2019/10/26

内田百閒『第三阿房列車』(1956)

旺文社文庫(1980)


 こないだ『第二阿房列車』の感想を書いたとき、ぜひとも引用するつもりでし損なった箇所があったので、まずそこから書く。
「雷九州阿房列車」で大分に着いた百閒は、早くも駅長室で新聞記者や放送局の人間に囲まれ取材を受ける。自分に向けられた小さな円柱形のマイクを百閒は「マイク」とは書かず、「お菓子の五家宝」に喩える。そんな物体を差し出しながら記者いわく、「高崎山の猿を見に来られる筈だと云ふ記事が、こなひだの新聞に出て居りました」。
 巻末の平山三郎氏の解説によれば、この九州への旅は昭和28年(1953)の6月。ちょっと調べると、大分市万寿寺別院の和尚が野生の猿に餌付けして「高崎山自然動物園」を開園したのが同じ昭和28年の3月だというから、東京からはるばるやって来た百閒の目的もその猿を見ることだろうと誤解されても仕方なかったのかもしれない。でも百閒は百閒であり、これは阿房列車なのである。
《私の場合、猿の方で私をどう思ふかは知らないが、私は猿の顔は好きでない。[…] 猿の顔は憎い。見てゐると腹が立つて来る。さうして人間の内のだれかその猿に似た顔を思ひ出して不愉快になる。今迄に私が見た猿の数は、さう多くはないから、自分の経験だけで全豹を律するわけに行かないかも知れないが、私は猿を好く思つてはゐない。》「雷九州阿房列車 後章」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p158

 いつになく強い調子なのでちょっと意外に思っていると、さらに子供の頃の思い出として、家の者が見世物小屋にいた猿に蟹の入った袋を渡し、猿が大いにうろたえるのを百閒も面白がって見ていた、という回想が挿まれる。あまつさえ、いま、高崎山の猿にも蟹を土産に持って行ったらどんなことになるだろうと想像したりする。どうも百閒は猿が相当嫌いであるらしい。猿の顔は憎い。私は猿を好く思つてはゐない。こんなところにも百閒の偏りはあった。しかし書いておきたかったのは、猿よりも五家宝のことだった。
《「行くとすれば午後だが、明日になつて見なければわからない」
「折角いらしたのですから、成[な]る可[べ]く行つて御覧なさい」
「さうしませう。しかし行かなくても、猿と約束はないし、彼らは僕を待つてはゐない」
 五家宝[ごかばう]が口のそばにあると、何だか息苦しい。君、もういいだらうと云つたら、よしてくれた。
 口を利[き]いた時間よりは、黙つてゐる間の方が長く、ぼつりぼつり話しただけだが、テープレコーダーと云ふ物は、黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせるさうである。その晩宿屋に落ちついてから聞くと、私がラヂオで何かしやべつてゐたさうで、こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である。五家宝につかまつたら、さうなる事は解つてはゐるが、何しろあの仕掛けは、聖代の不祥事だと思ふ。》pp160-1

《黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせる》。《こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である》。
 わたしがよくやっている、本1冊のあちこちから部分部分を切り取って――「引用」ということで文章は「そのまま」であるようにして――並べるのも、実際に書いた本人からしたら、都合のよい所だけテープをつなぎ合はせるのと同様、書いてもいないことを書いたように仕立てる勝手な真似なのかもしれないと考えると、聖代の不祥事のささやかバージョンなのかもしれず、何だか申し訳ない気持になった。
 だから、というわけではないけれど、今回の『第三阿房列車』の感想はなるべくページの順で書いてみる。


■ 「長崎の鴉 長崎阿房列車」

 阿房列車の名前にサブタイトルがついているのは『阿房列車』『第二阿房列車』にはなかった本書からの趣向だが、書いてあることはいつもの阿房列車で好調である。
《出発当日の日曜日、照れ臭い様な秋晴れの上天気である。お午まへに、雨を含めるヒマラヤ山系君がやつて来た。いつでも私の所で荷ごしらへをしてから出掛ける。旅具を詰める鞄は、すでに借りて来てある。鞄は交趾[こうし]君の所有であるけれど、かう度度、いつもきまつて私が使ふなら、私の物だと考へてもをかしくはない。私がさう考へる事は、少しも他に影響する所はない。又行く先先の宿屋の女中や、列車ボイや赤帽が、一一借り物だよと私がことわらない限り、勿論私の鞄だと思つてゐると云ふのは、客観性の裏打ちである。人がさう思ひ私自身もさう考へるなら、貰つてしまつてもよささうに思ふ。「交趾君、貰はうか」と云つたら、彼はいやだと云つた。いやなら貰はなくていい。私が使はない時、彼が使ふ時、彼の手許[てもと]に在るのは一行差支ないから、私が貸したつもりになつてもいいし、さう云ふ考へ方はいけないなら、さう思はなくてもいい。
 その鞄の、柔らかい光沢のある皮が、はちきれるほど詰め込んでから、さて、出掛ける事にした。》p10 *太字は引用者、以下同じ

 こういう無茶を言う人の風景描写が一級品であることを、読む側のわれわれはどう受けとめればいいのだろう。どうにも片付かないので、いつでも、いつまでも、「ほれぼれ」と「何でだよ」の間で揺れる振り子になってページをめくることになる。
《由比駅の前後に見る清見潟の海波は、今日はいつもより大分高い様であつたが、水は美しく澄んで、磯辺の風情を点綴[てんてい]する波間の岩に、真白い繁吹[しぶ]きを打ち上げてゐた。
 安倍川でも大井川でも、それから随分行つた先の天龍川でも、おのおの色合ひは違ふが、どの川も川上の空に夕暮れの色を残してゐた。天龍川では大分暗くなりかけた靄[もや]の中に赤い筋が流れて、心無き阿房列車の旅心をそそつた。》
[…]
《遠州平野の遠い向うの山の端に、光は消えてただ色ばかりが残つてゐる大きな落日の沈んで行くのを見入つてゐる時、風圧で窓を押し曲げる様な擦れ違ひ列車が来た。一瞬で通り過ぎたのに、その後にもう落日はなかつた。》p14

 長崎阿房列車ということで、九州に行くとなれば百閒は熊本県八代の松浜軒まで足を延ばす。『阿房列車』の「鹿児島阿房列車」以来訪れるのも4回目、珍しく実名で書くほどお気に入りである。もとは八代城主の庭園で、「いまでは旅館としては営業していない」みたいな説明を百閒関連のガイド本か何かで見た気がするが、ここによれば、戦後すぐの昭和天皇の巡行で御宿泊所として使われた → それをきっかけに旅館経営をしていた時期がある、みたいなことらしい。
 そういえば最初の「鹿児島阿房列車」には、案内してくれた人から百閒が、陛下の泊まった部屋を使ったらどうかと誘われる場面があった。行って見てみると畳の座敷があんまり広いので、《差し押へに立ち合つた様な気がする》と率直すぎる感想を述べていた(『阿房列車』pp136-7)
《巡行の陛下も、宿屋では旅客として宿泊料をお払ひになる建て前だと云ふ新聞記事を読んだ。一人一室一泊一円と云ふのは昔の早稲田ホテルであつて、その当時は方方に一泊一円が流行した。陛下はさつきの広間に一室一人で一万円ださうである。戴かなくてもいいし、戴きたくないし、戴いても合はぬさうだが、時勢でさう云ふ事になつて、下し置かれるのでなく、御支払ひ遊ばされるのだから止むを得ない。
 女中に、お心附けを頂戴したかと尋ねたら、「まあ。そんな」と云つたきりで口を噤んだ。それは女中の方が当然である。お酒の上の無駄口をつつしむ事にして、後は内攻した。》「鹿児島阿房列車 後章」、『阿房列車』(旺文社文庫)p137

 この『第三阿房列車』でも、松浜軒にはあとでまたやって来る。そして陛下というか皇族についてもあとでまた記述がある。


■ 「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」

 九州の次は房総半島で、ルートがふたつの楕円を描くので「鼻眼鏡」ということになっている。三等列車で小刻みな移動を続けるのはこれまでなかった。いろいろやっている。
 銚子の駅で降り、犬吠岬の宿屋に向かう途中で犬に吠えられるという出来事を、たんに実際あった小さな事件として書き留めるだけで何も付け足したりしないのはさすがだと思った。すぐ太字にしたがるわたしなんかは見習うべきなんだろう。
《枕許の棧のねぢれた障子の向うで、夜通し濤声を聞いた様に思ふ。しかしその為に眠れないと云ふ事はない。いつもの通り、いやいつもよりはもつと長く、十時間半寝続けて、枕にひびく浪の音の中で目をさました。よく寝られるのは難有[ありがた]いが、あんまり長く寝た後では、根が利口ではない、のではないかと自分で疑はしくなる。》p49

 あちこちで「利口かどうか」にこだわる百閒だった。この旅館で面白いのは窓の外である。
《丁度上げ潮で、宿のすぐ下まで大きな白浪が打ち寄せる。燈台の出鼻の下に、突怒偃蹇[とつどえんけん]と云つた格好の怒つた様な岩が連なり、こつちから見ると向うの海を低く遮つてゐる。その岩の向う側に敲[たた]きつけて砕けた大浪の繁吹[しぶ]きが、岩の蔭から宙に舞ひ上がり、爆弾の様だと先[ま]づ思つたが、日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所の様でもあり、又少し離れてゐるし、硝子[ガラス]戸を閉めてゐるので浪の音は聞こえないのに、さう云ふ壮烈な景色が展開するのが、昔の活動写真の戦争の場面を見てゐる様な気もした。》p50*下線は引用者、以下同じ

 寄せては砕ける大波が見えながら、音はいっさい聞こえない。そこから連想される《日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所》とは、おそらくこういうものじゃないだろうか(雑な検索・地雷のは見つからなかった)。
 激しい光景から音が消えている、というのが石版刷りと目の前の景色とで共通しているように受け取られているわけだけど、いま、爆発の瞬間を描いた絵を見せられたとして、わたしは「音がない」という感想を持つだろうか。持たない気がする。そういうもの(絵とは音がないもの)だと、信じる以前に信じ込んでいる。そう考えると絵(なかんずく、派手な絵)の受け取り方にも、百閒とわたしの間で、あるいは昔といまの間で、同じところと違うところがあるのだと思う。しかしこういうことを考えはじめると、「いや、やっぱり、音がないと思うかも」という気もしてきて、考えはじめる前の印象は永久に失われるのだった。
 そんなことより生半可な百閒読者としてもっと気になるのは下線を引いた部分で、《昔の活動写真の戦争の場面》と来たら、思い出されるのは百閒じしんの「旅順入城式」だ。

 文庫本で4ページしかない短篇「旅順入城式」は、「私」が日露戦争を記録した活動写真の上映会に行く話である。黒い布の張られた法政大学の講堂で、旅順の山々や、そこを行軍する兵士たちの顔を見ているうちに「私」はどんどん――読んでいて不可解なくらい――悲しくなっていく。ほかの多くの短篇同様「夢である」とは明記されないにしても、夢の中で活動写真を見ているという格好で、そう書くと枠は二重になっているはずなのに、悲しみの感情でその枠が溶けてしまう。どの文章から何が起きているのか、何度読んでも不思議になる。
 初出は大正14年らしいが、昭和28年の阿房列車の1コマで犬吠岬の波濤を《昔の活動写真の戦争の場面》のように感じるとき、百閒のあたまに昔の「旅順入城式」がちょっとでもかすめたりしなかっただろうか――と、勝手な読者らしく小さな連想を書きたかったのだけど、ここで「旅順入城式」の実物を読み直すとこんな部分があった。
《大砲を山に運び上げる場面があつた。暗い山道を輪郭のはつきりしない一隊の兵士が、喘ぎ喘ぎ大砲を引張つて上がつた。年を取つた下士が列外にゐて、両手を同時に前うしろに振りながら掛け声をかけた。下士の声は、獣が泣いてゐる様だつた。》「旅順入城式」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p230

 声、してるの? さすがに当時のフィルムに映像と同時録音の音声は入っていないだろうから、そこからすでに夢の上映会なんだと思う。無音のスペクタクルのつもりで「旅順入城式」を連想したのに、そのつながりがなくなってしまった。拍子抜けというか、むしろすがすがしい。本当に勝手だった。
《山砲を打つところがあつた。崖の下の凹[くぼ]みに、小さな、車のついた大砲を置いて、五六人の兵士が装塡しては頻[しき]りに打つた。大砲は一発打つと、自分の反動で凹みの中を前後にころがり廻つた。砲口から出る白い煙は、すぐに消えてなくなつた。音も暗い山の腹に吸はれて、木魂[こだま]もなく消えてしまつたに違ひない。弾丸は何処[どこ]に飛んで行くのだか、なほ心もとなかつた。しかしそれでも打たずにはゐられないだらうと思つた。打たずにゐたら、恐ろしくて堪[たま]るまい。敵と味方と両方から、暗い山を挟んで、昼も夜も絶え間なしに恐ろしい音を響かせた。その為に山の姿も変つたに違ひない。恐ろしい事だ。そこにゐる五六人の兵隊も、怖いからああして大砲を打つてゐるのだ。》(同)p231

 恐ろしさを受信するアンテナが敏感すぎる。書き写す前はそうでもなかったのに、なんだかこっちまで怖くなってきた。夢と映画の枠を溶かし、小説とこちらの枠を溶かす。阿房列車に戻ると、百閒は鴨川の宿屋に移動してまた浪を見ていた。
《大きな浪が、後から後から打ち寄せて、その砂浜で崩れる。ぢつと見つめてゐて、浪は何をしてゐるのだらうと思ふ。人の脊丈ぐらゐあつて、大きいけれど犬吠岬の浪の様に怒つてはゐない様である。渚に近い海面から、小さい無数の波がこちらへ打ち寄せようとしてゐるらしい。そこへ沖から大きい浪が来て、浪頭のうしろに小さな波を残し、自分だけ先に来て大袈裟にどどどと崩れる。どう云ふ料簡だか解らない。東京へ帰つて二三日経つてから、ふとこの鴨川や犬吠岬の大浪の事を思ひ出した。私はもう帰つて来てかうして外の事をしてゐるのに、あの辺の浪は矢つ張り大変な姿勢で、浪頭を振り立てて、大きな音を立てて、寄せては崩れてゐるのだらうと思ふと馬鹿馬鹿しい。丸で意味はない。無心の浪と思ふのも滑稽である。》pp56-7

「旅順入城式」から四半世紀以上を経て、あの過敏なアンテナは、キャッチする周波数は変わっても過敏なままだとわたしは思う。


■ 「隧道の白百合 四国阿房列車」

 最初の「長崎阿房列車」で出発する前に、こういう部分があった。
《元来壮健とは云はれない私の身体の調子が、ここの所ずつといい。それで私は段段不安になつた。なぜと云ふに、今かう云ふ風であつては、次の順序は病気になる外はない。もともとがたぴしした身体で念ずるのは、一病息災と云ふ事であつて、無病息災なぞ、自分の事としてはもとより、だれにだってそんな馬鹿げた事がある筈のものではない。》pp8-9

 この「不安」が本当になってしまうのが今度の「四国阿房列車」で、冒頭1行、百閒は帰りの途についている。
《夜十一時に、阿波の小松島港を出帆する関西汽船太平丸に乗り込んで、大阪へ帰る事にした。その時間になる迄、小松島の宿屋で休息したが、ぐったりした気持で、身体の置き所がない。晩のお膳に坐る元気もない。》p60

 これまでの阿房列車はどれもこれも、家または駅から出発 → 目的地 → 帰る、という時系列に従って書かれてきた。それがいきなり乱れている。
 百閒はこのあと船の中でも高熱にうなされ、大阪に着いた早朝から病院を探してと、しんどい目が続く。それで何とか東京に帰り着くまでが綴られるのが前半で、後半でやっと今回の旅行のスタートにさかのぼる。
 書かれる順番がこのように組み換えられている阿房列車は、百閒が苦しそうだからというだけでなく、さらにそのバッサリした編集のためもあって、なんだか寂しい。
 もちろん時系列に沿っているときだって、起きたことの何を書き何を書かないかでさんざん編集はされているし(当たり前)、そこにのびのびと回想が割り込んで来たりもするわけだけど、それでもあくまで旅程の順番通り、という進行が阿房列車の太い線だったことが、今回の体調不良阿房列車でよくわかった。以下は京都から大津を過ぎたあたり。
《列車の最後尾に乗つてゐるので、トンネルに這入ると、中が曲がつてゐない限り、入り口の穴がいつ迄も見える。穴の外の光線がこちら迄は射さないけれど、暗闇の中にきらきら光る線路を傳つて、いつ迄も追つ掛けて来る。展望車の室内の一番後ろの隅に据ゑた花瓶に、花が生けてある。開き切つた大きな白百合が一輪、少し前に頸を伸ばして、ゆらゆら揺れてゐるのが、暗闇の向うに遠ざかつて行く穴の外の明かりの面に乗り出し、遠い光線を背景にして、急に光り始めた。見つめてゐると、花の輪郭が段段大きくなる様な気がし出した時、トンネルを出た。もう一度見なほして見たが何の事もない。トンネルの中で白い花の夢を見たのか、それとも又少し熱が出て来たのか、何しろ余りいい気持ではない。》p69

 こんなあやしい描写にも、病人が無理をしている様子を感じてしまう。もっとも、調子が悪い状態で旅をする様子を「書いている」のは東京の自宅に戻って回復してからの百閒であるわけだから、これを読んで「書かれている」百閒を心配するのは余計な気遣いである。それはわかっているつもりだけれど、読む側にとって「書いている」存在と「書かれている」存在の区別は塗り潰されていて、あんまり分けられるものではなくなっているのでは、といった、一人称の書きものにいつでも付いて回る疑問がいつも以上に濃く感じられた。


■ 「菅田庵の狐 松江阿房列車」

 明治生まれの人間にとって、天皇や皇族はどんなものだったのか。主語も話題も大きすぎるけど、百閒の文章でたまにでてくるそれらの話は、有り体に言って、面白ポイントであることが多い。今回の「松江阿房列車」では、発車間際に回想が始まる。
《一二年前九州の八代からの帰りに、博多で増結する寝台車に乗り込んだら、ご新婚後間もない順ノ宮様が、夫君の池田さんと御同伴で大勢の御供をつれて、或は御供につきまとはれてかそれは知らないけれど、貧乏人の引越し程の荷物を持つて、私共と同じ車に乗られた。》p82

 順ノ宮[よりのみや]様とは、順ノ宮厚子内親王(平成の天皇の姉)、昭和27年に結婚して皇籍を離れた人だった。こういうことはぜんぶウィキペディアの引き写しである。
 ところで、わたしが岡山に引っ越してきてから、地元育ちの人と話をしていて「池田さん」「池田の殿様」という名前を聞くことが何度かあった。殿様て、と不思議に思っていたその池田さんこそ、ここに出てくる《夫君の池田さん》、旧岡山藩主の血を引く池田隆政なのだった。回想は続く。
[…] 夜明近くに、山陽道の早春の闇を驀進[ばくしん]する汽車の轟音の中から、ちりちりと云ふ目覚し時計の鈴の音が聞こえて来た。池田さん御夫婦は未明の暗い内に岡山駅で降りられると云ふ事であつたから、おつきのだれかが寝忘れない為に、目覚し時計のねぢを巻いておいたのであらう。列車中に目覚し時計を持ち込むと云ふのも風雅である。おつきのなせる業だらうと思ふけれど、或は順ノ宮様の新妻としての心遣ひだつたかも知れないしさうであつたのか、どうかこちらには解らないが、深夜の列車寝台の鈴音を思ひ出すと、何となく可愛らしい様な気がする。》p84

 結婚したふたりは、このあと岡山市内で動物園を開園する。それが池田動物園といって、わたしの家からけっこう近いことは最近知った。この『第三阿房列車』をはじめて読んでからたぶん10年くらいは経つはずだが、そのとき完全に読み飛ばしていたこんなところに関係のある土地で生活しながらまた読み返していることに、運命的とかいうのでは一切なく、ただただ、おかしな気持がする。列車は午後いっぱい東海道を走り続ける。
《いくらお天気がよくても、晩になれば暗くなる。名古屋に這入る前、進行の右側は空も地面もすでに夜になつて遠い星が瞬き、人の家の燈火がちらちらしたが、進行の左側は向うの低い山の端に残照が懸かり、まぶしいばかりの明かりの手前に、辺[あた]り一帯の工場の煙が帯になつて横に流れてゐる。暗い方へ向かつて走つて行く汽車につれて、段段暗くはならずに、却つて山の上が明かるくなる様であつた。線路に近いこちらから、その山裾に向かつて真直ぐに流れる幅の狭い小川だか掘割りだかの水が、巨大な金の伸べ棒の様にきらきらつと光つたと思つたが、瞬間に汽車が通り過ぎて、その豪奢な色ばかりが目に残つた。》p86

 こういうのは本当にいくらでも読んでいられるが、線路は有限なので駅に着き、大津で一泊した翌日は、目的もなくぶらぶらするためタクシーに乗る。すると田んぼの中を走る線路のそばにたくさん人がいた。ちょうどこれから、皇后陛下の乗った宮廷列車が通過するらしい。百閒も道ばたに車を止めさせ、煙草を吸いながら列車を待つ。なかなか来ない。
《大正の何年頃だつたか、はつきりしないが、矢張り今日の様な綺麗な秋晴れの空の下を、金色に光る宮廷列車が相模野[さがみの]を走り抜けて、逗子駅へ向かふのを見た事がある。美しい皇后が金色の汽車に乗つて、頭の狂つた王様の許[もと]へお見舞に行かれると日記に書いたが、後にその時分の日記を公刊する時、右の文句は全部伏せ字にして隠した事を思ひ出す、当時私は兼務で横須賀の海軍機関学校の教官をしてゐたので、その行き帰りの或る日、宮廷列車を待避して、当時の皇后陛下、即ち後の貞明皇后の御通過を御見送りしたのである。
 何十年前の事だか、繰つて見なければ解らないが、その時以来、私は宮廷列車と云ふ物を見た事がない。だから今、皇后陛下をお見送りすると云ふ殊勝な心根の外に、綺麗な宮廷列車が見たいと云ふ好奇心もある。いつ迄待つても構はないが、しかし早く来ないかなと思ふ。
 到頭来た。土手の前の学校生徒の群れが列[なら]んだ。すぐに人家の蔭から五六輛編成の短い汽車が走つて来て、忽ち目の前を通り過ぎた。機関車の前面に交叉した日の丸の鮮やかな色が、行つてしまつた後まで目に残つた様であつた。》p101

 かつては伏せ字にしたことを、「かつては伏せ字にした」と明かしながらわざわざ書き、それでいてこの時点でも、見送るのを《殊勝な心根》とするあたり、この題材とどういう距離をとっているのか何とも言えない。この引用とひとつ前の引用は終わり方が同じですね、とだけ書いて話題を変える。
(追記:おととい見かけたこのツイートが、あんまりタイムリーだったので貼っておく)

 このあと百閒は島根県松江の美保関に行く。そこの宿屋では芸者が「関の五本松」という民謡を歌う。というか、歌おうとする。ウィキペディアの記事をざっと読み、あとYouTubeにあったこの動画の前半45秒くらいを見てから以下の部分を照らして読むと、内田百閒という人の、理屈で殴りに来る面倒くささがあらためて、非常によくわかる。
《「関の五本松、一本伐[き]りや」
「一寸[ちよつと]待つて貰はなければならん。五本あるものを一本伐れば、残りは四本にきまつてゐる」
「ですから今、そこを歌ふところですわ」
歌はなくても算術の上でわかつてゐる
「そんな無理云うて。だつたら歌、歌へやしません」
「しかしながら、歌ふのは彼女の天職だらう」
「彼女つて」
「君の事さ」
「どうも大けに。一本伐りや四本」
「そうれ見ろ、矢張り四本だ。どうもさうだらうと思つた。さうなる計算だからな
「後は伐られぬ」
「構やしない、伐つちまへ」
「後は伐られぬめをと松」
「をかしい事を云ふぢやないか」
「シヨコ、シヨコ、ホイノマツホイ」
「をかしいね。速断だらう」
「なぜですの」
「五本と云ふ奇数が、偶数の四本になつただけの話さ」
「ですから」
「だけどもさ、そりや君、御無体[ごむたい]と云ふものだ。四本が二夫婦だと云ふのかい」
「さうなんでしよ」
「美保ノ関ではさうかも知れないが、さうとばかりは限らん。我我他国の者には腑に落ちかねる」
「どうしてでせう」
「野郎松ばかりが四本突つ起[た]つてゐるかも知れないし、かみさん松が四本列[なら]んでゐるのかも知れない。一本だけが雄松で一夫多妻の松かもわからない。ポリガミイだ。その反対の一妻多夫の場合も考へられる。これをポリアンドリイと云ふ」
「そんな六づかしい事、知りませんわ」
「しかし本場の本当の節廻しを初めて聞いたが、何でもなささうで、さうでないね。随分六づかしさうだ。僕、ほとほと感に入つた」
「あら、お口が悪いのかお上手なのか、どつちなんでせう」》pp112-3

 だれしも酒の席で「ポリガミイ」「ポリアンドリイ」と絡まれたくはないよな、と、もう一度さっきの動画を見ながら思う。翌日、酒から醒めたあたまで以下のように述懐するが、そしてこれは何度も読んだことがあるこの人の基本姿勢だが、なるほど《さうなる計算だからな》の理屈っぽさもこれと一貫していた。
《どこへ行つて見ても面白くはない。元来私は松江へ見物に来たのではない。それでは何しに来たのかと云ふ事になると自分ながら判然としないが、要するに汽車に乗つて遠方まで辿り著いたのである。しかし旅行には区切りをつけなければならない。それで松江に泊まつてゐる。外へ出て方方廻つて見ても面白くもないから帰ると云ふのは宿屋へ帰るので宿屋へ帰ればどう面白いかと云へば宿屋が面白いわけもない。しかしながら物事が何でも面白い必要もない。》p121


 ところで、「小説である」と特別うたっていない文章が、それでも「小説として読める」ことに、理由や条件は要らないと思う(理由や条件が必要なのは、逆に、ある文章が「小説として読めない」と主張したいときじゃないだろうか)。
 阿房列車のシリーズは、実際に行なった鉄道旅行を題材に一人称で書かれていることをもって「随筆」に分類されがちなのではないかと思うし、わたしもおおむねそんなつもりで読んでいるが、別にこれを小説として読んだっていいわけである。現実に材をとり、一人称で、旅行記ふうの小説はいくらでもある。
 とりわけ百閒が、懐かしいような寂しいような風景を描写するとき、その文章じたいは小説の叙述と(超常的なことが起きることもある小説の叙述と)変わらないために、阿房列車が小説に乗り入れているように見えることはこれまでも何度もあった。
 ところがこの「松江阿房列車」の後半では趣が変わる。さっきの「四国阿房列車」が体調不良のせいで時系列が編集されたのとも違い、はっきり意図して、百閒が阿房列車を小説にするのである。
 それは例によって旅館に取材の記者が十数人集まるところから始まり、まとめて相手をした後もなかなか帰らない男が一人いて、その男は百閒とヒマラヤ山系氏のお膳にも割り込み自分は神であるとのたまうがその正体は――と続くのだけど、そういう趣向が面白いのかというと、どうしてここ(阿房列車)でそんなことを、との戸惑いのほうが先に立ってしまう。
 さっき百閒が自分で書いていた《物事が何でも面白い必要もない。》にならえば、文章が何でも「いかにも小説な小説」になる必要はないのじゃないだろうか。現実にあったことだけを文章化し、その文章でもって題材(現実)に魔法がかかって見える、というこれまでのスタイルに踏みとどまってほしかった気がわたしはする。おそらくそっちのほうが大変なので、ここでは小説になってしまったのではないか。
 ただ、この急な小説化の入口がこんなふうになっているのにはうなった。百閒は取材された場から《ふはふはした》足許で座敷に戻る。
《帰つて見ると山系君が一人、ぽつねんと坐つている。変に長い顔をしてゐる。
「どうしたんだ」
「はあ」
「何をしてゐたの」
「なんにもしません」
「顔が長いよ」
「僕がですか」》p124

 百閒で「顔が長くなる」といったら、もう短篇「山高帽子」の中に半分入ってしまっているようなもので、いきなり怖くなる。ただしまだ半分は阿房列車シリーズだから、この直後、『阿房列車』にも『第二阿房列車』にもあったあんまりな比喩がまたあった。
《「何だか、こつち側が寒いのです」
「僕は僕のこつち側が寒い」
「僕、そつちの横へ行きませうか」
「さうしよう、こつちへ移つて、二人で竝[なら]ばう」
[…]
「二人しかゐないのに、向き合はないで、かうしておんなじ方を向いて竝んでゐるのは、気ちがひが養生してゐる様な気がする。貴君はさう思はざるや」
「僕は気ちがひの経験はありません」
「さうかね」》p126

 こうなると百閒も意地で繰り返しているように見えてくる。なお、この翌々日の百閒は、大阪まで戻って何もすることがなく、天王寺動物園を訪れる。目が行く檻はあの檻である。
《別棟の檻の中に大きなチムパンヂイがゐた。見るからに憎らしい顔をしてゐる。大体、猿の顔にろくなのはない。このチムパンヂイは上野にゐるのと東西呼応して、新聞で時時紹介される。硝子戸の外の廊下になつた所には、三輪車その他子供の運動用具が置いてあるが、さう云ふ物に乗つて藝当するところなぞ、見たくもない。今は向うの隅つこにちぢまつて、バナナの皮を剥きながら、上目使ひにこつちを眺めてゐる。その顔を見てゐると腹が立つて来るから、山系君を促して前を離れた。》p138

 今回のこの記事の最初に引用した猿の話に引き続き、本当に嫌いなんだな猿が、というこの部分を拾っておくのは、このあと、『第三阿房列車』の最後は「列車寝台の猿」と題されているからである。


■ 「列車寝台の猿 不知火阿房列車」
《蚊帳の裾から、きたない猿が這入つて来て、寝巻を引つ張つた。爪の先が横腹の肌にさはつて気持が悪い。振り向いて見ると、猿の癖にひたひが広くて人間の様な顔をしてゐる。起き直らうと思つたがうまく行かない。もう少しで魘[うな]されさうになつた所で、目が覚めた。
 起きて見ると曇つた空が低く垂れ下がつてゐる。さうして時時薄日が射す。こんな日は雷が鳴り出すかも知れない。》p155

『第三阿房列車』ラストの旅、そして『第四阿房列車』は出なかったから阿房列車連作の最終回は、こうやって始まる。
 あれほど嫌いな猿だし、夢だし、なんだか不吉なスタートだが、このシリーズに無数にある読みどころのなかでも、「風景描写」「変な理屈」と並んでわたしが好きな、「岡山の話」と「感覚がおかしなことになる」の両方が今回は長々とあった。
 東京駅を夜に出発して、翌日の昼頃に岡山駅に停車する。
《岡山は私の生れ故郷でなつかしい。しかしちつとも省[かへりみ]る事なしに何十年か過ぎた。今思ひ出す一番の最近は、大正十二年の関東大地震の後一二年経つた時と、もつと近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に二時間余りしかゐなかつた。中学の時教はつた大事な先生がなくなられたので、お別れに行つて、御霊前にお辞儀をしただけですぐに東京へ帰つて来た。駅から人力車に乗つて行き、門前に待たせたその俥[くるま]で駅へ戻る行き帰りの道筋だけの岡山を見たが、それももう何十年以前の事になつた。
 時時汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室から出てホームに降り改札の所へ行つて駅の外を見る。改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変るところはない。どこにも昔の面影は残つてゐない。[…] 古い記憶はあるが、その記憶を辿つて今の岡山に聯想をつなぐのは困難の様である。何事もなく過ぎても、長い歳月の間に変化は免れない。況[いは]んや岡山は昭和二十年六月末の空襲で、当時三万三千戸あつた市街の周辺に三千戸を残しただけで、三萬軒は焼けてしまひ、お城の烏城[うじやう]も烏有[ういう]に帰して、昔のものはなんにもない。しかし岡山で生れて、岡山で育つた私の子供の時からの記憶はそつくり残つてゐる。空襲の劫火[ごふくわ]も私の記憶を焼く事は出来なかつた。その私が今の変つた岡山を見れば、或は記憶に矛盾や混乱が起こるかも知れない。私に取つては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。見ない方がいいかも知れない。帰つて行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだらう、と岡山を通る度にそんな事を考へては、遠ざかつて行く汽車に揺られて、江山洵美是吾郷の美しい空の下を離れてしまふ。》pp171-3

 今回も10分停車の間だけホームのベンチに座り、幼馴染みの「真さん」から大手饅頭をもらう。こんなふうに、通過以上の帰郷未満、つかず離れずというには離れすぎな接し方を生まれた土地に対してし続ける人はほかにあまり見ない気がする。

 次に「感覚がおかしなことになる」例。これまでに何度も使っている駅のホームで、これまでに何度も乗っている列車を待っているのに、それが毎回、自分が予想していたのとは反対の方向からやって来るのでその度におどろく、という話がある。これはわかる気がする。あたまの中身をぐるっと回転させられて変になる感覚だ。
《もつと困るのは、随分馴染み深い大阪駅から上リに乗る時、走り出してから、どう考へても京都の方へ向かつてゐると思ふ事が出来ない。三ノ宮神戸の方へ走つてゐる様な気がする。その内に新淀川の鉄橋を渡り、しかし新淀川には大阪からの上リにも下リにも鉄橋があるから、鉄橋を渡つてゐると云ふだけで捩[ね]ぢれた頭の中をなほす事は出来ないが、吹田の操車場を見ればもう観念する。そのもつれが一番ひどかつたのは、四国へ渡つて途中で熱を出し、ふらふらになつて大阪駅から「つばめ」に乗つた時、展望車の後ろへ遠ざかつて行く沿線の景色が、椅子をその方に向けてゐたので丸で逆な気持になり、やつと頭の中をなほして方向を正したと思ふと、今迄の逆のまた逆が、本来の方向とは別になつた様な気がし出して困つた。
 小倉駅に這入る「高千穂」が私の思つたより逆の方から来たから、出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》p189

 ちなみにわたしは、建物の中に入ると外の方向がわからなくなることが多い(こっちの壁の向こうにあのスーパーがある、と思ったら90度ズレているとか。特に踊り場のある階段をのぼって上階に行くとすべてが見失われる)んだけど、自分のわからなくなる具合が「一般」と比べてどうなのか、知りようがないだけに気になっている。
 それはともかく百閒は、自分の感覚の方がおかしくてそれを外に合わせて「なほす」スタンスであるのが面白い。その内面の挙動に少しもおかしいところはないのだけど、あれだけ自分の理屈にこだわる人でありながら、ズレている自分のほうを「なほす」。百閒の理屈っぽさはわがままとは違う、自覚された偏りみたいなものかと思う。《出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》

 あと宮崎の宿で、早朝の出立になるから前の晩に睡眠薬を飲むところがある。
《今朝が早いので昨夜は早く寝たけれど、もし寝つかれなかつた場合の事を慮り、鞄に入れて来た眠り薬を適量にのんだが、暫らくたつと、薬が利いて来た事がはつきり解つてゐながら、眠る事は出来なかつた。更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし、又それで利き過ぎて目覚しの音も聞こえなかつた云ふ事になつては困ると思つたので、眠れない儘に輾転反側[てんてんはんそく]してゐる内、うとうとしたかも知れない。そのうとうとの途切れたのが三時半前である。そこで我破[がば]と起きてしまつた。》p203

《更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし》は立派な判断だと思いつつ、さらにまた勝手なことを書くが、百閒が睡眠薬について書いているのを見るとどうしても、「山高帽子」の登場人物でべろべろになった野口、そしてそのモデルである芥川龍之介の書かれ方が思い浮かぶ。適量を越えて飲むと死に至るこの種の薬を百閒が飲むとき、あるいは飲んだと書くとき、そっちへの連想がないことなんてあるのだろうかなどと、また考えても仕方ないことを考えてしまう。
《間もなく彼は片手に一ぱい銀貨や白銅を握つて帰つて来た。蟇口[がまぐち]から摘[つ]まみ出す事が出来ないで、中身をそつくり手の平にうつして来たらしい。さうして起つたなりでその手を私の前に差出すのだけれど、その間も彼はぢつと起つてゐる事が出来なかつた。ふらりふらりと前後左右に揺れて、その度に足を踏み直した。彼の手の平には、十銭や五十銭の銀貨と混じつて、五銭の白銅貨が一つあつた。それを彼は摘まみ出さうとしてゐる。しかし彼の指先は、彼方此方に游[およ]いで、中中それに触れなかつた。》「山高帽子」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p174

《それから数日後に、もう一度会つたときの芥川は、半醒半睡の風人であつた。薄暗い書斎の床の間の前に据ゑた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と眠つた。不意に目を醒まして、曖昧な応対をしたりした。
「そんなに薬を飲み過ぎては、身体の毒だよ」
「いいよ。それに、こなひだ内からおなかを毀してゐたものだからね」
 話を続けようとすると、もう眠つてゐるのである。》「湘南の扇」、『私の「漱石」と「龍之介」』(ちくま文庫) p229

 なんだかしんみりしてきたので(おどろくほど勝手だ)、明かるいところを引用する。
 体重計が家庭には珍しかったこの当時、百閒は主治医から旅先で機会があったら体重を計っておくように言われていた。それを鹿児島で思い出し、駅のかんかんを借りることになる。
《門外に待つてゐる先程の自動車で、駅へ引き返した。さうして小荷物扱所のかんかんに乗り、その数字を教はつた。忙しい所へ飛んだ荷物が割り込んですまなかつたが、その時の数字は風袋つきである。何日か後に東京の家に帰つてから、著てゐた洋服と肌著類一式を脱いで一纏めにし、ポケツトに這入つてゐた時計、手帖、がま口その他こまこました物を、同じくポケツトに入れてあつたハンケチに包み、眼鏡も外して一緒にして、別に靴を紐でぶら下げ、家の台所にある棒秤[ぼうばかり]に掛けて目方を出した。その合計を鹿児島駅の数字から引き去つた残りが、その時の私の体重であつたと云ふ事になり、この計算には間に凡[およ]そ千五百粁[キロ]の距離が挾まつてゐる。》p210

 利口であるかどうかを気にする百閒、ここでも算術を使うことが得意げに書かれているような気がするがどうだろう。

 それから百閒は八代へ向かい、またも馴染みの松浜軒に泊まり、雨が降り、不知火ノ海を眺めに行っても不知火は見えず、降り続ける雨の中を列車は博多から下関へ、下関から東京へと向かうところでこの「不知火阿房列車」は終わる。
 そしてその途中から今回も、はっきりした小説が浸食してくる。
《さつきから気になる相客がゐる。鹿児島の始発から同車してゐたのだらうと思ふ。初めの内は気がつかなかつたが、どの辺りからか食堂車にでも行つてゐて、その席にゐなかつたに違ひない。帰つたのも知らなかつたが、お酒を飲んで来た顔をしてゐる。全部同じ方の向うを向いたリクライニング・シートの、私の席から大分離れた通路の向う側にゐるのだから、おとなしく腰を掛けてゐれば顔が見える筈はないのだが、頻りに起ち上がつたり又坐つたり、その度に後ろ向きになつてこちらを見る。こちらを見る為に起ち上がるのではないかと思はれ出した。じろじろと人の顔を見て、その挙げ句ぢつと見据ゑる。》p211

《「どうだい貴君」
「まだ見てゐますか」
「無視する事にした」
「それがいいです」
「だからそんな質問をしてはいかん」
「はあ」
 しかし向うの視線が筋になつて、こちらのテーブルの上を斜に走つてくるのが、手でさはれそうな気がする。本当にさはれるものなら払ひのけるのだけれど。》p231

 少し離れた座席から、また食堂車の筋向かいのテーブルから百閒を嫌な目つきで見つめる男が、寝台車の百閒の夢にまで現れる。そのとき男は人間の姿をしておらず、これまで何度も「好きでない」「憎い」「腹が立ってくる」と嫌われていたあの動物になっていて、どうやらこの先も付いてくる――
 しばらく前に書いたように、現実だけを題材にするのがしんどくなったのか、それとももっと単純に、そういう書き方に飽きてしまい、別の書き方を探っている経過報告だったのか。当然、正解はわからない。最初の『阿房列車』を読んだとき、3冊目でこんな変化があり、こんな後味のまま終わるとはまさか予想しなかった。
 じっさい、百閒も「これで最終回」と決めて書いたわけではないだろうから、もしこのあとも阿房列車が2本、3本と続いていたら、「小説として読もうと思えば読めるけどあえてそう読まなくてもいい阿房列車」と、「いかにもおかしな小説っぽい小説」の混淆はどんなふうに進んだのか、あるいは進まなかったのか、少し気にかかる。そのせいで、読み終えてもなんだかぜんぜん終わった感じがしない。
 でもこの先はもう、ない。上のような興味をほかのやり方で満たすには、あたまの中の方向をぐるっと変えて、この戦後の落ち着いた紀行シリーズよりずっと前、大正の後半からおびただしいほどの量が書かれた、小説のような小説でないような百閒の文章をひとつずつ読んでいくのがよいのだろうと思う。それはみんな旺文社文庫のかたちでこの部屋の押入れにあり、猫にクンクン嗅がれている。


 最後に。百閒がこのような旅行をできたのは、一等車が復活するくらい戦災からの復興が進んだという時代の条件がまずあるが、持病をもつ百閒にとって同じぐらい、あるいはそれ以上に不可欠だったのは、すべての旅に一緒について来てくれる同伴者、つまりヒマラヤ山系氏がいたことである(「ことである」も何も、最初の『阿房列車』の巻頭の「特別阿房列車」にそう書いてある)。
 このヒマラヤ山系こと、平山三郎氏と百閒の関係を、じつはよく知らない。
 平山氏は百閒を「先生」と呼ぶし、阿房列車には百閒の昔の学生が何人も出てくるが、このふたりに直接の教師-学生関係はなく、平山氏は戦前から職場で機関誌を作る立場、百閒は依頼されてそこに原稿を書く立場、だったのだと思う。百閒の文章で描かれる両者の間には、その関係を踏まえて成り立つ「親しさ」と「配慮」と「立場のわきまえ」がある。「親しさ」は百閒から山系氏へだけでなくその逆もあり、「配慮」は山系氏から百閒へだけでなくその逆もある。そしてお互いがお互いに「立場のわきまえ」をもって接する。この3つを合わせたものをもしかすると「敬意」と呼ぶのかもしれないが、そんな言葉を必要としない関係にふたりはいた。
 そこを基本としながら、ひとつの言葉に回収されず場面場面で細かく揺れる感情のままに全篇を通して繰り広げられるふたりの膨大な会話には、ほぼ意味がない。車中で、ホームで、宿屋で、まったくしょうもないこと、益体もないことしか喋っていない。これほどまでに無内容な会話をやり取りしながら、そして話すことがなければ黙ったままで出発から帰着まで自分を見守ってくれる存在が、百閒にはいた。
 阿房列車シリーズ全3冊、計15本の汽車旅行の記録として書き留められた会話の中から、ふたりのあり方がもっとも典型的にあらわれているようで印象に残るやり取りを、最後に書き写す。この部分を思い出すだけでわたしは無限におかしいし、あの有名すぎる書き出しはそれはそれとして、すべての阿房列車はここから始まっているように見えるのだった。
《女中が行つた後、お茶ばかりがぶがぶ二三杯飲んだ。所在がないので、山系と二人して昨夜帰つて来てから飲み直した時の、お膳の上にあつた物を思ひ出さうとするが、何を食べたのか、両方の記憶を合はしても、丸でわからない。
「われわれの人生は曖昧なものだね」
「さうでもありません」》「雪解横手阿房列車」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p54


 次は『百鬼園随筆』です。


■ 旺文社文庫『第三阿房列車』(1980)目次:
長崎の鴉
 長崎阿房列車
房総鼻眼鏡
 房総阿房列車
隧道の白百合
 四国阿房列車
菅田庵の狐
 松江阿房列車
時雨の清見潟
 興津阿房列車
列車寝台の猿
 不知火阿房列車

 解説 阿房列車の留守番 中村武志
 「第三阿房列車」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『第三阿房列車』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っているはず。この表紙もうらやましい。

第三阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社
売り上げランキング: 237,529
2019/08/06

内田百閒『第二阿房列車』(1954)

旺文社文庫(1979)


 こないだ『阿房列車』の感想を書いたとき、ぜひとも引用するつもりでし損なった箇所があったので、まずそこから書く。「鹿児島阿房列車 後章」、鹿児島で泊まった旅館の人に用意させたお弁当を、八代へ向かう車中で食べるところである。
《宿の女中が包んでくれた折をあけた。蓋を取つて見ると、驚いた事に鼓[つづみ]の形の握り飯が一ぱい詰まつて、阿房[あはう]が昼寝をした様に押しくら饅頭してゐるだけで、外の物はなんにも這入[はひ]つてゐない。これでは食べられはしない。きつとおかずは駅売りの物を何か買ふだらうと彼女が判断したのである。それにしても一寸[ちょっと]佃煮か漬け物を添へておいてくれればいいのに、それどころか、昨日宿で出した時は胡麻塩で結んであつたのが、今日は胡麻も掛かつてゐないすつぽろ飯である。
「これぢや食べられないね」
「はあ」
 山系君も感心して見てゐる。
 しかしながら、矢つ張り食べた。一旦そのつもりになつて催したから、思ひ止[とど]まつて蓋をするわけには行かない。山系にも因果をふくめて、是非食べる様すすめた。
 一つ口に入れて見たが、ろくろく塩味も利いてゐない。全くどうにもならない代物である。うまくなぞないのは勿論だが、一たび食べるときめた以上、その方針に従つて食べてしまふ。お茶でもあれば嚥[の]み込むけれど、それもない。山系が途中で投げ出すかも知れないから、さうさせない様に監視しながら、食べ続けた。
 八つか十這入つてゐたのだと思ふ。後に二つ残つてゐる。
「もう咽喉[のど]を通らない」
「もう駄目です」
 しかし残つた二つを窓から捨ててはいけない。さう云ふ事をすると目がつぶれる。大事にしまつて、八代の宿へ持つて行く事にした。
 汽車がもう一度鉄橋を渡つて球磨川の岸から離れ、それから八代駅についた。》「鹿児島阿房列車 後章」、『阿房列車』(旺文社文庫)pp153-4*太字は引用者、以下同じ。

 同行者に「因果をふくめて」「監視しながら」食されるおにぎりが、この世界にはあるのだった。《阿房が昼寝をした様に押しくら饅頭してゐる》というあんまりな比喩や、《「これぢや食べられないね」》から《しかしながら、矢つ張り食べた。》への絶妙な呼吸などなど、ここのくだりは思い返すたび無限におかしい。
 あと、この引用の終わりにあるように、「これこれこういうことがあった(こういうものが見えた)、そして○○駅についた。」という書き方はこれまでも・これからもあちこちで繰り返され、そこに面白ポイントがあることが多い。それで引用が長くなるのはもう仕方がないじゃないかという気持で、続きは『第二阿房列車』(1954)に移る。
《これからその話をすると云つても、往復何の事故も椿事[ちんじ]もなく、汽車が走つたから遠くまで行き著き、又こつちへ走つたから、それに乗つてゐた私が帰つて来ただけの事で、面白い話の種なんかない。それをこれから、ゆつくり話さうと思ふ。抑[そもそ]も、話が面白いなぞと云ふのが余計な事であつて、何でもないに越した事はない。どうせ日は永いし、先を急ぐには及ばない。今のところ私は、差し当たつて外に用事はない。ゆつくりしてゐるから、ゆつくり話す。読者の方が忙しいか、忙しくないか、それは私の知つた事ではない。》p65「春光山陽特別阿房列車」

 百閒はこの巻で4本の阿房列車を走らせる。
 まず、「雪中新潟阿房列車」で雪の積もった新潟を訪ねる。帰ってすかさず、秋田県の横手へ行ったのが「雪解横手阿房列車」。それから京都へ向かったのは、山陽本線にデビューした特別急行列車の処女運転に招待されて始発の京都から終点の博多まで乗るためであり、せっかく博多まで行くのだからと、熊本県の八代へ足を伸ばして帰るのが「春光山陽特別阿房列車」。京都が始発だからまず京都へ行き(わからなくはない)、博多のついでで八代までとなると(わからない)、この旅行に「山陽」の名が付いている意味は…とこっちが悩んでしまうが、次の「雷九州阿房列車」ではタイトル通り、ふたたび東京の自宅から九州まで遠出する。事前に定めたスケジュールに従いあちらこちら回っていると、それがなぜか結果的に各所で猛威をふるう台風をことごとく避けるかたちになって何事もなく帰る。
 このうち横手と八代は『阿房列車』で行っているから再訪になる。こういうのを「曾遊の地」と呼ぶのを私はこの本で知った。八代は、最初に引用した、食べ切れなかった握り飯を持って行ったときが1回目で、この『第二阿房列車』では2回訪れるから都合3回、いつも同じ宿に泊まる。よほど気に入ったらしいがしかし、こんなふうにまとめて説明してどうなるというのか。なにしろ相手はこんなことを書く人である。
《外へ出たらすぐにタクシイの空車が来た。だから乗つたけれど、中央線の市ケ谷駅も四谷駅も近い。自動車に乗らなくても、電車で行けば東京駅の中まで這入る。二三年来の阿房列車の初めの内は、特別急行の一等車に乗る旅行でも、東京駅迄は電車で行つて、それが普通であつた。この頃はさうでない。大概タクシイで出掛ける様である。自動車に乗つたから贅沢だと云ふ事もないが、電車の料金より高いことは高い。だから無駄だと云ふ意味で無駄を排除しようと云ふ方へ、考へ方を向けるのはこの場合よくない。それを考へつめれば、阿房列車が成り立たない。つい自動車に乗る様になつたのは、往来に自動車の数が多くなつたからで、この責めは自動車の方にある。》p118「雷九州阿房列車」

《別府は温泉地であつて、この宿も勿論温泉旅館である。しかし私は温泉に這入りに来たのではない。何しに来たと云ふこともないが、温泉を目的にして来ない事だけははつきりしてゐる。しかし断じて温泉にはつからないと云ふ決心で来たわけでもない。普通の風呂のつもりで這入つてもいいし、又都合では這入らなくてもいい。もともと私は温泉場と云ふものが好きではないけれども、かうしてここへ来たのは、だれからもおどかされて来たのでなく、自分が来ようと思つた所へ来た迄であるから、自分で来ておいて、かう云ふ所はきらひだなどと考へるのはをかしい。だから一服して、落ちついて、ちつとも嫌つてはゐない。明日は一日ゆつくりして、明日の晩も泊まるつもりである。なぜ来たかと、追究する者はだれもゐない。》p163「雷九州阿房列車」

 同じ人がこういう景色をスケッチしているのも『阿房列車』と同じである。
《沿線の畑に麦が伸びかけてゐる。窓の外は全くの春景色である。さうして少し曇りかけて来た。広島で附け換へた機関車の白い煙が、竹藪の中へ這入つて、通過する迄、出て行かないし、消えもしなかつた。
 宮島の波の中のお鳥居が見えて、その後又暫らくの間海の景色が展[ひら]けたが、手前の島の上を越した沖の空は、次第に暗くなつてゐる。遠くの方は雨が降つてゐるかも知れない。》pp94-5「春光山陽特別阿房列車」

 ところで今回、最初の「雪中新潟阿房列車」で、大正12年(1923)の関東大震災よりも前のこととして回想される話がある。
 ――陸軍士官学校の教官だった百閒は出張を命じられ、本人としては京都へ行きたかったのに、決まった行き先は仙台だった。ぜんぜん違う。しかし京都はあきらめきれない。どうするか。東京から仙台まで行き、京都に寄って帰ればいい。
《それで鉄道地図を按じて、道順を研究した。仙台から常磐線で平へ出る。平から磐越東線で郡山に出て、磐越西線を通つて、新潟へ行く。新潟から北陸本線へ廻つて、富山、金沢、敦賀を通り、米原に出て京都へ行く。大変な廻り道の様だが、仙台から東京に帰り、東海道線で京都へ行くよりは、この道順の方が当時の里程の計算で二十哩[マイル]程近い事を知つた。だから、その方から考へても、仙台に出張した途中、京都へ寄つて来るといふ考へ方が成立する
[…]
 右の道順で京都へ行くとしても、もつと倹約する事は出来た。常磐線の平なぞへ行かないで、東北本線の郡山から磐越西線に乗る事にすればいい。仙台から平へ出て郡山へ行くのは三角形の二辺であり、すぐに郡山へ行けば、その一辺ですむ。従つて距離もそれだけ縮まり、さつき挙げた二十哩と云ふ数字がもつと多くなる。それを知つてゐながら平へ出たのは、一日の内に、太平洋岸の平から、日本海岸の新潟へ出て見たかつたのと、もう一つには、その少し前に開通した磐越東線と云ふ新線路を通りたかつたからである。阿房列車の病根は、何十年も前から兆してゐた事を自認する。》p10「雪中新潟阿房列車」

 狂気の沙汰だとわたしは思う。「狂気」の響きは強すぎるかもしれないが、その強さでもって《病根》を切り離すのではなく、鉄道が好き・汽車が好きという「日常」とこのような領域は地続きにつながっているらしいこと、人はわりと無造作にそんなところにも足を踏み入れるらしいこと、だから、そちらだけピックアップすると「狂気」に見える世界だってじつは日常の少し先(だったり内側だったり外側だったり)にふつうの顔で広がっているみたいだということが、わたしは言いたかった。
 そしてまた、ここを引用する理由のもうひとつは、《仙台から常磐線で平へ出る。》《常磐線の平なぞへ行かないで》《太平洋岸の平から》という「[たいら]」がわたしの実家にほど近いからだった。
 震災より前となるとわたしの祖父も生まれておらず、その意味では、つながりを思い浮かべようにも浮かぶんだか浮かばないんだか曖昧になるくらい時代が遠くて想像のぜんたいがぼんやりしてしまうのに、ただ場所だけは、祖父やわたしが立って歩いたのと同じあたりだろうという点で確かな足場になるような気もする。でもその場所を、自分がいま読んでいる本を書いた昔の人が――しかも書いている時よりずっと前に――通過していたことまでも確かな出来事として感じられるかというと、それはそれでまた曖昧になるようで、あやふやなのと確かなのが混じった妙な気分にうっすら包まれる。

 それはともかく、上記の旅程が無茶なら(実際、無茶だと思う)いまの阿房列車も無茶だとはっきり再確認される(実際、無茶である)。そのうえで、以下のようにおとなしく座席に腰を下ろして発車を待つ様子や到着した宿での落ち着いた様子が書かれると、かえって凄みがあるというのとも違い、ただ坦々と、おかしい。
《少し早目に乗り込んでゐて、さうして発車を待つ。なんにもする事はない。その間の時間が実にいい。神聖な空白である。見送りがあると、見送り人には顔があるから、その顔に拘束されてしまふ。又何か云ふから、発車まで受け答へをしてゐなければならない。動き出せば更[あらた]めて挨拶を要する。阿房列車が行くと云ふので、別れを惜しむなぞと云ふ心事は、人の心事でも自分の心事でも腑に落ちない。》p14「雷九州阿房列車」

《又火鉢の傍に戻つて、ぢつとしてゐる。ぢつとしてゐるより外に、ポーズの作り様がない。昨夜はホテルでよく寝て、今朝はゆつくり起きたから疲れてはゐないし、眠くもない。何でも出来るけれど、なんにもする事がない。昨日一日の車中にくらべて極楽である。八代へ来てよかつたと思ふ。
 夕方近くなつて、少し風が出たらしい。潮騒の様な音がする。しかし海は遠くて、波音が聞こえる筈はないので、松籟[しようらい]かも知れないと思ふ。その微かな響きを貫く様に、雨の中で鵯[ひよどり]の声がした。》p108「春光山陽特別阿房列車」

 こういうところを読んでいると、小さくて静かで何気ないことを書くのが百閒はうまい、みたいなことを言いそうになる。でも別にそこには限らずに、たまに出てくる「何気なくないこと」の描写だってもちろん、読み応えがある。寝台車の窓から、ふだんは縁のない壮大な景色を目撃するところ。
《どこだか解らない所で目がさめた。in bedで、寝たなりで、窓のカアテンを引き寄せて見たら、向うの遠い空の下の端が、灰色になりかけてゐる。もう駄目だと思つて、半身起き直つた。さうして煙草を吸つて、本式に目をさました。
 矢つ張り夜明けだつたので、段段に灰色が褪せて、地平線から赤い大きな朝暾[てうとん]が昇つて来た。私に取つては、実に驚天動地の椿事である。ああして、いろいろの事のある一日が始まるのかと、呆気に取られて、眺めた。
 向う側の寝床に山系がいつ迄も寝てゐるのは業腹だから、起こしてやつた。
 日の出ををがみなさいと云つたら、曖昧な返事をして起き出した。
「どこです、どこです」と云ふ。
 山系の窓のカアテンを引いたら、正面に真白い富士山が映つた。西の空にはまだ夜の尻尾の様な朦朧とした暗さが残つてゐる。その薄闇を裂く様に、白い富士山が聳えて、東天の旭日と向かひ合つた景色を、自分の方の窓と、代る代る見て見返つて、一日の朝は、かうしたものなのかと考へ直した。
 朝の富士山は白くて美しいばかりでなく、飛んでもなく大きなものだと云ふ事を思つた。
 段段に東京に近づき、朝の営みの町や村に、長い白煙の尾を投げながら、走り続けた。さうして、まだホームの屋根の下かげに、夜の色が残つてゐる上野に著いた。》p62「 雪解横手阿房列車」

「雷九州阿房列車」では、九州地方を蹂躙する台風のコースからつねに外れて漫遊する運のよさを発揮して、自分たちは無事でも、暴風雨の爪痕は目に入る。そんななかで阿蘇の山すそを通る。
《二十六の駅の真中辺りになる宮地駅に汽車が停まつた。手前のこちらの、屋根のないホームには、さらさらと明かるい雨が降り灑[そそ]いで、ホームの砂利を濡らしてゐるが、向うの山は霽[は]れかけてゐる。大きな箆[へら]でそいだ様なあざやかな山の皺が麓[ふもと]に走り、下の方の山肌は目がさめる様な緑の色を一面にひろげて、その上を帯になつた白い雲が流れてゐる。
 宮地を出て、次の波野駅へ行く間に大小無数の、数へ切れない程の滝を見た。絶壁に巨巌が聳え、その天辺[てつぺん]から恐ろしい勢ひで落下する十数丈の滝から、兵子帯[へこおび]ぐらゐの短かいのに至るまで、落ちて来る水は皆、赤黒い色の濁水である。ヨナを溶かして押し流してゐたのであらう。滝を囲んだまはりの崖には、庭師が手入れをしたかと思はれる様な、背の揃つた短かい青草が生え茂つてゐる。思ひ掛けない絶景に接し、車窓に向けた頸筋が痛くなる様であつたが、この無数の濁水の滝は多分、雨の為であつて、ふだんは水の落ちてゐないのもあるだらう。烈しい繁吹[しぶ]きを上げて山腹の岩を叩いた水が、勢ひが余つて線路を襲ふ様になり、私共の通つた後でこの線を不通にしたのではないかと思ふ。》p153「雷九州阿房列車」

 こういうスペクタクルは珍しい。そういえばこの『第二阿房列車』の旅をしていたころというのは、『東京焼盡』(1955)の原稿を整理していた時期と重なるのかもしれない。違うかもしれない。だからなんだというわけでもない。
 あと珍しいというか、1冊目の『阿房列車』との違いでいえば、本を出してこの鉄道旅行が知られるようになったためだろう、行く先々の駅や宿でその土地の記者からインタビュー(インタアヸウ)されることが何回かあった。
《若い新聞記者が、何となく遠い顔附きをした。
「阿房列車の取材ですか」
 知らないかと思つたら、そんな事を云ひ出した。
「それは家に帰つて、机の前に坐つてからの事で、今ここでかうして君のお相手をしてゐる事と丸で関係はない」
「でもさうなのでせう」
「さうでないと云ふ必要もないし、さうだと考へる筋もない。要するにそんな事は、後の話さ」
「さうですか」
「帰つてからの事だよ」
 そこいらで御免を蒙[かうむ]つた。》pp24-5「雪中新潟阿房列車」

 返事じたいは何となく予想される通りなんだけど、長い汽車旅のあとで疲れていても、楽しみにしている食事の前でも、インタビューじたいは(彼らも上司から命じられた仕事なんだろう、と事情を推しはかって)受けてあげる姿に「へえ」と思わされた。自分の我を通すのは当然ながら、相手には相手の我が別のものとしてあることもまた当然、みたいな。旅先の人が用意したイベントの予定が変わり、そちらに合わせてくれるよう頼まれて、むっとしながらも先方の好意なんだからと受け入れる場面もあった。まるで人格者である。
 しかしこの人格者が『阿房列車』から引き続き過敏に反応する状況があった。ふたりの人間が同じ方向をむいて横並びに座ること、これである。
《コムパアトの二重窓のカアテンを搾つた硝子[ガラス]越しに、綺麗な燈火が飛んで行くのが見える。八時半の夕食なら、家にゐるより早い。そろそろ始めよう。
 洗面台を食卓にして、その上に持参の御馳走を列[なら]べた。それに向かつて山系君と二人竝[なら]んで、ベツドの縁に腰を掛けると、二人共同じ方を向き、気違ひ同志が養生してゐる様な格好になるから、分別を要する。コムパアトに這入[はひ]つて食事をすると、いつもその問題がある。いつぞやはボイが空き箱を持つて来てくれて、それを腰掛けにした。汽車の中でそんな手頃の空き箱がいつでも間に合ふとは限らない。だから今度は絵かきの使ふ三脚を買つてきた。》p74「春光山陽特別阿房列車」

 そのこだわり(と比喩)は、ほんと何なんだ。とはいえこういった鋭敏な感性があってこその名文の数かずなのかもしれず、たとえば次のような観察眼はどうだ。そこに目を留め、しかもそれを「書くべきもの」として書くのである。
《「鳥海」の横手駅の停車時間は八分である。乗客が大勢降りてきて、一昨年[をととし]の秋私共が蕎麦の起[た]ち食ひをした売店の廻りに人垣をつくり、丼[どんぶり]を片手に持つて蕎麦のかけを食べてゐる。横目で見ながら駅長さんと竝[なら]んで通り過ぎる時、蕎麦の上に卵を掛けたのが目についた。朝の光りで、上に丸く乗つた、まだ潰さない黄身がきらきらと光つた様だつた。》p44「雪解横手阿房列車」

 いまのは目の例だが、耳の観察もある。京都駅の様子。
《早朝でも駅の中は人が混雑してゐる。東京駅よりは下駄の音が多い。それだけに、うるさい。》p79「春光山陽特別阿房列車」

 この時代にはそんな種類のうるささがあった、というのは考えたことがなかった。
「何気ないこと」であれ「何気なくないこと」であれ外界の観察も面白いが、自分の内側にある感覚を言葉にするときに百閒の文章は本領を発揮すると思う。感覚の言語化はなるべく引用したい。
 新潟の宿で深酒した翌日、起きると部屋ではお供の「ヒマラヤ山系」氏と、かつて大学で教えた学生で当地に在住の「状阡[じやうせん]」氏が将棋を指している。
《私は炬燵[こたつ]を横目に見て、端坐してゐる。将棋なぞ面白くもない。なぜと云ふに昨夜の飲み過ぎで、頭の奥とか胸の中とか、さう云ふ限られた所でなく、私の身のまはり一帯が陰鬱である。どつちが勝つてゐるのか、負けさうなのか知らないが、二人共六[む]づかしい顔をして、押し黙つてゐる。そこへ山系の迎への自動車が来たと知らせて来た。
 山系君があわてて支度をして出掛けた。管理局へ挨拶に行つたのである。その後で食ひさしの将棋を私がしやぶる事になつた。随分長い間掛かつて負けた。私が負けたのは、状阡が勝つただけの事だから構はないが、状阡が余り理詰めの手ばかり指すので、頭がこちこちになつて、座辺に揺曳[ようえい]する宿酔[ふつかゑひ]が凝固した様な気がした。
 ぢきに山系が帰つて来て、状阡が一先[ひとま]づ去つて、晩を待つ順序になつた。その間何も用事がないから、今日はお風呂へ這入[はひ]つた。尤[もつと]も用事がないと云ふのは、起きてから今迄だつて何も用事があつたわけでなく、これからもあるわけではないから、さう云つても意味はない。しかし用事がない間にも、まだもつと用事がないと云ふ境涯はある。「だからお風呂へ這入つた」と云ふ、その理詰めの考へ方がいけない。》pp26-7「雪中新潟阿房列車」

 感覚(宿酔)の言語化から、後半はどれほど理屈を遠ざけたいかという話にズレていくのがぜんぶ面白い。
 博多のホテルで朝食代わりにアイスクリームを食べるところは、観察と描写、感覚の言語化、「何してんだ」感そのほか、もろもろの要素が詰まって本書の白眉をなしている。
《暫[しば]らくしてボイが、珈琲とトーストと、別にアイスクリームを三人前運んで来た。その三つをみんな私の前に列[なら]べて、端のカツプから一匙ふくむ。大変うまい。昨夜もお酒の後でみんなで食べたが、昨夜のはクリーム・サンデエであつた。今朝のは、初めからボイに白いのを持つて来いと命じたから、三つ共白い。その色と、円く盛り上がつた肌が、朝の日をすがすがしくする。家にゐるとさう行かないが、旅行に出れば私はアイスクリームばかり食べてゐる。好きなのだらうと思ふけれど、どこがどういいのか、考へて見た事もない。味もよくわからない。味はひ分けたり、比較したりする事は丸で出来ない。ただ子供の時珍しかつた衛生元祖アイスクリン以来、いつでも、あれば食べたいと思ふ。
 一人前済まして、二つ目に掛かつた。もう大分口の中が冷たい。山系君はトーストをかじつてゐる。それに珈琲だけでは、彼はおなかがへらないかなと案じながら、二つ目の仕舞頃になつたら、少し口中が冷た過ぎて、もういいと思ひ出した。だから矢つ張り私が二つ、彼が一つで丁度よかつたのだが、食べないと云ふから仕方がない。そこで三つ目に匙を突つ込んだ。
 三つ目の半ば頃になると、口の中がしびれて、舌に感覚が無くなり、匙でしやくつて入れても、溶けて咽[のど]を流れるところしか感じない。味も解らず、特に冷たいと云ふ事もない。初めの内は冷たいのがすがすがしい気持であつたが、もう何ともない。さうして余りいい気持ではなくなつた。少し頭痛がする様でもある。
 […] 兎に角[とにかく]我慢して三つ目を綺麗に片づけた。第一、山系の前で残したりしては、沽券[こけん]にかかはる。冷え切つた口で煙草を吸ひ、暫らくさうしてゐたら、しびれが取れてもと通りになり、頭痛もなほつた。》pp102-3「春光山陽特別阿房列車」

 アイスクリームの見た目を描いて思い入れを語り、食べる際の感覚も巧みに言葉にしていった結果、山系氏のかじつてゐるトーストと珈琲まで大変おいしそうに見えてくるここのくだり、文章を使ったどんな技がかけられているのか何度読んでもよくわからない。ただ、読み返すたびトーストはいっそうカリカリに焼き上がり、熱くて黒い珈琲が鼻をくすぐるのである。百閒は、横目でも見ている。
 次は、横手の宿で大勢で楽しくお膳を囲んでいる最中、とつぜん猛烈な背中のかゆみに襲われるところ。手は届かない。まごの手までは持ってきていない。
《丁度その時、ここへ顔を出した宿の主人が、
「まごの手なら、帳場に御座います。今持つて来させませう」と云つた。
 大いによろこんで、流石[さすが]は横手の耆宿[きしゆく]だと云つたが、そんな宿があるものではない。だれにも解らなかつたから、いい工合にほつておいて、背中の痒[かゆ]い所が、まごの手の来るまで動かない様に、ひろがらない様に、丹田に力を入れて待つた。
 女中が来て、主人に何か云ふ。手に何も持つてゐない。主人が気の毒さうな顔をして、
「あつたのですけれど、ある筈なのですけれど、いくら探しても見つからないさうです」と云つた。
 それを聞いたら、さつきの倍の倍も痒くなつた。もう我慢が出来ない。どうしたらいいだらう。背中の真中に渦巻が出来て、ぐるぐる廻りながら、そこいらをくすぐる。
「駄目だ。もう、到底駄目だ」
 管理職の若いのが気の毒がつて、掻いて上げますと云ひ、すぐに手を突つ込んだ。宿屋のどてらだから、彼の手はらくに這入る。そこそこ、いやもつと奥の所と註文を出した。みんな杯の手を休めて、うまくそこへ行つたか知らと云ふ顔をして、見つめた。》p56「雪解横手阿房列車」

《背中の真中に渦巻が出来て、ぐるぐる廻りながら、そこいらをくすぐる。》にもほれぼれするんだけど、最後に《みんな杯の手を休めて、うまくそこへ行つたか知らと云ふ顔をして、見つめた。》と、みずからの感覚を見つめる自分の姿を見ている周囲の目まで視界に入っていることに舌を巻く。アイスクリームとトーストの関係に似ているかもしれない。
 周囲の目、というつながりで、京都-博多間を走る新急行に招待された際、広島駅での停車中に記者から受けたインタビューをぜんぶ書き写す。
《「大阪から乗られましたか」
「いや京都から」
「いかがです」
「何が」
「沿線の風景に就いて、感想を話して下さい」
「景色の感想と云ふと、どう云ふ事を話すのだらう」
「いいとか、悪いとか」
「いいね」
「しかしですね、今、日本は戦争か平和か、国会は解散かと云ふかう云ふ際に、この様な列車を走らせる事に就いては、どう思はれますか」
「そんな事の関聯で考へた事がないから、解らないね」
「更[あらた]めて考へて見て下さい」
「更めて考へたくない」
「国鉄のサアヸスに就いては、どうですか」
「サアヸスとは、どう云ふ意味で、そんな事を聞くのです」
「車内のサアヸスです」
「それは君、今日は普通の乗客でないのだから、いいさ」
「サアヸスはいいですか。いいと思はれますか」
「よくても、いいのが当たり前なんだ。よばれて来たお客様なのだから」
「広島へ行かれましたか」
「行つた」
「いつです」
「最近は一昨年」
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話して下さい」
「僕は感想を持つてゐない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になつたからさ」
「その理由を話して下さい」
「さう云ふ分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、あの塔に就いては、一言半句も触れなかつた。触れてやるまいと思つてゐるから、触れなかつた」
「解りませんな」
「もういいでせう」
 漸く隣席から起ち上がつた。「お忙しい所を済みませんでした」と云つて向うへ行つた。》pp92-4「春光山陽特別阿房列車」

 原爆塔について《一言半句も触れなかつた。》は厳密には間違いじゃないかと思うが(前回、引用もした)、ここもあんまり予想から離れず、いかにも百閒ってこういう人であるよな、と納得させられるやり取りであるけれども、これはインタビュアーの書いた記事ではない。旅から帰ったあと、自宅の机で自分とまったく噛み合わない記者の質問のほうも百閒が書いていると考えると、いつもの自分を貫いているだけでなく、世間と自分の食い違いにも自覚的であることが(当たり前なんだけど、あらためて)よくわかる。『阿房列車』の書き出しを思い出してしまった――《阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。》

 自他の区別が画然とあるし、自分が見る自分と他人が見る自分の両方が文章に入っていて、「それなのに」なのか、そもそも関連はないのか、随筆と小説の境界はあちこちで崩れる。というか両者は文章でつながっている。八代のお気に入りの宿で(「御当地さん」は女中のあだ名):
《明かるい内から始めて、いつ迄もお酒を飲んでゐた様だが、切り上げ時はよく解らない。山系君や御当地さんを相手に、何を論じてゐたかも記憶にない。ただ何だか知らないが、初めから仕舞までしやべり続けてゐた事だけは間違ひない。
 夜が更けてから、廊下のすぐ下の池の縁に、ちつとも動かない大きな螢が、いつ見ても同じ所でぴかりぴかり光つてゐるのが気になつた。螢の様な色で光るから螢だらうと思つたけれど、螢ではなかつたのか、それはわからない。親指の指の腹よりまだ大きかつた。かすかに赤味を帯びた緑色で、人の目を見返す様に光つた。後になつて、水伯[すゐはく]の目玉ではなかつたかと思ふ。》pp137-8「雷九州阿房列車」

 2度目の秋田県、横黒線沿線を眺めて:
《発車をするとぢきに山の間へ這入つた。積もつた雪の上に暗い雨が降つてゐる。一昨年の秋、一度往[い]つて返つただけの沿線の景色にすつかり馴染みが残つてゐる。山のたたずまひ、川の曲がり工合、一ぺん見ただけの所がこんなに記憶に残るものかと、不思議な気持がする。年が経てば、かう云ふのが夢の中の景色になつて、追つ掛けられると、この山のうしろへ逃げ込んだりするのだらう。今、うつつに見てゐる窓外の山の姿も、さう云へば夢の中の景色の様な気がしない事もない。
 黒沢近くの雪は、三米[メートル]、一丈と云ふ程の事はなかつたが、随分深い。駅に這入つて停まつたら今までの雨が霰[あられ]になつて、歩廊の踏みつけた雪の上に、小さな綺麗な玉が、ころころ転がつた。》pp58-9「 雪解横手阿房列車」

《年が経てば》と言うけど、この本よりもずっと若いころ、大正の終わりから昭和のはじめに書かれた『冥途・旅順入城式』所収の短篇の数かずで、わたしはこんな風景をいくつも読んだ気がする。
 若いうちから百閒じしんのなかにあり、ときどき小説のかたちで表現してもいた「夢に見るような風景」を、年を経てから自分の外に(実際の風景として)発見しているような気配があって、だとしたらこれは、創作する人にとって心象風景なるもののあり方は他人が考えるより入り組んでいることを示すのか、逆にずっと単純なことを示すのか、不思議な気持がする。

 趣味が引用であるため、これくらい引用しても、まだ付箋を貼った箇所の半分にもならない。ふつうの言葉でありながら百閒が使うと面白みが増す言葉がいくつかあって、そのひとつは「利口」だと思う。発車時刻よりだいぶ前に駅に着いたときには、こんな意見を述べている。
《かうして早手廻しにやつて来て、そのホーム迄出たけれど、実は行く所がない。行く所ではない、ゐる所がない。仕方がないから、帚[はうき]や塵取りを入れるらしい大きな木箱の蓋の上に手荷物を置き、それに靠[もた]れて煙草を吸つた。早からず遅からず、丁度いい工合に出て来ると云ふのは中中[なかなか][む]づかしいが、遅過ぎて乗り遅れたら万事休する。早過ぎて、居所がない方が安全である。しかしかう云ふ来方を、利口な人は余りしないと云ふ事を知つてゐる。汽車に乗り遅れる方の側に、利口な人が多い。p119「春光山陽特別阿房列車」

 謎すぎる断言だが、およそ待ち合わせに遅れたことがない(遅れることができない)わたしはこの考察に深く同意するものである。

 あとは百閒が故郷の岡山を書いているところをメモする。この『第二阿房列車』では2回、通過していた。
《空川[からかは]の百間川の鉄橋を過ぎ、旭川の鉄橋を渡つて、岡山へ著いた。いつでも岡山を通る時は、車外へ出て歩廊を歩いて見るのだが、今日は混雑しさうだから、よさうと思ふ。又新特急の処女運行だと云ふので、いろんな人が来てゐて、その中に知つた顔があると面倒である。座席にぢつとしてゐるに限る。さう思つてゐると、向うの窓をとんとん敲[たた]く者がある。大きな声で「栄あん、栄あん」と私の名を呼んでゐる。
 をさな友達の真さんがそこに起[た]つてゐる。
「わあ、ゐたゐた」
 しかし、この汽車に乗つてゐるのが、どうして解つたのか、解らない。
「そりや、あんた、こなひだ東京で会うた折、あんたがさう云うたがな」
 一緒にお酒を飲んだ時、さう云つたのだらう。しかし云つた覚えはない。
「覚えとらん。さう云うたかな」
「云うたから、知つとるんぢやがな。それ見られえ。ちやんと乗つて来とらあ。わつはは」
 これから博多、八代へ行くところなのに、東京へ持つて帰るお土産の大手饅頭を、箱入りと竹の皮包みと、私が時時夢に見る程好きな事を知つてゐるものだから、持ち重りがする位どつさり持つて来てくれた。饅頭に圧し潰されさうだが、大手饅頭なら潰されてもいい。昔の同じ町内で、私や真さんより少し歳下の保さんも来てくれた。歳下と云つても勿論大きなおやぢである。早咲きの桜の小枝を馬上杯に生けたのを持つて、車内へ這入り、私の座席の横に釣るしてくれた。桜の枝は博多のホテルまで持つて行き、馬上杯は東京へ持つて帰つた。
 三分停車で十一時四十七分、岡山を発車した。》pp90-1「春光山陽特別阿房列車」

《小さなテーブルの上の銀器や杯がいやに明かるくなつた頃、窓の外はもう暗かつた。岐阜大垣を過ぎて、いつ通つても雨が降つてゐる関ケ原、醒ケ井の辺りに今夜は雨が降つてゐたか、どうかも知らなかつた。
 いつ頃切り上げたのか覚えてゐないが、美しい雨滴の中に、京都駅の電燈が白く光つてゐるのを、カアテンをしぼつて眺めた事を考へると、その時はもうコムパアトに帰つてゐたのだらう。
 いつ、どの辺りで寝たかも判然しない。随分走つてから、しんとしたので目がさめた。汽車が停まつた儘[まま]、底の方へ沈んでいく様な気持がする。岡山であつた。深更一時半、ぢきに発車して、もとの通り走り出したら、又寝入つた。》pp133-4「雷九州阿房列車」

 たまたまなんだろうけど、にぎやかな岡山と、静かな岡山があった。そのどちらの場合も、百閒は汽車から降りることはしないのだけど。

 最後の最後に、この本でもっとも好きなところを引用して終わる。こんなに引用し、引用しきれなかったところもまだまだあるくせに、「もっとも好き」なものが選べるのかとわれながら思うが、それは迷いなく選べるのである。

《肉感の中で一番すがすがしい快感は空腹感である。その空腹感を味はひながら、晩のお膳を待つ。一日に一ぺん位お膳に向かつても、天を恐れざる所業ではないだらう。そこで成る可く[なるべく]御馳走が食べたい。それを楽しみに夕方の時を過ごす。》p34「雪中新潟阿房列車」

 ここを読むたび、次に自分が空腹になるときが楽しみになってしまう。たかだか100字ちょっとでこちらの肉体感覚のとらえ方を変えてしまう文章が、たしかにあるのだった。次は『第三阿房列車』です。


■ 旺文社文庫『第二阿房列車』(1979)目次:
雪中新潟阿房列車
 上野 新潟
雪解横手阿房列車
 上野 横手 横黒線 大荒沢
春光山陽特別阿房列車
 東京 京都 博多 八代
雷九州阿房列車 前章
 東京 八代
雷九州阿房列車 後章
 八代 熊本 豊肥線 大分
 別符 日豊線 小倉 門司

附録・鉄道唱歌
解説――遠回りの文学 長部日出雄
「第二阿房列車」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『第二阿房列車』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っているはず。この表紙はうらやましい。

第二阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社
売り上げランキング: 140,550
2019/06/18

内田百閒『阿房列車』(1952)

旺文社文庫(1979)


 完璧な絶望が存在するのかどうかは知らないが、完璧な文章、とりわけ完璧な書き出しはたしかに存在し、そのようなものを前にしてはそれが小説なのか小説でないのかはどうでもよくなって、繰り返し何度も読み直すだけである。あと、ぼそぼそ音読して口と耳にも体験させるだけである。それから、手を動かして書き写すだけである。けっこう、やることはある。
《阿房[あはう]と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ。
 用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になつた時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。さうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどつちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗つてゐる人の顔附きは嫌ひである。》p7「特別阿房列車」

 鉄道に乗るためだけに鉄道に乗るこの旅が始まったのは昭和25年というから1950年の10月22日(日)らしい。でもそのような数字は本文には顔を出さない。これはそういう記録ではない。
《しかし用事がないと云ふ、そのいい境涯は片道しか味はへない。なぜと云ふに、行く時は用事はないけれど、向うへ著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰つて来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。さう云ふ用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰つて来ようと思ふ。》p8「特別阿房列車」

 はじめてここを読んだとき、わたしは、この内田百閒という人は冗談を言っているんだと思った。自分の旅行を(行きだけなら)冗談の旅行ととらえているように、この文章が冗談なのだと思った。
 冗談のような旅行を、百閒は大真面目に実行する。
 若い国鉄職員の通称ヒマラヤ山系氏ひとりをお供に連れて(そのネーミングもどうかしている)、東京駅から大阪まで行って帰る(特別阿房列車)。次のときには静岡まで行って帰る(区間阿房列車)。その次は大遠征で、博多、鹿児島からぐるりと八代まで行って帰り(鹿児島阿房列車)、さらに次の旅では盛岡、青森、秋田、山形と東北を回って帰る(東北本線阿房列車・奥羽本線阿房列車)、以上5本の阿房列車を収めたのがこの『阿房列車』で……と律儀に説明しようとすると何だか虚しくなる。そんな小さな真面目さは、こんな旅行を本当にやっている人の真面目さからしたら、線路の砂利の一粒にも及ばないからだ。人に合わせて阿房ということにしておくけれど、自分でも冗談の旅行と言うけれど、つまりそれだけ厳粛かつ真剣に「用事はない」のである。
 なにしろ最初の「特別阿房列車」は出発するまでが長い。旅行には金が要る、それは人から借りて工面する、すると借金についてひとしきり自説が述べられる。
《気を持たせない為に、すぐに云つておくが、この話しのお金は貸して貰ふ事が出来た。あんまり用のない金なので、貸す方も気がらくだらうと云ふ事は、借りる側に起[た]つてゐても解る。借りる側の都合から言へば、勿論借りたいから頼むのであるけれど、若[も]し貸して貰へなければ思ひ立つた大阪行をよすだけの事で、よして見たところで大阪にだれも待つてゐるわけではなし、もともとなんにもない用事に支障が起こる筈もない。
 そもそもお金の貸し借りと云ふのは六づかしいもので、元来は有る所から無い所へ移動させて貰ふだけの事なのだが、素人が下手をすると、後で自分で腹を立てて見たり、相手の気持をそこねたりする結果になる。友人に金を貸すと、金も友達も失ふと云ふ箴言なぞは、下手がお金をいぢくつた時の戒めに過ぎない。
 一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ。又同じいる金でも、その必要になつた原因に色色あつて、道楽の挙げ句だとか、好きな女に入れ揚げた穴埋めなどと云ふのは性質[たち]のいい方で、地道な生活の結果脚が出て家賃が溜まり、米屋に払へないと云ふのは最もいけない。私が若い時暮らしに困り、借金しようとしてゐる時、友人がかう云つた。だれが君に貸すものか。放蕩したと云ふではなし、月給が少くて生活費がかさんだと云ふのでは、そんな金を借りたつて返せる見込は初めから有りやせん。
 そんなのに比べると、今度の旅費の借金は本筋である。こちらが思ひつめてゐないから、先方も気がらくで、何となく貸してくれる気がするであらう。ただ一ついけないのは、借りた金は返さなければならぬと云ふ事である。》

《お金が出来ていよいよ空想が実現する形勢である。このお金は私が春永に返した時に初めて私のお金であつた事を実証するので、今は私のお金ではない。いくら私が浪費家であつても、若しそれだけのお金を自分の懐に持つてゐたとすれば、それを出して、はたいて、丸で意味のない汽車旅行につかひ果たす事は思ひ立たないであらう。私の金でなければ人の金かと云ふに、さうでもない。貸してくれる方からは既に出発してゐるのでその人のお金でもない。丁度私の手で私の旅行に消費する様になつてゐる宙に浮かんだお金である。これをふところにして、威風堂堂と出かけようと思ふ。》pp13-4「特別阿房列車」*太字は引用者。以下同じ。

 しかつめらしい理屈のようなものが、しかつめらしい理屈なのか怪しいまま展開し、融通無碍なパンチラインを旧かなで続々と繰り出して進むこの文章が『阿房列車』の本体で、だから汽車がホームを離れる前からこのように旅は始まっているわけだけど、それでもやはり、いちばんの読みどころは車窓を流れ去る風景の描写だと思う。さっきのアナーキーな借金論を書いたのと同じ人が以下を書いている。
《ぼんやりして窓の外の景色を眺めてゐると、汽車が何だか止まりがつかなくなつた様に走つて行つて、さうして時間が立つ。遠くの野の果てに、見えないけれど荒い砂浜があつて、その先に遠州灘がひろがつてゐると思はれる見当の空に、どことなく夕[ゆふべ]の色が流れてゐる。》p31「特別阿房列車」

《次第に暮色が車窓に迫つて、間もなく外は何も見えなくなつた。男鹿半島の根もとにひろがつた八郎潟の風光を眺めたいと思つたけれど、その辺りを通る時分はすつかり暮れ果てて、ところどころの乏しい燈[とも]し火が、水に映つてゐるかと思ふと、透かして見る窓硝子の露が光つてゐたりして、到頭なんにも解らない内に、長かつた筈の沿岸を通り過ぎ、追分を過ぎ、車窓の両側に燈火の数が多くなつたと思ふと、秋田駅の構内に這入[はひ]つた。》pp210-1「奥羽本線阿房列車 前章」

《横手の駅を出て、線路がカアヴすると、もう目の前に暗い山が、通せん坊をした様に立ちはだかつてゐる。狭間を伝ひ、隧道を抜け、屋根と柵ばかりの小駅を二つ三つ過ぎた頃から、時雨で曇つた窓の向こうに、紅葉の色が的皪と映じた。
 紅葉に川は附き物の様である。目についた景色には、必ず清流が、横切つて走る汽車に向かつて流れて来た。山川だから幅が広くない。しかし水量は多いらしく、それは時雨の所為[せゐ]もあるか知れないが、深さうである。その迫つた両岸に絢爛の色が雨に濡れて、濡れた為に却つて燃え立つ様であつた。
 山と山との間の縦の谷を流れて来る川を、汽車が走つて行つて横に渡るのだから、さう云ふ景色はあつと云ふ間に、すぐ通り過ぎる。さうして遮二無二走つて隧道に這入つてしまふ。
 隧道を出ると、別の山が線路に迫つて来る。その山の横原は更紗の様に明かるい。降りつける雨の脚を山肌の色が染めて、色の雨が降るかと思はれる。ヒマラヤ山系君は、重たさうな瞼をして、見てゐるのか見てゐないのか、解らない。
「いい景色だねえ」
「はあ」
「貴君はさう思はないか」
「僕がですか」
「窓の外のあの色の配合を御覧なさい」
「見ました」
「そこへ時雨が降り灑[そそ]いでゐる」
「さうです」
「だからどうなのだ」
「はあ。別に」
 それで大荒沢へ著いた。》p218「奥羽本線阿房列車 後章」

 きれいな風景がきれいに描かれるだけでなく、夜でも、悪天候でも、そして何気ないものであっても、百閒の文章はその都度かたちを変えて自在に対象を写し取る。
 もっとも、百閒は車窓を通して風景を見たが、わたしは百閒の文章を通して風景を読んでいるわけなので、風景に文章が一致して見えるのは当然といえば当然、一致と騒ぐまでもなく、文章=風景の同語反復なんだろう。「風景を文章で描写する(先に存在している風景を、文章を使って表現する)」とふつう書くし、わたしだってこれからもそう書き続けるけど、本当は文章が風景を作っている。文章がそのままこれらの風景である。
 そう考えると、あの借金をめぐる話に(偏屈だし、屁理屈なのに)少しも強引さが感じられないのは、そんな偏屈な屁理屈が文章のかたちで好き放題に延びていく“そのまま”感のためだろう。「屁理屈を文章で書く」というのも、屁理屈が先にあってそれを言葉に置き換えていくのではなく、本当は文章がそのままあの屁理屈なのである。それで百閒の屁理屈は、固いのに流れる。流れるといえば、この1冊でも何ヶ所か出てくる川の描写のうちで、いちばん好きなところはここだった。
《鹿児島まで行くのだつたら、是非帰りは肥薩線に乗つて、球磨川を伝つて八代へお出なさいと勧めるから、ついその気になつた。
 その球磨川が車内の反対側の窓の下を流れるのだつたら甚だつまらない。何だか落ちつかなくなつてゐたら、その内に川が見え出した。矢つ張り左側である。万事休するかと思ふ内に、又もう一度鉄橋を渡つた。それで川が右側の、私の窓のすぐ下へ来た。
 宝石を溶かした様な水の色が、きらきらと光り、或はふくれ上がり、或は白波でおほはれ、目が離せない程変化する。対岸の繁みの中で啼く頬白[ほほじろ]の声が川波を伝つて、一節一節はつきり聞こえる。見馴れない形の釣り舟が舫[もや]つてゐたり中流に出てゐたり、中流の舟に突つ起つてゐた男が釣り竿を上げたら、魚が二匹、一どきに上がつてぴんぴん跳ねてゐる。鮎だらう。
 山系君がぢつと眺めてゐたが、こつちを向いて、「先生、まだお弁当を食べないのですか」と云つた。》p152「鹿児島阿房列車 後章」

 こんなにも変幻自在な文章の題材が、鉄道という、厳格なダイヤに従って運行される旅であるのがつくづく面白いと思う。それからたいへん当たり前のことだけれども、昭和25年の旅だから、目に映ったものを書き、連想されるものを書いていけば、戦争の跡をあちこちに残しながら、しかし用事のない旅ができるくらいまで復興した景色のスケッチになるのも面白い。
 大阪で一泊した旅館。
《朝起きて見ると縁側の障子がすつかり煤[すす]けてゐる。私の家の障子を張り替へたばかりで出て来たから、なほの事目立つのだらう。障子の外の縁側の両隅に防空演習の遮蔽幕がぶら下がつた儘[まま]になつてゐる。》p35「特別阿房列車」

 故郷の岡山に近づき、鉄橋を渡って岡山駅にいたるところ。
《汽車が旭川鉄橋に掛かつて、轟轟[ぐわうぐわう]と響きを立てる。川下の空に烏城[うじやう]の天主閣を探したが無い。ないのは承知してゐるが、つい見る気になつて、矢つ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなつてゐる。昭和二十年六月晦日[みそか]空襲に焼かれたのであつて、三万三千戸あつた町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払はれた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまつた。
 森谷金峯先生は私の小学校の時の先生であつた。金峯先生の御長男は今岡山の学校の校長さんである。空襲の晩、校長森谷氏は火に追はれて、老婆を背中に負ぶつて、旭川の土手を鉄橋の方へ逃げた。そのうしろで炎上するお城の大きな火焰が天に冲[ちゆう]し、振り返れば焰の塊りになつた天主閣は、下を流れる旭川の淵に焼け落ちて、土手を伝つて逃げ延びる足許[あしもと]をその明かりが照らした事であらう。背中の老母は金峯先生の奥様である。よく覚えてゐないけれど、子供の時にお目に掛かつた事があるに違ひない。もう一度車窓から眺めて見ても、その辺りの空は白け返つてゐるばかりである。
 鉄橋を渡つたら、ぢきに岡山駅である。ちつとも帰つて行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を踏み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかつた。》p114「鹿児島阿房列車」

 岡山駅では改札から出なかったのに、広島は見物する。
《甘木君が説明役の若い人を連れて来た。その人が色色の事を教へてくれた。先[ま]づ比治山へ登つた。大変見晴らしがいい。向うに山があつて、川が流れてゐて、海が見える。山裾[やますそ]のどこかで犬が吠えてゐた。
 それから町中へ降りて、繁華な街を通り、太田川の相生橋の上で自動車を降りた。相生橋はT字形に架かつてゐて、こんな橋は見た事がない。橋の上に起[た]つて見る川の向うに、産業物産館の骸骨が起つてゐる。天辺[てつぺん]の円塔の鉄骨が空にささり、颱風の余波の千切れ雲がその向うを流れてゐる。物産館のうしろの方で、馬鹿に声の長い雞の鳴くのが聞こえる。又自動車へ乗つてそこいらを廻り、それから駅へ出た。》p122「鹿児島阿房列車」

 今回、引用したいところを厳選するつもりで貼っていった付箋の数をいまかぞえたら、あと14ヶ所ある。さすがにどうかと思うので、いくつか箇条書きにとどめる:


■ 「区間阿房列車」では、御殿場線の国府津駅で乗り換える予定になっていた。そこまで乗って来た列車が遅れて着いたのに、そこから乗り換えるほうは待たずに出るという。そんな馬鹿なことがあるものか。
《「あつ、発車する」と思つたら、階段の途中で一層むつとした。
 その音を聞いて、あわてて階段の残りを馳け登るのはいやである。人がまだその歩廊へ行き著かない内に、発車の汽笛を鳴らしたのが気に食はない。勝手に出ろとは思はない。乗り遅れては困るのだが、向うが悪いのだから、こちらに不利であつても、向うの間違つた処置に迎合するわけには行き兼ねる。》

《最後部が行つてしまつたので、私共の前が豁然[くわつぜん]と明かるく広くなつた。何となく目がぱちぱちする様な気持である。考へて見ると、面白くない。考へて見なくても面白くないにきまつてゐるのだが、かう云ふ目に遭ふと、後でその事を一応反芻して見た上でないと、自分の不愉快に纏まりがつかない。
「仕方がない」と私が云つた。「ベンチにでも掛けようか」
 だれもゐない歩廊の中程にあるベンチに二人で腰を下ろした。
「前の列車の、もつと前部の車に乗つてゐたら、間に合つたのですね」とヒマラヤ山が云つた。
 それはさうだけれど、そんな事で間に合ひたくない。だれが間に合つてやるものかと云ふ気持である。
 暫らくだまつてゐた。股の間に立てたステツキに頤[あご]を乗せて、向うの何でもない所を見つめて考へた。段段に不愉快がはつきりして来る。
「行つて、さう云つて来ようか」
 ベンチから起ち上がつて、歩廊の端に近い所にある駅長事務室へ歩いて行つた。》pp70-2「区間阿房列車」

 そして百閒は100パーセント正しい抗議を行なうのだが、その前に披瀝される心構えがたいへん立派だった。
[…] 私には第一に戦闘的精神が欠如してゐる。腹が立つ時には立つのだが、それを人に向かつてぶつけると云ふ気魄[きはく]に乏しい。次に、さうでありながら、又こんな事も考へる。こちらに理があつて相手に迫る場合、相手をのつぴきならぬ条件に置いて責めるのは、君子の、或は紳士の為す可[べ]き事でない。兎に角自分を優位に置いて考へる事の出来る側の為す可き事でない。為すをいさぎよしとせざる所である。》p73「区間阿房列車」

 駅員たちに言うことを言ったあと、次の列車が来るまでの2時間を、百閒はヒマラヤ山系氏とふたり、横並びに腰掛けたベンチで待つ。雨が降ってくる。することはもとより何もない。
《かうして二時間近くの間、雨垂れの水が足許へじやあじやあ落ちて来るベンチで、いい加減のおやぢと、薹[たう]の立つた若い者がぢつとしてゐる。する事がないから、ぼんやりしてゐる迄の事で、こちらは別に変つた事もないが、大体人が見たら、気違ひが養生してゐると思ふだらう。二人竝[なら]んで、同じ方に向いて、いつ迄も黙つてゐるのは、少しをかしい。さう云ふのは二人共をかしいのだが、或は隣りを刺戟すると後が悪いから、も一人の方がつき合つて、ぢつとしてゐるのかも知れない。その気違ひは私の方かと思つたが、さうでないとは云はないけれど、年頃から云ふと山系の方が気違ひに適してゐる。》pp78-9「区間阿房列車」

 そんな言葉を使うのはよした方がよいのでは、といまだったら心配になる表現をぽんぽん繰り返してまで自分たちの構図を《少しをかしい》と言い募る感覚は、いまにしても当時にしても、一般的なものなのだろうか。そんなことは確かめようもないが、この構図をとることよりも、この構図にこうまでこだわることのほうに、少しをかしい感じがする。この点は百閒自身の偏りなんじゃないだろうか。

■ 「奥羽本線阿房列車 後章」で、秋田県にあった横黒線という短い路線を雨の中、往復する。これには珍しく「紅葉を見るため」という目的があり、読者の胸に「それって“用事”じゃないのか」との疑いが兆す隙も与えず《紅葉を見に行く様では若い者になめられるに違ひない(p215)と苦い心情が漏らされるのだがそれはそれとして、その絶景の描写はすでに上のほうで引用した(線路が《カアヴ》するやつ)。帰りはいっそう寒く、雨もひどくなっている。
《すぐに発車したけれど、窓の外は已[すで]に薄明かりである。帰りも景色を眺めるつもりであつたが、やつと山と空の境目がわかる位で、紅葉の色はもう見えない。その薄明かりの山裾に白い道が見える。そつちを指差して山系が何か云つてゐる。
「何」
「人が通ります」
「どこに」
「そら向うの山裾の、あの道の曲がりかけた所」
 さう云へば、人影が見える。大きな番傘をさしてゐる。男か女かわからない。どこかへ帰つて行くのだらう。
「さうだ、歩いてゐる。しかし何が気になるの」
「気になるわけぢやありませんが、あすこだけ明かるいので」
 暗くなりかけた山裾を伝つて行く番傘のまはりが、ぼうつと白けた様に見える。
「変だね」と云ふ内に汽車がカアヴして、向きが変つた窓に、大粒の雨がばりばりと音を立てて敲[たた]きつけた。》pp220-1「奥羽本線阿房列車 後章」

 ヒマラヤ山系氏は実際にこの不思議な光景に気付いたのだろう。教えられた百閒も実際にこの通りのものを目にしたのだろう。しかし見たものがこのように文章化されると(このような文章で見たものがかたち作られると)、ありのままが幻想の気配を帯びて、なんだか、百閒の短篇を外側から眺めているようである。
 百閒の短篇と随筆との懸隔にわたしも戸惑った口だが、両者の違いは、同じものを内側から見るか外側から見るかの違いぐらいの距離まで近づくことがあると言えるのかもしれない。そんなことはないかもしれない。あんまりまとめようとするのはよくない。

■ それと関係するかどうかはともかく、わたしは百閒が書くものの中で「急に心配になる」「とつぜん不安に襲われる」箇所が気になっており、宿題としてそこは書き留めておきたい。
 最初の阿房列車の出発当日、家から東京駅に着いたところにもそれはあった:
[…] 釣り皮にぶら下がってぼんやりしてゐる内に、市ヶ谷駅からの三粁[キロ]半を夢の間に過ぎて、鉄路つつがなく東京駅に著いたが、歩廊に降り起つた途端、丁度その瞬間に切符が売り切れる様な気がし出した。発車にはまだ一時間半ぐらゐ間があるけれど、かうしてはゐられないと云ふ気がする。
 さう云ふ気持で歩くと、東京駅の歩廊は無意味に長い。》p17「特別阿房列車」



*最後に、こういうものが無いよりはあったほうがいいのじゃないかと自分で思うので、この旺文社文庫の目次を書き写しておく。次は『第二阿房列車』です。

■ 旺文社文庫『阿房列車』(1979)目次:
特別阿房列車
 東京 大阪
区間阿房列車
 国府津 御殿場線 沼津 由比 興津 静岡
鹿児島阿房列車 前章
 尾ノ道 呉線 廣島 博多
鹿児島阿房列車 後章
 鹿児島 肥薩線 八代
東北本線阿房列車
 福島 盛岡 浅蟲
奥羽本線阿房列車 前章
 青森 秋田
奥羽本線阿房列車 後章
 横手 横黒線 山形 仙山線 松島 

解説 平山三郎
 百鬼園先生年代記
 「阿房列車」雑記

   ○         ○         ○

■ いま手許にないためちゃんと確かめてないけど、この『阿房列車』に収録されているものは、ちくま文庫の『阿房列車 内田百閒集成1』にもぜんぶ入っていたはず。
■ これもちゃんと確かめてないが、新潮文庫の『第一阿房列車』はこの旺文社文庫版を新かなにしたものと考えていいと思う(きっと解説は除く)。

阿房列車―内田百けん集成〈1〉   ちくま文庫
内田 百けん
筑摩書房
売り上げランキング: 312,043

第一阿房列車 (新潮文庫)
内田 百けん
新潮社
売り上げランキング: 20,991
2019/06/04

百閒は日本の古本屋に乗って

冥途―内田百けん集成〈3〉   ちくま文庫

 内田百閒が好きなのだけど、じつはそんなに読んでいない。そんなに読んでないのに好きだったという、要領を得ない話をこれから書く。

 2002年から刊行の始まった、ちくま文庫の内田百閒集成でわたしははじめて百閒の書くものに触れた。『阿房列車』を読み『立腹帖』を読み、真面目な顔で理屈を通しているうちに変なことになっていく調子と、簡素で鮮やかな状況描写が気に入って、これはいくらでも読めそうだし読みたいと思ったのに、そのあと『冥途』収録の短篇小説を読んで――具体的には「冥途」と「豹」、なにより「山高帽子」、そして「白子」の冒頭を読んで――あ、これでもういっぱいだと直覚した。この人の書くものをこれ以上読まなくても、もうこれで自分にとってこの人の文章が与えてくれるものは限度まで受け取った、と思った。「白子」の冒頭を引用する。
《私は誰とも議論をしたのではないのに、独[ひとり]で腹を立てていた。神がいると云う者と、いないと云う者との間には、そのいるとかいないとか云う言葉が、食い違っているんだ。自分が神はいないと云ったからって、それは神がいると云う者のつかったいると云う言葉を、否定にしたのではない。それが解らないのだから駄目だ、と思って一人でむしゃくしゃしながら、懐手をして道を歩いていた。》「白子」、『冥途 内田百閒集成3』(ちくま文庫)p66

 この数行で考えられている内容と、このことを考えて“むしゃくしゃしながら”道を歩いている“私”の両方が、直接わたしに入ってきて頭の中で鐘をチリンと鳴らした。それまでそんなものがそこに吊り下げられているとも知らなかった鐘が、予告もなく、赤の他人の文章によって無造作かつ的確に、チリンチリンと連打された。いま書き写していてもその鐘の音は響いてくる。
 この文章は、何なんだ。もっと読みたいというより、むしろ怖いもの見たさで『サラサーテの盤』をそっとめくり(薄目で見てもおそろしかった)、小説ではない『ノラや』なんかに手を伸ばし(なぜそこまで、と訝しんだ)、やはり思った通りにいっぱいだったようだと自分を観察しながら、5年くらいかかってちくま文庫の集成全24冊を3分の1くらいつまみ読みしたころ、古本屋で旺文社文庫の『冥途・旅順入城式』(1981)を手に取った。
 これが決定的だった。
 1979年から84年にかけて刊行された旺文社文庫の百閒作品は、ちくま文庫と違い、(漢字は新字体だが)かなづかいが旧かなである。新かなと旧かなの違いを、わたしはそれまでたいして意識していなかった。旧かなは脳内で新かなに変換するぶん手間がかかるから、あらかじめ新かなに直してくれているならそのほうがいい、だって読めればいっしょなんだし、くらいに思っていた気がする。それが百閒はどうだったか。「白子」の冒頭を引用する。
《私は誰とも議論をしたのではないのに、独[ひとり]で腹を立ててゐた。神がゐると云ふ者と、ゐないと云ふ者との間には、そのゐるとかゐないとか云ふ言葉が、食ひ違つてゐるんだ。自分が神はゐないと云つたからつて、それは神がゐると云ふ者のつかつたゐると云ふ言葉を、否定したのではない。それが解らないのだから駄目だ、と思つて一人でむしやくしやしながら、懐手をして道を歩いてゐた。それなら神を連れて来て見せるがいいと私は腹の中で叫んだ。よしんば連れて来て見せたところで、それは神がゐると思つてゐる者の神に過ぎないぢやないか、それが神はゐないと思ふ者の目に神と見えるかどうだか受け合はれたもんぢやない。それぢやしかし、かう考へたらどうする。それぢや神はゐないと云ふ者も、その否定する前に、一先づ自分の神を認めた事になつてしまふ。彼は否定する為の神を祀[まつ]つてるぢやないか、どうだと私は独[ひとり]で駄目を押して、益[ますます]むしやくしやして来た。
 町の中が何となく混雑してゐた。道を歩いてゐる人が、どちらへ向いて行つてるのだかよく解らない様な気がした。それから無暗[むやみ]に横町の澤山ある町だつた。横道はみんな狭くて、向うの方は薄暗く暮れかかつてゐた。》「白子」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p88

 くねくねした「ゐ」は「い」で取り換えて済むものではまるでなく、「っ」でない「つ」、「じゃ」でない「ぢや」に何の抵抗もないのが意外だった。それらはどれも、脳内で新かなに変換するものではなかった。百閒の旧かなは、新かなよりも読みやすかった、というのではないが、新かなよりも文章が起伏とうねりを持って続いていく感じがはるかに強まっていた(なお、この感じは縦書きだといっそう強い)。
 旧かなのほうが滑らかに進むこと、その滑らかさがさらなる不気味さも運んでくること、そして/だから、こちらのほうが本来の道行きであったことが読むほどに体感されて、《益[ますます]むしやくしやして来た。》の次で《町の中が何となく混雑してゐた。》と跳ぶ呼吸が、なぜか完全に“わかる”と思った。
 これは大変なことになってきた。「山高帽子」から引用する。
《私は厠[かはや]から出て来て、書斎の机の前に坐つた。何も変つた事はないのに、何だか落ちつかなかつた。開け放つた窓の外に、夕方の近い曇つた空がかぶさつてゐた。大きな棗[なつめ]の枝に薄赤い実がなつてゐる。私はその実の数を数へながら、何となく頻[しき]りにそはそはした。今出て来た厠の中に、何人[だれ]かゐる様な気がした。何人かが私を待つてゐるらしく思はれた。
 家の中には私の外[ほか]に、誰もゐなかつた。みんな買物や使ひに出たきり、まだ帰つて来なかつた。近所の家から、何の物音も聞こえなかつた。日暮れが近いのに辺りは静まり返つてゐて、ただ遠くの方で、不揃ひに敲[たた]く法華の太鼓の音が聞こえるばかりであつた。私は淋しい様な、どこかが食ひ違つた様な気持で、頻りに厠の中を気にした。
 その時、窓の外の、庇[ひさし]を支へた柱を、家の猫が逆に爪を入れながら、がりがりと音をたてて下りて来た。さうして私の向かつてゐる窓の敷居に飛び下りて、こちらを見た。私がぢつとその顔を見てゐると、猫は暫らくそこに起[た]つたまま、私を見返して、それから、何か解らないけれども、意味のあるらしい表情をして、さうしてふと目を外[そ]らすと、そのまま開け放してある入口の方に行つた。私はその後姿を見て、いやな気持になつた。猫は短い尻尾を上げたり下ろしたりしながら、廊下を向うの方へ、のそのそと歩いて行つた。私は段段不安になつて、早くどうかしなければいけない様な気がし出した。猫はその廊下を突き当つて、左に曲がるらしい。曲がつた所に厠がある。
「一寸[ちよつと]待て」と云ふ声が、私の咽喉[のど]から出さうになつて、私は吃驚[びつくり]した。さうして、水を浴びた様な気がした。》「山高帽子」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)pp133-4

 この不穏さは何事か。最初にちくま文庫で読んだときから、この短篇もチリンチリンとわたしを鳴らした。まだ何も起きていないのに、まだ何も起きていないからこその形のない不安が、形がないのに言葉・文章という形ある媒体で捉えられている。そして、自分から遠いと思っていたこの旧かなのほうが、より自分に近く、より“わかる”ものとして入ってきた。
 奇妙で、はっきりしない感覚や気持、心のありようが、文章でこちらに手渡される。手渡されたわたしはそこではじめて「これ、自分も持っていた」と気付く。そんな受け取り方が“わかる”である。旺文社文庫で読み返したとき、この書き出しの一行一行、一語一語が、わたしには隅々まで“わかった”。遠くから法華の太鼓が聞こえる、というくだりを読んで、そこが目に入る前から、この文章の最初から、その太鼓の音はしていたじゃないか、と背後を振り返るようにおどろいた。ここで「私」が感じている《そはそは》や、《淋しい様な、どこかが食ひ違つた様な気持》、《段段不安になつて、早くどうかしなければいけない様な気》を、読んでいるわたしがそのまま感じ、「私」とわたしが二重になって、「一寸待て」という声はわたしの咽喉から出そうだった。

 すべてわたしの思い込みである。でも、すべてわたしの思い込みである。こんなふうに思い込んでしまったわたしは、これから百閒は旧かなで読もうと思った。つまりは旺文社文庫で読むということで、絶版とはいえ、よく行く古本屋を何軒か回ればいつでも数冊は置いてあるのが見つかった。バラならそれほど手に入れにくいものではないようだった。
 しかしいっぽう、わたしは「もういっぱい」になってもいるわけである。「白子」と「山高帽子」だけ、しかもその冒頭だけでも充分なのである。「件」や「豹」の結末なんて、見たことを忘れたいのに忘れられない悪い夢だった。
 であるからして、旺文社文庫を集めるのにもいまひとつ熱が入らず、実際に買うのはせいぜい年に1冊ぐらいで、それも5、6冊読んだところで停滞した。読んだ中では『東京焼盡』が圧倒的で(→感想)、あの平坦な迫力には随筆とも小説とも違うすごみがあったが、それはいっそう「もういっぱい」を強化した。ときどき本棚から『冥途・旅順入城式』を取り出しては数ページだけめくり、たまんないなと降参してまた本棚に戻すのを繰り返すばかりだった。

 百閒を好きだけどあまり読んでいない、という状態はこうやって生まれ、このように続いた。なんだか、かつて1回だけ訪れた観光地のことを折に触れ「あそこ好きなんだよね」と回想してみせる人間のようである。その後の移り変わりを見に行こうともしない、ものぐさで知ったかぶりのそんな人のことを、しかし、だれが「その土地を本当に好きとは言えない」と否定できるだろう。
 ちなみにこうしているあいだ、2017年の春に、たまたまの成りゆきでわたしは岡山県岡山市に引越した。すなわち百閒の故郷である。生家のあった辺りには記念碑があるのも知っているし、自分の家からそこまでの道順もわかっているが、好きだけどあまり読んでない、というのに似た気持が働いて、いまだに足を運んでいない。これからも行かないような気もする。

 ――だが、そのまま何もなかったら、わたしもこんな文章を長々と書いてはいないのである。変化は、あった。
 あれはいつごろだったか、今年になってからつい魔が差して、わたしは「日本の古本屋」を覗き、「まあ検索するだけだし」と、旺文社文庫の百閒を検索してしまった。そしてヒットした「内田百閒 旺文社文庫 全39冊+関連本5冊 計44冊揃い(カバーうっすらヤケ、僅かなスレの巻有)」を、「まあ買物かごに入れるだけだし」と、買物かごに入れてしまった。
 そこからあまり記憶がないのだが、どういうわけか数時間後には注文確認メールが届いていた。おそるべきは日本の古本屋である。ちくま文庫でのファーストコンタクトからここまで何年かかったか定かでないものの、確認メールのあと、文庫本のぎっしり詰まったダンボール箱が玄関に運ばれてくるまで2日しかかからなかった。


100_1200_900

 くすんだ百閒の塊を眺めながらしばらく暮らし、わたしは観念した。こうなったら(いっぱいでも)ぜんぶ読む。読むたびに1行でも2行でもここでメモをする。いまのこの文章は、そのために書いた第0回である。


100_900_1247

 44冊もあるというのに、よりにもよってぴったり『ノラや』の上から顔を出しているのはまったくの偶然で、本当にやめてほしい。思えば、前に『ノラや』を読んだとき、わたしの人生の猫経験値はゼロだった。だから、愛猫をめぐる百閒のあれやこれやを「なぜそこまで」と訝しんでいられたのだった→ご参考。いまの自分が『ノラや』を平静な心で読めるとは到底思えない。これから百閒を読んでいくのは期待半分、おそろしさ半分なのだが、これについてばっかりは気の重さが100パーセントなのだった。


   ○         ○         ○


■ 福武書店の『新輯 内田百閒全集』全33巻(1986-89)は旧字旧かなで、本来の文字遣いをどうこう言うなら集めるべきは当然こっちなんだろうが、それだと漢字が読めなさすぎるのと、価格の点で手が出ない。われながら残念な読者である。
■ 同じちくま文庫でも、「集成」より前に出た『私の「漱石」と「龍之介」』(1993)は新字旧かなだった。「集成」もそれでよかったじゃないか。
中公文庫の百閒は、旧かなの本と新かなの本が混じっていたと思う。ちゃんと確かめていない。講談社文芸文庫、岩波文庫、新潮文庫は見たことがなく不明。
■ 東京へ出たあとの内田百閒と岡山については、岡山県立図書館(立派)のレファレンスが質問に回答したこちらがわかりやすい。自転車で30分程度の場所にある記念碑はますます遠くなる。ただ、百閒が夢にまで見たという大手饅頭を、いまのわたしは毎日でも買うことができる。
2019/05/05

ロス・マクドナルド『象牙色の嘲笑』(1952)

象牙色の嘲笑〔新訳版〕(ハヤカワ・ミステリ文庫)
小鷹信光・松下祥子訳、ハヤカワ文庫(2016)


 私立探偵である主人公のオフィスに、高慢な女性がやって来る。彼女は自分のもとから去った若い黒人の娘を探すよう求めながら、事情を詳しく話すことは拒む。苛立ちつつ指示された街へ向かった探偵は目当ての娘をすぐに見つけて後を追う。9月、快晴の昼下がり。話はたいへんキビキビと進んでいる。

『ウィチャリー家の女』『さむけ』しか読んでいなかったロス・マクドナルドをもっと読んでみようという気になり、古本で積んでいた『動く標的』(原著1949、翻訳1966)『魔のプール』(原著1950、翻訳1967)と続けて読んだ最初の感想は「さすがに翻訳が古いよ」ということで、決して読みにくいわけではないものの、全篇が私立探偵の一人称というスタイルなのに、その一人称がところどころでズレたり語尾がべらんめえな調子に流れたりと文章がふらついてしまうのを、残念半分、微笑ましさ半分で読んだ。
 とはいえ、同じように初期の作品であってもこの『象牙色の嘲笑』はもっと安心して読めるだろうと思ったのは、ずっと最近の新訳であることと、それ以上に訳者の名前をあてにしてのことだった。が、しかし、ここまで格が違うとは予想していなかった。それは訳者の力なのか原作の力なのかと言ったら、もちろん両方だろう。分けられるものではない。
《そのブロックの半ばあたりに白い平屋があり、正面のコショウボクの陰になったドライヴウェイに、色褪せた緑色のフォードのクーペがとまっていた。黄色い水泳トランクスを穿いたニグロの若者がホースで洗車をしていた。大柄で、力の強そうな男だ。半ブロック離れていても、濡れた黒い両腕の筋肉がてらてらっているのが見てとれた。彼のほうへ娘は道を横切った。今までよりゆっくりした、優雅な歩きぶりになっていた。
 その姿に気づくと、男はにっこりして、ホースの水しぶきをピュッと女のほうに向けた。彼女はうまくかわし、見た目もかまわず、彼に向かって走った。男は笑い、水をまっすぐ木の高いところまで噴射したのが、目に見える形をとった笑い声のようだった。その声は半秒後に音として私の耳に届いた。女は靴を脱ぎ捨て、ミニチュアの雨に一歩先んじて車の反対側へ駆けた。男はホースを落とし、彼女を追いかけて走り出した。》p25

 下線を引いた喩えにびっくりして二度見した。読み直しても確かにそう書いてある。「え、これはこんな表現も出てくる小説だったのか」と、それこそホースで水をかけられたように勝手におどろいていると、探偵は近所の住人から情報を集めるべく、ラジオに関する調査員のふりをして隣の家のドアをノックする。
《家の中の声が奥の方から聞こえてきた。年老いて衰えてはいるものの、よく通る声で、詠唱のように響いた。「ホリー、あんたかい? いや、まだホリーの来る時間じゃない。ともかく、お入り、誰だか知らないけど。あたしの友達だろう。友達は部屋に来てくれる。今じゃ外へ出られないもんでね。だから入っておいで」
 声は息継ぎもなく続き、母音を伸ばす深南部特有の耳に快い訛りで単語と単語がつながっていた。道しるべの糸のような声に導かれて、居間を横切り、短い廊下を進み、台所を抜けて、その隣につながった部屋まで行った。》p28

 ここは、探偵が聞き込みをしている姿を読者に示すための、たいしたことのないシーンのはずだ。だから《道しるべの糸のような声に導かれて》なんて比喩からその声を幾通りか想像しつつも、この人物があとで再登場することはたぶんないんだろうとこちらは予想を組み立ててもいる。それなのに、続く会話をちょっと見てやってほしい。
《「動かないラジオなんか、家の中にあっちゃ場所ふさぎなだけでしょ。朝昼晩と聴いているけど、あんたがノックをする直前に消したんだ。あんたがいなくなったら、またつける。だけど急ぐことはない。入って、坐っておくれ。新しい友達ができるのはうれしいからさ」
 私は部屋にある唯一の椅子、ベッドの足元近くに置かれたロッキングチェアに坐った。そこから、隣の白い平屋の側面が見える。裏庭に向かって台所の窓が開いていた。
「あんたのお名前は?」
「リュウ・アーチャーです」
「リュウ・アーチャー」それが短く雄弁な詩であるかのように、彼女はゆっくり繰り返した。「ああ、きれいな名前だ、とってもきれいな名前だ。あたしはジョーンズ、最後の亭主の苗字でね。みんなにはおばちゃんと呼ばれてるけど。」》pp29-30*太字は引用者

 3回読み直した上で、わたしも声に出してゆっくり言ってみた(そうしないことができるだろうか?)。始まってまだ30ページだし、探偵が注視しているのは《隣の白い平屋》と《裏庭》なのだし、脇役でしかない脇役の一人であるというのに、主人公の名前をめぐってこれだけのやりとりが書き添えられる。最初に「格が違う」と書いた所以である。「本名、言っちゃうのかよ」というのも、考えてみればまた別の意味ですごい。探偵が、作者が、小説が、三位一体でこの老婆、もといおばちゃんを丁重に扱っている。
 すごい、すごいとメモしたくてここまで書いただけなので、この先の展開とかタイトルの意味とか触れないが、もう1ヶ所だけ引用する。探偵が発見した手紙を読む場面だ。
《 ルーシー
 仕事をなくしたそうでとてもざんねんです、あたしたちみんな、あんたはこれで一生だいじょぶだとおもったのに、でもつぎになにがあるかわかんないのが人生です、もちろん、かえってきてくれたらうれしいよ、ハニー、きしゃちんをだせるならね、わるいけど、あたしたちにはむりです。とうさんはまた失業して、またあたしがひとりで家族をささえているので、やりくりがたいへん。ねるばしょはいつでもあるし、たべるものもあるからね、ハニー、かえっておいで、くらしはだんだんよくなるよ。おとうとはまだ学校にいっていて、せいせきはいい、このてがみをかわりにかいてくれてます(やあ、ねえちゃん)。きしゃちんがなんとかなるといいね、道路をつかっちゃいけないよ。
                              母より
 ついしん――ねえちゃん、げんき? ぼくはげんき、だれだかわかるよね。》p63

(やあ、ねえちゃん)! まったく平易な、素朴すぎる言葉遣いのなかでも、こんなふうにひょっこり魔法が顔を出す。小説に出てくる“年少の弟が書いた手紙”として、これはサリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(ただし野崎孝訳のほう)の一篇、「エズミに捧ぐ」で引用される一通に届く飛距離を出していると思った。
 こんな文章がもっと出てくるんだったら、ロス・マクドナルドはぜんぶ読みたい。あと、ロス・マクドナルドの比喩表現を集めて考察した論考とかあったら読んでみたい。現場からは以上です。


○     ○     ○

*いま知った。『動く標的』は1年前に新訳が出ていた(田口俊樹訳)。まずこれか。

動く標的【新訳版】 (創元推理文庫)
ロス・マクドナルド
東京創元社
売り上げランキング: 252,379