言葉である以上、読む者にとっては「いない人魚」がいる。
《人魚は、否定されることによって、〈そこにいない人魚〉として姿をあらわした。[…] その、発見された人魚は、無論いない。そして、いないものとして造形された人魚たちが、いなくなることによって、あとに「浪ばかり」が残ったのであった。》p315

 書かれてしまったものは、否定形の中でさえ存在する。さっきの例でいえば、蓮實が捨てているかどうかは問題ではない。
 そんな言葉のはたらきに足を取られると、その集積である小説はなかなか読み進めなくなる。考えすぎだろうか? いや、自分はまだ考えが足りないのだと思う。

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レトリック感覚 (講談社学術文庫)レトリック感覚 (講談社学術文庫)
(1992/06)
佐藤 信夫

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2004/03/31

『エーコの文学講義』続き


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 本題。
 全6回の講義の第5回で、エーコは、1982年のフォークランド紛争に際し、アルゼンチンの新聞が示した反応の記録を追う。

 新聞は「イギリスの原潜が近海に接近中」だとすっぱ抜くが、イギリス側はこれを風説としてしりぞける。翌日、新聞が原潜の詳細と人員数を掲載し、噂が徐々に具体的な情報をまとったニュースとなっても、イギリスは曖昧に明言を避ける。やがてアルゼンチン側には「沿岸で艦影が確認された」との報が入り、ヨーロッパのメディアも英軍の配備状況と情報隠匿についてさまざまな報道を行うようになる。
 ところが、最初のスクープから約1ヶ月が過ぎ、誰もが原潜の存在を信じて疑わなくなったころ明らかにされたのは、この間、当の原潜が一度もスコットランドを離れていなかったという事実だった。
 噂がひとり歩きしてどんどん成長していったこの物語を受け取る者すべてにとって、しかしそれでも、「やってくる原潜」は確かに存在していた。書かれたものは存在するのである。
《この話は、存在命題のもつ力を示しています。固有名詞や定義された描写を含む言説はどれも、そのなかであらかじめ告げられているなにかをもとに、受け手(読者もしくは聴衆)が実体の存在を疑問の余地のないものとみなすことを想定しているのです。》

《ひとたびマスメディアの言説によって、言説のなかに位置づけられると、潜水艦はそこに存在したのです。[…] 例の「イエロー・サブマリン」はマスメディアによって措定されたわけですが、措定されたとたん、だれもがその存在を疑う余地のないものとして受け止めたのでした。》pp142-4

「物語をつくる意志」を『フーコーの振り子』の中心としたとき、とうとうテンプル騎士団が本当に登場してしまう展開を、自分は支持する。こうでなくちゃ、と思う。しかし一方で、物語を編んだ主人公たちと同じレベルに騎士団が現れてしまうのは、「物語」と「その相対化」において、前者に力を入れすぎたようにも思う。
 完成されたエーコの物語とは別に妄言を続けると、騎士団の存在をあくまで可能性にとどめ、つまりは騎士団を主人公とは別の世界に属させて、なお小説としての結構を保たせるやりかたもあったのではないかと考えたくなる。

 というのも、“書かれたものは存在してしまう"原理を用い、テンプル騎士団並みに不可思議な秘密組織を作中に導き入れて、しかもその実在を最後まで宙吊りにしおおせた小説を、自分は知っているからだ。
 その作者の名はトマス・ピンチョン、問題の作品は『競売ナンバー49の叫び』という中篇である。
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