趣味は引用
ジョン・ディリンジャーの場合
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)


■ トマス・ピンチョン『重力の虹』(1973)の新潮社・佐藤良明訳(2014)を読んでいると、何が書いてあるのかよくわからないのに「おぉ…」と感じ入るためしばらく立ち止まってしまう部分が次から次に何十と出てくる。そういう部分はこの大長篇を読み返すほどに、それもゆっくり読むほどにゆらゆらと増殖するのはまちがいないが、そのうち第四部の一場面を以下に引用したい。
 場所は下巻の後半でかなり終わりに近く、何がどうしてどうなってここにいたったのかを説明しようとすると、この記事の全文章量より多い文字数が必要になるので省略する。

・ある男(ピッグ・ボーディーン)が、ほかの男(タイローン・スロースロップ)に、大切な布切れを渡そうとしている。
・その布切れは、伝説の犯罪者ジョン・ディリンジャーがFBIに撃ち殺されたとき、彼の体から流れ出た血を吸い取った布切れであるとピッグ・ボーディーンは言っている。おれはその場にいたんだ、と。

 状況は以上。太字は本文にある通りで、下線はわたしが足しました(以下同じ)。
《「[…] 何か別のこと――おれにとってすごく大事なことがあったんだろうと思うんだ・・・おい、話が通じているか・・・これを、おまえにもらってほしいワケを話しているんだぞ、わかったか? これはディリンジャーの血だ。おれが手を伸ばしたときはまだ温かかった。〈かれら〉は、ディリンジャーをただのゴロツキだと思わせようとしたが――やつら、ほんと頭が狂ってるぜ――それでもディリンジャーはやることをやった。〈かれら〉を襲った。彼らのクソ銀行をだ。便所の中でカネまみれになってるところを襲ったんだ。そのとき、やつが何を考えていたかはどうでもいい――やったことの妨げになりさえしなきゃいいことだ。おれたちが今なぜここでこうやってるかも、どうでもいいことだ、え、ロッキー? そうさ、おれたちに必要なのは、正しい理由なんかじゃない。グレースがあるってこと、そこが重要なんだ。物事をスムーズに進める、目に見える優美さがな。勇気とか、頭の良さも悪いもんじゃないが、しかしグレースがなきゃ、何にもならない。おまえは――頼むぜ、聞こえてるのかよ? これ、これは効き目があるぞ。ほんとだ。おれの役には立ってくれた。だが、おれはダンボの段階は卒業したから、こいつがなくとも飛べる。だがロッキー、おまえは要るだろ、ほら、こいつが・・・」》下巻p662

「グレース」には脚註がついている。
《人間の自力では獲得できない、神や自然の恵みを必要とする「優美さ」。》

 いちおう持ってるだけは持っていた原書から、この部分を探して並べてみる。するとたしかに、さっきの佐藤訳の調子で小説の声が聞こえる気までしてくるから、翻訳小説を読むのは(錯覚も込みで)楽しいことだと思う。
"[…] But there was something else. something I must've needed...if you can hear me...that's why I'm giving this to you. O.K.? That's Dillinger's blood there. Still warm when I got to it. They wouldn't want you thinking he was anything but a 'common criminal'-- but Their head's so far up Their ass-- he still did what he did. He went out socked Them right in the toilet privacy of Their banks. Who cares what he was thinking about, long as it didn't get in the way? A-and it doesn't even matter why we're doing this, either. Rockey? Yeah, what we need isn't right reasons, but just that grace. The physical grace to keep it working. Courage, brains, sure, O.K., but without that grace? forget it. Do you-- please, are you listening? This thing here works. Really does. It worked for me, but I'm out of the Dumbo stage now, I can fly without it. But you. Rocky. You...." (p741)

 そこでこんどは、新潮社版の刊行をもって“旧訳”となった国書刊行会版(越川芳明・植野達郎・佐伯泰樹・幡山秀明訳、1993)も出してきて、同じくここにあたる部分を引いてみる。
[…] 何か別のものがたしかにあった、何か別のものが。おれにはそいつが必要だったにちげえねえんだ……聞こえてんのか……だからいまこうやって話をしてる。わかるか? ディリンジャーの血だ。おれが駈けつけたときはまだあったかかった。〈かれら〉はどうしてもディリンジャーを“月並みな犯罪者”と思わせておきたかった――しかし〈かれら〉の頭はケツよりえらく高いとこにあってな――それでもディリンジャーは何もしなかったわけじゃない。やつらは〈かれら〉が自分とこの銀行のトイレで孤独にふけってる真っ最中に殴りかかっていったのだ。やつが何を考えていようと知ったことか、邪魔になりさえしなけりゃな。このおれたちがなぜこんなことしてるのか、それだって問題じゃねえ。え、ロッキー? そうともよ、おれたちにゃまっとうな理由なんかいらねえ、神様のお恵みさえありゃあいい。神様のくれた立派なカラダのことだが、それでうまくいく。勇気でもアタマでも別段悪かないんだが、何てったってカラダが資本だからな。あきらめろ。おまえは――頼むから真剣に聞いてくれ。お恵みはいいぞ。たいしたもんだ。おれの役に立ってくれた。ところがおれはダンボの段階は卒業したから、こいつがなくとも飛べる。だがおまえの場合はだ、ロッキー。おまえは……》II 巻pp456-7

 同じところの訳だということはわかるが、それなのに、かなりちがう。あるいは、かなりちがうが、それでも、同じところの訳だということはわかる。でもここでは、そのちがいについては触れない(触れられるほど英語が読めないから)。
 国書版の訳者代表・越川芳明による「『重力の虹』あとがき」と、新潮版の「解説」は、それぞれの最後のページで、21年という時間をあいだに挟み、お互いに呼びかけと応答を取り交わしている。
《訳者をふくめ、われわれは終わりのない「旅」に出たばかりだ。われわれは二十一世紀へとつづく日本の『重力の虹』の研究、ピンチョンの研究の踏み石になるのを厭わない。》国書版 II巻p508

《この新訳は、旧訳を「踏み石」にしている。データ化した全文を上書きする形で第一稿を作成させていただいた(これは謝辞である)。この訳文もいつかまた踏み石となる。》新潮版 下巻p729

 これは横で見ているただのミーハーな一読者も居ずまいを正したくなる真摯なやりとりだが、当たり前ながら両者は「あとがき」「解説」だけでなく、原書で760ページあるこの長い長い小説のすべての場面、すべてのページ、すべての文章、すべての単語を舞台にして、原文をあいだに置いたコールとレスポンスを演じている。見ようと思えばそう見える。単純計算で、そのやりとりはここに引いたディリンジャーの部分を2200倍した分量になる。
 わたしは今回の新訳『重力の虹』を読み始めてから読み終わるまで50日ほどかかったが、そんなわずかな日数なんて本当にゼロに等しいという気にもなってくる。これ以上、どうやって居ずまいを正せばいいかわからないし、姿勢をちゃんとしすぎると小説が読みにくい。猫背に戻ってもう少し書く。

 あてにならない説明を少しだけするなら、『重力の虹』は、第三部まででも相当にクセの強いキャラクター、無茶苦茶に“量の多い”過去を詰め込まれた老若男女が無数に入り乱れ(いろんな意味で入り乱れ)、ページまたは作中時間が進むのとともに彼ら彼女ら、そしてそういった人間たちを取り囲む組織やそれに類するものの関係はますますこんがらがっていったり、最初に思っていたよりはるかにこんがらがっていたのがあとから徐々に判明していったりするのだけれども、第四部に入ると、今度はそれまでの雑多かつ複雑なストーリー(同時に何本が並走しているのか、数えるたびに答えの変わる長短も方向もさまざまなストーリーの束)は、雑多かつ複雑なままざっくり刈り込まれ、ストーリーではない、イメージの連鎖で場面と場面がつながっていく構成に切り替わる。
 線(こんがらがった線)でさえない、飛び石のような点と点。というか、絵と絵のつながり。そんなものが連続するうち、ある文章のかたまりからある映像が喚起される、次の文章のかたまりから次の映像が喚起される、というふうに繰り返し呼び起こされては広がっていく映像の波がうねりを生じ、「読む」というより、それに「飲まれて運ばれる」具合になって、これはちょっとほかで読んだ(体感した)ことがない。
 そしてそのままラストになだれ込む――などと書いても、こんな説明がネタバレとして機能するはずはないので無問題である。そして・そのまま・ラストになだれ込み・ます。

 だから、先に引用した場面を読むうえでの足がかりは、ピッグ・ボーディーンとスロースロップのふたりはどこにいるのかとか、どういう状態で会話を交わしているのかとか、そういったことではすでになくなっている。だって、あのしばらく前にスロースロップは「バラバラ」になり、「ひとつの観念にすら」つなぎとめられなくなった、と書いてあるのである。「そうか、バラバラになったのか」と受けとめる以外の読みかたがあったら教えてほしい。

 それでここでは、脇役どころかキャラクターとしては登場せず、ほんのちょっと言及されるだけのディリンジャーのイメージも、主人公格たるスロースロップや、その友人ボーディーンと同じくらい、膨らむ可能性を持っていると言っていい。
 ジョン・ディリンジャー。“伝説の犯罪者”とさっき書いたし、そういう者として名前を聞いたことはあったように思うものの、正直なところ、よく知らなかった。アル・カポネとビリー・ザ・キッドの中間くらい? でも何が中間? というのが精いっぱいつけた見当だった。そんなのはやはりゼロである。
 とりいそぎウィキペディアで調べてみる現代の悪癖を発揮すると、目立つエピソードは以下のようなものだった。
(さすがに英ウィキペディアのほうがずっと充実しているが、充実しすぎて読めない分量になっている)

1933-34年にかけて、大胆な銀行強盗で名を馳せる
・英雄・義賊的な存在として人気を博す(?)
・収監されても、偽物の銃で看守をおどし見事に脱獄
・FBIから目の敵にされ、「社会の敵(パブリック・エネミー)ナンバー1」呼ばわり
・女連れで行った夜の映画館から出てきたところを撃たれて死亡
(その女がFBIに内通しており、待ち伏せされていた。女は目印として赤いドレスを着ていた)
《アメリカでは、「赤いドレスの女」("the lady in red")とは「自分を破滅へ導く運命の女」を意味する用語として使われている。》

 待ち伏せの舞台になった映画館がシカゴの“バイオグラフ劇場”というところで、その夜、ディリンジャーと女が見たのはクラーク・ゲーブル主演の「マンハッタン・メロドラマ」(邦題「男の世界」)だった――というのは、『重力の虹』でも、もっと前のほうで1ページぶんのイメージの材料に使われていた(下巻p227)。
 わたしは「クラーク・ゲーブル」と聞いてもはっきり顔が浮かばないくらい映画に疎いが、そんな人間が読んでいても『重力の虹』は「映画ばっかりだ、いろんな意味で!」と言いたくなるくらい、あっちこっちで映画そのものや映画俳優、監督、その他もろもろにぶつかる小説である。
 とりわけ、映画館で最期を迎えるディリンジャーと、この長大なうえにも長大な小説の終わりかたをあわせて考えると、かの銀行強盗は、何百何千とある材料のひとつでありながら、そのひとつだけにはとどまらないような気もしてくる。同時に、それは気のせいであるような気もしてくる。ともあれ『重力の虹』下巻を広げたままTSUTAYAに行って、ディリンジャーを扱った映画をいくつか見てみることにした。


■ 「犯罪王デリンジャー」(マックス・ノセック監督、1945)

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ローレンス・ティアニー

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 有名な強盗団として世間を騒がせているディリンジャー一味の事件を伝えるニュース映像が劇場のスクリーンで流れたあとに、ディリンジャーの父親が登壇して客に向かい謝罪するという意外なシーンから、時間が巻き戻されて始まる。
 小心なチンピラだった青年ディリンジャーは、つまらない罪で入った刑務所で実力者グループの仲間に加えてもらい、先に釈放されると、彼らの脱獄の手引きをする。チームを組んで銀行強盗をスタート、犯行を繰り返していくうち次第に頭角を現し、あたらしいリーダーとしてのし上がっていく。
 なんというか、悪党である。非情。ディリンジャー役のローレンス・ティアニーという俳優はけっこう甘い顔立ちだが、チンピラ時代にかかされた恥を大物になってからも忘れていなかったことが強調される。
 大衆から支持されている様子は皆無。冒頭のニュース映像を見る観客はみな眉をひそめていた。人気があったとか、義賊のように受け取られていたとは、この映画からはつかめないように描かれている。あとは箇条書き。

・脱獄の際に使う偽物の銃は、木を削って作ったもの。
・悪党キャリアのはじめのころから一緒にいた女性とずっと仲が続き、最後の最後でその女性に裏切られるというシンプルなつくり。
・また、追うFBIの側に特定の人物を配置していないこともあって、映画館で待ち伏せされるラストのくだりはかなりあっさりしている。
・それでも、問題の女性について、「赤が似合う」とか「赤い服の女だ」とか言っている(映画じたいは白黒)。どれだけシンプルにしても“赤いドレス”だけは外さないという判断がある。

 それにしたって、ディリンジャーの殺されたのが1934年の7月で、この映画の公開が1945年の3月というのには、ちょっと感じ入った。その差、わずか11年。個人の人生にとっては短くない時間だが、巷間を騒がせた有名人について、社会的な記憶が風化するほどの長さではぜんぜんないだろう。よく知られた犯罪者を扱った、なまなましい実録ドラマのように見られることを目指して――冒頭で謝る父親――この映画は作られ、じじつそのようなものとして見られたのではないか。
 そう考えると、映画の中に「いかにも今は大不況の時代ですよ」とわかりやすく示す場面がなかった(たぶんなかったと思う)のも、わかるような気がする。“デリンジャーの物語”は、自動的に観客の頭と体から“当時の状況”を引き出したはずだから。あるいは、あのような派手な銀行荒らしが可能であったことじたいが大不況という状況だったのかも。よくわからないまま書いている。
 とはいえ、たったの11年といっても、それは1934-45年という11年だった。映画の公開時、すでにじゅうぶん大人だった観客は、45年という“現在”にあって、まだ遠くに消え去ってはいないディリンジャーと11年前の“過去”を、どんなつながりのうちに思い出したのだろう。そこはこちらの想像の追いつきようもない。
 そして、こんな映画がアメリカ本国で見られているのと同じころ、戦火に包まれるドイツではフォン・ブラウン博士がペーネミュンデのロケット基地から撤退を迫られ、その最中に左腕を骨折し、スロースロップは前年にナチスから解放されたモナコのカジノ〈ヘルマン・ゲーリング〉でカッチェ・ボルヘジアス嬢と夢うつつの軟禁状態のなか、昼はサー・スティーヴン・ドズスン=トラックたちのロケット集中講義を受けていたはずである。


■ 「デリンジャー」(ジョン・ミリアス監督、1973)

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 とにかく発砲する。やたらと撃つ。ギャングの側も警察・FBIの側も、拳銃やショットガンやマシンガンをばんばん撃ちまくる。「念のため」を含めても3発撃てば十分だろうところで「当然のように」20発は撃つ勢いだった。一味の潜んでいる家をFBIが外から蜂の巣にすべく一斉に銃撃、というのは“作戦”と呼べるのだろうか(意外と家は持ちこたえた)。
 発砲だけでなく、車で人を即物的にはねるなど、骨に響く暴力が詰まっている。ギャングと官憲に共通する行動手段が、映画の表現手段として増幅されているというか。
 こちらのディリンジャーはすぐに激昂し、そうなるとだれにも止められないような雰囲気があって、実際、だれにも止められない。女にも若者にも容赦なし。主演のウォーレン・オーツはときどき、本物のディリンジャーに顔が似さえする(いまの写真は白黒だったが映画はカラーです)。
 彼を追ったFBIの捜査官、メルヴィン・パーヴィスの語りが映画の何ヶ所かに入って、途切れ途切れながら、いちおう「私の追いかけたディリンジャーの一味と、その最期」という外枠があることになっている。
 そのパーヴィスは、フーヴァー長官もおそれないし、彼自身がギャングみたいな強面だった。強面というか、極めて顔が濃い(演じるのはベン・ジョンソン)。太い葉巻をトレードマークに、執念深くディリンジャーを追いつめていく。この写真で左側の男なのをおぼえておいてほしい。

 激しい銃撃シーンと、切れると手のつけられないディリンジャーが相まって、映画じたいが怒りっぽい。だから、ディリンジャーが実の家族のもとへ戻るシーンがあったりしても、やはり大衆のヒーローだったり、義賊として広く支持されているような受け取られかたは、映画の中にはなかったと思う(帰郷のシーンは逆に、こんな悪人のディリンジャーでも家族にとっては…みたいな描きかたになって印象深い)。
・1ヶ所、銀行強盗をして去って行く一味の車にガッツポーズのような身ぶりをする市民を見たような気がするが忘れた。脱獄する際に、ほかの囚人やら運転手やらをいっぱつで魅了するオーラがあることにはなっている。
・登場人物が、たびたび「まあ、こんなご時世だ(なので犯罪も仕方ない)」と言う。
・脱獄の際の偽物の銃は、石膏のような白い何かを靴墨で黒く塗った物。いきなり作っていて、いきなり使用される。
・ディリンジャーが気に入った女性、ビリー・フリシェット(気に入ったので拉致する)は、フランス人と先住民族の血が入っていることになっており、これは事実のようだ。
・そのビリーが退場したあと、FBIのパーヴィスと連絡しながら赤いドレスを着てディリンジャーと映画館へ行く(そして彼を死へみちびく)ことになる女性がはじめて姿をあらわすシーンなんかもケレン味たっぷりで、史実を知っている視聴者にむけて「問題の女性はこんなふうに料理してみたよ」とアピールしている感じ。よい。

 ディリンジャーが殺されて映画は終わるが、そのあと短いテロップで、メルヴィン・パーヴィスやビリー・フリシェットなどのその後が語られる。
 とくにビリーは、本篇では“ここが最後の登場”とは思えない中途半端なシーンを最後に出てこなくなる(そのブツ切り感がまたよい)ので気になっていたのだけど、なんでもディリンジャーの死後、ディリンジャーの家族といっしょに「犯罪は報われない(Crime Does Not Pay)」という芝居をして全米を回ったのだという。マジかと思うが、ググったらこんなサイトのこんな写真が出てきた。どんな感想を持ったらいいのかむずかしい。

 この映画の公開は1973年の7月だそうで、同じ年の2月28日に『重力の虹』が刊行されている参考。映画のラスト近く、待ち伏せしていたFBIにバイオグラフ劇場の外で撃たれ倒れたディリンジャーを囲んで野次馬が集まってくる――FBIの見守るなかで彼らは「警察を!」と叫ぶ――場面は、小説でピッグ・ボーディーンが回想する情景にとても似ている。7年がかりで書きあげた長篇を世に出したあとのピンチョンもこの映画をきっと見ただろうが(見ていないはずがない)、やはり自作のワンシーンを思い出したんじゃないだろうか、と想像してみたくなる。
《「[…] あのとき、バイオグラフ劇場の通りのすぐ先にいて、銃声から何から聞いたんだ。フン、おれはまだ海軍の新兵で、この国の自由ってのはこういうことかいと思って、走っていったね。シカゴの人間の半分が集まった。酒場から、トイレから、横町からみんな出てきた。女たちは速く走るのにスカートをたくし上げてさ。(…)映画館から走ってきて腿に冷えた汗の玉っころをつけているお嬢ちゃんも、みんないるんだぜ。で、何してるかっていやぁ、服を脱いだり、小切手帳をやぶり取ったり、他人の新聞をちぎり取ったりだ。何のためかって、ジョン・ディリンジャーの血がほしいんだ。少しでも吸い取ろうって、みんな熱狂してた。捜査官も止めようとはしねえ。通りに流れた血の上によ、みーんな折りかさなって集[たか]ってるっていうのに、その鼻面から煙草の煙をくゆらせてつっ立ってる。だけど、おれもただ一緒になって動いてただけで頭は働いてなかったんだが、それがすべてじゃなかった。」》下巻pp661-2

 (ここの続きが、冒頭で引用した部分になる。必要なのはグレース。)


■ 「パブリック・エネミーズ」(マイケル・マン監督、2009)

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ジョニー・デップ、クリスチャン・ベイル 他

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 1973年「デリンジャー」のザラつき具合に比べると、とてもきれいな印象。
 車が走ったり・飛行機が飛んだり・銃が撃たれたりするのを見せるためだけに、車が走ったり・飛行機が飛んだり・銃が撃たれたりするシーンが随所に出てくるので、なるほど、そういった考証や再現にこだわりと自信があるんだろうなあと思わされる。ありがたみのわからない視聴者で申し訳ない気持にもなった。
(なんというか、そういう考証をしっかりすればするほどいや増す“作りもの感”というものもあると思う。だって映画がウソなのはわかっているのだから。むろん作り手はそんなこと百も承知でそのような見せ場を用意してるのだろうけど)
 ディリンジャーを演じるのがジョニー・デップであるためか、70年代ではないためか、恋愛の要素が強くなっており、恋人であるビリー・フリシェットの存在がとても大きい。とくに後半は、はんぶんが彼女の映画。演じている美人はマリオン・コティヤールというフランス人であるらしく(泥縄で調べながら書いている)、このキャスティングには先述の理由がうかがえる。
 対するFBIのメルヴィン・パーヴィスはクリスチャン・ベイルで、73年の「デリンジャー」と同じ人物を演じているようにはまず見えない。もういちど貼ると、「デリンジャー」ではこの写真の左側だったのが、今作ではこうですからね。
 これだけ見た目がちがえば、中身も立場も相当にちがうものになる。こちらのパーヴィスは、我の強いフーヴァーと、いまひとつ経験の浅い部下たちとのあいだで孤軍奮闘する、理想と実力を兼ね備えたヒーローだった。
 タイトルがどうして「パブリック・エネミー」ではなく「エネミー」なのかと思ったが、このパーヴィスを前景に置いてうしろにディリンジャーやほかのFBIや刑事を並べると、「なるほど…エネミー…」と見えてくる。もちろんパーヴィスはパーヴィスで、正義のヒーローであるからには正義のヒーロー特有の冷酷さを発揮するわけだけれども。

 いちばん面白かったのは、赤いドレスのこと。
 最後にディリンジャーを映画館に連れ出すことで彼を死にいたらしめる女性は赤いドレスを着ていない。そこには史実の改変があるわけだが、この映画では、赤いドレスはビリーがディリンジャーとはじめて出遭うシーンで着ているのである。
 この変更は、かなり攻めていると思う。今回、この流れで調べながら見ていなければ気付かなかった改変であることも含めて、もういちど「いちばん面白かった」と書いておきたい。
 そんな意味と重みを与えられているだけに、この映画のビリーは、のちにディリンジャーの家族といっしょに「犯罪は報われない(Crime Does Not Pay)」なんて芝居で全米を回ったりはぜったいにしない雰囲気である。得るものがあれば失うものがある。
 それにしても、指名手配されている有名なギャングが、高級レストランで食事をしてるというのはなんだか不思議な光景だ。このへんが大衆に支持されていたことのあらわれなのかと一瞬思ったが、ほかの大物たちもふつうに会食していたりするので、「ここはたんにこわい街なんだ」と思い直した。こわい。
(そういうシーンは1973年の「デリンジャー」にもあった。仲間が減り追い詰められてからはもっと身を潜めるようになるのだが、その点、1945年の「犯罪王デリンジャー」だと、捜査を警戒するようになったディリンジャーはアパートの一室に7ヶ月近く引きこもり、一歩も外に出ない。どちらのほうが事実に近かったのだろう)


■ とりあえずこの3本を続けて見て、感想をメモしてきた。
 それより前に今回、この文章の最初に書いたのは、新潮社版の新訳『重力の虹』と国書刊行会版の旧訳『重力の虹』が、原書Gravity's Rainbow をあいだに挟み、21年をまたいだ呼びかけと応答を繰り返しているように見えるということだった。
 それは、ふたつの翻訳が原文をそれぞれどのように変奏するか・どんな日本語で演じるかに際して両者のあいだに生じるズレのために、両方を並べて読むと、原文だけでは持ちえない奥行きまでこの小説が備えているように見えてくる、創造的と言ってもよさそうな声と声との呼び交わしであると思う。ふたつ以上の翻訳がある作品について、これはとてもよく言われることだが、とてもよく言われるのは本当のことだからだなと、このような実例に触れると納得できる。
(旧訳に対して新訳はこんなふうにちがう、という時間の順にのっとったものだけでなく、新訳が出たことで旧訳の読みかたがこう変わる、とさかのぼって及ぼされる影響もあるから、関係は完全に双方向だ)

 原文と複数の翻訳についてのこの伝でいけば、わたしの見た3本の映画も、実在したジョン・ディリンジャーや、彼の恋人ビリー・フリシェットや、敵役メルヴィン・パーヴィスといった人物たちをあいだに挟み、それぞれの映画がそれぞれの俳優を用いて、これらの人間たちをそれぞれのちがったやりかたで描いて見せた、変奏と応答の記録のように映る。

 わたしには実在のディリンジャーやビリーについて、上でリンクを貼ったウィキペディアを越える知識がないので、彼ら彼女らの人物像はそれらの情報と映画によって作られた以上のものではなく、その像は映画に応じて別のものに姿を変える。
 だからどの像も虚像であるわけだけど、翻訳小説の一読者としてのわたしが、ピンチョンの英語がよく読めないためにほとんどすべて翻訳に頼って『重力の虹』を読んでいるからといって、翻訳本を原書の不完全な写しとして受け取るのではなく(とんでもない!)、もうひとつの原書、原書のたしかな別バージョンとして受け取っているのと同じように考えるなら、それぞれの映画にあらわれたそれぞれの人物も、ひとつひとつが実在した人間の、たしかな別バージョンであると思う。それは虚像というのとはちがう。
 ひとつしかなければ固定されるイメージも、複数あれば相互に干渉し、重ね合わせようとしてもズレるから、ゆらゆらと動き出す。そして、『重力の虹』が繰り返し描こうとするタガの外れた事態のなかには、映画がイメージを作り出し、それが現実を作っていくことや、ひとつの現実に対して、それとは両立しない別バージョンの現実を平気で並べていくことまで含まれていたのを、わたしは思い出した。
 ぜんぜん見当外れのことを連想しているような気もするし、それならそれでもっといろいろ妄想したいが、TSUTAYAの返却期限が来てしまった。この3本を返しに行ったところで思いついて、ディリンジャーがバイオグラフ劇場で見たという「男の世界」(原題はManhattan Melodrama )を探してみたら、それもあった。DVDが新作扱いで、新作料金を取られたのは意外だった。


■ 「男の世界(マンハッタン・メロドラマ)」(ヴァン・ダイク監督、1934)

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(2011/06/27)
クラーク・ゲーブル、ウィリアム・パウエル 他

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 幼いころに同じ船の火災で親を亡くしたブラッキーとウェイドは親友として成長したが、30年後、生きる世界は大きく別になっている。ブラッキーはギャンブルを仕切る暗黒街の大物、ウェイドは清廉潔白な検事。
 ブラッキーと連れ添っていた愛人エリーナは、裏の世界で生きるのが嫌になり、でもブラッキーには改心する気が毛ほどもないので別れ、ウェイドの妻になる。ところが、政治の世界を志すウェイドの選挙でブラッキーとの関係をネタに脅迫をほのめかす部下の裏切りがあり、心を痛めたエリーナはついブラッキーに相談、ブラッキーは速攻でその男を射殺し、捕まっても動機には固く口を閉ざす。ウェイドは断腸の思いでブラッキーに死刑を宣告する…
 1934年の7月22日夜、バイオグラフ劇場の外で最期を迎えたジョン・ディリンジャーは、直前に見ていたこの映画のブラッキーことクラーク・ゲーブルの映像に不思議な慈愛(strange mercy)を感じていた――と始まる『重力の虹』第三部、20番めのセクションについている脚註は、この映画のあらすじについてはあまり正しくない。
《W・S・ヴァン=ダイク監督『マンハッタン・メロドラマ』(一九三四)でウィリアム・パウエルが演じるのが、対立候補の射殺をブラッキー(クラーク・ゲーブル)に依頼して、州知事に当選したジム・ウェイド役。》下巻p227

 ウェイドはブラッキーに射殺を依頼していないし、射殺されるのも対立候補ではない。ウェイドが親友の犯行の動機を知るのは、死刑の判決を下したあとになる(そして絶望的に悩む)。
 面白いのは、小説のこの部分でディリンジャーのエピソードは、映画を見た彼がクラーク・ゲーブルの影響を受けて人格に変容を起こしていた → 映画は見る者を変えてしまう、と続く話の入口として働いていることで、なぜ面白いかというと、まるでそれにつられて映画のあらすじも変わってしまったように見えるからだ。
 そしてディリンジャーの場合と同じ人格の変化は、1934年のバイオグラフ劇場から遠く離れた1945年のペーネミュンデにいる別の登場人物にも起こる――と語りはスライドしていく。この小説を読んでいると、現実だと思われたことが映画だったと判明したり、映画として作られていたことが現実になったりすることも珍しくない。
 さらにスライドと言えば、ひとりの人間が映画を見て性格が変わる、と書いてある小説を、異なる日本語に移した2種類の翻訳であわせ読んだわたしが、それからディリンジャーの映画を3本見て、ひとりの人間が3人の俳優により異なった演じかたをされるためにバラバラになり、バラバラのイメージがバラバラのまま頭の中でまとまったりまた別れたりしながらふわふわ浮遊することや、それをまた小説で触れられるディリンジャーのイメージに重ねて読み直そうとする(当然、ズレる)――など、もとからこの『重力の虹』という小説に組み込まれてあったスライドのほかに勝手な思い込みと連想と勘違いによるいろんな種類のスライドまで加えながページをめくり、あっちやこっちに行ったり来たりを繰り返している。これはもう、作者のせいでも訳者たちのせいでもない。あるいは、作者と訳者たちのせいだけではない。

 わざわざそんなふうに考えるようにすると、ディリンジャーが1934年にバイオグラフ劇場で見た映画を、2014年の終わりにわたしが部屋のテレビで見ているというのも、なんだか複雑な事態であるように思えてくる。
「男の世界」を挟んで、80年前のディリンジャーといまのわたしが応答している、と言うにはさすがにディリンジャーからの呼びかけがない気がするが、そこでピンチョンとピッグ・ボーディーンにあいだに入ってもらい、この記事最初の引用部分を読んでいけば、わたしもディリンジャーを通して「男の世界」を見ることにより――ディリンジャーが「変わった」と『重力の虹』に書いてあるのと同じように――自覚のないまま「変わった」のかもしれず、ディリンジャーを扱った映画を見ることでもやっぱり自覚なく「変わった」のかもしれなくて、きっかけになった『重力の虹』を読んだことで何か変わったかと言えば、これは確実に、変わった。

 たしか15年くらい前と10年くらい前の2回、旧訳で『重力の虹』を読んだわたしが2014年に新訳を読むのも、旧訳と新訳を対話させているつもりでいた現在のわたしと15年前・10年前のわたしの対話かもしれないし、2ヶ月前に読み終えた新潮社版をいま読み返していても、同じ小説の同じ場面がすでにあちこち変わって見えている。そんなわけだから、これから先のいつか、今回の新潮社版よりさらなる新訳が出たとしたらもちろん、たとえ出なくても、小説は動くし変わる。そのことはもう、はっきりわかっている。
 いま、急に「そうか」と閃いたんだけど、わたしはこの『重力の虹』という小説をずっと読んでいくと思う。この気持もいつか変わるかもしれないとはいえ。
ピンチョンの燃えるマットレス
トマス・ピンチョン全小説 LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

*『LAヴァイス』と『競売ナンバー49の叫び』の内容に少し触れています。


 トマス・ピンチョンの現時点での最新作、2009年発表の『LAヴァイス』(栩木玲子+佐藤良明訳、新潮社)第17章は、このようなドタバタで始まる。
《ドックが家へ戻ると、スコットとデニスがキッチンにいて冷蔵庫を漁っていた。たったいま路地側の窓から入ってきたようだ。その前にデニスは、自分のアパートでいつもながら火の点いたマリワナを口にくわえたまま寝込んでしまったところ、そのマリワナはいつもと違って胸の上に落ちなかった。いつもなら肌が焼け焦げて眼も半分くらいは覚めるのだが、この日はどこかシーツの上に転げ落ちて煙をくすぶらせた。やがて目を覚ましたデニスは、立ち上がってヨロヨロとバスルームに向かい、シャワーを浴びようと思って裸になり栓をひねったが、そのうちベッドから火の手が上がった。炎はめらめらと天井を燃やし、上の階の住人であるチコのウォーターベッドに届いたが、幸いなことにチコは寝ておらず、ベッドのポリ塩化ビニールが熱に溶け、床に開いた穴から一トンの水が放水されて火は消し止められた。脛の高さに水の張られたプールとなった自分の部屋を、バスルームからフラフラと出てきたデニスが見ても何が起こったのかすぐさま理解することができず、加えて到着した消防隊を警察と勘違いし、路地を走っていってスコット・ウーフのビーチのねぐらまで逃げていくと、自分の頭が紡ぐままを話して聞かせた。曰く、これはザ・ボーズの連中による破壊活動[サボタージュ]だ。あいつら、俺を狙って陰謀を仕掛けてばかりいやがるんだ。》pp403-4

 舞台は1970年のカリフォルニア、ロサンジェルス。私立探偵のドックが、元カノの絡むトラブルを入口にして巻き込まれた殺人事件の真相を追っていくこの小説では、ドックもその仲間たちも多くがヒッピー崩れで、慣れた手つきでマリワナを巻き一服キメるのが歯磨きをするのと同じくらいありふれた動作になっている。
 意外にも(失礼)粘り強い調査で事件の背後にひかえる不穏な黒幕を徐々に浮かび上がらせながら、ドックはしょっちゅうトリップするため話も調査から脱線し、かと思えば幻覚にヒントをもらったおかげでまた一歩、真相ににじり寄ることができるようになったりもする。
 こんな説明では「オゥ、それは半分ふざけた小説なのか?」と受け取られてしまうのは想像に難くなく、その反応も半分は正解だと思う。つまり半分の半分はふざけている。
 そんな調子がいかにもうまくまとまっているのが上の長い引用で、第17章ともなれば小説は大詰めに向かっていくところだが、それでもピンチョンはこのように楽しくもくだらない与太話を挟むのをやめない。
 そしてしょうもないドタバタも陽気に展開し、トントン拍子に進むというのがこの小説の基調をなすトーンである。小説全体という大きな枠で捉えても、ときに千鳥足になろうがステップは軽快なまま、『LAヴァイス』は前へ前へと、事件の解決に向かって進んでいく。ミーハーなピンチョン読者としてまずおどろいたのは、この“健康的”と言ってもいいくらいのユルさと足取りの軽さだった。
 もちろん、小説がどれだけすいすい進んでいても、ひとつの挿話がツボにはまって反芻したり元ネタをさがしたり、言及される音楽をYouTubeで順番に再生し続けているうちに半日が過ぎたりといった脱線はいくらでもあるだろう。太く明快な1本のストーリーラインと、無数に伸びる寄り道は、まったく普通に両立しうる。そして私の場合、じつは先ほど「くだらない」「与太話」として引いたドタバタに、それこそ十トンの水をかぶるような思いをしたのだった。

 ベッドに火が点き、盛大に燃え上がった。でも天井が抜けて
 上階のウォーターベッドの水が落ちたから消火できた。

 やっぱり、これはどうしたって「しょうもない」。この小事件単独で何か深い意味が取り出せるわけでは全然ない。それがどうしておどろきを生むのかというと、ピンチョン作品でマットレスが燃えるのは(少なくとも)2回めだったからである。

 話はピンチョンが1966年に出した『競売ナンバー49の叫び』にさかのぼる。やはりカリフォルニアで、退屈な毎日を送っていたエディパ・マース(28歳、主婦)は、元愛人だった男の遺産をめぐって地下郵便組織と謎のラッパのマークを追いかける羽目になり、それまでの平凡な家庭生活を送る限りでは視界に入ってさえこなかった者たちの生きざまを目の当たりにすることになる。
 小説の中ほど、自分の行う探求のあちこちに見え隠れする秘密組織が“実在するのか/妄想なのか”という二択問題に決着をつけるため、エディパは身ひとつで夜のサンフランシスコに飛び出す。ところが、1個見つければ確実な証拠になるはずのマークが、さまざまなはみ出し者たちの姿と共に次から次へとエディパの前に現われて、彼女の判断力は停止に追い込まれてしまう。
《あれほど勇敢に乗り込んできたのに、あのときの、往年のラジオの私立探偵を気取っていたエディパはどこに行ってしまったのか。警察官僚の縛りから自由になって、ガッツを出して調べまくれば解決できない問題はないと信じた楽天家のエディパはどこに。
 私立探偵にだって、いつか袋叩きにされる日が来るのだ。今晩の郵便ラッパの毒々しい開花、その悪意に満ちた複写の連続は、探偵エディパを痛めつける、彼らなりのやり方なのだ。彼らはツボを心得ていた。彼女の楽天性神経網の節目を一つひとつ、寸分の狂いなく押していって、彼女を動けなくしていく。》p155

 二択はラッパのマークの洪水によってナンセンスの海に押し流される。いちおうの謎解きをめざして動いていた小説が(相当あやしいとはいえその方向へ動いているように見えなくもなかった小説が)、探偵役に退場を迫る瞬間だ。小説ははっきり、これまでたどってきたレールから外れていく。
 謎の解明に向かって、前へ前へと進まない。ヒールを履いた主人公の足取りはもつれ、小説の側から返り討ちにあって挫折する。20代の青年ピンチョンの“探偵小説”はそんな筋道をたどった。ここではユーモアはことごとくブラックユーモアで、程度の差はあれ、ドタバタもみな陽気には突き抜けず病的な陰を残した。そして何より、エディパは苦しんでいた。主人公を動けなくしたあとで小説が持ち込んでくる、“謎の解明”とは別の動力はどんなものだったか。しかし話を戻そう。
 やがて夜が明け、ふらふらと行き当たったアパートの階段に、老いた水夫がひとりうずくまっているのをエディパはみとめる。声をかけると老人は、捨ててきた妻への手紙を「投函してくれ」と彼女に託した。この老水夫の姿を通して、エディパはあるイメージを幻視する。
《「フリーウェイの下だ」 老人は、彼女が歩いてきた方向に手を差しのべ、波打たせた。「いつもある。行きゃあ、わかる」 目が閉じた。日が昇り、街のみんなが起き出して今日もまた健気に耕し始める、その安全な溝から毎晩、少しずつ押し出されて、この老いた水夫は、どんな肥沃な土地を掘り返したのだろう。どんな軌道を巡る惑星を見いだしたのだろう。壁紙の、染みのついた葉っぱの模様のまにまに、どんな声を聞き、どんな神々しい輝きの断片を目にしただろう。どんな蠟燭の切れ端が、火を灯したまま、彼の頭上を回ったのだろう。いつか火を灯したままのタバコを、この水夫か友人が持ったまま寝込んでしまえばそれまでだ。長年蓄えられてきたマットレスの詰め物が燃え上がる。悪夢にうなされた時の汗も、間に合わずに膀胱から溢れたものも、悪意と涙にまみれた夢精も、一切の痕跡が――見捨てられた者どもの電算機のメモリーバンクのすべてが――燃え上がる炎とともに失われる。感情の波がいっぺんに押し寄せて、エディパは今、老人の体に触れずにはいられない。触れなくては、その存在が信じられなくなりそうで、思い出すこともできなくなりそうで、自分自身疲れ切って頭が少し朦朧としていたけれども、彼女はステップを三段上って腰を下ろすと、老人の体に腕をまわして抱きしめた。黒く汚れた自らの瞼の向こう、視線を階段に沿って下ろした先に朝の光があった。胸が濡れるのを感じた。見れば老人は、また涙を流している。》pp157-8、太字は引用者。以下同じ。

「感情の波がいっぺんに押し寄せて」とあるごとく、すぐれて喚起的なこのイメージは、数ページあと、エディパが老人を支えてのぼった部屋のベッドの前で念を押すように繰り返される。
《この老いた船乗りの、ヴァイキング式のお葬式でマットレスが燃え上がると、そこに暗号化され保存されていた無益な歳月のすべてが抹消される。早死にの人生も、自分自身を耕した跡も、確実に崩れ落ちていった希望も。かつてこの上で寝たことのある、さまざまな人生を生きた男たちの全集合が、永遠の無の中へと拭い去られる――マットレスの炎のなかで。見つめるエディパの目が驚きに染まった。まるで、非可逆的なプロセスというものを、いま初めて目にしたかのように。それだけの量のものがいっぺんに無に帰してしまうなんて。この一人の老人の妄想だけで猛烈な量なのに、それがまるごと、世界に何の痕跡も残さずに消え去ることが驚きだった。》pp160-1

 老人の汗と涙と尿と精液、つまり、貧しくみじめな暮らしを送る人間(=すべての人間)の生が凝縮された、記憶媒体としてのマットレス。それに火が点いたとき、彼の生きた痕跡はいっせいに燃え上がり、この世界から消え去る。彼は文字通り以上の意味で失われ、あとには何も残らない。
 燃えるマットレスは、人間を灰燼どころかそっくり無に帰す、切実で鮮烈なイメージだった。
 もうひとつ面白いのは、この炎上するマットレスのイメージが、また別の連想を引っぱってくることだ。『競売ナンバー49の叫び』では、マットレスに火が点く前に燃えていたものがもうひとつあった。それは炎の舌である。
 サンフランシスコよりさらに前の場面、エディパが観に行った「急使の悲劇」という演劇で、聖書にある“ペンテコステ”のことが語られる。作中では悪趣味なパロディになっているが、もとはこういう話だった。
《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。
 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》
「使徒言行録」2章1‐6節、新共同訳

 炎のように燃える舌なのか、舌のかたちで燃える炎なのか、ともあれ炎の舌は、言葉の壁を越えてすべての者に御言葉をもたらす。
 燃え上がるマットレスが生の消滅を意味していたのに対し、炎の舌は完璧なコミュニケーションを行う、伝達の奇跡として燃えている。無と完全解。対照的な二種の炎が燃える、『競売ナンバー49の叫び』はそんな火床でもあった。
 もちろん、火に包まれるマットレスはあくまでエディパの想像だし、炎の舌に至っては、それが訪れないことをタイトルの“49”で示しているのがこの小説だ(ペンテコステの“五旬祭”に1日足りない)。着火することで現実化せず、イメージの中でだけ燃える正反対の炎ふたつを思い浮かべるとき、その意味は、両極端であるために対立しないで曖昧になる
 二択を不可能にしたうえで、別の地点に足場をつくろうとするのが『競売ナンバー49の叫び』の試みだった。答えの与えられない謎を、拡大すること。Aでもあり非Aでもある中空にラッパのマークを掲げ続けること。後半はそのために費やされ、それによって小説は動く。
 ただ結論を回避し続けるのではなく、はぐらかして逃げるのでもなく、謎のまとうディテールを増加させることによって、謎を具体的で、かつ曖昧にすること。積極的などっちつかずを果敢に夢見るこの小説では、マットレスは実際に燃えてはいけないし、真実を語る炎の舌も訪れてはならなかった。

 ひるがえって、『LAヴァイス』の同じ部分をもういちど読んでみる。
《デニスは、自分のアパートでいつもながら火の点いたマリワナを口にくわえたまま寝込んでしまったところ、そのマリワナはいつもと違って胸の上に落ちなかった。いつもなら肌が焼け焦げて眼も半分くらいは覚めるのだが、この日はどこかシーツの上に転げ落ちて煙をくすぶらせた。やがて目を覚ましたデニスは、立ち上がってヨロヨロとバスルームに向かい、シャワーを浴びようと思って裸になり栓をひねったが、そのうちベッドから火の手が上がった。炎はめらめらと天井を燃やし、上の階の住人であるチコのウォーターベッドに届いたが、幸いなことにチコは寝ておらず、ベッドのポリ塩化ビニールが熱に溶け、床に開いた穴から一トンの水が放水されて火は消し止められた。》

 ヒッピー仲間の口元を離れたマリワナは、ベッドに落ちるまでの1秒の間になんらかの時空を越えて40年を飛び、マットレスがついに本当に燃え上がったと私は思った。
 けれどもその炎は、想像の中で抽象的な人間の生を象徴的に抹消したりはせずに、いまそこにある天井を燃やし穴を開け、しかもウォーターベッドの水を呼び込んでみずから鎮火する。一件落着。この冗談のような放水と、エディパの胸を濡らした老水夫の涙との、隔たり。

 この部分を書くピンチョンの念頭に『競売ナンバー49の叫び』のマットレスがあったことを読者の私は疑わない。しかしこれはどういう種類の再利用なのか。
 かつて使ったモチーフを、後年、深化させて再提出するとか、あるいは、何らかのオブセッションのために小道具が作品の垣根を越え繰り返しあらわれるという事態は珍しくない。しかしこのピンチョンのマットレスの使いかたは、そういうものではないように感じられる。
 ここ以前、そもそも、主人公の元カノが大富豪の愛人、という設定から、主人公が大富豪の元愛人だった『競売ナンバー49の叫び』を(もっとシンプルだった原型、として)思い出さないほうが無理であるわけだし、調査の過程で発見されたさまざまな事物が〈黄金の牙〉に流れ込んでいく展開に〈トライステロ〉の影を見ないのもむずかしい。それでいて、ふたつの小説の感触は大きくちがう。
 後半でドックに伝えられる、高速道路に隠された死体の話(p440)は、エディパが切手蒐集家と話したフリーウェイと墓地の関係を連想させるし、もっと細かいことを言えば、アメリカ合衆国の建国者がドックの相談に乗ってくれる〈プラスチック・ニッケル〉で、店を飾る人工の生け垣に押し込まれたゴミの数かずが《一グラムにも満たない命の営み》(p400)と形容されているのは、中古車販売店で働いていたエディパの夫、ムーチョ・マースをノイローゼに追い込んだ車内のゴミくずが《生の残余物》と呼ばれていた部分と小さく呼応しているように――見ようと思えば――見えないこともない。

 でも、そう見ようとさえ思えば、そう見えないものなどない。
 ミッキー・ウルフマンの〈アレペンティミエント〉が、ピアス・インヴェラリティによる〈サン・ナルシソ〉の実現しなかったバージョンなのか、そしてなぜそれが小説の中でさえ実現しなくなったのかを真面目に考えることにはおそらくもう少し意義があると思うが、マットレスや、そのほかこちらの記憶を小さく刺激して去っていく細部についてなら、それがはらんでいるかもしれない意味ではなく、それを作中に再び持ち込んだ手つきにこそ見るべきものがある。
 私は、ピンチョンは遊んでいるんだと思った。
 年齢が半分以下だった過去において自分が作品を書くのに使ったシリアスな材料を取り出し、いま書いている作品に面白半分で足してみる。鼻歌さえ聞こえてくるような、そんな遊びをこの大作家はしているのではないか。その際、作家が書棚から自分の本を取り出してページをめくり、行をたどり直している姿を想像すると不思議な気持になる。
(前作、2006年の『逆光』でもそんなそぶりはあった。『競売ナンバー49の叫び』でもっとも隠喩に満ち満ちた「鋤が畝の溝から外れる=錯乱」というイメージと、前述したペンテコステの挿話は、それぞれ『逆光』邦訳版の上巻p67と下巻p45で、非常にあっけらかんとした調子で言及される。「錯乱の語源はこういうことなんだよ」→「知ってるよ!あなたの本で読んだよ!」と私は突っ込まずにいられなかった

 言い換えればこういうことだ。このような再利用は、作品間の関連だとか、作者による何らかの企みとかいうよりもまず先に、同じ人間が書いているから起きている。そしてそれは、まったくの事実である。
 まったくの事実ではあるが、マットレスのくだりにぶつかってはじめて、自分はこのことが本当にわかったように思う。
『LAヴァイス』巻末、充実した訳者「解説」により私は何人かの登場人物が『ヴァインランド』(1990)からこちらに顔を出していたのを知った。それも含めて、解説をしめくくる次のくだりを、上述したような意味で私は読んだ。
《『LAヴァイス』は、王者ピンチョンが、文学のスケートリンクで、過去半世紀の自分自身からふんだんに引用しながらみずからの芸を披露する、エグジビションの舞いであるかのように思えるのだ。》p541

 そんな楽しげな筆致は何に喩えられるだろう。それはやっぱり、ワラッチ・サンダルを履いてゴルディータ・ビーチを行くドッグの、軽い足取りである。

『競売ナンバー49の叫び』の舞台は1965年で、『LAヴァイス』は1970年だった。この2点だけに目を留めると、作中の時間が5年推移するあいだにピンチョンは43年、小説を書き続けた。流れの種類がちがうので重ねようのないふたつの時間のねじれに、ささやかながら、私がピンチョンを読んでいる数年間という時間の幅が、もう少しのねじれをつけ加える。唐突だが、読むということは、なかんずく1人の作家を読み続けるということは、小説の文章をねじり、自分の受け取りかたをねじり、ついには時間をねじることなのかもしれない。できるだけもっと、ねじっていきたい。
 ことし2012年の5月8日で75歳になったトマス・ピンチョンの、次の作品がはやく読みたいと思う。



競売ナンバー49の叫び (Thomas Pynchon Complete Collection)競売ナンバー49の叫び (Thomas Pynchon Complete Collection)
(2011/07)
トマス ピンチョン

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トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』を読んでみる

“消音器付きの郵便喇叭”が重要なシンボルとして繰り返しあらわれる
Thomas Pynchonの中篇小説The Crying of Lot 49 (1966)と
その邦訳『競売ナンバー49の叫び』(志村正雄訳)の読書日記は、
その67」でずっと中断していましたが、2011年5月から再開しました。
そもそものきっかけ
「ユリイカ」2003年10月号『フーコーの振り子』『エーコの文学講義』

はじまり あらすじ

第1章
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14 その15 その16

第2章
その17 その18 その19 その20 その21 その22 その23 その24 その25 その26 その27 その28 その29 その30 その31 その32 その33 その34 その35 その36 その37 その38 その39 その40

第3章
その41 その42 その43 その44 その45 その46 その47 その48 その49 その50 その51 その52 その53 その54 その55 その56 その57 その58 その59 その60 その61 その62 その63 その64 その65 その66 その67  (休憩)  その68 その69 その70 その71 その72 その73 その74 その75 その76 その77 その78 その79 その80 その81 その82 その83 その84 その85 その86 その87 その88

第4章
その89 その90 その91 その92 その93 その94 その95 その96 その97 その98 その99 その100 その101 その102 その103 その104 その105 その106 その107 その108 その109 その110 その111

第5章
その112 その113 その114 その115 その116 その117 その118 その119 その120 その121 その122 その123 その124 その125・・・・・・

■ 引用について

 たとえばこのように引用がある場合:
Oedipa headed for the ladies' room. She looked idly around for the symbol she'd seen the other night in The Scope, but all the walls, surprisingly, were blank. She could not say why, exactly, but felt threatened by this absence of even the marginal try at communication latrines are known for. (p53)

《エディパは婦人用化粧室へ向かった。彼女はぼんやりあたりを見まわして、先夜〈ザ・スコープ〉で見た印はないかと思ったが、驚いたことに、どの壁もブランクだった。なぜだか正確にはわからなかったが、便所はコミュニケーションの場として知られるのに、コミュニケーションの周縁的な試みさえ不在なのに威嚇を感じた。》p83/p93

 英文の末尾のページ数「p53」は、この版(HarperPerennial, 1999)のページ数。
 訳文の引用は、志村正雄訳の単行本版(筑摩書房、1992)から。ただし、末尾のページ数は「p83/p93」のように、スラッシュの左側に単行本のページ数、右側に文庫本版(同、2010)の対応するページ数をつける。
(文庫化に際し、改訳されて訳文がズレている場合でも、よほどのズレでなければスルーする。よほどのズレがあったらそれについて書くと思う)


■ ときどき参照(するかも)

J.Kerry Grant A Companion to The Crying of Lot 49 2nd edition  (The University of Georgia Press, 2008)  *これはこちら(1994)の増補版

Pynchon Wiki: The Crying of Lot 49
その125 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ネファスティスのアパートを逃げ出したエディパは、気がつくと、ベイブリッジに向かって車を走らせていた。
 自動車の排気ガスに包まれたラッシュアワーにごく微妙な角度で西日が射し、橋から見渡されるサン・フランシスコには、この時間だけ靄が発生している。そして、そんな汗と喧噪のまっただなかで瞑想にふける運転席のエディパのあたまにも、トライステロのイメージが靄のように立ちこめてくる。
 ネファスティスは、熱力学のエントロピーと情報のエントロピーというふたつの別種の概念を、〈マックスウェルの悪魔〉を仲立ちにしてひとつにつなげることができた。エディパのほうでは、これまでに見つけた数かずの手掛かりを結びつけられそうなものといえばただ、〈トライステロ〉の一語があるだけだ。手掛かり、すなわち〈トライステロ〉の隠喩がいくつあったかは、もはや神様にしかわからない。
Now here was Oedipa, faced with a metaphor of God knew how many parts; more than two, anyway. With coincidences blossoming these days wherever she looked, she had nothing but a sound, a word, Trystero, to hold them together. (p87)

《さてエディパのほうは、というのに、何とも多数の部分から成り立つ〈神〉の隠喩に直面している。少なくとも、二つ以上の部分から成り立っている。このごろはどちらを向いても偶然ばかりが花ざかり、その偶然を結びつけるものは、ただ一つの音、一つの単語、〈トライステロ〉。》p134/pp151-2

 下線を引いた隠喩の部分に関し、おそらくこの志村訳はちょっと変で、ここの英語が《〈神〉の隠喩》ということにはならないと思う。エディパは隠喩に直面している、その隠喩は「いくつあるかは神が知っているparts」で構成されている → 「隠喩を構成する部品がどれだけの数になるかは誰も知らない」、ということだろう。
 ただ、Lot 49 に〈神〉という語が頻出するのは解注で触れられている事実でもあり、それが慣用句だったりした場合、原文で確かに使われているGodの文字が翻訳では消えてしまう場合が多いので、ここで強引にでも〈神〉という日本語を出しておくつもりがあったのかもしれない。そんな気がする。

 ところで、2011年刊の佐藤良明訳では、上の引用部分はこうなっている。
《自分の場合はどうだろう。自分の前にあらわれたメタファーは、一体いくつのパーツから成っているのか。二つ以上あるのは確か。このごろはどっちを向いても「偶然の一致」が花開くという状況なのに、それらを結わえておくものが、一つの音[サウンド]しかない。一つの単語、「トリステロ」という言葉があるだけだ。》p136

 Godの語うんぬんよりもはるかにおどろくのはOedipaを《自分》ととる処理で、これによって“地の文-エディパ”の距離は、志村訳の場合に較べ、ぐっと近くなった。近いどころか、エディパの独白になっている(!)。
 これは「やりすぎ」「訳しすぎ」の域ではないのか。しかし、そんなことをする(しないといけない)理由について、訳者ご本人が丁寧に説明しているのをブログで読むことができる。非常に、非常に面白いので、ぜひリンク先を読まれたい。

 脱SVO:心情の論理を追う翻訳術 -sgtsugar.com.blog
 http://sgtsugar.seesaa.net/article/219990891.html

 とくに最後の「まとめ」に注目である。
《英語小説の翻訳においては、脱SVOの処理がポイントの一つとなる。それと絡んで、間接話法/直接話法、三人称/一人称の差異構造を,日本語でいかに(部分的に)崩していくかが、物語を日本語フォーマットに移し替えるさいには重要だ。英文の構造を保ったままでは、三人称の語り手と主人公との視点とが、変に干渉しあってしまうことがある。》

 この読書ノートでたびたび気にしてきたのは、まさに「三人称の語り手と主人公との視点」、地の文と主人公とのあいだの距離だった。
 それについてこれまで書いてきたなかからいくつか拾えば、第2章の冒頭→その17、第3章の冒頭→その41、これ見よがしの語り→その51、登場人物と読者と小説の知識のズレ→その79、第4章の冒頭→その89、そして第5章の冒頭→その112などなどがあった。

 この小説の展開を伝える地の文は――というか、この小説の展開そのものである地の文は――ときおりエディパに寄り添い、彼女の内面を実況するかと思えば、とくに各章の冒頭で顕著だったようにたびたびエディパを遠くに突き放し、ずっと先のページで何が起こるかを(エディパではなく)読者に向かって思わせぶりに予告しさえする。
 そのような、自由だったり唐突だったりする距離の動かしかた、つまり不自然さを自在に操る手つきでもって、主人公との位相のちがいを果敢に作り出しながら小説を進めてきたのがLot 49 の地の文である。
 どんな小説にでもあるだろう地の文のそのようなふるまいが、ことこのLot 49 においてはいくらか過剰であるように見える。だから、地の文とエディパ、両者の距離が開いたり縮んだりするたびにこちらも逐一反応することが、つまり、ズレるたびに何度でもつまずくのを繰り返すことが、この小説の書かれ方の秘密にわずかでも近づく方策になるかもしれない。
 そんなふうに期待して、つまずきのたびにおぼえる困惑とおどろきを書きつけたメモが重なって、この貧しいノートになっている。そんなつもりだった。

 そのような手掛かりとして考えていたズレは――もっといえば、この小説のキモじゃないかと予感していた“地の文-エディパ”の距離は、(すべてではないのかもしれないが)なによりも英語という言語の特性のために発生しているのではないか。だとすれば、そういったズレは、英語をよりまともな日本語に翻訳する過程で(場合によっては)埋められてしかるべきではないか。
 佐藤ブログに書かれてあるのは、上記ふたつのカッコ内の譲歩を吹き飛ばしてあまりある、クリティカルな指摘である。早い話が、あれらのズレの数かずを、「言語の移し換えに際し、消せるものなら消せればよかったが、どうしても消しきれず残ってしまったもの」でしかないと思い切ってしまえば、小説を読み取っていくうえで、気にしなくてよいことになる。
 だったら、いったいここまで自分は何を読んできたのか。これから何を読んでいけばいいのか――

 これまでと同じように読んでいくのがいいと思う。
 そもそも、これまで何をどう読んできたのだったか。かっこよくいえば、「英語」と「日本語」のあいだを読んでいた。より正確には、「ろくに読めない英語」と、「日本語とはちがった英語の論理を組み込んで紡がれた日本語」の、両方を読んでいた。原書と邦訳のどちらかだけを読む場合に較べれば、その両者のあいだで、英語のほうに3ミリくらいは近づいたところを読んでいた、ということになるかと思う。
 そうやって読んでいる最中に、訳書とペーパーバックのページの真ん中にゆらゆらと隆起しているのがかすかに感知されていたズレとは、じつは地の文とエディパのあいだに開いていた段差ではなく、英語と日本語のあいだの不整合として、たまさかそこに浮かんでいるように見えた蜃気楼にすぎなかったのかもしれない。
 そのような、「ある」のか「ない」のかわからない曖昧なものに翻弄されながら、小説をなるべく丁寧に読みたいとは言いながら、むしろみずから翻弄されにいくような読みかたは、馴染み深い日常と馴染みのない非日常のはざまに幻視される、「ある」のか「ない」のか定かでない〈トライステロ〉の手掛かりらしきものにつまずいて、探求するとは言いながら、なかば自分の意志で翻弄されにいく主人公エディパの姿に似ている。そんな気がする。そんなことはない気もする。読み終えるころには答えは出るかもしれない。

 だからこのノートはこれまでのまま、原文+志村訳の組み合わせをもとに続けていこうと思う。けれども、気になった部分は躊躇なく、佐藤訳と見比べるつもりでいる。
 節操がない。だが、「なるべく丁寧に読む」とは、できる限り節操なく読むことであるはずだ。いまはそう思っているし、これからもそう思うことにした。
 ちなみに、佐藤良明はこうも書いている。
《なおこれはあくまで安全策だ。原文の長くてポップな実験文体を創造的に移し替えるには、また別のチャレンジが必要とされるだろう。》

…続き

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その124 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次

How wonderful they might be to share. For fifteen minutes more she tried; repeating, if you are there, whatever you are, show yourself to me, I need you, show yourself. But nothing happened. (p86)

《幻覚を共有できたら何てすばらしいことかしら。さらに十五分間エディパはやってみた。繰り返し、繰り返し、あなたがそこにいるんなら、あなたがだれにせよ、私に姿を見せて、あなたが必要なのよ。姿を見せて、と。しかし何も起こらなかった。》p132/p149

 トライステロに関係のありそうな謎を追いかけて、という理由は当然あるものの、エディパがネファスティスの住居を訪ねたのには、自分にも幻覚(=別の現実)を分け与えてほしいという気持もあっただろう。
 このふたつの動機は別々のふたつなのか――とまで書いたら先走りすぎだが、ネファスティスの登場よりずっと前、小説の始まり近くにも、大きな幻覚を与えてくれそうな人間はいた。

その4」「その5」で精神科医ヒレリアスがほのめかす薬物への誘いに対し、本当に拒絶するならエディパは関係を断ってしまえばよかった。幻覚をはっきり拒みながら、それができないでいるのは、やはり、自分ひとりのサイズを越えた幻覚へのあこがれがあったからではなかったか。
 その前、夫のムーチョは、彼じしんが幻覚の中でおおっぴらに格闘中であるために、エディパのほうは醒めていなければならなかった→その3。そんな彼との関係を含めた生活の全体が彼女の中に、いまの現実への不満、この現実ではない別のどこかへ移る願望を生んでいた。
 では、さらにさかのぼったとき、ピアス・インヴェラリティは彼女にとってどのような存在だったのかを思わずにはいられない。不在のピアスの存在感がいまのエディパを、ひいては小説を動かしているのだから。

 まともな男はいないのか、と近くを見ると、メツガーは現実的な弁護士で、何にせよ怪しい信仰もなさそうだし、エディパののめり込みにブレーキをかけてくれてもいる→その81。ただしたいへんに軽薄そうな彼が、ピアスの遺言の共同執行人という立場を越えて(そして一時的な浮気相手という関係も越えて)これからも彼女を支えてくれるかはまったく確かではない。

『急使の悲劇』の演出家、ドリブレットは醒めていた。彼は、目の前の現実を幻想で覆い尽くして別の現実を作ろうなどとは考えていない。そうではなくて、自分の頭の中にある現実を、外部に投射しようとしていただけだ→その85
 だが、「そうではなくて」「だけ」と書いたものの、そこまで行くと「醒めている」の意味までズレてくる。自分の現実をおもてに出すのが第一義で、それを他人に共有させようとは考えていなかった、いわば節度あるドリブレットが、ひどく孤独を感じさせる描かれ方をされていた→その87のも忘れがたい。まともな男は、いないのか。

 ネファスティスのアパートの〈ネファスティス・マシン〉の前に戻ると、どうしても悪魔と交信できないエディパは泣き出さんばかりになって発明家を呼ぶ。私は "the sensitive" じゃないんだわ、と。
 ここまでの反応のぜんたいが「感じやすい人」「思いの強すぎる人」であるエディパに対し、ネファスティスの返答は「性交をしよう」だった。
 悲鳴を上げてエディパは部屋を逃げ出し、ネファスティスと、〈マックスウェルの悪魔〉と、〈ネファスティス・マシン〉をめぐる話は終わりになる。これまでの苦労は何だったのか。

 エントロピーについての知識を持たないエディパは、知識を持ったネファスティスの前で圧倒的に劣勢だった。これもまた、第2章の終わりのほうで、映画の筋を知らないエディパが、知っている(その映画に出演していた)メツガーと賭けをして、いいようにあしらわれてしまった構図→その36と同じである。
「知らない」エディパは、「知っている」何者かをおそれながら、しかし、誘蛾灯に惹かれるようにそちらへ向かわずにはいられなかった。
 それでわかったのは、いまのところ、まともな男はいそうにないということだけである。

…続き



*なお、2010年11月の「よくわからないけどおどろいた」ニュースは、中央大学+東京大学で“情報をエネルギーへ変換することに成功”というものだった。
[…] これまで理論上の存在であった「マックスウェルの悪魔」を、世界で初めて実験により実現しました。これにより、観察から得た「情報」を用いて「エネルギー」を取り出すこと、すなわち「情報をエネルギーへ変換できること」を実証しました。

 こんなことが中央大学の「新着ニュース」に書かれていたが、もうリンクが切れている。別のニュースサイトをあらためて探すとこんな話のようだった。
 ほかにここなど眺めてみても、即座に「永久機関が」という話ではないけれども、解説書が出たら読んでみたい。ピンチョンはこのニュースを知っているだろうか。知っているだろうな。