2020/02/27

内田百閒『無絃琴』(1934)

旺文社文庫(1981)

《その晩は、表が静かであつた。滅多に人も通らず、通る者も黙つて行き過ぎた。日が暮れて間もなく、二人の足音が、私の窓とすれすれに歩いた。
「要するに」と云つたのは、若い女の声であつた。「早く家庭を持つと、いいんだわ」
 男の方が、「さうです、さうです」と云つて、後からついて行つた。》p81「竹酔日」

『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』に続く、3冊目の随筆集ということになるらしい。
 わたしが百閒の文章を面白いと思うポイントには

(1)変な理屈
(2)感覚の巧みな言語化

のふたつがあり、さらに

(3)そもそも文章がうますぎる

というのもあるが、当たり前ながらどのページもすべてが文章なのだから、(1)も(2)も(3)に含まれるというか、(3)から(1)と(2)が出てくるというか、分類するだけ意味がないと言うための分類だった。でもこういうことは繰り返し言ったほうがいいような気もする。
 入り組んだ事象も込み入った感情も、わりあい簡潔な構文に流し込んでするする読ませながら、読んでから「え、こんなややこしいことをなんでこんなに簡単に書けるんだ?」と不思議になってまた読み直してしまう文章を、今回もなるべく長く引用する。

 変な理屈の例。
[…] 学校の先生を止めて以来、家に籠居して、身体を動かす事が少いので、午飯を廃して、蕎麦[そば]の盛りを一つ半食ふ事にきめた。蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺[もつ]れる事もなく、日がたつに従つて、益[ますます]うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百餘日、私は毎日きまつた時刻に、きまつた蕎麦を食ふのが楽しみで、おひる前になると、いらいらする。朝の内に外出した時など、午[ひる]に迫つて用事がすむと、家で蕎麦がのびるのが心配だから、大急ぎで自動車に乗つて帰る。たかが盛りの一杯や二杯の為に、何もそんな事をしなくても、ここいらには、名代の砂場があるとか、つい向うの通に麻布の更科[さらしな]の支店があるではないかなどと云はれても、そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違ふ點[てん]で、まづい。八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を拂[はら]つて、あわてて帰る事を私は悔いない。
 私は鶯や、柄長[えなが]や、目白などを飼つてゐるので、時時、小鳥達は、毎日ちつとも変らない味の摺餌[すりゑ]をあてがはれて、さぞつまらない事だらうと同情してゐたが、お午の蕎麦以来、味のきまつた摺餌は、つまらないどころでなく、大変うまいに違ひないと想像した。小鳥達が、さもさもうまさうに食ふ有様を思ひ浮かべながら、自分の蕎麦を啜[すす]る事もある。》pp68-9「菊世界」*太字、下線は引用者。以下同じ。

 読んでいるときは変な理屈だと思ったけれども、書き写していると、むしろたいへん素直な、素直すぎてなかなか気付かれない類の感想である気がしてきた。なお、この「菊世界」は百閒が自分の喫煙歴を振り返った文章で、小学校入学前から煙草を吸っていたという有名なエピソードはここで語られている。

 次は「鶯の夜渡」から。夜、「眠たくなってくる」感覚の表現として、これを越えるものはそんなにないんじゃないだろうか。
《鶯があんまり騒ぐものだから、時時、麻姑[まご]の手をとつて飼桶を外から、こつこつと敲[たた]いた。すると、鶯は暫らくの間、おとなしくしてゐるけれど、間もなく又もとの通りに騒ぎ出す。少し眠くなりかけると、何だか大きな羽音をさせるので、又目がさめてしまふ。しまひに、うるさくなつたので、板戸を少し開けてやつたら、有明けの電燈の薄明りが射し込むので、勝手がちがふと見えて、すつかり静まつて来た。その内に私の方も、段段眠くなつて来て、うつらうつら得体の知れない大きな塊りを押してゐる様な気持になりかけた時、不意に頭の上で、鋭い谷渡りの声が、ききよ、けきよと続け様に響いた。脳天から氷の心棒を刺された程びつくりして、私は又目をさました。さうして、溜息をついて、起き直り、また煙草に火をつけた。》p76

「竹杖記」という長めの作品は、大学時代から続いた芥川龍之介との交友と、その芥川の推挽により語学教師として勤めた海軍機関学校の思い出を綴った回想なのだけど、その中で、自分の体に発生した独特の感覚について書いている。
 百閒には迷走神経の過敏症、あるいは神経性心悸亢進症という持病があった。発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある。しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――と言われても、どんなものかわからないだろう。そのままこれを読んでほしい。
[…] 苦しいのを我慢して、一人で医務室まで辿りついた。
 その後からすぐにさつきの下士官が這入[はひ]つて来て、私を診察室のベツドに寝かした。さうして向う向きになつて、薬瓶の一ぱい列[なら]んでゐる大きな硝子[ガラス]戸棚の前に起つて、何かしてゐる、その後姿を見ながら寝てゐると、段段動悸がひどくなつて、肋[あばら]の内側がいたみ出した。何だか気分がわるいなと思ふ途端に、急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸[くび]から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、ほつとすると、その拍子に発作がなほつてゐたのである。「あつ、なほりました」と私が、後向きの下士官に云ふか云はないかに、静まり返つてゐる廊下の遠くから、荒荒しい靴の音が聞こえて、いきなり軍医正が扉を排して馳け込んだ。軍服の釦[ボタン]がまだ全部かかつて居らず、帽子を手に持つて、私の側に起つた軍医正の顔を見上げて、私は本当に穴があつたら這ひ込み度[た]く思つた。発作がなほれば、その後はなんでもないのである。》p133

 発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある、しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――という一切合切が、まるで自分の身に起こったかのように、すみずみまでよくわかる。経験したことのない感覚を、手でさわれるもののようにありありと伝えてくる文章。
 以前ここを読んでいて、わたしが連想したのは筒井康隆「薬菜飯店」(1987)という短篇だった。語り手「おれ」がある中華料理店に入る。そこで出される料理は、体に直接作用してあちこち悪いところを治してしまうものだった。
 眼に効く鮑の料理を食べると、とたんに涙が流れ出て視力まで良くなるとか、鼻に効く蛤料理を食べると鼻水が洪水になって鼻づまりが治るとか、軽いところからはじまり、徐々にグレードが上がって、年来の喫煙者である「おれ」の汚れきった喉と肺、さらに胃まで治す料理が出てくる。食べて飲んで様子を見ていると――
《腹はすぐに鳴りはじめた。と同時に、首の左右の根っこの部分に大きな塊りのようなものがゆっくりとこみあげてきた。それは次第にふくれあがりはじめた。手でさわってみると、顎の下の左右がお多福風邪のように大きく腫[は]れあがり、瘤ができている。さわったり押したりしない方がいいのだろうな。血のめぐりが悪くなって眼がまわりはじめ、吐きたい気分になってきた。や。気管支の方からも何かやってきたぞ。まっ黒けの、何やら機関車の如きものだ。臭い蒸気を吐いている。さらに胃の方からも酸性のピンポン玉がいくつか這いあがってきた。頭がぐらぐらする。何やらえらいことになりそうだ。顎下腺から、ちゅるちゅるとチューブから押し出されるように毒の粘液が口の中へあらわれた。続いて舌下腺からも、耳下腺からもだ。気管支の方からやってきた機関車がピーと蒸気を吐き、ごうごうと音を立てて口と鼻から噴出した。だばだばだばだば、だぼだぼだぼだぼと、その黒く重い粘液はバケツの中に音を立てて落ちていった。その直後、おれは胃からきた塊りを口からがっと吐き出した。次いでがっ。がっ。がっ。がっ。がっ。
 おれは恐慌に襲われた。鼻と口から際限なく粘液が噴き出るため、呼吸ができないのだ。》
 
[…] 彼女はおれの上半身を起し、背後からおれの背中を握りこぶしで力まかせに叩くと同時に、膝でおれの腰骨の上をいやというほど蹴りあげた。
「ぐわっ」
 驚くべき大きさの、タールの塊りの如きまっ黒けのものがおれの口から吐き出され、バケツの中でごろりと転がった。それだけで、バケツの中はほとんどいっぱいになってしまった。》『薬菜飯店』(新潮文庫、1992)pp27-9

 百閒の文章は、じっさいに自分の体に起きた感覚を描写したものである。いっぽう筒井の文章は、並外れた吐き気からありえない嘔吐にいたる現実離れした感覚を、想像力でつくり出したものである。そう考えると、前者は言葉による再現で、後者は言葉による創造、というふうに何となく区別しそうになるのだが、しかし、この分け方はどれくらい妥当なんだろうか。
(百閒が随筆、筒井が小説であることは、いまは何も関係がない)

 百閒の発作の苦しみや、それが急に「抜けた」感覚は、百閒じしんがたしかに体験したものだろう。その意味で実感を言葉に移し換えたものであり、その移し換えが巧みだから、それを読むことでこちらもその感覚を自分の身に起きたかのように追体験できる。実感の再現。
 筒井が想像した、首の根っこにこみあげる大きな塊りや、臭い蒸気を吐く機関車の如きものは、言葉による非現実の造形である。でもそれらはまったくのゼロから発明されたものではなく、日常にある吐き気やらなにやらの延長上に(過激な延長上に)作られている。だからこそ読者も追体験(というか、追想像?)ができる。まったくの未知の感覚だったら、何が起きているのか想像のしようもない。
 であれば筒井のほうだって、実感を再現していると言っていいのじゃないだろうか。実感の延長にあるものの、再現である。百閒の発作だって多くの人間にとってそのまま経験されたことはない特殊な事態であるのだから、実感(百閒)と実感の延長(筒井)の違いは、それこそ距離的なものでしかないように思う。
 そして、両者がどちらも再現としてとらえられるのならば、今度は180度ひっくり返し、両方をどちらも創造として受け取ることだって、できる気がしてくる。
 胃を這いあがる酸性のピンポン玉と毒の粘液。タールの塊りの如きまっ黒けのものが、バケツの中にごろりと転がる。実感を延長した先にあり、どんな読者の体験も届いていない感覚を、筒井は言葉でもって創り出した。
 百閒の胸の中を動く苦しい塊りや、それが耳の内側にぶつかる衝撃も、読者のわたしにおいて未知の感覚であり、未知なんだから非現実を生み出したものとしてわたしに読まれている。「いや、百閒には実体験であり実感だった」という正しいツッコミは、言葉という人工物を組み合わせてつなげた文章なるものが、書く側の実感を写し取るばかりか、読む側の実感まで喚起しうるという言語表現の圧倒的な奇妙さの前に、無力だと思う。
 両者を読み返すほどに、わたしには百閒の文章と筒井の文章の違いがわからなくなってくる。そして、わからなくなっても何ひとつ、いっこうに困らないことにしあわせを感じてしまうのだが、そんな告白をするつもりでここまで書いてきたのではなかった。「薬菜飯店」の入った短篇集『薬菜飯店』は、いまはKindle版で読めるようです。

 見たものの再現であり、それじたいが「見たもの」を創造するものでもある文章として、次は「炎煙鈔」から書き写す。これは前回の『続百鬼園随筆』にも同題で収められていた文章の続きで、好きでたまらない火事を見物したスケッチである。こう書くとヤバい人のようだが、文章はさらに輪を掛けてヤバい。
《風の吹く晩、白山坂下の、電車が通る時だけ、窓の燈[あか]りで明かるくなる道端を歩いてゐた時、洲崎が大火だと云ふ話を何人[だれ]かに聞いて、いきなり電車に飛び乗つた。日本橋を過ぎる頃から、段段知らない道に電車が這入[はひ]り、どこかで大川を渡つてから後は、まるで方角もたたなかつた。次第に道が迫つて来る様に思はれ、それにつれて、短かい橋が無暗[むやみ]に多くなつた。渡る時、急いで窓から覗いて見ると、黒い水が家家[いへいへ]の裏の間を仕切つて、暗闇を掘り下げた底に、遠くの方まで筋を引いてゐる。何だか夢に見た通りの景色だと思つた途端、急に電車が動揺して、前部の救助網で線路を打つ音がしたと思つたら、次の瞬間に、車掌台がどしんと尻餅を搗[つ]いた。私は頭から水をかぶつた様な気がした。
 火事場は一面の火で、焼け落ちた後の燄[ほのほ]は低く、赤い光を放つ雑草の原の様であつた。その向うに暗い海があるらしく、燄と煙の臭[にほひ]に混じつて、潮の香りが鼻を打つた。》p160

《何だか夢に見た通りの景色だと思つた》なんて部分もあって、この電車は百閒の短篇の世界へ地続きに入っていくようでもある。それで導かれていった最後の2行のあやしさはいったいなんなんだ。随筆が回想になり、語りの現在時から遠くなるほど小説に近づく。わたしはいま、とても当たり前のことを書いているのだろうか。あと、百閒、しょっちゅう「頭から水をかぶつたような気」がしがち、とも言い添えておきたい。
《火事は、身体が熱くなつて、逃げ廻らなければならない程の間近から、堪能する程見物した。
 又場所を変へて方方から眺めるために、あちらこちら歩き廻つた。焼け出されて、雑司ヶ谷墓地の石塔の陰に風を避けてゐる人人の頭の上に、火の粉が雨の様に降り灑[そそ]ぎ、葉の落ちつくした裸木の公孫樹[いちやう]の枝にかかつた火の粉は、風にたたかれて、きらきらと光りを増した。
 三方から火の手に囲まれた一軒立ちの二階屋が、閉め切つた雨戸の外に烈[はげ]しい火の明かりを受けて、目の前に浮かび上がつた。雨戸の肌をさつと掃くやうに燄[ほのほ]が走つたと思ふと、有りつたけの戸が、一時にばたばたと外[はづ]れた。さうして家の中には、既に火が廻つてゐたらしく、はつきりした炎の形が、二階の柱を這ひ上がるのが、ありありと見えた。欄間の額の字が読めさうだと思ふうちに、一面が火の渦巻となり、瞬[またた]く間に棟が落ちて、焼け潰れた。》pp162-3

 まるで炎がページを舐めるように言葉が連なり、そのなかで家が焼け落ちても、そう書いている文章は手元に残ったまま何度でも読めるのが不思議になってしまう。書かれる火事ではなく、火事を書く文章の手柄であるのだよなと思うのだが、そこから「対象はどうでもよくて、文章だけがすごいのである」とまではぜったいに思い切らせないのもまた百閒の書くものだった。
「曾遊」で百閒は、友人と石ノ巻へ遊びに行ったときのことを思い出す。
《小牛田と云ふ駅で、軽便鉄道に乗り換へた。さう云ふ駅の名前も東北らしく聞こえて、気の進まない私の旅愁をそそる様に思はれた。もう十何年昔の事で、軽便鉄道の汽罐車は、羅宇屋の笛の様な汽笛を、ぴいぴい鳴らしながら、何時[いつ]までも走りつづけた。いつの間にか、左手が高い土手になつて、それが何処[どこ]まで行つても盡[つ]きなかつた。土手の向うに、ところどころ高い帆柱が見えるから、餘程大きな船がゐるに違ひないと思つた。川舟にしては大き過ぎる様だし、海がこんな所にありさうにも思へなかつた。小さな汽車は、土手の陰を走りながら、夜になつた。燈[とも]し火の稀れな広野が真暗になつても、土手の向うは、ほの白く明かるかつた。水明りだらうと思ふと、急に淋しくなつた。》p93

 百閒の書くもので「土手」「土手の向う」が出てくるとそれだけでうっすら怖い。でもここは宮城県で、まだ冥途ではない。
《どんな道を通つたか覚えてゐないけれど、私共は大きな川に架かつた町中の橋を渡りかけて、又後戻りをした。川下の空が明かるいのは、海が近い所為[せい]だらうと思つた。水際で火を焚いてゐる炎が、妙に細く撚[よ]れて、暗い空に立ち騰[のぼ]り、周りの煙をはつきりと照らし出した。川の底にも炎の姿が深く沈んで、水の色を染めてゐる。橋の袂[たもと]の料亭に上がつた時、もう一度その火を見ようとしたけれど、川の面には、暗い水が盛り上がつてゐるばかりであつた。
 無気味な程大きな蒲焼の串を、藝妓が手際よく抜いてくれた。さうして何か二言三言話す内に、その女の言葉遣ひが、妙に私の耳に甘える様な気がし出したので、君はこの辺の人ではないだらうと尋ねたら、私の生れは備前岡山で、子供の時に京橋川の舟を見に行つた事を覚えてゐますと云つた。
 道を聞いても、人の云ふ事はまるで解らないし、辺[あた]りは暗いし、変な所へ来たものだと、つまらない気持になりかけたところへ、思ひがけなく私の郷音を聞き、同じ町の生れだと云ふので、その女が懐かしくて堪らなくなつた。
 暗い川に舟を浮かべて、夜遅くまで酒を飲んだ。千葉甚と云ふ宿屋に帰つて、蒸し暑い蚊帳に這入つたけれど、転輾[てんてん]反側して夜通し眠れなかつた。
 友達が面白がつて、翌くる日はその藝妓の家へ遊びに行き、それから一緒に連れ出して、小山の上の遊園地に登つて、渚の遠い太平洋の岸を見下ろした。私はその藝妓の側にゐると、上[うは]ずつた気持がして、しまひには寛[くつろ]いだ口も利[き]けなくなつた。》pp94-5

 こういった文章を書ける人がこういった珍しい体験もしていることに「すごい」と言いそうになるが、おそらくこれは話が逆だ。これに類する偶然は多かれ少なかれだれの身にも起こっていて、ただ、下線のような文章を書ける才能だけがこんな偶然を記憶の中から引き出すことができるのだと思う。その意味で、文章が偶然を起こしている。そして何より、こんなにも照れて悶えている百閒はレアなのじゃないか。

 珍しい出来事と、それに発する珍しい感覚を巧みすぎる文章で書き留めたものとして、つまり、対象と文章の双方が噛み合った最高峰として、「搔痒記」がある。
 帝大の独文科を卒業した25歳の百閒には就職の口がなかった。口がなかったというか、就職の口を求めて熱心に活動する気になれなかった。その頃の回想である。
 学校を出たので、郷里に置いていた妻と下の子、さらに近所の女学生(お貞さん)まで東京に呼び寄せていっしょに暮らすことになる。職のないまま、今度は祖母と母と上の子も上京させる。そんな大家族を支える立場のはずなのに無職。
 このままではいけない、それはわかっている、わかっているが……と、想像するだに鬱々と気が滅入ってくるこんな時期、気持や内面や心情の問題を越えて、百閒の身体は猛烈に頭が痒くなるという反応を示す。
《頭の痒さは言語に絶する様になつた。しまひには、自分で搔いたのでは、いくら搔きむしつても蟲がをさまらない。どうしても人に搔いて貰はなければ、承知出来なくなつて来た。妻は初めから逃げを張り、女中には云ひにくいし、子供は小さくて役に立たないのである。するとお貞さんが、無茶苦茶なところがあつて、その役目を敢然と引き受けてくれた。私が新聞をひろげて、両手で顔の前に受けてゐると、お貞さんは後に廻つて、私の頭を縱横無盡にひつぱたいて、搔き廻した。自分の頭が三角になる様で、私は痛快の感に堪へない。いつまで経つても、もういいと云はないから、いつでもお貞さんの方で切り上げた。》pp99-100

《木曜日の晩に、早稲田南町の漱石山房で、津田青楓氏から、今度高田老松町の家を引拂[ひきはら]ふから、その後へ這入[はひ]らないかと云はれて、引越しする事にした。頭に一ぱいおできを載せたまま、掃除町の運送屋に荷物を運んで貰つて、目白臺に移り、郷里から母祖母子供を連れて来て、重苦しい遊食時代を現出した。むしやくしやする程、益[ますます]頭の方は痒くなる様であつた。自分の頭を物差しでなぐり、文鎮でこさげても、いらいらした気持は治まらなかつた。》p101

《家にゐて、何をしても面白くもなく、第一、何をどうすると云ふ心当てがなかつた。いつ迄もかうして、ぶらぶら暮らしてゐられる程の金は、もう家にはないのだと云ふ事を、時時[ときどき]病気の様に思ひ出す。しかし外に出て、人の家に就職の口を頼みに行くには、頭の事が気になつた。当分人前には出たくなかつた。さうして、ごしごし頭を搔きながら、相変わらず、うつらうつらとその日を暮らした。》pp102-3

 頭が痒いのはできものがあるからで、できものができたのはおそらくストレスも一因で…と筋道を立ててとらえていこうとすると、この文章は逃げていくと思う。そのような整理は、この痒みは鬱屈した内心の象徴である、と片付けて続きを読まないのと同じくらいもったいない。
 何をするにも物憂く気がふさぎ、自分が何もしないでいるためにいっそう追い込まれていく鬱陶しい状況と、《言語に絶する》頭の痒みが、ひとりの人間の身に外側と内側からなぜか同時に降りかかる。はたで見て(読んで)いて「なんでだよ」と言うしかない偶然から書かれたこの文章は、「なんでだよ」「本当に、なんでなんだよ」とつぶやきながら読むのがいちばん正しいとわたしは思う。青年時代の百閒がこんな偶然に見舞われたのは、ほとんど奇跡として映る。頭の痒さ、それも奇跡になりうるのだ。
 そんな痒さはおよそ半年後、大学病院に行ったことであっさり快方に向かう。行ってなかったのかよ
《診療室に入れられて、皮張りの腰掛けに腰を掛けた。辺りの物がみんな少しづつ濡れてゐさうで、汚くて身が縮まる様な気がした。看護婦がぴかぴか光る鋏を持つて来て、私の頭を刈り出した。非常に荒つぽく、やり方が痛烈を極[きは]め、髪の毛を切つてゐるのだか、頭の地を剪[つ]み取つてゐるのだか、よく解らなかつた。それが大変私の気に入つて、もつと深く頭の皮を剝[は]いでくれればいいと念じた。
 その後にお医者が来て、何だか冷たい薬を塗りたくり、一言も口を利かないで、又私の頭を看護婦に渡した
 看護婦がその上から、ぎゆうぎゆう繃帯を巻いたので、すつぽり白頭巾を被[かぶ]つた様な頭になつた。巻き方が固くて、特に縁のところが締まつてゐる為、何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登つて行く様な気持もして、上ずつた足取りで家に帰つて来た。
 頭が綺麗に包んであるので、寝る時はさつぱりした気持であつた。しかし枕にさはる工合は、何となく人の頭を預かつてゐる様でもあつた。》p105

《花が散つて、若葉が出揃ふ頃から、段段頭の地が乾いて来る様に思はれ出した。さうと気がついてからは、目に見える様に具合がよくなつて、間もなく綺麗に癒[なほ]つてしまつた。癒つた跡は禿[はげ]にもならず、ただところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけであつた。》p107

「自分の頭がモノとして扱われる」ことそれじたいを、自分でそのまま対象化して文章にしているというか、自分と自分の頭に距離があり、その距離を保ったまま文章にしている感じが絶妙である。《ところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけ》なのを知るには鏡を使って観察しないといけないわけで、そこは書かずに観察した結果だけを書くといったような小さい省略がきっとあちこちにあり、それでいて出来た文章はこんなにもすらすら読める。
 このあと「搔痒記」は、《本当に癒つてしまつた様な気持に》なるために、床屋で丸坊主にしてもらって終わる。わたしはまだそんなに百閒を読んでいない(これが旺文社文庫の6冊めだ)が、それでも数え切れないほどひしめいているあれやこれやの名文の中で、この数行はまちがいなく最上の部類に入る。
《「よろしいんですか」
「頼みます」
 瞬[またた]く間に終つて、椅子の上に半身を起こして見ると、向うの鏡に大入道がぼんやり写つてゐた。
 坊主になれば涼しいかと思つてゐたら、さうではなくて、頭に芥子[からし]を貼つた様にひりひりして熱かつた。その癖、頭の地から少しばかり離れたところが、非常に涼しい様な、よく解らない気持がした。
 往来に出ると、そよそよと吹いて来る夕風が、筋の様になつて頭を渡つた。目がぱちくりする様に思はれた。》p110

 ここは全文を太字にして下線を引きたい。とくに「ぱちくり」は辞書の用例に採用されてしかるべきだと思う。
 なお、毎回本当にありがたい文庫巻末の「雑記」(平山三郎)によると、百閒が大学を出たのは1914(大正3)年7月で、陸軍士官学校に職を得るのは翌1915年の末である。痒いのがおさまってもなお半年以上「重苦しい遊食時代」が続いたことにはほとんど敬虔な気持が湧いてくるが、それはともかく、「搔痒記」の発表は1934(昭和9)年で、じっさいの体験から20年を経ている。
 しかしこの『無絃琴』では、「搔痒記」の次に「駒込曙町」という文章が続いており、こちらも同じ遊食時代の前半を題材にしたものなのだけど、おどろいたのはこの「駒込曙町」、執筆が1915年2月なのである。つまり、無職時代の真っ只中に、リアルタイムでそのことを書いていた。
《私は紹介状のこと計[ばか]り考へてゐる。先方へ行つて、何よりも今迄頼みに来なかつたおことわりを云はなければならない。どう云ふ風に云つたらいいか知らと考へてゐる内に、段段退儀になつて来る。くるくると一と塊りに廻つてゐた考へが、次第に廻りがのろくなつて、ぷうと膨[ふく]れて来る。それが何時の間にか膨れ過ぎて、ぐるりに散らばつてゐるいろんな雑多な我楽多[がらくた]にあちらこちらで、くつ著[つ]く。すると、そのくつ著いた所から、縁側にまるくこぼれてゐる水を、指尖[ゆびさき]で日の出の模様に引張る時の様に、今までの考へが力もなく興味もなく、すうすうと出て行く。気がついた時には、何分か前まではその考へで、はちくれる様に思はれたところが、何もない空つぽになつてゐる。私は起[た]つて、小鳥籠の盆から、糞を搔き落としたりする。
 けれども、何日かすると、また何かの拍子で私は生活問題に、他所[よそ]に出てゐて自分の町内の火事を聞いた時の様に、慌てて帰る。さうして、何時も同じ様な経過を通つては、如何[いかん]とも結末をつけずに、すんでしまふ。その内に日が経つて、何日目かにまた気がついて見ると、私の不安はその前よりも一層暗く、深くなつて居るのに自分で驚く。その度[たび]に私は、かうしてはゐられないと思ふ。早く、一日も早くどうかしなければならぬと思ふ。けれども、さうかと云つて、私はまた明日の日から食へなくなると云ふ程に切迫してもゐないではないかと、時時[ときどき]身の囘り、心の囘りに気を配りながら、そつと考へて見る。すると私の心の中の、厳格な先見者が出て来て、その考を睨み返す。さうだ、そんなことを思つてゐて、愈[いよいよ]の切迫した瀬戸際まで来た時に、自分は安全な道を拓[ひら]く丈[だけ]の力と勇気があるかと、忽[たちま]ち私は考へ返す。するとまた恐ろしくなつて、うろたへ始める。》pp114-5

 先の見えない自分の状況を現在進行形でこのように対象化するのは、どのような胆力のなせる業だったのだろうと思う。あるいはそれは胆力とは別のものなのかもしれなくて、その「胆力とは別のもの」こそが、この文章と、1年半に及ぶ遊食時代の両方を生んだのかもしれない。
「搔痒記」を書く未来のことなんか知りもしなかった時代の「駒込曙町」では、上で引用したように、頭の痒みよりも心の動きが細かく見つめられている。そこからわたしがいちばん気になっているところを拾って今回は終りにする。それは百閒の、急に不安になる箇所である。
 ――百閒の一家と同居していたお貞さんが暮れに岡山へ帰るので、見送りに行くことにした。百閒・娘を抱いた妻・友人の中島でいっしょに東京駅へ向かう(お貞さんは先に出ている)が、そもそも家を出発するのが遅くなったうえに、百閒は郷里に残している息子へのお土産を買ってお貞さんに渡したいので玩具屋に寄る。
《私は玩具が好きだから、あれやこれや、いぢくり廻した。汽車の玩具が一ばん好きだから、大きいのや小さいのや、軌道のあるのやないのや、みな私の気にかかつた。その時ふと店の奥に掛かつてゐる柱時計を見ると、もう二時四十分なので、私は俄[にはか]にあわて始めたすぐにきめなければならぬと思ふと、何にしていいか解らなくなつてしまつた。私としては汽車が買ひ度[た]ひのだけれど、いつもいつも私共が国へ帰る度毎[たびごと]に、又人にことづける序[ついで]のある毎に、汽車計[ばか]り買つてやるので、久吉の玩具は殆[ほとん]ど汽車ばかりだから、今度は何か外[ほか]のものでなければいけないと思ふ。外のものにすると、何にしていいか、私には解らなかつた
[…]
お釣りをくれる間も私はいらいらした。さうして頻りに足ぶみをした。お神[かみ]が出て来て、その玩具を紙函に入れて、その上に源氏紐を掛けてゐるのを私は奪つた。
「これでいいんです。御邪魔をしました」
 私が一足、店から外に出ると、私の後に風をふくんで飜[ひるがへ]つたマントの裾[すそ]だか翼だかが、何かに引かかつて、がちやがちやがちやと音をたてた。私は後をも見ずに停留場へ馳けつけて、丁度来合はせた電車に中島と妻をうながして乗つた。
 私は電車の中に落ち着くと、さつきの玩具屋を出る時の物音が、しきりに気になり出した。割合に高いものを毀[こは]したんではなからうかと云ふ貧相な考へが、何時[いつ]までも離れなかつた。》pp120-1

《電車を降りてから、広場の向うに駅の建物を見たら、私はまた俄にうろたへ始めた今にも出かけてゐる汽車を、あの煉瓦の建物が私の前に遮[さへぎ]つてゐる様に思はれ出した。私は中島と妻とにかまはずに、一人で馳け出した。五六間行つた時、私は振り返つて、
「入場券を先に買つて置くぜ」と辯解した。
 それから、また私は馳け出した。
 駅の建物の中に這入[はひ]つた時、私の胸は激しく鼓動し、私の背には汗がにじんでゐた。私は、勝手を知らない建物の内をきよろきよろ見廻して、入場券を三枚買つた。それから駅の大時計を見て、もう五分ほどしか間のないのに気を揉みながら、中島や妻を急がすべく、また外に出た。彼等はまだ私が思つたよりも一層遠くの方にゐた。遠方から見ると、中島は何所[どこ]となく婆顔の様な印象を與へた。妻は、熟[う]れのわるい白瓜の様に見えた。私は二人に向かつて早く早くと云ふ合図をした。妻は子供を抱いて走り出した。中島は大変な大股を蹈[ふ]み始めた。》p122

 太字にした“不安と焦り”、下線を引いた“それなのに思い通りに事が進まないもどかしさ”、これらはじっさいに百閒が体験したことだろうけれど、こうやって文章で書かれてみると、すべて、“夢で感じる不安”と、“夢で感じるもどかしさ”じゃないかとわたしは思う。
 百閒の小説は夢を題材にしている。それはそうだろう。読めばだれでもそう思う。だが《百閒は夢をえがいたのではない。夢の胸苦しさ、不安をえがいたのだ。》と、この『無絃琴』の「解説」で高橋英夫は述べており、これにわたしは拍子抜けするような気持で100パーセント同意する。そうだ。たしかにそうである。
 百閒が自分の書いたもののなかで急に不安になるポイントは、だから、この人の随筆と小説をつなぐ通路になるのじゃないかと思うのだった。たとえばずっと後年の『阿房列車』(1952)でも、最初の旅で家から東京駅へ向かうところにこんな部分があった。
[…] 釣り皮にぶら下がってぼんやりしてゐる内に、市ヶ谷駅からの三粁[キロ]半を夢の間に過ぎて、鉄路つつがなく東京駅に著いたが、歩廊に降り起つた途端、丁度その瞬間に切符が売り切れる様な気がし出した。発車にはまだ一時間半ぐらゐ間があるけれど、かうしてはゐられないと云ふ気がする
 さう云ふ気持で歩くと、東京駅の歩廊は無意味に長い。》『阿房列車』p17「特別阿房列車」

 このとき1950(昭和25)年10月、百閒は66歳になっている。家族を抱えてこれからどうしたものかという鬱屈は遠くに過ぎ去り、(借金をして)目的のない旅に出ることができる境遇にあってなお、「駒込曙町」にも似た、急な不安ともどかしさが顔を出す。場所が同じ東京駅であることも偶然とは思えな――いや、引き寄せられた偶然に見えてくる。いったいなんだろう、これは。
 次は『冥途・旅順入城式』です。まじか。



■ 旺文社文庫『無絃琴』(1981)目次:
弾琴図
校長就任式
検閲使
絹帽
虎の尾
漱石遺毛
薄目くら
盲人運動会
砂利場大将
風船画伯
旅愁
訓狐
解夏宵行
殺生
菊世界
鶯の夜渡
竹酔日
老提督
豫行
学校騒動餘殃
曾遊
搔痒記
駒込曙町
竹杖記
河童忌
今朝冬
炎煙鈔
一夜会
海鼠
風稿録
夕立鰻
梅雨韻
白猫

解説 高橋英夫
「無絃琴」雑記 平山三郎
2020/01/31

内田百閒『続百鬼園随筆』(1934)

旺文社文庫(1980)

『百鬼園随筆』(1933)がヒットしたので編まれた第2弾、なんだと思う。
 全体は4ブロックに分かれる。最初の「近什前篇」と最後の「近什後篇」がいわば新作パートで、そこに入っている計22篇はだいたいが『百鬼園随筆』のあとに書かれたものらしい(巻末についている平山三郎の「雑記」による)。
 で、それらは――『百鬼園随筆』のあとで読むと――意外なくらい、ふつうの随筆に見える。あの“次に何が出てくるのかわからない”、そして“読んでいるこれが何なのかわからない”アナーキーさを期待すると肩透かしを食う、というのが正直な感想。
 もちろんふつうのエッセイとして面白い、と急いで付け足して、いくつか引用する。

 まず「立腹帖」。子供の時分、腹を立てすぎて怒りのあまり歯ぎしりをしていたら耳が動くようになったという百点のエピソードから始まって、自分が真剣に腹を立てたときの出来事と、その際の心身の具合を書いていく。
 もっとも強烈な怒りは関東大震災の前、新橋駅で駅夫から「不正乗車をした」と決めつけられた話。もちろんそんなことはしていないので抗議すべく駅長室へ行くが、駅長は聞く耳を持たず駅夫に加担する。ここまで、段階的に腹立ちが増していく。
《「失敬な事を云ふな」と云つた拍子に、私は声が咽喉[のど]につかへてしまつた。怒りのために、身体の方方が、ぴくぴくふるへるのが自分で解つた。》p20

《階段や、プラツトフオームにゐた澤山な人の顔が、ただ、ぽかりぽかりと浮動してゐる白い汚染[しみ]の様にしか見えなかつた。》p21

《私は、あんまり腹が立ち過ぎて、口の中がかさかさに乾いてしまひ、咽喉の奥にも苦い物がこびりついて、急には声が出なかつた。》p21

 わかる。すごいよくわかる。わたしも同じような状態に陥った15年くらい前の高田馬場ドトールでの出来事を思い出し、あの店はまだあるのかGoogleマップで探してしまった(なかった)。
 窮した百閒は、自分はそんなことをする人間ではないと示すため名刺を出す。当時教えていた海軍機関学校と陸軍士官学校と法政大学の肩書きをまとめて刷り込んだ「護身用」の名刺である。
《駅長はその名刺を取り上げて、暫らく眺めてゐる内に、不意に足音をたてて起[た]ち上がつた。あつけに取られてゐる私に一礼した上で、
「御身分のある方に対して、誠に失礼いたしました。謹んでおわびを申します」
 それから、駅夫の方を指しながら、
「部下の失態につきましても、私からおわび申上げます。何分数多い乗降客の中で、お人柄を見誤つたものと存じますから、平にご容赦願ひます」と云つた。その云ひ方が、非常にしらじらしくて、私は益[ますます]腹が立つた。何か云はうと思つてゐると、駅長は起つたなりで、重ねて切り口上で云つた。
「私からおわび申上げます。部下は後程よく叱り置きますから、これでお引取り下さい」
 私は駅の前に出たら、空も道も真つ黄色に思はれた。黄色い道がまくれ上がつて、向うの通から、家竝[いへなみ]の屋根の上に跨がつてゐる様な気がした。》pp22-3*太字は引用者、以下同じ

 強い感情が身体(耳)を動かすばかりか、感覚までおかしくするのを文章で書き留める。わたしが百閒の本から拾いたいのはそういうところである。
 そして「続立腹帖」もある。こちらで回想されるのは、森田草平と飲んでいた夜のこと。なりゆきでふたりは別の座敷にいた慶応大学の学生たちに絡まれる。次第に空気が不穏になって、帰る間際、ひとりがとつぜん百閒の横面を張って《私が向き直る隙もなく、その男は、もう往来の暗闇に姿を隠してゐた。》
《帳場から飛び出して来た男達に抱き止められたまま、私は憤激の為に身体がふるへて止まらなかつた。
 私は、どんな手段によつても、この男を探し出さなければ承知しないと考へつめた。二日も三日も心が平静に返らなかつた。
 それから十年たつてゐる。その時殴られた恥よりも、その恥を十年後の今日、なほ忘れ得ない妄執の方を、恥づかしく思ふ可[べ]きである。しかもその恥を更に自ら文に綴つて、人中にさらして悔いない程、私の遺恨は深いのである。》p25

 この文章を百閒は、「三田新聞」の原稿依頼に応えて書いている。ねにもつタイプ。わたしが百閒の本から拾いたいのは、こういうところでもある。

 次は「炎煙鈔」。子供のころから火事を見物するのが好きだった百閒が、数かずの火事の様子を綴る。生き物のような炎の書きぶりを見てほしい。
《昼火事は、従兄の家のすぐ裏なのであつた。もう大方荷物を運び出した後の、がらんとした家の中から見通しになつてゐる裏の藁屋根の家の廂[ひさし]を、炎が流れる様に這[は]つて行くのが見えた。》p170

《さうして今度表に出て見た時には、往来はあわただしくなり、郵便局の前で人人が罵り合つてゐた。外から表の戸を破つたのださうである。何となく辺りが明かるくなつた様に思はれ出した。油屋の中庭から、内側で燃えてゐる燄[ほのほ]の色が、空に映り始めたらしい。さう思つてゐるうちに、不意に大きな火の筒が、屋根の棟を突き抜けて、暗い空に、ばらばらと火の子を吹き上げた。
 燃えさかつてゐる最中に、油屋の二階から、火を引いた油が真赤な瀧になつて、辺りに渦巻いてゐる大きな燄の中に、不思議な光りを放ちながら、流れ落ちた。》p171

 さらっと書き流すようで、百閒の炎は、たしかに流れている。いまのは昭和9年(1934)の文章だが、その11年後、昭和20年4月14日にあった出来事を『東京焼盡』(1955)から書き写す。どうもわたしは『東京焼盡』が好きすぎるな。この日は午後11時に空襲警報が鳴った。
《大概大丈夫と思はれる様になつてから土手の方へ行つて見たが、丁度その時雙葉の一番こちらの外れの一棟が焼けてゐるところにて、その火が土手沿ひの道にかぶさつてゐる何百年かの老松の枝に移り、白い色の燄[ほのほ]が水の傳[つた]はる様に梢から幹に流れた。雙葉の一郭は大変な火勢にて、すつかり火の廻つた庇[ひさし]だか天井だか解らぬ大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふはりと浮かび、宙を流れる様に辷[すべ]つて、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えてゐる。土手が燃えるかと更[あらた]めて感心した。アスフアルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いた様に散らかり、風の工合では吹き寄せられて一所にかたまつたり、又一ぱいに広がつたりしながら、きらきらと光つてゐる。道もせに散る花びらの風情である。[…] 大分寒くなつたが、雙葉の火に暫く向かつてゐると暖かくなる。》『東京焼盡』(旺文社文庫)p115

 どうしてこんな文章が書けるんだ、と空恐ろしい気持でいたが、B29が来なくても、むかしから家は燃えており、むかしからそれを百閒は見ていた。でもだからって、どうしてあんな文章が書けるんだ。

 ところでこの『続百鬼園随筆』が珍しいのは、新作に挟まれた真ん中に、新作ではないパートがあることである。それは旧作も旧作で、なにしろ百閒が十代後半から二十代のはじめに書いた文章が集められ、「文章世界入選文」と「筐底稺稿」というくくりでまとめられている。
 まず「文章世界入選文」。その当時「文章世界」なる文章指導雑誌があり、百閒は17歳から18歳にかけて投稿を続けていた。選者は田山花袋。採用されたもの・されなかったものが計8篇読める。
 とはいえ、それらはいわゆる写生文の練習で、起きた出来事・見た景色をありのままであるかのように綴ったものであり、「百閒の若書き」という前提がないと(いや、あっても)あんまり面白くはない。こんなに細かいところまで気付いたんですよ、という観察のための観察めいた部分も目についた。
 しいてあげれば、8篇中最初の3篇が「乞食」といって家の前を通りかかった盲目の乞食を「おい。目くら」と呼び止め食べ物を与える話と、「按摩」といって家の前を通りかかった按摩を「おい、按摩や」と呼び止め家に入れて祖母のマッサージをさせる話と、「靴直し」といって家の前を通りかかった靴直しを「おい靴を直して呉[く]れんか」と呼び止め靴を直させる話、と連続しており、この一方的な上下関係を繰り返し題材に選んでいる事実が百閒青年の何かを示唆することになったりするのか、ほんの少し気にかかる。
 このころは百閒もまだ百閒ではなかったのかな、とページをめくって「筐底稺稿」。「稺」を調べると「稚」のことだったので、ずっとしまってあった幼稚な文章、くらいの意味なのかもしれない。ところが最初の「鶏蘇佛」を読み始めると、いきなり様子が違うのである。
《何でも本を読まねあおへん、と堀野は何時[いつ]も云つた。それから、早く読むと云ふのが自慢であつた。仰山読まうと思や、早う読めねあおへん、と堀野が口癖の様に云ふ、僕は成程[なるほど]と思つて、成るたけ早く読む様に稽古をした。堀野と友達になつた御蔭で、急に本を読むのが、好きになつた。》pp112-3

 こんなふうに仲がよかった中学(旧制)時代からの親友、堀野。《その堀野が死んで仕舞つたのである》。これは早逝した彼の思い出を綴った追悼文だった(「鶏蘇佛」は堀野が俳句を作るときの号)。
 こんなふうに遊び、こんなことをしょっちゅうやって、《まだ続く筈[はず]の所を、七年目に堀野が死んでしまつた》。堀野はこんなことをした、でも堀野は《死んで仕舞つた》。堀野はこう言って、自分がこう思っていたら堀野は《たうとう死んで仕舞つた》。こんなことがあった、《そのうちに堀野が死んだ》。
 やったこと、言ったことをひとつずつアルバムに収めるように書き記しつつ、時間が経ってからも間隔をおいてぶり返してくる感情をそのままなぞっているのか、「死んだ」「死んで仕舞つた」と重ねていくこの13ページの文章は、さっきの写生文に比べると子供と大人以上の開きがある。百閒がこれを書いたのは高等学校(旧制)在籍時で、写生文とせいぜい2年しか違わないことにおどろく。
《去年の秋、同窓の井上啓夫君が死ぬる前、堀野と二人で見舞に行つた。帰りに色色[いろいろ]病人の事を話しながら、畦道を傳[つた]つた。その内に日が暮れかかつた。僕が何時[いつ]も散歩する辺であるから、僕は割合平気であつた。堀野が、此[この]辺の道案内は、一切あんたにまかしぢや、と云ふ。僕が先になつてずんずん歩く。後から堀野がてくてくとついて来る。何時の間にか、二人とも亡父の話しをして居た。しみじみと話し合つて行くと、秋草が頻[しき]りに裾[すそ]に触れた。農家に灯がちらつき始めた。もうこんな話は止めよう、と堀野が云ひ出した。それから、堀野の内へ帰つて、明かるい洋燈[ランプ]の下で、お祭の御馳走をよばれた。》p118

 このころから百閒はもう百閒だったんだな、と考えを改めながら、今よりずっと身近に死があった時代のことをちょっと思った(この「鶏蘇佛」のあとに続くのも、別の友達の追悼文である)。
《鶏蘇佛の遺友は、君が生前の友誼[いうぎ]をかたみとして、若き日と分れた。これから後の年月に、蚊柱の夕、落葉の暁を数へつくして、黄壌の君が僕を忘れる時があらうとも、僕は嘗[かつ]て君と共に花を踏んで惜しんだ少年の春をいつまでも偲ぶであらう。
   入る月の波きれ雲に冴え返り》p123

 このまっすぐさを見たことで、後年の変幻自在な文章がいっそう底の見えないものになった気がする。なお、ここではひと言も触れられていないけど、この堀野には妹がいて百閒は――というのはまた別の話だった。次は『無絃琴』です。



■ 旺文社文庫『続百鬼園随筆』(1980)目次:
近什前篇
 雞鳴
 春秋
 立腹帖
 続立腹帖
 傅書鳩
 百鬼園師弟録
 或高等学校由来記
 食而
 大晦日
 目白
 学校騒動記
 大鐘

文章世界入選文
 乞食  按摩  靴直し  大晦日の床屋  西大寺駅  初雷  参詣道  私塾

筐底稺稿
 鶏蘇佛  破軍星  雀の塒

近什後篇
 風燭記
 俸給
 啞鈴体操
 黄牛
 薬喰
 忠奸
 掏児
 炎煙鈔
 南蛮鴃舌[ちいちいぱつぱ]
 琴書雅游録

解説 内田道雄
「続百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*確認していないけれども、新潮文庫の『続百鬼園随筆』には(仮名づかい以外は)同じものが入っていると思う。
*ちくま文庫『立腹帖』には、「立腹帖」のほかは鉄道関係の文章が集められている模様。「続立腹帖」がないのか…
*福武文庫『長春香』なら「鶏蘇仏」が入っていることがわかった。

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2020/01/21

内田百閒『百鬼園随筆』(1933)

旺文社文庫(1980)

 文庫本の裏にある紹介文を引用する。
《幼時の思い出を語り、債鬼に追われる顛末を録し、さり気ない身辺のことどもを綴りながら、その平易な文章の裏側に恐るべき哄笑の爆弾が仕掛けられている。室生犀星をして“天下無敵”と賛嘆せしめた日本語の精華。昭和初期に随筆ブームを巻き起し、内田百閒の名を一躍高めた古典的名著。》

 昭和初期の「随筆ブーム」も気になるが、それはともかくこの『百鬼園随筆』は、たしかにここに書かれている通りの本である。
 幼時をはじめ、さまざまな思い出を語る文章が、たしかにある。債鬼に追われるほか、実際に起きたのだろう出来事の顛末や、もっと地味な身辺のあれこれを綴った文章も、たしかにある。何も間違ってない。
 この本を読み返すたびに思うのは、しかし、ひとつひとつの文章の書かれっぷりはおそろしく雑多だということだ。「たしかに思い出話」「たしかに身辺雑記」と分類できて、そういうものとして落ち着いて味わっていられるものがたくさんがあるいっぽう、「こんな書かれ方のエッセイがあるものか」「これはもう小説じゃんよ」と立ち上がってしまう文章も山ほどある。そんなあれこれのすべてをひっくるめ、一冊に収める枠に何とか使えそうなものとして“随筆”を持ってくるしかなかったんじゃなかろうかと、あきれながら感心する。つまり、ここで“随筆”は何の枠でもない。『百鬼園なんでも箱』である。
(だから何も調べずに決めつけるが、この本の題と同じ意味での“随筆”がブームを起こすなんてありえないだろう)

 たとえば、子供のころの思い出話に「遠洋漁業」がある。千島の探検をした郡司大尉の講演を聞いて真似をしたくなった百閒少年は、幼馴染みの「壽さん」といっしょに目高[メダカ]を30匹捕まえる。保存食にするために干して乾かし、それから火鉢で煎って醤油で味付けまでして、ひどい臭いがするけれども空き鑵に入れて戸棚にしまう。
《さうしておいて遊びに出た。私共は一先[ひとま]づ目高の事を忘れなければいけない。さうして、腹がへつて帰つて来て、何か食ふものはないかと考へた時に、目高があるから、あれを食つて飢ゑを凌[しの]がうと思はなければ面白くない。しかし、外に出て見ても、目高の事ばかり気になつて、忘れる事はとても出来さうもないから、又ぢきに帰つて来て、二人で目高を食ひ始めた。鑵の中から出して、一匹づつ食つた。にがくて、煙臭くて、口の中がぢやりぢやりして、ちつともうまくない。》p36

 そりゃそうだろうという話ながら、もう一文だけ続きがある。
《それを我慢して、幾匹も幾匹も食つてゐる内に、何となく悲痛な気持になり、何を云ひ出したのか忘れてしまつたけれど、後で壽さんと喧嘩[けんくわ]をして別れた。》p36

「悲痛な気持」から唐突な喧嘩に流れる子供の心理を、さっきあったことのように簡単にたぐり寄せて文章にしている(少なくとも、そんなふうに見える)手つきに、目の覚める思いがする。書いているのは、当たり前だが子供じゃないのに、である。

 たぶんこれよりさらに幼いころの思い出が「虎列剌」。読み方は「コレラ」で、あの伝染病を漢字だとこう書くのはこの本ではじめて知った。
 家族で海水浴に行って旅館に泊まっていたら、夜中に2階で虎列剌の客が出た。叩き起こされ、慌ててみんなで未明の海辺を逃げることになる。
《土手の道は暗かつた。足許[あしもと]の石垣の下で、浪が砕けるたびに、ぴかりぴかりと光るものがあつた。細い道が、あやふやな薄明りで、魚の腹のやうな色をして伸びてゐるけれども、直[す]ぐ先で闇との見境がなくなつてしまふ。後から何だかついてくるらしかつた。虎列剌と云ふ恐ろしいものが、わざと姿を消して、私共を追つかけてゐる様に思はれた。
 夜が明け放れてから、港の町に著き、そこで俥[くるま]を雇つて駅に出た。巡査や駅員のゐる所では、だれも口を利かなかつた。》p16

 その語を聞いても意味がわからなかっただろうコレラから逃げる(=コレラが追いかけてくる)怖さ――もしかすると「怖さ」とさえはっきり理解できていなかったかもしれない、わけのわからなさ――が、「虎列剌」の文字面と相まって、それを何か生き物のような存在にしてしまっている。コレラがそのようなものに思われた幼時の感覚に似た印象を、もう幼児ではない読者に対し、「虎列剌」の文字面を使った文章で再現しているとでも言おうか。こんなふうに言葉を使うから、思い出話も思い出話だけには収まらなくなって、「虎列剌」が読んでいるいま、こちらにまで忍び寄ってくる感じがする。

 かと思えば子供時代のずっとあと、書いている現在に近く、いわゆるふつうのエッセイにも近いのが「大人片傳」。これは語学教師だった百閒の「鳳生大学」での元同僚、大人[たいじん]こと森田草平のエピソードを集めたものだが、その大人が出てこなくても、教員室でのお昼について書いている部分はとくに面白い。
 そこでは毎日11時になると昼食の注文を取る。人がいいものを食べていると自分も御馳走を食べたくなるが――
《一体出先の午食[ひるめし]に御馳走を食はうとするのは、何と云ふ浅間しい心根だらう。明日からは握り飯を持つて来る事にきめたいと思ふのである。さうして手辨当を一日二日続けると、また他人[ひと]の食つてゐるものが欲しくなる。忽[たちま]ち握り飯を廃止して、暫らく振りに天丼を食ふ。初の二口三口は前後左右の物音も聞こえなくなる程うまい。しかし凡[およ]そ半分位も食ひ終ると、又いろいろ外[ほか]の事を考へ出す。御飯が丼の底まで汁でぬれている。天丼と云ふものは、犬か猫の食ふものを間違へて、人間の前に持ち出したのだらう。ああ情ないものを食つた。明日からは、もう何も食ふまい。腹がへつたら、水でも飲んでゐようと考へる。》pp97-8*太字は引用者、以下同じ

 勝手すぎるし極端すぎる煩悶だが、わたしはこれを読んだ次の日に天丼を食べに行った。ともあれ、そこに大人が登場する。
《さう云ふ教員室の午食時[ひるめしどき]に、草平大人は、脇目もふらず、お皿を鳴らしてライスカレーを食つてゐる。》p98

 この「お皿を鳴らして」という、一見何気なく読み流しそうなのに、よく考えれば考えるほど卓抜なものに思えてくる表現は、よそで見たおぼえがない。スプーンを急いで使うとき、鳴るのはたしかに皿である。ほかに用例はあるのだろうかと訊きたくてここを引用した。あるんだろうか。
 身の回りの小さなことが面白おかしく書かれるだけでなく、スペクタクルが描かれることもある。大正12(1923)年の関東大震災よりも前、海軍の機関学校に勤めていた百閒は、週一で学校のある横須賀まで行っていた。駅からの道の途中に工廠があり、「恐ろしく大きな軍艦」が建造されているのを行きも帰りも見て通った。
《鉄骨の足代の底から、伸び上がつて来た鉄壁が、いつとはなしに、見上げる様な高さになり、煙筒も帆柱もない、のつぺらぽうな大きな船の形になる迄に、一年かかつたのか、二年たつたのかわからない。鉄骨の枠の中に、その大きな物体が固定して、もうちつとも伸びなくなつてからでも、一年ぐらゐは過ぎたらうと思ふ。毎週一囘づつ、横須賀に行く私には、向うの岬の展望を遮つて、枠の中に赤黒い丘の如く聳え立つてゐる陸上の船が、横須賀の自然の一部となつてしまつたのである。》p30「進水式」

 その船がいよいよ完成した進水式に、百閒も呼ばれる。
懸橋は段段に高くなつて行つて、厳[おごそ]かにしつらへられた台に通じてゐる。辺[あた]りの気配が次第に引きしまつて来るらしかつた。その台の上に起[た]たれた高貴の方[かた]が、小さな黄金の槌を挙げられたのを、遙かに拝したやうな気がした。不意に辺りがしんとして、息がつまる様に感じた瞬間、忽[たちま]ち何処からともなく湧き上がる様なざわめきが傳[つた]はつて、それが段段に大きくなつて来た。軍艦の胴体を繋ぎ止めた最後の綱の端が、高貴の方の前に導いてあるのを、黄金の槌を以[も]つて打ち断[き]られたのである。大きな薬玉[くすだま]が割れて、鳩の群が出鱈目の方角に乱れ飛んだ。どよめきが益[ますます]大きくなつて、何の声だか、響だかわからなくなつた途端に、私は、はつとして全身に水をかぶつた様な気がした。すぐ目の前にある赤黒い丘が、少しづつ動き出したのである。まはりのどよめきは怒号に達してゐる。その中に、微[かす]かに音楽の音色も混じつてゐるらしい。胴体が辷[すべ]り出した。見る見る内に速さを増した。辷つて行く艦底を目がけて、砂囊を無暗[むやみ]に投げつける人があつた。何処かで、火花が條[すぢ]のやうに走つたと思つたけれど、はつきり意識する事が出来なかつた。足の尖[さき]から、地響が傳はつて、段段大きくなる様に思はれた。
 赤黒い胴体が、速さを増して海の方に遠ざかるにつれて、少しづつ、輪廓の収縮して行くのがわかる様な気がした。それが何とも云へぬ物凄い感じを與へた。
 遠くに見える海面に、白浪をたてて、のつぺらぽうの軍艦が浮かんだのを見ても、何となく気持がぴつたりしなかつた。あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた。ただ、今まで目の前にそそり立つてゐた大きな物が急になくなつて、その向うに大勢の人の顔が一ぱいにつまつて居り、向きの違つた風が吹いて来て、辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》pp31-2「進水式」

《あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた》と言っているけれども、こうやって文章で、ただ文章だけで、「あんまり勝手のちがつた光景」のスケールを紙上に収めようとしていることにわたしはちょっと感激する。そのうえで、《辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》なのである。
 なお、震災後に百閒はこの横須賀の様子を見に行く。
《駅の前の広場を過ぎて、すぐに崖の下の狭い道にかかる所の様子が変つてゐた。暗い筈の道が妙に明かるかつた。見上げる崖の上の山の姿が、すつかり変わつてしまつて、高さがもとの半分にも足りなかつた。大地震が、横須賀の自然を変へてしまつたのである。姿の変つた山を見上げた時、私は不意に芽出度[めでた]い進水式当日の記憶から、急にゐなくなつた、のつぺらぽうの軍艦の姿をなつかしく思ひ出した。》p32「進水式」

 この人は「大きいもの」、「大きな変化をもたらすもの」によく惹かれ、果敢に観察して文章化を試みる。そしてまず「大きいもの」として、自然が捉えられている気がする。『第二阿房列車』(1954)でも、車窓に日の出と富士山の組合わせを見て仰天するところとか、水害のあとの阿蘇山の絶景を写し取った部分があった。「大きいもの」として、自然を描く調子と建造物を描く調子とに違いがなく、半分なくなった山といなくなった軍艦が重ねられるとすれば、『東京焼盡』(1955)も同じように自然を観察する眼で見られ描かれたものとして読めるかもしれない。いまひどく乱暴なことを書いた。

 大きいものの対極の小さい文章として、アフォリズムのように読めるものにも、たびたびびっくりさせられる。
《本を読むのが段段面倒くさくなつたから、なるべく読まないやうにする。読書と云ふ事を、大変立派な事のやうに考へてゐたけれど、一字づつ字を拾つて、行を追つて、頁をめくつて行くのは、他人のおしやべりを、自分の目で聞いてゐる様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなささうな気がする。》pp39-40「風呂敷包」

《「己[おれ]は嘘はついてもそんな嘘はつかない」と彼が云つた。方針を立てて嘘を吐くのを恥づかしいと思つてゐない。》p67「梟林漫筆」

私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど、書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 砂糖をなめて「甘い」と言うみたいで気が引けるが、百閒の文章は本当に自在である。その自在な文章の粋を尽くして書かれた頂点として、わたしは「地獄の門」を選びたい。なんだか言葉遣いが大げさになってしまって恥ずかしい。
 これは金に困った「青地」という名を持つ「私」がはじめて高利貸の家を訪ねるところから書き起こされ、金を借りるまでにどんなやりとりがあったか、そしてそれからどうなっていったかを描いた、一種の小説だとまずは言えそうである。それにしても冒頭からもう怖い。
《暗い横町の角を曲がつて、いい加減な見当で歩いて行つた。今まで、大通で向かひ風を受けてゐたのに、急に風の当たらない向きになつたので、頸[くび]から顔がほてつて来るやうに思はれた。しかし、その所為[せゐ]ばかりでもないらしい。軒燈に照らされてゐる表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだんに近くなつてゐる。道端に寝てゐた犬が寝返りした拍子に、私はびつくりして、飛び上がつた。
 暗い小路を二三度曲がつて、もうここいらに違ひないと思ふあたりを探して歩いたけれど、路地ばかり無暗[むやみ]に沢山あつて、なかなかその家は見当たらなかつた。初めての、知らない家を訪ねるのだから、夜ではわかりにくいと思つたけれど、昼日中[ひるひなか]、さう云ふところを訪問する元気はなかつた。》p132

 気は進まない・だがほかに方法がない、という重苦しい気持を抱えて、しかも見つからない家を探さないといけないのである。気が滅入る。
《酒屋で教はつた角を曲がつて行くと、暗い道が、少し坂になりかかつたところに、変に明かるい街燈が一つ起[た]つてゐた。手前の家の石垣の陰になつてゐて、余程傍まで行かなければ見えなかつたのである。近づいて見ると街燈の丸傘に「田島」と云ふ字が、はつきりと読めた。私は、はつとして、その字を横目にちらりと見たきり、急いで前を通り越して狭い坂道をどんどん下りてしまつた。》pp133-4

 この「はつとして」目当ての家をいったん通り越してしまう心理が、痛いほど、嫌になるほど、よくわかる。このあと、借金の手続の進められる様子がおそろしく細かく描かれ、それは「私」が受け入れるべきでないことをひとつずつ受け入れていく(ほかに方法がない)過程と言っても同じだが、読んでいるこちらは《私は顔の熱くなるのを感じた。》(p145)など自身に向けられた直截で容赦ない表現を追いながら見守ることしかできない。
 心胆を寒からしめるというのはこういう文章のことかと思うけれども、百閒の観察は苦しむ「私」を見つめつつ、苦しめる高利貸「田島」の人となりをも容赦なく浮き彫りにしていく。借金、しかも高利貸の現場において優勢・劣勢は一方的だろうが、その文章化ということになると、決してそうとは限らないようである。それも、高利貸の非道を筆の力で暴く、みたいなことでは全然なく、ただその現場を丹念に描写することで、この作者は上述のすべてを行なうのである。
《私は、それから直[す]ぐに帰つた。
 玄関には、また細君が控へてゐて、同じやうな挨拶をした。今夜は昨夜ほど、顔が長くないやうに思はれた。
「やあ」
 と主人が、昨夜の通りの強い声で、私を送つた。
「御免下さいませ。お気をおつけ遊ばしませ」
 と云ふ細君の声が、玄関の前に迫つてゐる崖の、暗い石垣にぶつかつた。》pp151-2

 自身の経験に材をとっているのは間違いないにしても、みずからの姿を書き、相手を書き、さらに別の人間に焦点がスライドしていくこんな文章を読んでいくうちに、これはもう自身の経験の話ではなくなっている。入口と出口がちがっていて、最後のページで「いま自分は何を読んだんだ」と茫然としてしまう。

 いくつか抜き出しただけでも、これだけさまざまな文章が集められた百閒の文章の見本市、バラエティボックスみたいな一冊がこの『百鬼園随筆』で、最後に「手套」というスケッチを、文庫本の1ページ弱なので全文書き写す。こんなにも小さな出来事と、こんなにも小さな心の動きを、よくも「書くべきもの」としてとらえ、よくもこんなに丁寧かつ簡潔に書いたものだよなとつくづく思う。
《某月某日私の乗つた電車が水道橋を過ぎる時、私は金入れの中から囘数切符を出さうとした。その時手袋をはめてゐたので、手先が利かないため、十銭の小さい銀貨がついて出て、下の床に落ちた。私はその落ちた事も、落ちた所も知つてゐた。だから先[ま]づ切符を一枚切り取つてから、序[ついで]に煙草代を十五銭出して置くうちの十銭は、今落としたのを後で拾ふ事にしてもう五銭だけ金入れの中から出して、それをずぼんのポケツトに入れてしまつてから、最後に床に落ちてゐる十銭を拾ふつもりでゐた。さうして私が切符を切り取つてしまつた頃、丁度私の前に腰をかけてゐた学生が、わざわざ席を起[た]つて来て、私の足許[あしもと]に落ちてゐる銀貨を拾つて、私が気がつかないでゐると思つたのだらう、一寸[ちよつと]会釈しながら私に渡してくれた。私は気の毒な事をしたと思つて、礼を云つてそれを受取つた。けれども、その時初めて気がついたらしい、驚いた様な風も出来なかつたし、したくもなかつた。又する必要も認めなかつた。その私の落ちついた冷やかな態度の中に、その学生は、私が銀貨を落とした事を知つてゐて、後で拾はうと思つてゐた事に気がついたらしかつた。いくらか間のわるい様子をして、出口の方に行つてしまつた。私は本当に気の毒な事をしたと思ひ、その親切な学生にすまなかつたと思つた。けれども相手の親切に報いるため、もつと驚いた様子をすべきだつたとは考へない、又その学生が、彼の敢[あへ]てした親切のために、それ丈[だけ]の極[き]まりの悪さを負はされるべきものだとは猶更[なほさら]考へない。》pp58-9

 次は『続百鬼園随筆』です。



■ 旺文社文庫『百鬼園随筆』(1980)目次:
短章二十二篇
 琥珀
 見送り
 虎列剌
 一等車
 晩餐会
 風の神
 髭
 進水式
 羽化登仙
 遠洋漁業
 居睡
 風呂敷包
 清潭先生の飛行
 老狐会
 飛行場漫筆
 飛行場漫録
 嚏
 手套
 百鬼園先生幻想録
 梟林漫筆
 阿呆の鳥飼
 明石の漱石先生

貧乏五色揚
 大人片傳
 無恒債者無恒心
 百鬼園新装
 地獄の門
 債鬼

七草雑炊
 フロツクコート
 素琴先生
 蜻蛉玉
 間抜けの実在に関する文献
 百鬼園先生言行録
 百鬼園先生言行餘録
 梟林記

解説 戸板康二
「百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『百鬼園随筆』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っている。芥川龍之介の手になる百閒像を使ったこの表紙はたいへんよいものです(買ってしまった)。

百鬼園随筆 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社
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2019/10/26

内田百閒『第三阿房列車』(1956)

旺文社文庫(1980)


 こないだ『第二阿房列車』の感想を書いたとき、ぜひとも引用するつもりでし損なった箇所があったので、まずそこから書く。
「雷九州阿房列車」で大分に着いた百閒は、早くも駅長室で新聞記者や放送局の人間に囲まれ取材を受ける。自分に向けられた小さな円柱形のマイクを百閒は「マイク」とは書かず、「お菓子の五家宝」に喩える。そんな物体を差し出しながら記者いわく、「高崎山の猿を見に来られる筈だと云ふ記事が、こなひだの新聞に出て居りました」。
 巻末の平山三郎氏の解説によれば、この九州への旅は昭和28年(1953)の6月。ちょっと調べると、大分市万寿寺別院の和尚が野生の猿に餌付けして「高崎山自然動物園」を開園したのが同じ昭和28年の3月だというから、東京からはるばるやって来た百閒の目的もその猿を見ることだろうと誤解されても仕方なかったのかもしれない。でも百閒は百閒であり、これは阿房列車なのである。
《私の場合、猿の方で私をどう思ふかは知らないが、私は猿の顔は好きでない。[…] 猿の顔は憎い。見てゐると腹が立つて来る。さうして人間の内のだれかその猿に似た顔を思ひ出して不愉快になる。今迄に私が見た猿の数は、さう多くはないから、自分の経験だけで全豹を律するわけに行かないかも知れないが、私は猿を好く思つてはゐない。》「雷九州阿房列車 後章」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p158

 いつになく強い調子なのでちょっと意外に思っていると、さらに子供の頃の思い出として、家の者が見世物小屋にいた猿に蟹の入った袋を渡し、猿が大いにうろたえるのを百閒も面白がって見ていた、という回想が挿まれる。あまつさえ、いま、高崎山の猿にも蟹を土産に持って行ったらどんなことになるだろうと想像したりする。どうも百閒は猿が相当嫌いであるらしい。猿の顔は憎い。私は猿を好く思つてはゐない。こんなところにも百閒の偏りはあった。しかし書いておきたかったのは、猿よりも五家宝のことだった。
《「行くとすれば午後だが、明日になつて見なければわからない」
「折角いらしたのですから、成[な]る可[べ]く行つて御覧なさい」
「さうしませう。しかし行かなくても、猿と約束はないし、彼らは僕を待つてはゐない」
 五家宝[ごかばう]が口のそばにあると、何だか息苦しい。君、もういいだらうと云つたら、よしてくれた。
 口を利[き]いた時間よりは、黙つてゐる間の方が長く、ぼつりぼつり話しただけだが、テープレコーダーと云ふ物は、黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせるさうである。その晩宿屋に落ちついてから聞くと、私がラヂオで何かしやべつてゐたさうで、こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である。五家宝につかまつたら、さうなる事は解つてはゐるが、何しろあの仕掛けは、聖代の不祥事だと思ふ。》pp160-1

《黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせる》。《こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である》。
 わたしがよくやっている、本1冊のあちこちから部分部分を切り取って――「引用」ということで文章は「そのまま」であるようにして――並べるのも、実際に書いた本人からしたら、都合のよい所だけテープをつなぎ合はせるのと同様、書いてもいないことを書いたように仕立てる勝手な真似なのかもしれないと考えると、聖代の不祥事のささやかバージョンなのかもしれず、何だか申し訳ない気持になった。
 だから、というわけではないけれど、今回の『第三阿房列車』の感想はなるべくページの順で書いてみる。


■ 「長崎の鴉 長崎阿房列車」

 阿房列車の名前にサブタイトルがついているのは『阿房列車』『第二阿房列車』にはなかった本書からの趣向だが、書いてあることはいつもの阿房列車で好調である。
《出発当日の日曜日、照れ臭い様な秋晴れの上天気である。お午まへに、雨を含めるヒマラヤ山系君がやつて来た。いつでも私の所で荷ごしらへをしてから出掛ける。旅具を詰める鞄は、すでに借りて来てある。鞄は交趾[こうし]君の所有であるけれど、かう度度、いつもきまつて私が使ふなら、私の物だと考へてもをかしくはない。私がさう考へる事は、少しも他に影響する所はない。又行く先先の宿屋の女中や、列車ボイや赤帽が、一一借り物だよと私がことわらない限り、勿論私の鞄だと思つてゐると云ふのは、客観性の裏打ちである。人がさう思ひ私自身もさう考へるなら、貰つてしまつてもよささうに思ふ。「交趾君、貰はうか」と云つたら、彼はいやだと云つた。いやなら貰はなくていい。私が使はない時、彼が使ふ時、彼の手許[てもと]に在るのは一行差支ないから、私が貸したつもりになつてもいいし、さう云ふ考へ方はいけないなら、さう思はなくてもいい。
 その鞄の、柔らかい光沢のある皮が、はちきれるほど詰め込んでから、さて、出掛ける事にした。》p10 *太字は引用者、以下同じ

 こういう無茶を言う人の風景描写が一級品であることを、読む側のわれわれはどう受けとめればいいのだろう。どうにも片付かないので、いつでも、いつまでも、「ほれぼれ」と「何でだよ」の間で揺れる振り子になってページをめくることになる。
《由比駅の前後に見る清見潟の海波は、今日はいつもより大分高い様であつたが、水は美しく澄んで、磯辺の風情を点綴[てんてい]する波間の岩に、真白い繁吹[しぶ]きを打ち上げてゐた。
 安倍川でも大井川でも、それから随分行つた先の天龍川でも、おのおの色合ひは違ふが、どの川も川上の空に夕暮れの色を残してゐた。天龍川では大分暗くなりかけた靄[もや]の中に赤い筋が流れて、心無き阿房列車の旅心をそそつた。》
[…]
《遠州平野の遠い向うの山の端に、光は消えてただ色ばかりが残つてゐる大きな落日の沈んで行くのを見入つてゐる時、風圧で窓を押し曲げる様な擦れ違ひ列車が来た。一瞬で通り過ぎたのに、その後にもう落日はなかつた。》p14

 長崎阿房列車ということで、九州に行くとなれば百閒は熊本県八代の松浜軒まで足を延ばす。『阿房列車』の「鹿児島阿房列車」以来訪れるのも4回目、珍しく実名で書くほどお気に入りである。もとは八代城主の庭園で、「いまでは旅館としては営業していない」みたいな説明を百閒関連のガイド本か何かで見た気がするが、ここによれば、戦後すぐの昭和天皇の巡行で御宿泊所として使われた → それをきっかけに旅館経営をしていた時期がある、みたいなことらしい。
 そういえば最初の「鹿児島阿房列車」には、案内してくれた人から百閒が、陛下の泊まった部屋を使ったらどうかと誘われる場面があった。行って見てみると畳の座敷があんまり広いので、《差し押へに立ち合つた様な気がする》と率直すぎる感想を述べていた(『阿房列車』pp136-7)
《巡行の陛下も、宿屋では旅客として宿泊料をお払ひになる建て前だと云ふ新聞記事を読んだ。一人一室一泊一円と云ふのは昔の早稲田ホテルであつて、その当時は方方に一泊一円が流行した。陛下はさつきの広間に一室一人で一万円ださうである。戴かなくてもいいし、戴きたくないし、戴いても合はぬさうだが、時勢でさう云ふ事になつて、下し置かれるのでなく、御支払ひ遊ばされるのだから止むを得ない。
 女中に、お心附けを頂戴したかと尋ねたら、「まあ。そんな」と云つたきりで口を噤んだ。それは女中の方が当然である。お酒の上の無駄口をつつしむ事にして、後は内攻した。》「鹿児島阿房列車 後章」、『阿房列車』(旺文社文庫)p137

 この『第三阿房列車』でも、松浜軒にはあとでまたやって来る。そして陛下というか皇族についてもあとでまた記述がある。


■ 「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」

 九州の次は房総半島で、ルートがふたつの楕円を描くので「鼻眼鏡」ということになっている。三等列車で小刻みな移動を続けるのはこれまでなかった。いろいろやっている。
 銚子の駅で降り、犬吠岬の宿屋に向かう途中で犬に吠えられるという出来事を、たんに実際あった小さな事件として書き留めるだけで何も付け足したりしないのはさすがだと思った。すぐ太字にしたがるわたしなんかは見習うべきなんだろう。
《枕許の棧のねぢれた障子の向うで、夜通し濤声を聞いた様に思ふ。しかしその為に眠れないと云ふ事はない。いつもの通り、いやいつもよりはもつと長く、十時間半寝続けて、枕にひびく浪の音の中で目をさました。よく寝られるのは難有[ありがた]いが、あんまり長く寝た後では、根が利口ではない、のではないかと自分で疑はしくなる。》p49

 あちこちで「利口かどうか」にこだわる百閒だった。この旅館で面白いのは窓の外である。
《丁度上げ潮で、宿のすぐ下まで大きな白浪が打ち寄せる。燈台の出鼻の下に、突怒偃蹇[とつどえんけん]と云つた格好の怒つた様な岩が連なり、こつちから見ると向うの海を低く遮つてゐる。その岩の向う側に敲[たた]きつけて砕けた大浪の繁吹[しぶ]きが、岩の蔭から宙に舞ひ上がり、爆弾の様だと先[ま]づ思つたが、日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所の様でもあり、又少し離れてゐるし、硝子[ガラス]戸を閉めてゐるので浪の音は聞こえないのに、さう云ふ壮烈な景色が展開するのが、昔の活動写真の戦争の場面を見てゐる様な気もした。》p50*下線は引用者、以下同じ

 寄せては砕ける大波が見えながら、音はいっさい聞こえない。そこから連想される《日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所》とは、おそらくこういうものじゃないだろうか(雑な検索・地雷のは見つからなかった)。
 激しい光景から音が消えている、というのが石版刷りと目の前の景色とで共通しているように受け取られているわけだけど、いま、爆発の瞬間を描いた絵を見せられたとして、わたしは「音がない」という感想を持つだろうか。持たない気がする。そういうもの(絵とは音がないもの)だと、信じる以前に信じ込んでいる。そう考えると絵(なかんずく、派手な絵)の受け取り方にも、百閒とわたしの間で、あるいは昔といまの間で、同じところと違うところがあるのだと思う。しかしこういうことを考えはじめると、「いや、やっぱり、音がないと思うかも」という気もしてきて、考えはじめる前の印象は永久に失われるのだった。
 そんなことより生半可な百閒読者としてもっと気になるのは下線を引いた部分で、《昔の活動写真の戦争の場面》と来たら、思い出されるのは百閒じしんの「旅順入城式」だ。

 文庫本で4ページしかない短篇「旅順入城式」は、「私」が日露戦争を記録した活動写真の上映会に行く話である。黒い布の張られた法政大学の講堂で、旅順の山々や、そこを行軍する兵士たちの顔を見ているうちに「私」はどんどん――読んでいて不可解なくらい――悲しくなっていく。ほかの多くの短篇同様「夢である」とは明記されないにしても、夢の中で活動写真を見ているという格好で、そう書くと枠は二重になっているはずなのに、悲しみの感情でその枠が溶けてしまう。どの文章から何が起きているのか、何度読んでも不思議になる。
 初出は大正14年らしいが、昭和28年の阿房列車の1コマで犬吠岬の波濤を《昔の活動写真の戦争の場面》のように感じるとき、百閒のあたまに昔の「旅順入城式」がちょっとでもかすめたりしなかっただろうか――と、勝手な読者らしく小さな連想を書きたかったのだけど、ここで「旅順入城式」の実物を読み直すとこんな部分があった。
《大砲を山に運び上げる場面があつた。暗い山道を輪郭のはつきりしない一隊の兵士が、喘ぎ喘ぎ大砲を引張つて上がつた。年を取つた下士が列外にゐて、両手を同時に前うしろに振りながら掛け声をかけた。下士の声は、獣が泣いてゐる様だつた。》「旅順入城式」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p230

 声、してるの? さすがに当時のフィルムに映像と同時録音の音声は入っていないだろうから、そこからすでに夢の上映会なんだと思う。無音のスペクタクルのつもりで「旅順入城式」を連想したのに、そのつながりがなくなってしまった。拍子抜けというか、むしろすがすがしい。本当に勝手だった。
《山砲を打つところがあつた。崖の下の凹[くぼ]みに、小さな、車のついた大砲を置いて、五六人の兵士が装塡しては頻[しき]りに打つた。大砲は一発打つと、自分の反動で凹みの中を前後にころがり廻つた。砲口から出る白い煙は、すぐに消えてなくなつた。音も暗い山の腹に吸はれて、木魂[こだま]もなく消えてしまつたに違ひない。弾丸は何処[どこ]に飛んで行くのだか、なほ心もとなかつた。しかしそれでも打たずにはゐられないだらうと思つた。打たずにゐたら、恐ろしくて堪[たま]るまい。敵と味方と両方から、暗い山を挟んで、昼も夜も絶え間なしに恐ろしい音を響かせた。その為に山の姿も変つたに違ひない。恐ろしい事だ。そこにゐる五六人の兵隊も、怖いからああして大砲を打つてゐるのだ。》(同)p231

 恐ろしさを受信するアンテナが敏感すぎる。書き写す前はそうでもなかったのに、なんだかこっちまで怖くなってきた。夢と映画の枠を溶かし、小説とこちらの枠を溶かす。阿房列車に戻ると、百閒は鴨川の宿屋に移動してまた浪を見ていた。
《大きな浪が、後から後から打ち寄せて、その砂浜で崩れる。ぢつと見つめてゐて、浪は何をしてゐるのだらうと思ふ。人の脊丈ぐらゐあつて、大きいけれど犬吠岬の浪の様に怒つてはゐない様である。渚に近い海面から、小さい無数の波がこちらへ打ち寄せようとしてゐるらしい。そこへ沖から大きい浪が来て、浪頭のうしろに小さな波を残し、自分だけ先に来て大袈裟にどどどと崩れる。どう云ふ料簡だか解らない。東京へ帰つて二三日経つてから、ふとこの鴨川や犬吠岬の大浪の事を思ひ出した。私はもう帰つて来てかうして外の事をしてゐるのに、あの辺の浪は矢つ張り大変な姿勢で、浪頭を振り立てて、大きな音を立てて、寄せては崩れてゐるのだらうと思ふと馬鹿馬鹿しい。丸で意味はない。無心の浪と思ふのも滑稽である。》pp56-7

「旅順入城式」から四半世紀以上を経て、あの過敏なアンテナは、キャッチする周波数は変わっても過敏なままだとわたしは思う。


■ 「隧道の白百合 四国阿房列車」

 最初の「長崎阿房列車」で出発する前に、こういう部分があった。
《元来壮健とは云はれない私の身体の調子が、ここの所ずつといい。それで私は段段不安になつた。なぜと云ふに、今かう云ふ風であつては、次の順序は病気になる外はない。もともとがたぴしした身体で念ずるのは、一病息災と云ふ事であつて、無病息災なぞ、自分の事としてはもとより、だれにだってそんな馬鹿げた事がある筈のものではない。》pp8-9

 この「不安」が本当になってしまうのが今度の「四国阿房列車」で、冒頭1行、百閒は帰りの途についている。
《夜十一時に、阿波の小松島港を出帆する関西汽船太平丸に乗り込んで、大阪へ帰る事にした。その時間になる迄、小松島の宿屋で休息したが、ぐったりした気持で、身体の置き所がない。晩のお膳に坐る元気もない。》p60

 これまでの阿房列車はどれもこれも、家または駅から出発 → 目的地 → 帰る、という時系列に従って書かれてきた。それがいきなり乱れている。
 百閒はこのあと船の中でも高熱にうなされ、大阪に着いた早朝から病院を探してと、しんどい目が続く。それで何とか東京に帰り着くまでが綴られるのが前半で、後半でやっと今回の旅行のスタートにさかのぼる。
 書かれる順番がこのように組み換えられている阿房列車は、百閒が苦しそうだからというだけでなく、さらにそのバッサリした編集のためもあって、なんだか寂しい。
 もちろん時系列に沿っているときだって、起きたことの何を書き何を書かないかでさんざん編集はされているし(当たり前)、そこにのびのびと回想が割り込んで来たりもするわけだけど、それでもあくまで旅程の順番通り、という進行が阿房列車の太い線だったことが、今回の体調不良阿房列車でよくわかった。以下は京都から大津を過ぎたあたり。
《列車の最後尾に乗つてゐるので、トンネルに這入ると、中が曲がつてゐない限り、入り口の穴がいつ迄も見える。穴の外の光線がこちら迄は射さないけれど、暗闇の中にきらきら光る線路を傳つて、いつ迄も追つ掛けて来る。展望車の室内の一番後ろの隅に据ゑた花瓶に、花が生けてある。開き切つた大きな白百合が一輪、少し前に頸を伸ばして、ゆらゆら揺れてゐるのが、暗闇の向うに遠ざかつて行く穴の外の明かりの面に乗り出し、遠い光線を背景にして、急に光り始めた。見つめてゐると、花の輪郭が段段大きくなる様な気がし出した時、トンネルを出た。もう一度見なほして見たが何の事もない。トンネルの中で白い花の夢を見たのか、それとも又少し熱が出て来たのか、何しろ余りいい気持ではない。》p69

 こんなあやしい描写にも、病人が無理をしている様子を感じてしまう。もっとも、調子が悪い状態で旅をする様子を「書いている」のは東京の自宅に戻って回復してからの百閒であるわけだから、これを読んで「書かれている」百閒を心配するのは余計な気遣いである。それはわかっているつもりだけれど、読む側にとって「書いている」存在と「書かれている」存在の区別は塗り潰されていて、あんまり分けられるものではなくなっているのでは、といった、一人称の書きものにいつでも付いて回る疑問がいつも以上に濃く感じられた。


■ 「菅田庵の狐 松江阿房列車」

 明治生まれの人間にとって、天皇や皇族はどんなものだったのか。主語も話題も大きすぎるけど、百閒の文章でたまにでてくるそれらの話は、有り体に言って、面白ポイントであることが多い。今回の「松江阿房列車」では、発車間際に回想が始まる。
《一二年前九州の八代からの帰りに、博多で増結する寝台車に乗り込んだら、ご新婚後間もない順ノ宮様が、夫君の池田さんと御同伴で大勢の御供をつれて、或は御供につきまとはれてかそれは知らないけれど、貧乏人の引越し程の荷物を持つて、私共と同じ車に乗られた。》p82

 順ノ宮[よりのみや]様とは、順ノ宮厚子内親王(平成の天皇の姉)、昭和27年に結婚して皇籍を離れた人だった。こういうことはぜんぶウィキペディアの引き写しである。
 ところで、わたしが岡山に引っ越してきてから、地元育ちの人と話をしていて「池田さん」「池田の殿様」という名前を聞くことが何度かあった。殿様て、と不思議に思っていたその池田さんこそ、ここに出てくる《夫君の池田さん》、旧岡山藩主の血を引く池田隆政なのだった。回想は続く。
[…] 夜明近くに、山陽道の早春の闇を驀進[ばくしん]する汽車の轟音の中から、ちりちりと云ふ目覚し時計の鈴の音が聞こえて来た。池田さん御夫婦は未明の暗い内に岡山駅で降りられると云ふ事であつたから、おつきのだれかが寝忘れない為に、目覚し時計のねぢを巻いておいたのであらう。列車中に目覚し時計を持ち込むと云ふのも風雅である。おつきのなせる業だらうと思ふけれど、或は順ノ宮様の新妻としての心遣ひだつたかも知れないしさうであつたのか、どうかこちらには解らないが、深夜の列車寝台の鈴音を思ひ出すと、何となく可愛らしい様な気がする。》p84

 結婚したふたりは、このあと岡山市内で動物園を開園する。それが池田動物園といって、わたしの家からけっこう近いことは最近知った。この『第三阿房列車』をはじめて読んでからたぶん10年くらいは経つはずだが、そのとき完全に読み飛ばしていたこんなところに関係のある土地で生活しながらまた読み返していることに、運命的とかいうのでは一切なく、ただただ、おかしな気持がする。列車は午後いっぱい東海道を走り続ける。
《いくらお天気がよくても、晩になれば暗くなる。名古屋に這入る前、進行の右側は空も地面もすでに夜になつて遠い星が瞬き、人の家の燈火がちらちらしたが、進行の左側は向うの低い山の端に残照が懸かり、まぶしいばかりの明かりの手前に、辺[あた]り一帯の工場の煙が帯になつて横に流れてゐる。暗い方へ向かつて走つて行く汽車につれて、段段暗くはならずに、却つて山の上が明かるくなる様であつた。線路に近いこちらから、その山裾に向かつて真直ぐに流れる幅の狭い小川だか掘割りだかの水が、巨大な金の伸べ棒の様にきらきらつと光つたと思つたが、瞬間に汽車が通り過ぎて、その豪奢な色ばかりが目に残つた。》p86

 こういうのは本当にいくらでも読んでいられるが、線路は有限なので駅に着き、大津で一泊した翌日は、目的もなくぶらぶらするためタクシーに乗る。すると田んぼの中を走る線路のそばにたくさん人がいた。ちょうどこれから、皇后陛下の乗った宮廷列車が通過するらしい。百閒も道ばたに車を止めさせ、煙草を吸いながら列車を待つ。なかなか来ない。
《大正の何年頃だつたか、はつきりしないが、矢張り今日の様な綺麗な秋晴れの空の下を、金色に光る宮廷列車が相模野[さがみの]を走り抜けて、逗子駅へ向かふのを見た事がある。美しい皇后が金色の汽車に乗つて、頭の狂つた王様の許[もと]へお見舞に行かれると日記に書いたが、後にその時分の日記を公刊する時、右の文句は全部伏せ字にして隠した事を思ひ出す、当時私は兼務で横須賀の海軍機関学校の教官をしてゐたので、その行き帰りの或る日、宮廷列車を待避して、当時の皇后陛下、即ち後の貞明皇后の御通過を御見送りしたのである。
 何十年前の事だか、繰つて見なければ解らないが、その時以来、私は宮廷列車と云ふ物を見た事がない。だから今、皇后陛下をお見送りすると云ふ殊勝な心根の外に、綺麗な宮廷列車が見たいと云ふ好奇心もある。いつ迄待つても構はないが、しかし早く来ないかなと思ふ。
 到頭来た。土手の前の学校生徒の群れが列[なら]んだ。すぐに人家の蔭から五六輛編成の短い汽車が走つて来て、忽ち目の前を通り過ぎた。機関車の前面に交叉した日の丸の鮮やかな色が、行つてしまつた後まで目に残つた様であつた。》p101

 かつては伏せ字にしたことを、「かつては伏せ字にした」と明かしながらわざわざ書き、それでいてこの時点でも、見送るのを《殊勝な心根》とするあたり、この題材とどういう距離をとっているのか何とも言えない。この引用とひとつ前の引用は終わり方が同じですね、とだけ書いて話題を変える。
(追記:おととい見かけたこのツイートが、あんまりタイムリーだったので貼っておく)

 このあと百閒は島根県松江の美保関に行く。そこの宿屋では芸者が「関の五本松」という民謡を歌う。というか、歌おうとする。ウィキペディアの記事をざっと読み、あとYouTubeにあったこの動画の前半45秒くらいを見てから以下の部分を照らして読むと、内田百閒という人の、理屈で殴りに来る面倒くささがあらためて、非常によくわかる。
《「関の五本松、一本伐[き]りや」
「一寸[ちよつと]待つて貰はなければならん。五本あるものを一本伐れば、残りは四本にきまつてゐる」
「ですから今、そこを歌ふところですわ」
歌はなくても算術の上でわかつてゐる
「そんな無理云うて。だつたら歌、歌へやしません」
「しかしながら、歌ふのは彼女の天職だらう」
「彼女つて」
「君の事さ」
「どうも大けに。一本伐りや四本」
「そうれ見ろ、矢張り四本だ。どうもさうだらうと思つた。さうなる計算だからな
「後は伐られぬ」
「構やしない、伐つちまへ」
「後は伐られぬめをと松」
「をかしい事を云ふぢやないか」
「シヨコ、シヨコ、ホイノマツホイ」
「をかしいね。速断だらう」
「なぜですの」
「五本と云ふ奇数が、偶数の四本になつただけの話さ」
「ですから」
「だけどもさ、そりや君、御無体[ごむたい]と云ふものだ。四本が二夫婦だと云ふのかい」
「さうなんでしよ」
「美保ノ関ではさうかも知れないが、さうとばかりは限らん。我我他国の者には腑に落ちかねる」
「どうしてでせう」
「野郎松ばかりが四本突つ起[た]つてゐるかも知れないし、かみさん松が四本列[なら]んでゐるのかも知れない。一本だけが雄松で一夫多妻の松かもわからない。ポリガミイだ。その反対の一妻多夫の場合も考へられる。これをポリアンドリイと云ふ」
「そんな六づかしい事、知りませんわ」
「しかし本場の本当の節廻しを初めて聞いたが、何でもなささうで、さうでないね。随分六づかしさうだ。僕、ほとほと感に入つた」
「あら、お口が悪いのかお上手なのか、どつちなんでせう」》pp112-3

 だれしも酒の席で「ポリガミイ」「ポリアンドリイ」と絡まれたくはないよな、と、もう一度さっきの動画を見ながら思う。翌日、酒から醒めたあたまで以下のように述懐するが、そしてこれは何度も読んだことがあるこの人の基本姿勢だが、なるほど《さうなる計算だからな》の理屈っぽさもこれと一貫していた。
《どこへ行つて見ても面白くはない。元来私は松江へ見物に来たのではない。それでは何しに来たのかと云ふ事になると自分ながら判然としないが、要するに汽車に乗つて遠方まで辿り著いたのである。しかし旅行には区切りをつけなければならない。それで松江に泊まつてゐる。外へ出て方方廻つて見ても面白くもないから帰ると云ふのは宿屋へ帰るので宿屋へ帰ればどう面白いかと云へば宿屋が面白いわけもない。しかしながら物事が何でも面白い必要もない。》p121


 ところで、「小説である」と特別うたっていない文章が、それでも「小説として読める」ことに、理由や条件は要らないと思う(理由や条件が必要なのは、逆に、ある文章が「小説として読めない」と主張したいときじゃないだろうか)。
 阿房列車のシリーズは、実際に行なった鉄道旅行を題材に一人称で書かれていることをもって「随筆」に分類されがちなのではないかと思うし、わたしもおおむねそんなつもりで読んでいるが、別にこれを小説として読んだっていいわけである。現実に材をとり、一人称で、旅行記ふうの小説はいくらでもある。
 とりわけ百閒が、懐かしいような寂しいような風景を描写するとき、その文章じたいは小説の叙述と(超常的なことが起きることもある小説の叙述と)変わらないために、阿房列車が小説に乗り入れているように見えることはこれまでも何度もあった。
 ところがこの「松江阿房列車」の後半では趣が変わる。さっきの「四国阿房列車」が体調不良のせいで時系列が編集されたのとも違い、はっきり意図して、百閒が阿房列車を小説にするのである。
 それは例によって旅館に取材の記者が十数人集まるところから始まり、まとめて相手をした後もなかなか帰らない男が一人いて、その男は百閒とヒマラヤ山系氏のお膳にも割り込み自分は神であるとのたまうがその正体は――と続くのだけど、そういう趣向が面白いのかというと、どうしてここ(阿房列車)でそんなことを、との戸惑いのほうが先に立ってしまう。
 さっき百閒が自分で書いていた《物事が何でも面白い必要もない。》にならえば、文章が何でも「いかにも小説な小説」になる必要はないのじゃないだろうか。現実にあったことだけを文章化し、その文章でもって題材(現実)に魔法がかかって見える、というこれまでのスタイルに踏みとどまってほしかった気がわたしはする。おそらくそっちのほうが大変なので、ここでは小説になってしまったのではないか。
 ただ、この急な小説化の入口がこんなふうになっているのにはうなった。百閒は取材された場から《ふはふはした》足許で座敷に戻る。
《帰つて見ると山系君が一人、ぽつねんと坐つている。変に長い顔をしてゐる。
「どうしたんだ」
「はあ」
「何をしてゐたの」
「なんにもしません」
「顔が長いよ」
「僕がですか」》p124

 百閒で「顔が長くなる」といったら、もう短篇「山高帽子」の中に半分入ってしまっているようなもので、いきなり怖くなる。ただしまだ半分は阿房列車シリーズだから、この直後、『阿房列車』にも『第二阿房列車』にもあったあんまりな比喩がまたあった。
《「何だか、こつち側が寒いのです」
「僕は僕のこつち側が寒い」
「僕、そつちの横へ行きませうか」
「さうしよう、こつちへ移つて、二人で竝[なら]ばう」
[…]
「二人しかゐないのに、向き合はないで、かうしておんなじ方を向いて竝んでゐるのは、気ちがひが養生してゐる様な気がする。貴君はさう思はざるや」
「僕は気ちがひの経験はありません」
「さうかね」》p126

 こうなると百閒も意地で繰り返しているように見えてくる。なお、この翌々日の百閒は、大阪まで戻って何もすることがなく、天王寺動物園を訪れる。目が行く檻はあの檻である。
《別棟の檻の中に大きなチムパンヂイがゐた。見るからに憎らしい顔をしてゐる。大体、猿の顔にろくなのはない。このチムパンヂイは上野にゐるのと東西呼応して、新聞で時時紹介される。硝子戸の外の廊下になつた所には、三輪車その他子供の運動用具が置いてあるが、さう云ふ物に乗つて藝当するところなぞ、見たくもない。今は向うの隅つこにちぢまつて、バナナの皮を剥きながら、上目使ひにこつちを眺めてゐる。その顔を見てゐると腹が立つて来るから、山系君を促して前を離れた。》p138

 今回のこの記事の最初に引用した猿の話に引き続き、本当に嫌いなんだな猿が、というこの部分を拾っておくのは、このあと、『第三阿房列車』の最後は「列車寝台の猿」と題されているからである。


■ 「列車寝台の猿 不知火阿房列車」
《蚊帳の裾から、きたない猿が這入つて来て、寝巻を引つ張つた。爪の先が横腹の肌にさはつて気持が悪い。振り向いて見ると、猿の癖にひたひが広くて人間の様な顔をしてゐる。起き直らうと思つたがうまく行かない。もう少しで魘[うな]されさうになつた所で、目が覚めた。
 起きて見ると曇つた空が低く垂れ下がつてゐる。さうして時時薄日が射す。こんな日は雷が鳴り出すかも知れない。》p155

『第三阿房列車』ラストの旅、そして『第四阿房列車』は出なかったから阿房列車連作の最終回は、こうやって始まる。
 あれほど嫌いな猿だし、夢だし、なんだか不吉なスタートだが、このシリーズに無数にある読みどころのなかでも、「風景描写」「変な理屈」と並んでわたしが好きな、「岡山の話」と「感覚がおかしなことになる」の両方が今回は長々とあった。
 東京駅を夜に出発して、翌日の昼頃に岡山駅に停車する。
《岡山は私の生れ故郷でなつかしい。しかしちつとも省[かへりみ]る事なしに何十年か過ぎた。今思ひ出す一番の最近は、大正十二年の関東大地震の後一二年経つた時と、もつと近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に二時間余りしかゐなかつた。中学の時教はつた大事な先生がなくなられたので、お別れに行つて、御霊前にお辞儀をしただけですぐに東京へ帰つて来た。駅から人力車に乗つて行き、門前に待たせたその俥[くるま]で駅へ戻る行き帰りの道筋だけの岡山を見たが、それももう何十年以前の事になつた。
 時時汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室から出てホームに降り改札の所へ行つて駅の外を見る。改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変るところはない。どこにも昔の面影は残つてゐない。[…] 古い記憶はあるが、その記憶を辿つて今の岡山に聯想をつなぐのは困難の様である。何事もなく過ぎても、長い歳月の間に変化は免れない。況[いは]んや岡山は昭和二十年六月末の空襲で、当時三万三千戸あつた市街の周辺に三千戸を残しただけで、三萬軒は焼けてしまひ、お城の烏城[うじやう]も烏有[ういう]に帰して、昔のものはなんにもない。しかし岡山で生れて、岡山で育つた私の子供の時からの記憶はそつくり残つてゐる。空襲の劫火[ごふくわ]も私の記憶を焼く事は出来なかつた。その私が今の変つた岡山を見れば、或は記憶に矛盾や混乱が起こるかも知れない。私に取つては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。見ない方がいいかも知れない。帰つて行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだらう、と岡山を通る度にそんな事を考へては、遠ざかつて行く汽車に揺られて、江山洵美是吾郷の美しい空の下を離れてしまふ。》pp171-3

 今回も10分停車の間だけホームのベンチに座り、幼馴染みの「真さん」から大手饅頭をもらう。こんなふうに、通過以上の帰郷未満、つかず離れずというには離れすぎな接し方を生まれた土地に対してし続ける人はほかにあまり見ない気がする。

 次に「感覚がおかしなことになる」例。これまでに何度も使っている駅のホームで、これまでに何度も乗っている列車を待っているのに、それが毎回、自分が予想していたのとは反対の方向からやって来るのでその度におどろく、という話がある。これはわかる気がする。あたまの中身をぐるっと回転させられて変になる感覚だ。
《もつと困るのは、随分馴染み深い大阪駅から上リに乗る時、走り出してから、どう考へても京都の方へ向かつてゐると思ふ事が出来ない。三ノ宮神戸の方へ走つてゐる様な気がする。その内に新淀川の鉄橋を渡り、しかし新淀川には大阪からの上リにも下リにも鉄橋があるから、鉄橋を渡つてゐると云ふだけで捩[ね]ぢれた頭の中をなほす事は出来ないが、吹田の操車場を見ればもう観念する。そのもつれが一番ひどかつたのは、四国へ渡つて途中で熱を出し、ふらふらになつて大阪駅から「つばめ」に乗つた時、展望車の後ろへ遠ざかつて行く沿線の景色が、椅子をその方に向けてゐたので丸で逆な気持になり、やつと頭の中をなほして方向を正したと思ふと、今迄の逆のまた逆が、本来の方向とは別になつた様な気がし出して困つた。
 小倉駅に這入る「高千穂」が私の思つたより逆の方から来たから、出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》p189

 ちなみにわたしは、建物の中に入ると外の方向がわからなくなることが多い(こっちの壁の向こうにあのスーパーがある、と思ったら90度ズレているとか。特に踊り場のある階段をのぼって上階に行くとすべてが見失われる)んだけど、自分のわからなくなる具合が「一般」と比べてどうなのか、知りようがないだけに気になっている。
 それはともかく百閒は、自分の感覚の方がおかしくてそれを外に合わせて「なほす」スタンスであるのが面白い。その内面の挙動に少しもおかしいところはないのだけど、あれだけ自分の理屈にこだわる人でありながら、ズレている自分のほうを「なほす」。百閒の理屈っぽさはわがままとは違う、自覚された偏りみたいなものかと思う。《出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》

 あと宮崎の宿で、早朝の出立になるから前の晩に睡眠薬を飲むところがある。
《今朝が早いので昨夜は早く寝たけれど、もし寝つかれなかつた場合の事を慮り、鞄に入れて来た眠り薬を適量にのんだが、暫らくたつと、薬が利いて来た事がはつきり解つてゐながら、眠る事は出来なかつた。更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし、又それで利き過ぎて目覚しの音も聞こえなかつた云ふ事になつては困ると思つたので、眠れない儘に輾転反側[てんてんはんそく]してゐる内、うとうとしたかも知れない。そのうとうとの途切れたのが三時半前である。そこで我破[がば]と起きてしまつた。》p203

《更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし》は立派な判断だと思いつつ、さらにまた勝手なことを書くが、百閒が睡眠薬について書いているのを見るとどうしても、「山高帽子」の登場人物でべろべろになった野口、そしてそのモデルである芥川龍之介の書かれ方が思い浮かぶ。適量を越えて飲むと死に至るこの種の薬を百閒が飲むとき、あるいは飲んだと書くとき、そっちへの連想がないことなんてあるのだろうかなどと、また考えても仕方ないことを考えてしまう。
《間もなく彼は片手に一ぱい銀貨や白銅を握つて帰つて来た。蟇口[がまぐち]から摘[つ]まみ出す事が出来ないで、中身をそつくり手の平にうつして来たらしい。さうして起つたなりでその手を私の前に差出すのだけれど、その間も彼はぢつと起つてゐる事が出来なかつた。ふらりふらりと前後左右に揺れて、その度に足を踏み直した。彼の手の平には、十銭や五十銭の銀貨と混じつて、五銭の白銅貨が一つあつた。それを彼は摘まみ出さうとしてゐる。しかし彼の指先は、彼方此方に游[およ]いで、中中それに触れなかつた。》「山高帽子」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p174

《それから数日後に、もう一度会つたときの芥川は、半醒半睡の風人であつた。薄暗い書斎の床の間の前に据ゑた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と眠つた。不意に目を醒まして、曖昧な応対をしたりした。
「そんなに薬を飲み過ぎては、身体の毒だよ」
「いいよ。それに、こなひだ内からおなかを毀してゐたものだからね」
 話を続けようとすると、もう眠つてゐるのである。》「湘南の扇」、『私の「漱石」と「龍之介」』(ちくま文庫) p229

 なんだかしんみりしてきたので(おどろくほど勝手だ)、明かるいところを引用する。
 体重計が家庭には珍しかったこの当時、百閒は主治医から旅先で機会があったら体重を計っておくように言われていた。それを鹿児島で思い出し、駅のかんかんを借りることになる。
《門外に待つてゐる先程の自動車で、駅へ引き返した。さうして小荷物扱所のかんかんに乗り、その数字を教はつた。忙しい所へ飛んだ荷物が割り込んですまなかつたが、その時の数字は風袋つきである。何日か後に東京の家に帰つてから、著てゐた洋服と肌著類一式を脱いで一纏めにし、ポケツトに這入つてゐた時計、手帖、がま口その他こまこました物を、同じくポケツトに入れてあつたハンケチに包み、眼鏡も外して一緒にして、別に靴を紐でぶら下げ、家の台所にある棒秤[ぼうばかり]に掛けて目方を出した。その合計を鹿児島駅の数字から引き去つた残りが、その時の私の体重であつたと云ふ事になり、この計算には間に凡[およ]そ千五百粁[キロ]の距離が挾まつてゐる。》p210

 利口であるかどうかを気にする百閒、ここでも算術を使うことが得意げに書かれているような気がするがどうだろう。

 それから百閒は八代へ向かい、またも馴染みの松浜軒に泊まり、雨が降り、不知火ノ海を眺めに行っても不知火は見えず、降り続ける雨の中を列車は博多から下関へ、下関から東京へと向かうところでこの「不知火阿房列車」は終わる。
 そしてその途中から今回も、はっきりした小説が浸食してくる。
《さつきから気になる相客がゐる。鹿児島の始発から同車してゐたのだらうと思ふ。初めの内は気がつかなかつたが、どの辺りからか食堂車にでも行つてゐて、その席にゐなかつたに違ひない。帰つたのも知らなかつたが、お酒を飲んで来た顔をしてゐる。全部同じ方の向うを向いたリクライニング・シートの、私の席から大分離れた通路の向う側にゐるのだから、おとなしく腰を掛けてゐれば顔が見える筈はないのだが、頻りに起ち上がつたり又坐つたり、その度に後ろ向きになつてこちらを見る。こちらを見る為に起ち上がるのではないかと思はれ出した。じろじろと人の顔を見て、その挙げ句ぢつと見据ゑる。》p211

《「どうだい貴君」
「まだ見てゐますか」
「無視する事にした」
「それがいいです」
「だからそんな質問をしてはいかん」
「はあ」
 しかし向うの視線が筋になつて、こちらのテーブルの上を斜に走つてくるのが、手でさはれそうな気がする。本当にさはれるものなら払ひのけるのだけれど。》p231

 少し離れた座席から、また食堂車の筋向かいのテーブルから百閒を嫌な目つきで見つめる男が、寝台車の百閒の夢にまで現れる。そのとき男は人間の姿をしておらず、これまで何度も「好きでない」「憎い」「腹が立ってくる」と嫌われていたあの動物になっていて、どうやらこの先も付いてくる――
 しばらく前に書いたように、現実だけを題材にするのがしんどくなったのか、それとももっと単純に、そういう書き方に飽きてしまい、別の書き方を探っている経過報告だったのか。当然、正解はわからない。最初の『阿房列車』を読んだとき、3冊目でこんな変化があり、こんな後味のまま終わるとはまさか予想しなかった。
 じっさい、百閒も「これで最終回」と決めて書いたわけではないだろうから、もしこのあとも阿房列車が2本、3本と続いていたら、「小説として読もうと思えば読めるけどあえてそう読まなくてもいい阿房列車」と、「いかにもおかしな小説っぽい小説」の混淆はどんなふうに進んだのか、あるいは進まなかったのか、少し気にかかる。そのせいで、読み終えてもなんだかぜんぜん終わった感じがしない。
 でもこの先はもう、ない。上のような興味をほかのやり方で満たすには、あたまの中の方向をぐるっと変えて、この戦後の落ち着いた紀行シリーズよりずっと前、大正の後半からおびただしいほどの量が書かれた、小説のような小説でないような百閒の文章をひとつずつ読んでいくのがよいのだろうと思う。それはみんな旺文社文庫のかたちでこの部屋の押入れにあり、猫にクンクン嗅がれている。


 最後に。百閒がこのような旅行をできたのは、一等車が復活するくらい戦災からの復興が進んだという時代の条件がまずあるが、持病をもつ百閒にとって同じぐらい、あるいはそれ以上に不可欠だったのは、すべての旅に一緒について来てくれる同伴者、つまりヒマラヤ山系氏がいたことである(「ことである」も何も、最初の『阿房列車』の巻頭の「特別阿房列車」にそう書いてある)。
 このヒマラヤ山系こと、平山三郎氏と百閒の関係を、じつはよく知らない。
 平山氏は百閒を「先生」と呼ぶし、阿房列車には百閒の昔の学生が何人も出てくるが、このふたりに直接の教師-学生関係はなく、平山氏は戦前から職場で機関誌を作る立場、百閒は依頼されてそこに原稿を書く立場、だったのだと思う。百閒の文章で描かれる両者の間には、その関係を踏まえて成り立つ「親しさ」と「配慮」と「立場のわきまえ」がある。「親しさ」は百閒から山系氏へだけでなくその逆もあり、「配慮」は山系氏から百閒へだけでなくその逆もある。そしてお互いがお互いに「立場のわきまえ」をもって接する。この3つを合わせたものをもしかすると「敬意」と呼ぶのかもしれないが、そんな言葉を必要としない関係にふたりはいた。
 そこを基本としながら、ひとつの言葉に回収されず場面場面で細かく揺れる感情のままに全篇を通して繰り広げられるふたりの膨大な会話には、ほぼ意味がない。車中で、ホームで、宿屋で、まったくしょうもないこと、益体もないことしか喋っていない。これほどまでに無内容な会話をやり取りしながら、そして話すことがなければ黙ったままで出発から帰着まで自分を見守ってくれる存在が、百閒にはいた。
 阿房列車シリーズ全3冊、計15本の汽車旅行の記録として書き留められた会話の中から、ふたりのあり方がもっとも典型的にあらわれているようで印象に残るやり取りを、最後に書き写す。この部分を思い出すだけでわたしは無限におかしいし、あの有名すぎる書き出しはそれはそれとして、すべての阿房列車はここから始まっているように見えるのだった。
《女中が行つた後、お茶ばかりがぶがぶ二三杯飲んだ。所在がないので、山系と二人して昨夜帰つて来てから飲み直した時の、お膳の上にあつた物を思ひ出さうとするが、何を食べたのか、両方の記憶を合はしても、丸でわからない。
「われわれの人生は曖昧なものだね」
「さうでもありません」》「雪解横手阿房列車」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p54


 次は『百鬼園随筆』です。


■ 旺文社文庫『第三阿房列車』(1980)目次:
長崎の鴉
 長崎阿房列車
房総鼻眼鏡
 房総阿房列車
隧道の白百合
 四国阿房列車
菅田庵の狐
 松江阿房列車
時雨の清見潟
 興津阿房列車
列車寝台の猿
 不知火阿房列車

 解説 阿房列車の留守番 中村武志
 「第三阿房列車」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『第三阿房列車』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っているはず。この表紙もうらやましい。

第三阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
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2019/08/06

内田百閒『第二阿房列車』(1954)

旺文社文庫(1979)


 こないだ『阿房列車』の感想を書いたとき、ぜひとも引用するつもりでし損なった箇所があったので、まずそこから書く。「鹿児島阿房列車 後章」、鹿児島で泊まった旅館の人に用意させたお弁当を、八代へ向かう車中で食べるところである。
《宿の女中が包んでくれた折をあけた。蓋を取つて見ると、驚いた事に鼓[つづみ]の形の握り飯が一ぱい詰まつて、阿房[あはう]が昼寝をした様に押しくら饅頭してゐるだけで、外の物はなんにも這入[はひ]つてゐない。これでは食べられはしない。きつとおかずは駅売りの物を何か買ふだらうと彼女が判断したのである。それにしても一寸[ちょっと]佃煮か漬け物を添へておいてくれればいいのに、それどころか、昨日宿で出した時は胡麻塩で結んであつたのが、今日は胡麻も掛かつてゐないすつぽろ飯である。
「これぢや食べられないね」
「はあ」
 山系君も感心して見てゐる。
 しかしながら、矢つ張り食べた。一旦そのつもりになつて催したから、思ひ止[とど]まつて蓋をするわけには行かない。山系にも因果をふくめて、是非食べる様すすめた。
 一つ口に入れて見たが、ろくろく塩味も利いてゐない。全くどうにもならない代物である。うまくなぞないのは勿論だが、一たび食べるときめた以上、その方針に従つて食べてしまふ。お茶でもあれば嚥[の]み込むけれど、それもない。山系が途中で投げ出すかも知れないから、さうさせない様に監視しながら、食べ続けた。
 八つか十這入つてゐたのだと思ふ。後に二つ残つてゐる。
「もう咽喉[のど]を通らない」
「もう駄目です」
 しかし残つた二つを窓から捨ててはいけない。さう云ふ事をすると目がつぶれる。大事にしまつて、八代の宿へ持つて行く事にした。
 汽車がもう一度鉄橋を渡つて球磨川の岸から離れ、それから八代駅についた。》「鹿児島阿房列車 後章」、『阿房列車』(旺文社文庫)pp153-4*太字は引用者、以下同じ。

 同行者に「因果をふくめて」「監視しながら」食されるおにぎりが、この世界にはあるのだった。《阿房が昼寝をした様に押しくら饅頭してゐる》というあんまりな比喩や、《「これぢや食べられないね」》から《しかしながら、矢つ張り食べた。》への絶妙な呼吸などなど、ここのくだりは思い返すたび無限におかしい。
 あと、この引用の終わりにあるように、「これこれこういうことがあった(こういうものが見えた)、そして○○駅についた。」という書き方はこれまでも・これからもあちこちで繰り返され、そこに面白ポイントがあることが多い。それで引用が長くなるのはもう仕方がないじゃないかという気持で、続きは『第二阿房列車』(1954)に移る。
《これからその話をすると云つても、往復何の事故も椿事[ちんじ]もなく、汽車が走つたから遠くまで行き著き、又こつちへ走つたから、それに乗つてゐた私が帰つて来ただけの事で、面白い話の種なんかない。それをこれから、ゆつくり話さうと思ふ。抑[そもそ]も、話が面白いなぞと云ふのが余計な事であつて、何でもないに越した事はない。どうせ日は永いし、先を急ぐには及ばない。今のところ私は、差し当たつて外に用事はない。ゆつくりしてゐるから、ゆつくり話す。読者の方が忙しいか、忙しくないか、それは私の知つた事ではない。》p65「春光山陽特別阿房列車」

 百閒はこの巻で4本の阿房列車を走らせる。
 まず、「雪中新潟阿房列車」で雪の積もった新潟を訪ねる。帰ってすかさず、秋田県の横手へ行ったのが「雪解横手阿房列車」。それから京都へ向かったのは、山陽本線にデビューした特別急行列車の処女運転に招待されて始発の京都から終点の博多まで乗るためであり、せっかく博多まで行くのだからと、熊本県の八代へ足を伸ばして帰るのが「春光山陽特別阿房列車」。京都が始発だからまず京都へ行き(わからなくはない)、博多のついでで八代までとなると(わからない)、この旅行に「山陽」の名が付いている意味は…とこっちが悩んでしまうが、次の「雷九州阿房列車」ではタイトル通り、ふたたび東京の自宅から九州まで遠出する。事前に定めたスケジュールに従いあちらこちら回っていると、それがなぜか結果的に各所で猛威をふるう台風をことごとく避けるかたちになって何事もなく帰る。
 このうち横手と八代は『阿房列車』で行っているから再訪になる。こういうのを「曾遊の地」と呼ぶのを私はこの本で知った。八代は、最初に引用した、食べ切れなかった握り飯を持って行ったときが1回目で、この『第二阿房列車』では2回訪れるから都合3回、いつも同じ宿に泊まる。よほど気に入ったらしいがしかし、こんなふうにまとめて説明してどうなるというのか。なにしろ相手はこんなことを書く人である。
《外へ出たらすぐにタクシイの空車が来た。だから乗つたけれど、中央線の市ケ谷駅も四谷駅も近い。自動車に乗らなくても、電車で行けば東京駅の中まで這入る。二三年来の阿房列車の初めの内は、特別急行の一等車に乗る旅行でも、東京駅迄は電車で行つて、それが普通であつた。この頃はさうでない。大概タクシイで出掛ける様である。自動車に乗つたから贅沢だと云ふ事もないが、電車の料金より高いことは高い。だから無駄だと云ふ意味で無駄を排除しようと云ふ方へ、考へ方を向けるのはこの場合よくない。それを考へつめれば、阿房列車が成り立たない。つい自動車に乗る様になつたのは、往来に自動車の数が多くなつたからで、この責めは自動車の方にある。》p118「雷九州阿房列車」

《別府は温泉地であつて、この宿も勿論温泉旅館である。しかし私は温泉に這入りに来たのではない。何しに来たと云ふこともないが、温泉を目的にして来ない事だけははつきりしてゐる。しかし断じて温泉にはつからないと云ふ決心で来たわけでもない。普通の風呂のつもりで這入つてもいいし、又都合では這入らなくてもいい。もともと私は温泉場と云ふものが好きではないけれども、かうしてここへ来たのは、だれからもおどかされて来たのでなく、自分が来ようと思つた所へ来た迄であるから、自分で来ておいて、かう云ふ所はきらひだなどと考へるのはをかしい。だから一服して、落ちついて、ちつとも嫌つてはゐない。明日は一日ゆつくりして、明日の晩も泊まるつもりである。なぜ来たかと、追究する者はだれもゐない。》p163「雷九州阿房列車」

 同じ人がこういう景色をスケッチしているのも『阿房列車』と同じである。
《沿線の畑に麦が伸びかけてゐる。窓の外は全くの春景色である。さうして少し曇りかけて来た。広島で附け換へた機関車の白い煙が、竹藪の中へ這入つて、通過する迄、出て行かないし、消えもしなかつた。
 宮島の波の中のお鳥居が見えて、その後又暫らくの間海の景色が展[ひら]けたが、手前の島の上を越した沖の空は、次第に暗くなつてゐる。遠くの方は雨が降つてゐるかも知れない。》pp94-5「春光山陽特別阿房列車」

 ところで今回、最初の「雪中新潟阿房列車」で、大正12年(1923)の関東大震災よりも前のこととして回想される話がある。
 ――陸軍士官学校の教官だった百閒は出張を命じられ、本人としては京都へ行きたかったのに、決まった行き先は仙台だった。ぜんぜん違う。しかし京都はあきらめきれない。どうするか。東京から仙台まで行き、京都に寄って帰ればいい。
《それで鉄道地図を按じて、道順を研究した。仙台から常磐線で平へ出る。平から磐越東線で郡山に出て、磐越西線を通つて、新潟へ行く。新潟から北陸本線へ廻つて、富山、金沢、敦賀を通り、米原に出て京都へ行く。大変な廻り道の様だが、仙台から東京に帰り、東海道線で京都へ行くよりは、この道順の方が当時の里程の計算で二十哩[マイル]程近い事を知つた。だから、その方から考へても、仙台に出張した途中、京都へ寄つて来るといふ考へ方が成立する
[…]
 右の道順で京都へ行くとしても、もつと倹約する事は出来た。常磐線の平なぞへ行かないで、東北本線の郡山から磐越西線に乗る事にすればいい。仙台から平へ出て郡山へ行くのは三角形の二辺であり、すぐに郡山へ行けば、その一辺ですむ。従つて距離もそれだけ縮まり、さつき挙げた二十哩と云ふ数字がもつと多くなる。それを知つてゐながら平へ出たのは、一日の内に、太平洋岸の平から、日本海岸の新潟へ出て見たかつたのと、もう一つには、その少し前に開通した磐越東線と云ふ新線路を通りたかつたからである。阿房列車の病根は、何十年も前から兆してゐた事を自認する。》p10「雪中新潟阿房列車」

 狂気の沙汰だとわたしは思う。「狂気」の響きは強すぎるかもしれないが、その強さでもって《病根》を切り離すのではなく、鉄道が好き・汽車が好きという「日常」とこのような領域は地続きにつながっているらしいこと、人はわりと無造作にそんなところにも足を踏み入れるらしいこと、だから、そちらだけピックアップすると「狂気」に見える世界だってじつは日常の少し先(だったり内側だったり外側だったり)にふつうの顔で広がっているみたいだということが、わたしは言いたかった。
 そしてまた、ここを引用する理由のもうひとつは、《仙台から常磐線で平へ出る。》《常磐線の平なぞへ行かないで》《太平洋岸の平から》という「[たいら]」がわたしの実家にほど近いからだった。
 震災より前となるとわたしの祖父も生まれておらず、その意味では、つながりを思い浮かべようにも浮かぶんだか浮かばないんだか曖昧になるくらい時代が遠くて想像のぜんたいがぼんやりしてしまうのに、ただ場所だけは、祖父やわたしが立って歩いたのと同じあたりだろうという点で確かな足場になるような気もする。でもその場所を、自分がいま読んでいる本を書いた昔の人が――しかも書いている時よりずっと前に――通過していたことまでも確かな出来事として感じられるかというと、それはそれでまた曖昧になるようで、あやふやなのと確かなのが混じった妙な気分にうっすら包まれる。

 それはともかく、上記の旅程が無茶なら(実際、無茶だと思う)いまの阿房列車も無茶だとはっきり再確認される(実際、無茶である)。そのうえで、以下のようにおとなしく座席に腰を下ろして発車を待つ様子や到着した宿での落ち着いた様子が書かれると、かえって凄みがあるというのとも違い、ただ坦々と、おかしい。
《少し早目に乗り込んでゐて、さうして発車を待つ。なんにもする事はない。その間の時間が実にいい。神聖な空白である。見送りがあると、見送り人には顔があるから、その顔に拘束されてしまふ。又何か云ふから、発車まで受け答へをしてゐなければならない。動き出せば更[あらた]めて挨拶を要する。阿房列車が行くと云ふので、別れを惜しむなぞと云ふ心事は、人の心事でも自分の心事でも腑に落ちない。》p14「雷九州阿房列車」

《又火鉢の傍に戻つて、ぢつとしてゐる。ぢつとしてゐるより外に、ポーズの作り様がない。昨夜はホテルでよく寝て、今朝はゆつくり起きたから疲れてはゐないし、眠くもない。何でも出来るけれど、なんにもする事がない。昨日一日の車中にくらべて極楽である。八代へ来てよかつたと思ふ。
 夕方近くなつて、少し風が出たらしい。潮騒の様な音がする。しかし海は遠くて、波音が聞こえる筈はないので、松籟[しようらい]かも知れないと思ふ。その微かな響きを貫く様に、雨の中で鵯[ひよどり]の声がした。》p108「春光山陽特別阿房列車」

 こういうところを読んでいると、小さくて静かで何気ないことを書くのが百閒はうまい、みたいなことを言いそうになる。でも別にそこには限らずに、たまに出てくる「何気なくないこと」の描写だってもちろん、読み応えがある。寝台車の窓から、ふだんは縁のない壮大な景色を目撃するところ。
《どこだか解らない所で目がさめた。in bedで、寝たなりで、窓のカアテンを引き寄せて見たら、向うの遠い空の下の端が、灰色になりかけてゐる。もう駄目だと思つて、半身起き直つた。さうして煙草を吸つて、本式に目をさました。
 矢つ張り夜明けだつたので、段段に灰色が褪せて、地平線から赤い大きな朝暾[てうとん]が昇つて来た。私に取つては、実に驚天動地の椿事である。ああして、いろいろの事のある一日が始まるのかと、呆気に取られて、眺めた。
 向う側の寝床に山系がいつ迄も寝てゐるのは業腹だから、起こしてやつた。
 日の出ををがみなさいと云つたら、曖昧な返事をして起き出した。
「どこです、どこです」と云ふ。
 山系の窓のカアテンを引いたら、正面に真白い富士山が映つた。西の空にはまだ夜の尻尾の様な朦朧とした暗さが残つてゐる。その薄闇を裂く様に、白い富士山が聳えて、東天の旭日と向かひ合つた景色を、自分の方の窓と、代る代る見て見返つて、一日の朝は、かうしたものなのかと考へ直した。
 朝の富士山は白くて美しいばかりでなく、飛んでもなく大きなものだと云ふ事を思つた。
 段段に東京に近づき、朝の営みの町や村に、長い白煙の尾を投げながら、走り続けた。さうして、まだホームの屋根の下かげに、夜の色が残つてゐる上野に著いた。》p62「 雪解横手阿房列車」

「雷九州阿房列車」では、九州地方を蹂躙する台風のコースからつねに外れて漫遊する運のよさを発揮して、自分たちは無事でも、暴風雨の爪痕は目に入る。そんななかで阿蘇の山すそを通る。
《二十六の駅の真中辺りになる宮地駅に汽車が停まつた。手前のこちらの、屋根のないホームには、さらさらと明かるい雨が降り灑[そそ]いで、ホームの砂利を濡らしてゐるが、向うの山は霽[は]れかけてゐる。大きな箆[へら]でそいだ様なあざやかな山の皺が麓[ふもと]に走り、下の方の山肌は目がさめる様な緑の色を一面にひろげて、その上を帯になつた白い雲が流れてゐる。
 宮地を出て、次の波野駅へ行く間に大小無数の、数へ切れない程の滝を見た。絶壁に巨巌が聳え、その天辺[てつぺん]から恐ろしい勢ひで落下する十数丈の滝から、兵子帯[へこおび]ぐらゐの短かいのに至るまで、落ちて来る水は皆、赤黒い色の濁水である。ヨナを溶かして押し流してゐたのであらう。滝を囲んだまはりの崖には、庭師が手入れをしたかと思はれる様な、背の揃つた短かい青草が生え茂つてゐる。思ひ掛けない絶景に接し、車窓に向けた頸筋が痛くなる様であつたが、この無数の濁水の滝は多分、雨の為であつて、ふだんは水の落ちてゐないのもあるだらう。烈しい繁吹[しぶ]きを上げて山腹の岩を叩いた水が、勢ひが余つて線路を襲ふ様になり、私共の通つた後でこの線を不通にしたのではないかと思ふ。》p153「雷九州阿房列車」

 こういうスペクタクルは珍しい。そういえばこの『第二阿房列車』の旅をしていたころというのは、『東京焼盡』(1955)の原稿を整理していた時期と重なるのかもしれない。違うかもしれない。だからなんだというわけでもない。
 あと珍しいというか、1冊目の『阿房列車』との違いでいえば、本を出してこの鉄道旅行が知られるようになったためだろう、行く先々の駅や宿でその土地の記者からインタビュー(インタアヸウ)されることが何回かあった。
《若い新聞記者が、何となく遠い顔附きをした。
「阿房列車の取材ですか」
 知らないかと思つたら、そんな事を云ひ出した。
「それは家に帰つて、机の前に坐つてからの事で、今ここでかうして君のお相手をしてゐる事と丸で関係はない」
「でもさうなのでせう」
「さうでないと云ふ必要もないし、さうだと考へる筋もない。要するにそんな事は、後の話さ」
「さうですか」
「帰つてからの事だよ」
 そこいらで御免を蒙[かうむ]つた。》pp24-5「雪中新潟阿房列車」

 返事じたいは何となく予想される通りなんだけど、長い汽車旅のあとで疲れていても、楽しみにしている食事の前でも、インタビューじたいは(彼らも上司から命じられた仕事なんだろう、と事情を推しはかって)受けてあげる姿に「へえ」と思わされた。自分の我を通すのは当然ながら、相手には相手の我が別のものとしてあることもまた当然、みたいな。旅先の人が用意したイベントの予定が変わり、そちらに合わせてくれるよう頼まれて、むっとしながらも先方の好意なんだからと受け入れる場面もあった。まるで人格者である。
 しかしこの人格者が『阿房列車』から引き続き過敏に反応する状況があった。ふたりの人間が同じ方向をむいて横並びに座ること、これである。
《コムパアトの二重窓のカアテンを搾つた硝子[ガラス]越しに、綺麗な燈火が飛んで行くのが見える。八時半の夕食なら、家にゐるより早い。そろそろ始めよう。
 洗面台を食卓にして、その上に持参の御馳走を列[なら]べた。それに向かつて山系君と二人竝[なら]んで、ベツドの縁に腰を掛けると、二人共同じ方を向き、気違ひ同志が養生してゐる様な格好になるから、分別を要する。コムパアトに這入[はひ]つて食事をすると、いつもその問題がある。いつぞやはボイが空き箱を持つて来てくれて、それを腰掛けにした。汽車の中でそんな手頃の空き箱がいつでも間に合ふとは限らない。だから今度は絵かきの使ふ三脚を買つてきた。》p74「春光山陽特別阿房列車」

 そのこだわり(と比喩)は、ほんと何なんだ。とはいえこういった鋭敏な感性があってこその名文の数かずなのかもしれず、たとえば次のような観察眼はどうだ。そこに目を留め、しかもそれを「書くべきもの」として書くのである。
《「鳥海」の横手駅の停車時間は八分である。乗客が大勢降りてきて、一昨年[をととし]の秋私共が蕎麦の起[た]ち食ひをした売店の廻りに人垣をつくり、丼[どんぶり]を片手に持つて蕎麦のかけを食べてゐる。横目で見ながら駅長さんと竝[なら]んで通り過ぎる時、蕎麦の上に卵を掛けたのが目についた。朝の光りで、上に丸く乗つた、まだ潰さない黄身がきらきらと光つた様だつた。》p44「雪解横手阿房列車」

 いまのは目の例だが、耳の観察もある。京都駅の様子。
《早朝でも駅の中は人が混雑してゐる。東京駅よりは下駄の音が多い。それだけに、うるさい。》p79「春光山陽特別阿房列車」

 この時代にはそんな種類のうるささがあった、というのは考えたことがなかった。
「何気ないこと」であれ「何気なくないこと」であれ外界の観察も面白いが、自分の内側にある感覚を言葉にするときに百閒の文章は本領を発揮すると思う。感覚の言語化はなるべく引用したい。
 新潟の宿で深酒した翌日、起きると部屋ではお供の「ヒマラヤ山系」氏と、かつて大学で教えた学生で当地に在住の「状阡[じやうせん]」氏が将棋を指している。
《私は炬燵[こたつ]を横目に見て、端坐してゐる。将棋なぞ面白くもない。なぜと云ふに昨夜の飲み過ぎで、頭の奥とか胸の中とか、さう云ふ限られた所でなく、私の身のまはり一帯が陰鬱である。どつちが勝つてゐるのか、負けさうなのか知らないが、二人共六[む]づかしい顔をして、押し黙つてゐる。そこへ山系の迎への自動車が来たと知らせて来た。
 山系君があわてて支度をして出掛けた。管理局へ挨拶に行つたのである。その後で食ひさしの将棋を私がしやぶる事になつた。随分長い間掛かつて負けた。私が負けたのは、状阡が勝つただけの事だから構はないが、状阡が余り理詰めの手ばかり指すので、頭がこちこちになつて、座辺に揺曳[ようえい]する宿酔[ふつかゑひ]が凝固した様な気がした。
 ぢきに山系が帰つて来て、状阡が一先[ひとま]づ去つて、晩を待つ順序になつた。その間何も用事がないから、今日はお風呂へ這入[はひ]つた。尤[もつと]も用事がないと云ふのは、起きてから今迄だつて何も用事があつたわけでなく、これからもあるわけではないから、さう云つても意味はない。しかし用事がない間にも、まだもつと用事がないと云ふ境涯はある。「だからお風呂へ這入つた」と云ふ、その理詰めの考へ方がいけない。》pp26-7「雪中新潟阿房列車」

 感覚(宿酔)の言語化から、後半はどれほど理屈を遠ざけたいかという話にズレていくのがぜんぶ面白い。
 博多のホテルで朝食代わりにアイスクリームを食べるところは、観察と描写、感覚の言語化、「何してんだ」感そのほか、もろもろの要素が詰まって本書の白眉をなしている。
《暫[しば]らくしてボイが、珈琲とトーストと、別にアイスクリームを三人前運んで来た。その三つをみんな私の前に列[なら]べて、端のカツプから一匙ふくむ。大変うまい。昨夜もお酒の後でみんなで食べたが、昨夜のはクリーム・サンデエであつた。今朝のは、初めからボイに白いのを持つて来いと命じたから、三つ共白い。その色と、円く盛り上がつた肌が、朝の日をすがすがしくする。家にゐるとさう行かないが、旅行に出れば私はアイスクリームばかり食べてゐる。好きなのだらうと思ふけれど、どこがどういいのか、考へて見た事もない。味もよくわからない。味はひ分けたり、比較したりする事は丸で出来ない。ただ子供の時珍しかつた衛生元祖アイスクリン以来、いつでも、あれば食べたいと思ふ。
 一人前済まして、二つ目に掛かつた。もう大分口の中が冷たい。山系君はトーストをかじつてゐる。それに珈琲だけでは、彼はおなかがへらないかなと案じながら、二つ目の仕舞頃になつたら、少し口中が冷た過ぎて、もういいと思ひ出した。だから矢つ張り私が二つ、彼が一つで丁度よかつたのだが、食べないと云ふから仕方がない。そこで三つ目に匙を突つ込んだ。
 三つ目の半ば頃になると、口の中がしびれて、舌に感覚が無くなり、匙でしやくつて入れても、溶けて咽[のど]を流れるところしか感じない。味も解らず、特に冷たいと云ふ事もない。初めの内は冷たいのがすがすがしい気持であつたが、もう何ともない。さうして余りいい気持ではなくなつた。少し頭痛がする様でもある。
 […] 兎に角[とにかく]我慢して三つ目を綺麗に片づけた。第一、山系の前で残したりしては、沽券[こけん]にかかはる。冷え切つた口で煙草を吸ひ、暫らくさうしてゐたら、しびれが取れてもと通りになり、頭痛もなほつた。》pp102-3「春光山陽特別阿房列車」

 アイスクリームの見た目を描いて思い入れを語り、食べる際の感覚も巧みに言葉にしていった結果、山系氏のかじつてゐるトーストと珈琲まで大変おいしそうに見えてくるここのくだり、文章を使ったどんな技がかけられているのか何度読んでもよくわからない。ただ、読み返すたびトーストはいっそうカリカリに焼き上がり、熱くて黒い珈琲が鼻をくすぐるのである。百閒は、横目でも見ている。
 次は、横手の宿で大勢で楽しくお膳を囲んでいる最中、とつぜん猛烈な背中のかゆみに襲われるところ。手は届かない。まごの手までは持ってきていない。
《丁度その時、ここへ顔を出した宿の主人が、
「まごの手なら、帳場に御座います。今持つて来させませう」と云つた。
 大いによろこんで、流石[さすが]は横手の耆宿[きしゆく]だと云つたが、そんな宿があるものではない。だれにも解らなかつたから、いい工合にほつておいて、背中の痒[かゆ]い所が、まごの手の来るまで動かない様に、ひろがらない様に、丹田に力を入れて待つた。
 女中が来て、主人に何か云ふ。手に何も持つてゐない。主人が気の毒さうな顔をして、
「あつたのですけれど、ある筈なのですけれど、いくら探しても見つからないさうです」と云つた。
 それを聞いたら、さつきの倍の倍も痒くなつた。もう我慢が出来ない。どうしたらいいだらう。背中の真中に渦巻が出来て、ぐるぐる廻りながら、そこいらをくすぐる。
「駄目だ。もう、到底駄目だ」
 管理職の若いのが気の毒がつて、掻いて上げますと云ひ、すぐに手を突つ込んだ。宿屋のどてらだから、彼の手はらくに這入る。そこそこ、いやもつと奥の所と註文を出した。みんな杯の手を休めて、うまくそこへ行つたか知らと云ふ顔をして、見つめた。》p56「雪解横手阿房列車」

《背中の真中に渦巻が出来て、ぐるぐる廻りながら、そこいらをくすぐる。》にもほれぼれするんだけど、最後に《みんな杯の手を休めて、うまくそこへ行つたか知らと云ふ顔をして、見つめた。》と、みずからの感覚を見つめる自分の姿を見ている周囲の目まで視界に入っていることに舌を巻く。アイスクリームとトーストの関係に似ているかもしれない。
 周囲の目、というつながりで、京都-博多間を走る新急行に招待された際、広島駅での停車中に記者から受けたインタビューをぜんぶ書き写す。
《「大阪から乗られましたか」
「いや京都から」
「いかがです」
「何が」
「沿線の風景に就いて、感想を話して下さい」
「景色の感想と云ふと、どう云ふ事を話すのだらう」
「いいとか、悪いとか」
「いいね」
「しかしですね、今、日本は戦争か平和か、国会は解散かと云ふかう云ふ際に、この様な列車を走らせる事に就いては、どう思はれますか」
「そんな事の関聯で考へた事がないから、解らないね」
「更[あらた]めて考へて見て下さい」
「更めて考へたくない」
「国鉄のサアヸスに就いては、どうですか」
「サアヸスとは、どう云ふ意味で、そんな事を聞くのです」
「車内のサアヸスです」
「それは君、今日は普通の乗客でないのだから、いいさ」
「サアヸスはいいですか。いいと思はれますか」
「よくても、いいのが当たり前なんだ。よばれて来たお客様なのだから」
「広島へ行かれましたか」
「行つた」
「いつです」
「最近は一昨年」
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話して下さい」
「僕は感想を持つてゐない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になつたからさ」
「その理由を話して下さい」
「さう云ふ分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、あの塔に就いては、一言半句も触れなかつた。触れてやるまいと思つてゐるから、触れなかつた」
「解りませんな」
「もういいでせう」
 漸く隣席から起ち上がつた。「お忙しい所を済みませんでした」と云つて向うへ行つた。》pp92-4「春光山陽特別阿房列車」

 原爆塔について《一言半句も触れなかつた。》は厳密には間違いじゃないかと思うが(前回、引用もした)、ここもあんまり予想から離れず、いかにも百閒ってこういう人であるよな、と納得させられるやり取りであるけれども、これはインタビュアーの書いた記事ではない。旅から帰ったあと、自宅の机で自分とまったく噛み合わない記者の質問のほうも百閒が書いていると考えると、いつもの自分を貫いているだけでなく、世間と自分の食い違いにも自覚的であることが(当たり前なんだけど、あらためて)よくわかる。『阿房列車』の書き出しを思い出してしまった――《阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。》

 自他の区別が画然とあるし、自分が見る自分と他人が見る自分の両方が文章に入っていて、「それなのに」なのか、そもそも関連はないのか、随筆と小説の境界はあちこちで崩れる。というか両者は文章でつながっている。八代のお気に入りの宿で(「御当地さん」は女中のあだ名):
《明かるい内から始めて、いつ迄もお酒を飲んでゐた様だが、切り上げ時はよく解らない。山系君や御当地さんを相手に、何を論じてゐたかも記憶にない。ただ何だか知らないが、初めから仕舞までしやべり続けてゐた事だけは間違ひない。
 夜が更けてから、廊下のすぐ下の池の縁に、ちつとも動かない大きな螢が、いつ見ても同じ所でぴかりぴかり光つてゐるのが気になつた。螢の様な色で光るから螢だらうと思つたけれど、螢ではなかつたのか、それはわからない。親指の指の腹よりまだ大きかつた。かすかに赤味を帯びた緑色で、人の目を見返す様に光つた。後になつて、水伯[すゐはく]の目玉ではなかつたかと思ふ。》pp137-8「雷九州阿房列車」

 2度目の秋田県、横黒線沿線を眺めて:
《発車をするとぢきに山の間へ這入つた。積もつた雪の上に暗い雨が降つてゐる。一昨年の秋、一度往[い]つて返つただけの沿線の景色にすつかり馴染みが残つてゐる。山のたたずまひ、川の曲がり工合、一ぺん見ただけの所がこんなに記憶に残るものかと、不思議な気持がする。年が経てば、かう云ふのが夢の中の景色になつて、追つ掛けられると、この山のうしろへ逃げ込んだりするのだらう。今、うつつに見てゐる窓外の山の姿も、さう云へば夢の中の景色の様な気がしない事もない。
 黒沢近くの雪は、三米[メートル]、一丈と云ふ程の事はなかつたが、随分深い。駅に這入つて停まつたら今までの雨が霰[あられ]になつて、歩廊の踏みつけた雪の上に、小さな綺麗な玉が、ころころ転がつた。》pp58-9「 雪解横手阿房列車」

《年が経てば》と言うけど、この本よりもずっと若いころ、大正の終わりから昭和のはじめに書かれた『冥途・旅順入城式』所収の短篇の数かずで、わたしはこんな風景をいくつも読んだ気がする。
 若いうちから百閒じしんのなかにあり、ときどき小説のかたちで表現してもいた「夢に見るような風景」を、年を経てから自分の外に(実際の風景として)発見しているような気配があって、だとしたらこれは、創作する人にとって心象風景なるもののあり方は他人が考えるより入り組んでいることを示すのか、逆にずっと単純なことを示すのか、不思議な気持がする。

 趣味が引用であるため、これくらい引用しても、まだ付箋を貼った箇所の半分にもならない。ふつうの言葉でありながら百閒が使うと面白みが増す言葉がいくつかあって、そのひとつは「利口」だと思う。発車時刻よりだいぶ前に駅に着いたときには、こんな意見を述べている。
《かうして早手廻しにやつて来て、そのホーム迄出たけれど、実は行く所がない。行く所ではない、ゐる所がない。仕方がないから、帚[はうき]や塵取りを入れるらしい大きな木箱の蓋の上に手荷物を置き、それに靠[もた]れて煙草を吸つた。早からず遅からず、丁度いい工合に出て来ると云ふのは中中[なかなか][む]づかしいが、遅過ぎて乗り遅れたら万事休する。早過ぎて、居所がない方が安全である。しかしかう云ふ来方を、利口な人は余りしないと云ふ事を知つてゐる。汽車に乗り遅れる方の側に、利口な人が多い。p119「春光山陽特別阿房列車」

 謎すぎる断言だが、およそ待ち合わせに遅れたことがない(遅れることができない)わたしはこの考察に深く同意するものである。

 あとは百閒が故郷の岡山を書いているところをメモする。この『第二阿房列車』では2回、通過していた。
《空川[からかは]の百間川の鉄橋を過ぎ、旭川の鉄橋を渡つて、岡山へ著いた。いつでも岡山を通る時は、車外へ出て歩廊を歩いて見るのだが、今日は混雑しさうだから、よさうと思ふ。又新特急の処女運行だと云ふので、いろんな人が来てゐて、その中に知つた顔があると面倒である。座席にぢつとしてゐるに限る。さう思つてゐると、向うの窓をとんとん敲[たた]く者がある。大きな声で「栄あん、栄あん」と私の名を呼んでゐる。
 をさな友達の真さんがそこに起[た]つてゐる。
「わあ、ゐたゐた」
 しかし、この汽車に乗つてゐるのが、どうして解つたのか、解らない。
「そりや、あんた、こなひだ東京で会うた折、あんたがさう云うたがな」
 一緒にお酒を飲んだ時、さう云つたのだらう。しかし云つた覚えはない。
「覚えとらん。さう云うたかな」
「云うたから、知つとるんぢやがな。それ見られえ。ちやんと乗つて来とらあ。わつはは」
 これから博多、八代へ行くところなのに、東京へ持つて帰るお土産の大手饅頭を、箱入りと竹の皮包みと、私が時時夢に見る程好きな事を知つてゐるものだから、持ち重りがする位どつさり持つて来てくれた。饅頭に圧し潰されさうだが、大手饅頭なら潰されてもいい。昔の同じ町内で、私や真さんより少し歳下の保さんも来てくれた。歳下と云つても勿論大きなおやぢである。早咲きの桜の小枝を馬上杯に生けたのを持つて、車内へ這入り、私の座席の横に釣るしてくれた。桜の枝は博多のホテルまで持つて行き、馬上杯は東京へ持つて帰つた。
 三分停車で十一時四十七分、岡山を発車した。》pp90-1「春光山陽特別阿房列車」

《小さなテーブルの上の銀器や杯がいやに明かるくなつた頃、窓の外はもう暗かつた。岐阜大垣を過ぎて、いつ通つても雨が降つてゐる関ケ原、醒ケ井の辺りに今夜は雨が降つてゐたか、どうかも知らなかつた。
 いつ頃切り上げたのか覚えてゐないが、美しい雨滴の中に、京都駅の電燈が白く光つてゐるのを、カアテンをしぼつて眺めた事を考へると、その時はもうコムパアトに帰つてゐたのだらう。
 いつ、どの辺りで寝たかも判然しない。随分走つてから、しんとしたので目がさめた。汽車が停まつた儘[まま]、底の方へ沈んでいく様な気持がする。岡山であつた。深更一時半、ぢきに発車して、もとの通り走り出したら、又寝入つた。》pp133-4「雷九州阿房列車」

 たまたまなんだろうけど、にぎやかな岡山と、静かな岡山があった。そのどちらの場合も、百閒は汽車から降りることはしないのだけど。

 最後の最後に、この本でもっとも好きなところを引用して終わる。こんなに引用し、引用しきれなかったところもまだまだあるくせに、「もっとも好き」なものが選べるのかとわれながら思うが、それは迷いなく選べるのである。

《肉感の中で一番すがすがしい快感は空腹感である。その空腹感を味はひながら、晩のお膳を待つ。一日に一ぺん位お膳に向かつても、天を恐れざる所業ではないだらう。そこで成る可く[なるべく]御馳走が食べたい。それを楽しみに夕方の時を過ごす。》p34「雪中新潟阿房列車」

 ここを読むたび、次に自分が空腹になるときが楽しみになってしまう。たかだか100字ちょっとでこちらの肉体感覚のとらえ方を変えてしまう文章が、たしかにあるのだった。次は『第三阿房列車』です。


■ 旺文社文庫『第二阿房列車』(1979)目次:
雪中新潟阿房列車
 上野 新潟
雪解横手阿房列車
 上野 横手 横黒線 大荒沢
春光山陽特別阿房列車
 東京 京都 博多 八代
雷九州阿房列車 前章
 東京 八代
雷九州阿房列車 後章
 八代 熊本 豊肥線 大分
 別符 日豊線 小倉 門司

附録・鉄道唱歌
解説――遠回りの文学 長部日出雄
「第二阿房列車」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『第二阿房列車』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っているはず。この表紙はうらやましい。

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