2014/10/04

「大怪獣東京に現わる」(1998)、「モンスターズ/地球外生命体」(2010)


■ 「大怪獣東京に現わる」(1998)

大怪獣 東京に現わる [DVD]
宮坂武志監督


 怪獣が出てこない怪獣映画として、名前だけは聞いたことがあった。今回見てみたら、思っていたのとはだいぶちがった。
 何というかわたしは、こう、「怪獣が出てこない→派手ではない」だろうというところから、「坦々とした日常が積み重ねられて、そのむこうに(映らないけど、たしかに)怪獣がいることになっている」――みたいな静かな映画を予想というか、勝手に期待していたんだけど、なかなかそうはなっていなかった。
 舞台は福井県。ある朝、家庭の主婦(桃井かおり)がお菓子をつまみながらテレビのワイドショーを見ていると、東京湾から全高八十メートルの怪獣が上陸してきたというニュースが流れる。半信半疑ながら報道によれば被害は拡大していくようで、それでも、福井から東京は遠いからまだ他人事のようにテレビを見ているのが一日目。
 ここから二日目、三日目…と進んでいくのだが、登場人物が桃井かおりのほかに浪人生とか、高校教師とか生徒とか、自分史を脱稿間近な老人とか妊娠がわかったばかりの若いカップルとか、水族館の職員とかたまたま福井にライブに来た売れないバンドとか、あとそうだ、怪獣上陸をチャンスとみた新興宗教家とかいった、たくさんの人が出てくる。オール福井で。

 これだけ人が多いと映画はドタバタするしかなくて(日常が怪獣の出現でドタバタするのではなく、最初からドタバタしている)、そうなると「日常のむこうに怪獣」とは反対の方向をむいてしまう。
「怪獣が出てこない怪獣映画」の、“怪獣が出てこない”の部分をコメディで乗り切ろうとしたようなんだけど、その選択だとかえってハードルは上がるんだなあと、いま書いてみたらすごく当たり前のことを、見ながら思った。
 怪獣の進路は地図の上の矢印だけで示されるが、それをいいことにまったく地図の上でしかありえない、都合のいい動きかたをするのも残念で、舞台が福井であることが致命的に重要になる展開を後半では選んでるのだから、地理的な移動は真面目にやらないといけなかったのではないか(そうするとタイトルに「東京に現わる」を付けたかったのがそもそもの間違いということになる…)。
 予想(期待)と実物がちがったとき、責任の半分はこちら側にある。わたしも悪かった。なお、桃井かおり家の姑の行動だけはよかったと思う(忙しいときに墓参りに行く。避難に際して、豆を持っていきたがる)。


 台風だったり大雪だったりといった災害報道のリアルさを、「それがリアルなのは、それが現実に起こっていることだから」という事実とは別な方向から組み立てようとするフィクションがわたしは見たいと思う。



■ 「モンスターズ/地球外生命体」(2010)

モンスターズ / 地球外生命体 [DVD]
ギャレス・エドワーズ監督


 怪獣が(あんまり)出てこない怪獣映画を、あの「GODZILLA ゴジラ」(2014)の監督が前に作っていたんだよ、と教えてもらったので見てみた。
 これはよかった。とても面白い。
 地球外生命体のサンプルを積んできたNASAの探査機が帰り際にメキシコへ落ちてしまい、そこから繁殖した生物を閉じ込めるため一帯が封鎖された。季節によって移動をはじめる生物(怪獣)の群れをそのたびに軍隊が爆撃などして押しとどめる攻防がもう六年も続いている、と一息に説明して映画は始まる。なかなか強引。
 事情によりこの土地でたまたま一緒になったアメリカ人の男女が、いちばん危険な地域(メキシコの北半分)を陸路で抜け、国境および物理的にそびえ立つ壁を越えてアメリカに帰ろうとするのがあらすじ。
 始まりかたの強引さと裏腹に、メキシコの現地の人たちにとってはこの状況が日常、という描写に時間と画面の多くを費しているおかげで、この状況が怪獣によるものであってもなくても、このアメリカ人男は同じように功名心にはやり、同じように酔っぱらってアメリカ人女に絡み、アメリカ人女のほうも同じように困った笑顔でかわし続け、現地人もまた同じように旅費をぼろうとするんだろうな、とこちらに思わせる地続き感がある。
 ということは、つまり、「画面にはそんなに出てこないけど、背後には怪獣がいる」という設定を念入りに敷きつめたために、かえってその設定の必然性が薄くなっている(背後に怪獣がいてもいなくても人のふるまいは同じなんじゃないの、的な気配が漂う)わけだけど、この逆説こそめざしたものなのだろうから、この映画の場合は勲章なんじゃないかとわたしは思った。
 ただ、メキシコの日常じたいがわたしにとっては異世界なので、この映画の写し取るそれが「日常っぽい」と言っていいのか本当は留保がいるはずで、それはこの映画の舞台が近未来で現代ではないこととは関係なく残る留保だ。
 とくに、「これはほんとにメキシコなのか。アマゾンじゃないのか」みたいな川をボートでさかのぼるあたりは、怪獣映画というよりも、何か伝染病がアウトブレイクしている映画だったり、はたまた「地獄の黙示録」のミニチュアだったりに見えるようになっており、「あれ、怪獣映画は…?」とこちらがハラハラさせられる。
 ところが、「こんなにきれいに映している朝焼けは、怪獣映画であることにつながるのかな、つながらないのかな…」というわたしの心配が、「こうしているあいだにも何か得体の知れないものが近づいてきているのかな、そうではないのかな…」という登場人物の不安にうまく重なって、どう考えても確実に映画の緊張感を高めるのに寄与していたりするから何が幸いするのかよくわからない。

 そして、書いてしまうと、問題の怪獣は「あんまり出てこない」どころか、「巨大な蛸が直立して歩いてるようなやつ(脚は八本よりずっと多い)」だとわかる程度には映る場面もある。というか、やや映りすぎでさえある。
 いまにして思えばだけど、「“いる”ことになっている怪獣がなかなか出てこない→最後にちょっと出る」、というこの映画の引っぱりかたは、「“いる”ことになっている怪獣がなかなか、なかなか出てこない→満を持して、中盤から大々的に出る」、という「ゴジラ」の引っぱりかたの予行演習にも見えて、なるほどと思った。

 最初は軽く反目していた男女が危険な状況を命からがら切り抜けていく過程で、男のほうから「じつは」と打ち明ける話題はやっぱり「会えなくなってしまった実子」でないといけないのだろうか、という一抹の疑問を残しつつ、ショートカットのヒロインの前髪が顔にくっきりした影を落とすのをずっと見ていたかった。そういうところから、好きな映画でした。
スポンサーサイト
2014/09/28

「宇宙人東京に現わる」(1956)、 「地球の静止する日」(1951)


■ 「宇宙人東京に現わる」(1956)

宇宙人東京に現わる [DVD]
島耕二監督

「日本が原水爆の廃止を叫んだところでどうなるものですか…」
「どうにもならないことも知っています」

 わたしは借りてくるまで知らなかったんだけど、1956年公開のこの作品は、日本初のカラーSF映画なのだそうである。特撮とかまったく疎いので、申し訳ない気持で正座して見た。これを見るべき人はほかにいる。でもそういう人はみんな見てるのか。

 空飛ぶ円盤の目撃情報が相次ぐ東京。天文台のトップや物理学者といった科学者たちの身辺も慌ただしくなっていた。加えて、巨大なヒトデ形の生物があちこちで目撃されてそのたびに悲鳴が飛び交う。
 じつは、パイラという遠い星の宇宙人が地球の人類とのコンタクトを求めてやってきたのだった。そのパイラ人が主張するのには、

・地球人が原水爆を作るようになったのがわかったので「平和利用しないと地球は壊滅します」と警告する
・原水爆より危険な“ウリウム101”を発見した科学者に「ダメ。ゼッタイ。使うと地球が壊滅します」と破棄を迫る
・「新天体“R”なる星が、地球に衝突する軌道で接近中。このままだと地球は壊滅します」と教える

と、三つもあるのでなんとも壊滅しやすい地球だった。彼らパイラ人によると、世界中の原水爆ぜんぶをまとめて新天体“R”にぶつければ、あるいは危機を回避できるかもしれない。どうなる日本、どうする世界――
 面白いのは、パイラ人とやりとりして奔走するこの映画の主人公が壮年の科学者三人とその部下・家族であることで、“世界会議”に働きかけるのも、マスコミへの発表も、彼らが手弁当でやっている。だいたいパイラ人のほうでも頼りにしているのは最初から最後まで科学者たちで、この映画を見るかぎり、日本政府は存在してない。
 そんな市井の生活者たちを通し、とくにパニックが起きるまえの前半では、昭和三十年代初頭の生活もカラーでうかがえるのが見どころである。家族ぐるみでハハハ、ホホホ、とピクニックに行ったりしますからね。
 もっとも、見ているわたしはあらゆることに疎いので、「映像がカラー」というだけで時代の距離感がつかめずとまどった。たとえば中盤、いよいよ地球壊滅の危機が迫るので東京から疎開しよう、という謎展開があるのだが、子供はともかく、役者やエキストラの大人たちは演じながら十年ちょっと前を思い出していないはずがなく、それってどういう気持なんだろう、ていうか十年ちょっとで生活はこうなっているのか、十年という時間の長さと短さよ、でもこういうのはみんなただの安易なおもんぱかりだろうか、などなどを思った。安易であることだけは間違いない。
 とはいえ、何より鮮烈な印象を残すのはパイラ人のフォルムで、彼らはなんとか日本人に怖がられずに接触しようと、自分たちの美意識から外れることはなはだしいのに、耐えがたきを耐えて日本人に変身してくれた。宇宙道徳にのっとる優しい彼らの困惑と嘆息を忘れない。ありがとうパイラ人。ありがとう。
「彼等は我々パイラ人を醜いと云うのか それ程彼等は美しいのか?」
「これが美人か? 顔の真中にこんな出っ張りがあるではないか?」

 だからといって、いきなりトップ女優を手本に変身して無用な混乱を引き起こさなくてもいいような気はした。宇宙人東京に現わる。何事にも中庸を知らないパイラ人が、東京に現われたのだった。



■ 「地球の静止する日」(1951)

地球の静止する日 [DVD]
ロバート・ワイズ監督

「首府では皆が注目していますがパニックの兆候はありません」

 時速六四〇〇キロで飛来した円盤がワシントンに着陸する。軍隊と野次馬が取り囲み、固唾をのんで見守ること二時間、ついに円盤の中から現われた宇宙人は、地球人全員に伝えねばならないメッセージを持ってきていた――ということで、こちらも初見。それにしたって二時間も何をしていたのだろう(この映画本編より長い)。

 続けて見てるのでどうしても「宇宙人東京に現わる」と比べてしまうが、いちばんのちがいは「宇宙人が人間型(アメリカ人と区別つかない)」というところで、パイラ人を見たあとの目には、いったいなぜこれでOKということになるのか不思議でならない。OKじゃないかも…と疑いをはさむことさえ許さない確信が全編を貫いている。そしてこちらではちゃんと軍隊が出動し、大統領補佐官が交渉にあたるのだけど、そういう展開だって一種の確信あってこそだと思う。
 確信といえば、クラトゥという名のこの宇宙人は、補佐官が「いまの世界には悪質な勢力があって…」などと国際情勢を説明しようとするのに「君らのような愚劣さを我々は卒業した」と切って捨てるほどの確信と、地球人をはるかに超越した知性をもって行動するのだが、いっぽうでふつうの家庭生活にもぐり込み、アーリントン墓地に連れて行かれれば戦没者の墓にショックを受けるし、リンカーンの碑を読んで「こういう立派な人と話してみたかった」などと感想を洩らすのだから、遅れた世界の一国に感化される内面だって持ち合わせているようで、いろいろ複雑な御仁である。というか、感化してやろうというつもりもないのに的確にそんなところへ連れていったアメリカ人少年が末恐ろしい。彼もまた確信のもと呼吸して成長している。
 テルミンの音色とともにゆっくりと動くロボットのシーンが有名だけど、こちらの映画も、背景の生活に「へえ」と思わされることが多かった。家族で白黒のテレビを見るときは部屋の照明を消しているとか、そのテレビの中のキャスターが帽子をかぶったまま喋るとか。映画の外もやはりこうだったのだろうか。気になる。


 ○ ○ ○

 それにしても、「宇宙人東京に現わる」にしても「地球の静止する日」にしても、なんてすばらしいタイトルだろう。文字の並びを眺めていると、かっこよくてため息が出る。
2014/09/16

「クローバーフィールド」(2008)、「クロニクル」(2012)


■ 「クローバーフィールド」(2008)

クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
マット・リーヴス監督

 (なんだかよくわからないが)ニューヨークの一室で若者たちがパーティーを開いて(なんだかよくわからないが)男女関係がもつれたりしていると、(なんだかよくわからないが)外に巨大な怪獣が現われて(なんだかよくわからないが)盛大に破壊の限りをつくし、(なんだかよくわからないが)軍隊が出動して応戦する夜から朝までを、一般人の回していた一台のビデオカメラが記録していた。(なんだかよくわからないが)それがこの映像である――ということになっている映画。
 カメラを任されているのが、若者でいるあいだは人気者になれないだろうタイプの男(そこはよくわかる)なのが切ない。でもそれ以外はとてもよかった。

 一人称カメラは“そういう設定”であるだけなので、あちこちの都合よすぎる撮り方に「都合よすぎる」といった不満は特にわかないし、リアルっぽくしようと工夫を凝らせば凝らすほど、その作為のために画面はますます作りものめいて見えてくるという倒錯が楽しい。ここでは、リアル感と作りもの感が同じものである。「がんばれ作りもの!あと俳優!」と声援を送らずにいられない。
 いや、そんなことではなくて、とてもよかったのは「なんだかよくわからない」まま始まって「なんだかよくわからない」まま進み、「なんだかよくわからない」まま終わることだった。これはネタバレではない。
 
 この映画を見てみようと思ったのは、2014年9月7日(日)にあった『モンスターズ』(B・J・ホラーズ編、白水社)刊行記念の古屋美登里×岸本佐知子トークショー(@紀伊國屋書店新宿本店)で岸本さんが名前を挙げていたからだった。
 もし本当に怪獣があらわれたら、イケてる者もそうでない者もみんな等しくこんなふうにわけのわからないまま右往左往し、騒いで逃げて転んで迷って泣いて叫んで、つまりなんにもできずにオロオロするだけだろう、「そこがすごくいい」みたいなお話だった(わたしの記憶によります)。
 これはまさにそういう映画で、ときおりギョッとする瞬間もあるしそういう方向を狙って作られているのだろうに、見終えるとたいへん穏やかな気持になっている自分がいた。
 ずっと前に見た、同じような趣向の「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)だと、カメラに撮られている数名がそれぞれヒステリックに叫ぶだけでひどく神経にこたえ、最後まで見るのが辛かったのとはぜんぜんちがった。
 大勢の群衆の全員が(そう、一人残らず全員が)等しなみにゼロになるという状況にはどうしてこんなに心が安らぐのか。それは映画の作りではなく、見る側の問題なのかもしれない。ひとまず、作りものってすばらしい。

 あともうひとつ、「あの橋を渡ってどこどこへ逃げよう」とか「あの子のアパートは○番街だから地下鉄の路線ならこのへんで」みたいなご当地感が満載なので、ニューヨークの地理のわかる人がうらやましくなった。こんな羨望は、たとえばウディ・アレンの映画を見てもおぼえないと思う。
 なお、作中に「今日は5月23日土曜日」との発言があるので舞台は2009年のはずで、公開年からすると未来を描いていた模様。


■ 「クロニクル」(2012)

クロニクル [DVD]
ジョシュ・トランク監督

 毎日がパッとせず、辛いことは山盛り、これっぽっちも楽しくなくて、ついにビデオカメラによる自分撮りにまで手を染めてしまった(「生活のすべてを記録するんだ…」とか言っちゃう)高校生のアンドリュー君とあと二人が、ひょんなことから超能力を手に入れる。トレーニングで力を強めていく過程と引き起こされるスペクタクルが、彼ら当事者の撮影した映像と、実際にその場に居合わせたカメラ(防犯カメラとか他人のスマホとか)の記録した映像の切り貼りで構成されている――ということになっている映画。
 でも問題はそういう画面の設定(カメラが複数なので一人称ではないけれど、広く“found footage”というジャンルにくくられるらしい。なるほど「本物の映像もの」ということでしょうか)ではなく、アメリカの高校生活のおそろしさだった。
 弱肉強食のパーティー。車で通学。明朗快活で人望のある生徒は政治家志望を公言してはばからない。タレントショー。自分が魅力的だとわかっている女子。こっちの名前とカバンを知っている不良。またパーティー。おそろしいったらない。これはクロニクルというよりアポカリプスなんじゃないか。
 中盤でアンドリュー君にあることをする(未遂)モニカの罪は、その後、鳥山明と大友克洋の両先生がなぜかシアトルで戦う展開を見るにつけ、あまりに重いと言わざるをえない。街をあんなことにした責任の一端は、何の超能力も持たないはずのあの女子にある。
 それとあと、アンドリュー君の父親(元消防士。保険金で酒浸り)がひどい男なのは間違いないが、一途にひどいのか、ひどいところにプラスしてそうじゃないところも同居していると言えるのか、判断つけにくいのがかえってよかった。
 どうでもいいけど、“地面にあいた、深そうな謎の穴に入ってみる”のに際して、プラトンの洞窟の比喩を連想する人間はふつういないと思います。
 獲得した超能力を駆使して巧みに自分撮りをするアンドリュー君の、笑えて悲しい表情が印象的だった。

 ○  ○  ○

 手持ちカメラっぽい映像を装った映画というのはどんなふうになっているのだろうという関心で、その点が公開時に話題になっていた映画を二本続けて見たのに、得られた教訓は「パーティーが災害の始まり」。知ってた。それ、知ってた。
2012/11/09

想田和弘「演劇1」「演劇2」(2012)



 観察映画という手法でドキュメンタリーを撮る想田和弘監督が、劇作家の平田オリザと、氏の主宰する劇団・青年団を追った映画2部作を見た。
 計5時間42分。その1秒も退屈しなかったということを書いておきたい。
 もっとも、かっこいい公式サイトがここにあって、映画の紹介もじつに面白そうにされているから、以下に綴るのは2012年11月3日(土)に渋谷のイメージフォーラムで、12時45分から夜7時過ぎまで夢中になってスクリーンを見ていた人間の翻弄されっぷりである。

 まず私は演劇に疎いし、青年団の公演も観たことがなかった。平田オリザの名前は知っていても、「なんか口語で、まったく日常みたいに見える演劇をやっている人」くらいの印象しかなかった。
「あれはめちゃめちゃ稽古して、“作ってある”自然さなんです」と友達に教えてもらったのはつい先週のことで、あとは「たくさん本を出している」とか、「とても文化事業な人」、みたいなイメージだった。そんな形容詞があるものか。

 このような門外漢が「演劇1」を見始めて、冒頭の稽古の場面、役者への直しの細かさと、仮眠をとる寝付きと目覚めというOFF/ON切替えの、異様なすんなり具合に思わず笑った時点で早くも映画に引き込まれており、以後6時間弱、スクリーンに映る多種多様な平田オリザを見続けた。この「敷居のなさ」に、かえすがえすも興奮する。すんなり、かつ大胆。

 そこには稽古をする平田オリザがいて、稽古を続ける平田オリザがいた。まだまだ稽古させる平田オリザ、役者をビデオの巻き戻し・早送りみたいに操り微調整を繰り返す平田オリザ、声は柔らかいのに指示は機械のように正確な平田オリザ、立て板に水の平田オリザ、帳簿の数字とにらめっこする平田オリザ、領収書を仕分ける平田オリザ、サンドイッチを囓る平田オリザ、スタッフの面接をする平田オリザ、夕暮れ時に散髪してもらう平田オリザ、ワークショップで練習させている間に自分の戯曲を書き進める平田オリザ、猛烈に忙しそうな平田オリザ、でも話す相手の返事はじっと待つ平田オリザ、「アスリート?」と驚く平田オリザ、「文脈がわからないなあ」と叱る平田オリザ、旅程を伝える平田オリザ、バスで移動する平田オリザ、舞台の「テーブルを10センチ…は無理だな、7・8センチ前に」と注文する平田オリザ、名刺交換する平田オリザ、コンビニおにぎりを食べる平田オリザ、講演する平田オリザ、「ウィー ドント ハブ サッチ アクター」と答える平田オリザ、中学生をほめる平田オリザ、「半信半疑」と顔に書いてある学校教師数十人のガードをいちどに解錠する平田オリザ、民主党の議員と談笑する平田オリザ、「0.3秒長く」と稽古する平田オリザ、市長に著書を渡す平田オリザ、ラスクを食べる平田オリザ、電車で移動する平田オリザ、乾杯する平田オリザ、ロボットに稽古をつける平田オリザ(人間の時と変わりない!)、うけたギャグを別の相手に繰り返す平田オリザ、助成金を申請する平田オリザ、飛行機で移動する平田オリザ、パンをちぎる平田オリザ、フランス人と稽古する平田オリザ、役者のギャラの根拠を明示するよう粘る平田オリザ、そしてまた稽古する平田オリザ、眠り込む平田オリザ、エトセトラ、エトセトラ、平田オリザ……(順不同)

 こういったすべてを撮影している監督の側から、平田オリザをはじめ、撮っている対象に向かって質問を発することはほとんどない。いま思い出せるのは、「演劇1」のはじめのほうで男の役者数人に稽古について訊くやりとりと、「演劇2」の後半、女の役者にフランス語のことを尋ねるくだりだけである。ナレーションや字幕は、外国語の翻訳を除き、一切ない。カメラはそこで起きていることの観察にほぼ徹している。
 あれだけいろんな平田オリザが出てくるのは、そのような手法からくる結果でもあった。観察映画は長くなる。
 そのいっぽう、テレビなどほかの取材の人間が直接平田オリザに質問して答えをもらう様子も撮っているから、「そのような取材の様子まで撮っている」観察っぷりはいっそう際立つことになる。
 とくに「演劇2」の最初、中学生にカメラとマイクを押しつけるクルーの姿を映すことで、こちらのカメラの独特さが浮かび上がり、しかも、その受け答えをちゃっかり「利用している」ふうなのには舌を巻いた。観察映画は使えるものは何でも使う。

 かといって、だからこの映画には対象の「自然体」であるとか「生」の姿だったり「素」のふるまいが記録されているのかというと、そんな単純にはいかないよね、というのがたぶん映画のスタート地点なのだろうし、「そんなはずがないでしょう(笑)」ということをにこやかに、しかし力強く、身をもって示しているのが被写体(主演)の平田オリザ当人であるだろう。映画は編集が入るから、という以前、素材である人間なるものが「そうではない」。
《We are what we pretend to be, so we must be careful what we pretend to be.

われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない。
(飛田茂雄訳)

 これはカート・ヴォネガットが自分の初期作『母なる夜』(1961)に、あとから付け足した序文にある有名なフレーズだ。
 第二次大戦中にナチスに潜り込み、ヒトラーの対米宣伝要員のふりをしてアメリカへ情報を送り続けた男が、戦後になると他人に正体をあかし立てる証拠が何ひとつ残っておらず、本当のナチス協力者と区別が付かなくなってしまう状況を描いたこの小説には、白水uブックス版ハヤカワ文庫版の2種類の翻訳があるが、序文がついているのは後者だけだったはず。
 他人から「そう見える」なら、じじつ彼は「そういうもの」である。ヴォネガットが苦い諧謔と共にフィクションに埋め込んだ教訓を(少なくともその前半部分を)、一片のアイロニーも含まない身も蓋もない事実として、しかも実人生に適用可能な技術として、平田オリザはさまざまな場所でさまざまな相手に向かい、繰り返し説いている。「人間とは“演じる生き物”であり、あるのはペルソナだけだ
(映画の中でこんな断言調で語ることは決してなかったけれども)

 それでは、いまカメラが撮っているのも、じつは平田オリザを演じる平田オリザということになるのだろうか。でも、平田オリザを演じる平田オリザ以外に平田オリザがいないなら、「演じる」の意味も変わってくるのではないか。そこは「演じる」で保持するのか。稽古を続ける役者は、役者であることを演じながら役者としての演技をカメラに見せるから、「演じる」の2乗という状態になるのか、カメラの存在を意識していないならそうはならないのか。でも、意識していないのと意識していないふりのちがいはどうなるのか。そもそもこんな考えは全然まちがっているのか。観察映画はややこしい。
 そんな複雑な、ときどき複雑すぎてむしろストレートに見えてくることもある複雑な状況に頭がかき回される面白さ(自分はいま何を見ているのか)と、ただ単純に、映っている出来事や、語られている言葉が面白い(つい声を出して笑う)、という面白さがつねに一緒にあった。
 何かもっともらしい理屈を重ねようとしても、そういうことはそのつど目の前で展開される映像の面白さに押し流される。でも何か言いたくなる。押し流される。そこがいちばんスリリングだった。

 そして、ひたすら平田オリザが映される映画ではあっても、思い返すと意外なくらい、平田オリザ以外のものも映っていた。なぜか? 監督が「面白い」と判断したからだろう。そしてそれらはじっさい面白いのである。何かひどく幼稚な書き方になっているけれども心配はいらない。
 青年団の役者のストレッチも、稽古の合間に突如はじまる歌も、舞台装置が徐々に組み上がっていく経過が長々と映されるのも、照明を細かく調節する様子も、そのぜんぶが面白かった。
 劇団さえ離れて、岡山の図書館の前を掃除している人や、大阪のどこかの重たいガラスドアを拭きながら次第に笑顔になっていく男性も、田んぼで手際よく稲を刈っては束ねていく老人なんかも、この“平田オリザと青年団を追ったドキュメンタリー”の中に収められている。そこもよかった。観察映画には「作業」への興味と敬意があふれている。
 さらについでに言うと、もともと音楽のついていないこの映画の中で、映っている人たちが沈黙するだけではなく一切の音声が途切れる完全に無音のシーンがたしか「演劇1」では4回あり(「演劇2」は数えるの忘れた)、「そこで音をなくすのか!」と納得できるところと、「なぜそこで!?」と驚くところの両方があるのも面白かった。

 で、最後に話を戻すと、演じることと日常生活(日常で演じること?)の重なり具合が最高潮に達する場面は「演劇1」の終わりにあった。
 一種のネタバレになるのはもったいないので詳述できないが、見ているこっちまで次第に緊張して口から心臓が出そうになるその場面では、こまばアゴラ劇場の日常のなか、平田オリザも青年団の人びとも全員が演技をしているのに、芝居を演じながら(それは稽古の場面だと言える)また別の演技へとねじれることで演技が日常に戻ったようにも見えて(それは稽古の場面ではないとも言える)、おかしな状況が現出する。
 役柄を演じる姿が演じられているのか、たんに演じているのか、ただの日常があったのか、いや、正しくはそこまでずっと語られていた、日常と演技の切っても切れなさが全員によって生きられていて――
 言葉だけをいじっても追いつかないくらいおかしな様相を呈するその場面を「おかしなもの」として受け取ることができるようになったのは、そこまでの観察をえんえん見続けたおかげであり、それでいてその十数分は、映画館の客席にクスクスどころかゲラゲラ笑いが渦巻く十数分でもあった。観察映画は、積み重なる。
 あの場面がなぜあんなに面白かったのか。その謎の多幸感。見に行って本当によかった。

「演劇1」「演劇2」は、見ている私に5時間42分の長さをたしかに5時間42分として体感させながら(腰痛)、それでももっと見ていたくなる、そしてあそこも面白い、こちらも面白いといつまでも言い続けられる、その意味で無限に面白い映画だった。
 こういうものとは別の種類の面白さもあるのは知っているが、だけどこういう面白さもたしかにあるんだと言い張りたい。できればもう一度見に行きたい。

 ……言い張るも何も、すでにたくさんの人が面白がっているおかげで私なんかもこの映画の存在を知ったわけですが。


■ 公式サイト内にある、内田樹の評:

・「平田オリザの笑顔 あるいは法外な過激さについて


■ 映画を見たあとに聞いて面白かった:

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」(ポッドキャスト)
10/13 サタデーナイトラボ「映画『演劇』想田監督×平田オリザ」【前編】
10/13 サタデーナイトラボ「映画『演劇』想田監督×平田オリザ」【後編】
 (【後編】ではゲストに監督のみならず、平田オリザが来てしまう


■ 映画を見たあとに読んで面白かった:
 (「演劇1」のクライマックスに触れてたりするので注意されたい)

neoneo web 【Interview】
演劇1』『演劇2』想田和弘監督 12,000字インタビュー text 萩野亮

Realtokyo Interview
076:想田和弘さん(『演劇1』『演劇2』監督・製作・撮影・編集)【前編】(聞き手:福嶋真砂代)
077:想田和弘さん(『演劇1』『演劇2』監督・製作・撮影・編集)【後編】(聞き手:福嶋真砂代)

MANMO.TV
#463 演劇1・演劇2 ~想田和弘監督インタビュー その1~(多賀谷浩子)
#464 演劇1・演劇2 ~想田和弘監督インタビュー その2~(多賀谷浩子)


 どれも「長い」のがいい。まとめて読むと、同じ話が繰り返される部分も多々あり、それがまたこの映画にふさわしいように思われた。
 それにしても、アンドロイド版『三人姉妹』なるものも見たかったと悔しくなることしきり。 ↓この本はこれからきっと読む。


演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか
(2012/10/20)
想田 和弘

商品詳細を見る
2009/02/14

(1) 映画「幻影師アイゼンハイム」(2006)

幻影師 アイゼンハイム [DVD]
ニール・バーガー監督


 先日、TSUTAYAで借りて見た(→公式サイト)。
 スティーヴン・ミルハウザーの短篇「幻影師、アイゼンハイム」(『バーナム博物館』に所収)を原作にしたもので、「別物になっている、それも、私の苦手な恋愛ものになっている」のをおそれるあまり、去年の劇場公開時には見に行けなかった。
 おそるおそるDVDを再生してみると、「主人公が幻影師」というところはそのままに、原作のうしろにある舞台設定を前に出し、原作に出てこない登場人物をつけたして、原作に出てくる登場人物にも原作にない過去を加え、原作に出てこない事件と原作に出てこない展開を積み重ねる、つまりはぜんぜん別物だったから、かえってふつうに見ることができた。ラストには「なるほど」とおどろいた。
 しかし別物であっても「それはどうか」と思ったのは、「奇術をCGで表現してしまう」ことだった。

 原作は――って、やっぱり原作の話になるのだが――世紀末のウィーンに現れた奇術師が、怪しく物憂げな雰囲気のなか、無い物を在るように見せる幻影の技を高めに高め、徐々に徐々に、生物には越えられないはずの境へ接近してゆく過程を描いたもので、早い段階からそこに不穏さをかんじとった観客の熱狂は次第に激しくなり、たかが一奇術師を相手に警察が動き出す。警察の仕事が社会の風紀と秩序を守ることだとすれば、それはたしかに正当な反応だった。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。》(強調は私)

 そんなわけだから、幻影師の性格はぜんぜんちがっても、映画でも奇術は行われる。何度も、何種類も、行われる。それが多くの場合、「はいCGで作りました」とすぐわかるCGなのだった。なんだか画面から浮いて見えるし、質感もちがう。
 とはいえ、CGだからがっかりする、というのも不思議な反応である。
 舞台上で主人公が鉢に種を植えると、すぐに芽が出てすくすくと伸び、葉を茂らせ実をつける、葉群からは蝶が飛んで出る、なんていう奇術は、作中ではじつは機械仕掛けということになっているが、そんな精妙な機械を実際に作れるはずはないから、CGを使って映像にするのがいちばんいいやりかただったんだろうと思う。
 それなのに、画面を見るとどうにも白けてしまう。
 そして、これがCG以前の特殊撮影技術や、あるいは手の込んだ小道具で表現されていたとしたら、たとえそちらのほうがCGに較べて数段ちゃちなものであったとしても(確実にそうなる)、たぶん私は、ここまで「何だかなあ」とはかんじなかったと思うのだ。
「はいCGで作りました」から来る失望は、ことのほか大きい。CGを作るのだって地道な創意工夫の積み重ねだろうに、そして、そこに費やされた膨大な手間ひまを想像できないわけではないのに、これはいったいなぜなのか。

 私はCGに詳しくないし、そもそも映画もそんなに見ていないのだけど(あるいは、詳しくなくて見ていないからこそ)、きっとCGは万能なんだと信じている節がある。なんでも表現できる、なんでも映像にできる。いまはちゃちな出来になってしまう表現でも、いずれ技術が向上して、本物と寸分たがわない映像にできるのはまちがいない、と思っている。
 そしておそらく、なんでも表現できる(と思っている)ために、CGに対して、なんだか気持が冷めるのである。「だって何でもできるんでしょ、何でもできるものが何でもできたからといって、だから何」。こう書いてみると勝手だが。
 だから、完璧に画面に馴染み、ほかのものとまったく同じ質感を伝えるCGができたとしても、それでも「完璧なCGだから、つまんない」という感想を抱く気がする。

 でもこれも、もう少し考えてみないといけない。
 まず、「完璧に風景の一部と化して、CGと気付かないCG」に対しては、そのような否定的な気持は生まれるはずがない。気付かないんだから。だからそれはそれでいい。「いい」という判断も謎だが。
 では、実写をベースとする映像のなかで、「自分の目ではCGだとわからないが、それ以外の方法ではありえないと思われるので、CGだと判断される映像」には、どんなによくできていても、白けてしまう、ということだろうか。
 しかし、なんだかんだいっても派手な爆発やゴージャスな絵づくりは、少なくとも見ているあいだは、無条件に楽しい(そういう一部分だけを、全篇がCGでできているアニメに近いものとして見ている)。
 そういう問題ではなくて、どうやら自分のなかに、「CGで描いちゃだめなんじゃないか」と思っている対象が、あるようなのだ。
 まわりくどくなってきたが、私が抵抗をおぼえるのは、「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事を、あっさりCGで画面の上に現出させてしまう」こと、のようである。
「あっさり」というのはCGを作る労力を無視して言っているのではなくて、CGで現出させる、というやりかたじたいに対する印象だ。
 そして、まさにその「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事」なのだ、“奇術による幻影”は。

 奇術が「現実には存在しないものを、現実に存在するものを使って、存在するかのように見せる」技だとすれば、真ん中を抜かして、画面上に「現実には存在しないものを、存在するかのように見せる」ことができるCGは、やっぱり奇術ではない。
 それなのに、奇術を使ったのと同じ幻影をCGが作り出せるようになったら、そのときCGは、奇術を十全に表現するというよりも、奇術を殺すことになるんじゃないだろうか。
 いや、何か大げさすぎた。言い直す。
 CGを使った映像表現は現代の奇術ということになるんだろうけど、その奇術と幻影師の奇術は、別の種類のものである。「幻影師の奇術」の表現としてCGが使われ、両者が画面の上で同じものになってしまうことに、私は抵抗をおぼえる。
 だって、俳優がじっさいに奇術を演じているのを写したのではないとわかっている以上、どんな方法を使っているにしても、画面上の奇術は、奇術ならぬ「奇術の真似事」だ、という前提で私はそれを見ているのである。だから奇術は「奇術の真似」どまりでいい。奇術を見せてほしいと思っていたら、映画館じゃなく奇術のショーに行く。
 逆に、区別がつかなくちゃ、「おお、奇術を奇術じゃない方法でがんばって表現している」と思えなくちゃ、私は感激できないようなのだ。そんな予感がする。感激はしたい。これはわがまままだろうか?
 これから先、奇術と区別がつかないCGが出てきたら、私は逆に「奇術じゃないのに奇術の顔をしているCGって何様だ」と腹を立てるように思う。
 というかそうなったら、目の前の映像が本物の奇術を写したものなのか、CGでで作ったものなのか区別がつかないわけだから、ものすごく焦ると思う。これもわがままだろうか?
 そんな私は、やっぱり奇術ショーに行くべきなのかもしれない。
 (だけど私は、奇術が見たいだなんて一言もいっていないのである!)

 ――と書いてきて、まったく意外なことに気がついた。いま私の心をざわつかせているさざ波を、「つけるべき区別がつかなくなってしまう」ことに対する困惑と警戒だとすれば、それは短篇「幻影師、アイゼンハイム」のなかで、奇術師の技によってせせら笑われる、国家に忠実な警察署長の困惑と警戒に、気持悪いくらいうまく重なるようなのである。先にした引用を、今度はその続きも加えて、もういちど貼ってみる。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。要するにウール署長は、宇宙の根本を揺るがしたといってアイゼンハイムを非難したわけである。アイゼンハイムは現実の土台を揺さぶったのであり、その結果それよりさらにずっと悪質な行為を行ったのだ――すなわち、帝国を転覆せんとしたのである。なぜなら、ひとたび境界という理念が曖昧で不確かなものになってしまったら、帝国はいったいどうなってしまうのか?》(強調は私)

 小説を読んでいて、感激したりおどろいたりすることはよくあるが、動揺するのはめずらしい。




バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
(2002/08)
スティーヴン ミルハウザー

商品詳細を見る
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。