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<title>キッチンに入るな</title>
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<title>2012年5月6日（日）</title>
<description> ■ たしか去年の年末に、友達に向かって「来年はもっとブログを更新するっす！ おれブログ好きなんす！」などと口走ったようなおぼえがあるが、まあ、ほとんど更新していないわけです。更新していないのに時々はてなアンテナで上にあがってしまうのはなぜなんだろう。あるいはもうみんな、はてなアンテナなんて使っていないのだろうか。　こんなに更新頻度が落ちている理由を（「怠けているから」という最終解は措いて）考えて、そ
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<![CDATA[ <br />■ たしか去年の年末に、友達に向かって「来年はもっとブログを更新するっす！ おれブログ好きなんす！」などと口走ったようなおぼえがあるが、まあ、ほとんど更新していないわけです。更新していないのに時々はてなアンテナで上にあがってしまうのはなぜなんだろう。あるいはもうみんな、はてなアンテナなんて使っていないのだろうか。<br />　こんなに更新頻度が落ちている理由を（「怠けているから」という最終解は措いて）考えて、その大きな原因のひとつであるツイッターから、自分のつぶやきを自分でまとめたものが2本あったので、せめて更新の代わりに貼る。<br /><br />　<a href="http://togetter.com/li/204366" target="_blank">・<strong>今週のサザエさんは： 2010.10-2011.10</strong></a><br />　　<a href="http://togetter.com/li/204366" target="_blank">http://togetter.com/li/204366</a><br /><br />　<a href="http://togetter.com/li/294814" target="_blank">・ <strong>正月の漫画のナウシカ： 2010＋2011＋2012</strong></a><br />　　<a href="http://togetter.com/li/294814" target="_blank">http://togetter.com/li/294814</a><br /><br />　ふつう、人は興味のあるものについて詳しく書くわけだけど（当り前だ）、このようにただダラダラと書き続けていたものでも「まとめる」つもりで見返してみると、書いていたことから逆に自分の興味が発見できるというか、もっと言えば、まとめることにより「自分の興味」を後付けで作ることができるかのようで、書いてまとめた私には、こんなものでも少しだけ意味があった。私には。<br /><br /><br />■ ところで、去年2011年の読書で猛烈に面白かったのは、<a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%B9/dp/4582767052/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1336228090&sr=8-1" target="_blank"><strong>ミシェル・レリス『幻のアフリカ』</strong></a>（1931-33年のアフリカ調査行に参加した詩人による日誌）と、<a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%8A%AC%E3%81%8C%E6%98%9F%E8%A6%8B%E3%81%9F%E2%80%95%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%97%85%E8%A1%8C-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%AD%A6%E7%94%B0-%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90/dp/4122008948/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1336228109&sr=1-1" target="_blank"><strong>武田百合子『犬が星見た』</strong></a>（昭和44年のロシア旅行記）を、<strong>続けて</strong>読んだことだった。<br />　両方とも、書き手のまわりで何が起きるにしろ、書き手自身が何を考えるにしろ、そういった出来事だとか書き手の内面だとかといったものの外にある、もっと大きくて外的な流れ（旅の進行、何より<strong>日付</strong>）に従って着々と記述が積み重ねられていく、そういうタイプの本だった。<br />　記述の内容は淡々としていても淡々としていなくても、その積み重ねは坦々と続いて分量を増してゆき、それがただ続くことでもって（分量を増すことでもって）いつのまにか1個の作品になってゆく。そこが面白かった。<br />　だから、この2冊の本が面白かった、というよりも、この2冊の本を読んでいる最中が面白かった、というほうが正確なのかもしれない。作品の生成する過程を目の当たりにし続けるのがこちらの興奮を呼ぶのだろうか、という感じで、理由はまだうまく言語化できないけれども、このような作品のありかたが自分は本当に好きなんだなあと再確認し、そこで「いまがアレを読むときかもしれない」と、評判だけは目にしていた<a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E9%AB%98%E6%A0%A1-%E9%9D%92%E6%9C%A8-%E6%B7%B3%E6%82%9F/dp/4062170086/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1336228210&sr=1-1" target="_blank"><strong>青木淳悟『私のいない高校』</strong></a>に手を出した。<br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062170086/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51nyRDkBOoL._SL160_.jpg" alt="私のいない高校" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4062170086/outofthekitchen" target="_blank">私のいない高校</a><br />(2011/06/14)<br />青木 淳悟<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062170086/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br />　ある高校の2年生の1クラス、留学生を受け入れた教室の全体を、とくに主人公や視点人物を置くわけでもなく、担任による日誌のようなスタイルで坦々と記録していったこの小説が、去年、私の読んだ小説のベストになった。<br />　この小説の面白さは、まだぜんぜん自分のなかで片付いていない。まず、わざとらしい事件や物語が起きないのがリアルでいい、なんて単純なことでは決してないし、このような内容とスタイルのものを小説だと言うことのおかしさが面白い、というのでもない。<br />　ここにある面白さは小説であることからしか出てこない面白さだと思うからには、それは小説ではなかった先の2冊とは別種の面白さになるはずだが、日付のついた記述の積み重ねという点では同じであるような気もしてくるし、しかし面白さの発生源がそこだけというのでもない。<br />　どこに設定してあるのかわからない視点、数十人をばらばらに追う記述の群れのうしろにひとりの（ひとつの）書き手を想定できるようにはとても見えない書きぶりのおかしさもあるにしろ、それも本質ではないような……<br />　さっぱりわからないのに、<strong>作中いちばんのイベントである修学旅行</strong>の朝、クラスメイトが徐々に空港へ集まってくるところの盛りあがり（作中ではなく、読んでいるこちらの盛りあがり）はあれは何だったんだろう、などと考え出すとまた読み返したくなってきて、そして読み返せば、やはりまた変な面白さが着々と続いてゆくのだった。<br />　以上、結論は何もないんだけど、小説でもネットでも、進行中の実況とか、日記っぽいものとか、記述の積み重ねだとか本篇と並行する注釈だとかに妙に惹かれてしまう自分の興味のありように従って、なるべくたくさん騒いだり書いたり、つまり記録を続けていきたいと思う――って、こんなことを書くつもりではなかったんだけどな。<br /><br /><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582767052/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41E1GFUW7bL._SL160_.jpg" alt="幻のアフリカ (平凡社ライブラリー)" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4582767052/outofthekitchen" target="_blank">幻のアフリカ (平凡社ライブラリー)</a><br />(2010/07/10)<br />ミシェル・レリス<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582767052/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122008948/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61yGjvwoZmL._SL160_.jpg" alt="犬が星見た―ロシア旅行 (中公文庫)" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4122008948/outofthekitchen" target="_blank">犬が星見た―ロシア旅行 (中公文庫)</a><br />(1982/01)<br />武田 百合子<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122008948/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table> ]]>
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<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:date>2012-05-06T20:42:23+09:00</dc:date>
<dc:creator>　doodling</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>アンポンタンと私</title>
<description> 　◇ これの続き：　大正生まれの私の祖父は、記憶に登場する最初のころから腰は曲がっていたが、70歳を越えても毎日車を運転するいかしたジジイであった。そして私と姉を、幼稚園から小学校低学年ぐらいまで、面白がって騙し続けたジジイでもあった。　いわく、「町に行くたび食べるおいしい食べ物があって、それは“アンポンタン”というんだ」「あんぽんたん！！」　　　　　○　それはどんな食べ物なのか。話を聞くたび、答えは違
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<![CDATA[ <br />　◇ <a href="https://twitter.com/#!/do_dling/status/170541796642914304" target="_blank"><u>これ</u></a>の続き：<br /><br /><br />　大正生まれの私の祖父は、記憶に登場する最初のころから腰は曲がっていたが、70歳を越えても毎日車を運転するいかしたジジイであった。そして私と姉を、幼稚園から小学校低学年ぐらいまで、面白がって騙し続けたジジイでもあった。<br />　いわく、「町に行くたび食べるおいしい食べ物があって、それは“アンポンタン”というんだ」「あんぽんたん！！」<br /><br />　　　　　○<br /><br />　それはどんな食べ物なのか。話を聞くたび、答えは違った。<br />「ほかほかしている」「やわらかい」「ひとつでおなかいっぱいになる」。<br />　いっこうに像を結ばない“アンポンタン”は、私と姉の頭の中でおおいに膨らんだ。<br /><br />　　　　　○　　　　○<br /><br />　祖父はアンポンタンの味も様々に形容したが、今から思えば、そこにはひとかけらの具体性もなかった。<br />「おいしすぎてほっぺたが落ちる。というか、落ちた。医者でほっぺをつけ直してもらって帰ってきた」。<br />　さすがにそれは嘘だとわかった。でも、それ以外はすべて信じた。<br /><br />　　　　　○　　　　○　　　　○<br /><br />　どうかアンポンタンをお土産に買ってきてほしい、とせがむ孫ふたりを、祖父は「ああ、今日は忘れた」「店が休みだった」と、のらりくらりかわし続けた。あげく、「せっかく買ったのに、おなかがすいて車の中でふたつとも食べちゃった」などと言う。私と姉はアンポンタンに焦がれた。<br /><br />　文字をおぼえたての私は、家にあった小さい国語辞典で“アンポンタン”を引くことを思いついた。それは素晴らしいアイディアに見えた。<br />　しかし、“あんこ”と“あんみつ”はあっても、その間にあるべき“アンポンタン”はなかった。ページを示して不服を述べているのに、「これはだめな辞書だなあ」と笑う祖父が解せなかった。<br /><br />　　　　　○　　　　　○　　　○<br /><br />　今なら、祖父の気持は想像できなくもない。<br /><br />　　　　　○　　　　　　　○　○<br /><br />　祖父の車に乗せられて町へ行った回数は数え切れないが、アンポンタンを信じていた当時の1回のドライブが強く印象に残っている。<br />　町は夕方で薄暗かった。一軒の、広いガラス戸を通して内側まで見通せる建物の前を通った。灯りはついておらず、がらんとしていた。畳敷きで、もとは呉服屋か何かだったのだと思う。ハンドルを握る祖父は小声で言った。「昔はここでアンポンタンも売っていた」。<br /><br />　そのとき以外のアンポンタンの思い出は、すべて明るいものだった。<br />「アンポンタンって、どんなの」。私と姉は、繰り返しそう訊ねては珍回答をもらって喜んだ。しかし、祖父もいいかげん嘘をひねり出すのが面倒になっていったのだと思う。<br />「おいしい食べ物があるだろう。それをアンポンタンと言うんだ」。<br />　答えはときに哲学的だった。<br /><br />　　　　　○　　　　　○　　　○<br /><br />　そんなある日のこと。いっしょに遊んでいた姉が唐突に言った。<br />「あたし、きのうアンポンタン食べたんだー」。<br />　衝撃だった。3つの歳の差という越えがたい壁の上に、姉は涼しい顔をして立っていた。姉は、祖父とアンポンタンの世界を二重の意味でひと足先に卒業したのだった。私はいっそう頑なになった。<br /><br />　　　　　○　　○　　　　　　○<br /><br />　それでも時間は流れる。やがて私も小学校に入り、徐々にアンポンタンの実在に疑いをおぼえるようになった。そんなとき、外から帰ってきた祖父が鞄から取り出したのは、ラップに包まれた特大の蒸しパンだった。「ほら、アンポンタンだぞ」。<br /><br />　あれは祖父からの、“そろそろ手打ちにしよう”という歩み寄りだったのかもしれない。私は「これは蒸しパンだもん。アンポンタンじゃない」と言った。祖父は「そうだそうだ、これはアンポンタンじゃない」と答えた。<br />　ラップの中で汗をかいていた蒸しパンはまだ温かく、甘かった。おいしかったので2個食べた。夕飯が食べられず母親に怒られた。<br /><br />　　　　　○○　　　　　　○<br /><br />　祖父とアンポンタン。<br />　さっき、“そふとあんぽんたん”で変換したら、“ソフトアンポンタン”になった。そんな製品は祖父だって開発していない。<br /><br />　　　　　○　　　　　　　○<br /><br />　流しの上の棚に手が届くようになったり、給食をなんとか人並みの早さで食べられるようになったりしていくなかで、いつのまにか“アンポンタン”は過去のものになっていったが、祖父に向かってはっきり「あれは嘘だったんだよね」と迫ったことはない。この点に関してなら、私は自分を誉めてやってもいいと思っている。<br /><br />　　　　　　○　　　　○<br /><br />　小学4年生の秋だったはず。祖父が、三省堂の『大辞林』を買ってきて、茶の間のテレビ台の中に置いた。その存在感は圧倒的だった。<br />　祖父のほうで、かつての国語辞典の件をおぼえていたかどうかはわからない。私はおぼえていたので、知っているかぎりの神話の登場人物の名前を引いたあと、また探してみた。大辞林には載っていた。<br /><Blockquote>あんぽんたん：　愚か者。あほう。ばか。多く、人をののしって<br />　　　　　　　　　　　いう語。｢この、――め｣</Blockquote><br />　いつか、三省堂が「大辞林と私」作文コンクール、みたいなものを開催したら、この話を書いて応募しようと私はひそかに決めていた。<br />　そんなコンクールはなかったから、この話を書くのはいまが初めてである。<br /><br />　　　　　　　○　○<br /><br />　アンポンタンについておぼえていることは、これでぜんぶだ。せっかくなので、iPhoneの<a href="http://www.monokakido.jp/iphone/daijirin.html" target="_blank">大辞林アプリ</a>はダウンロードしようと思う。<br /><br />　　　　　　　　　○<br /><br />　祖父に関して。<br />　本当の記憶のはずはないのに、どうしても夢とは思えない鮮明さで目に焼き付いている光景、すなわち、「祖父と一緒にダムを見下ろす管理小屋へ入る。宇宙戦艦ヤマトみたいな円形のハンドルを祖父がぐるぐる回すと水門がゴゴゴゴと開き、水が瀑布となってどーっと流れ出す」については、またいずれ書くかもしれない。 ]]>
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<dc:subject>（無題）</dc:subject>
<dc:date>2012-02-19T02:15:05+09:00</dc:date>
<dc:creator>　doodling</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ「コスモス」（1965） </title>
<description> 工藤幸雄訳、『東欧の文学　コスモス他』（恒文社、1967）pp185-338に所収　親もとを飛び出した学生らしい「ぼく」と、その友人で勤務先の上司とうまくいっていないらしいフクスがある夏の日、それぞれ思い詰めた頭で林の中を歩いていると、針金で縛り首にされたスズメの死骸に遭遇する。いったい誰がこんなことを？　これは何かあるにちがいない。　2人は元銀行支店長のレオン氏夫妻の家に間借りすることにした。たちまち「ぼく」
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<![CDATA[ <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770402147/outofthekitch-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51AgNP27DVL._SL160_.jpg" alt="コスモス―他 (東欧の文学)" style="border: none;" /></a><br /><br /><Div Align="right">工藤幸雄訳、『東欧の文学　コスモス他』（恒文社、1967）pp185-338に所収</Div><br /><br />　親もとを飛び出した学生らしい「ぼく」と、その友人で勤務先の上司とうまくいっていないらしいフクスがある夏の日、それぞれ思い詰めた頭で林の中を歩いていると、針金で縛り首にされたスズメの死骸に遭遇する。いったい誰がこんなことを？　これは何かあるに<strong>ちがいない</strong>。<br />　2人は元銀行支店長のレオン氏夫妻の家に間借りすることにした。たちまち「ぼく」の意識を占めるのは、そこで働く女中カタシアの唇（事故のためひきつれている）と、夫妻の若い娘レナの唇（みずみずしく肉感的）であった。唇の向こうに唇。ふたつの唇にはどんな<strong>関係</strong>が？　そしてスズメと唇の<strong>繋がり</strong>は？<br /><Blockquote>《ぼくらはズボンをはいた。<br />　部屋はいまや決然とした、明確な行動によって満たされた、この行動は倦怠、けだるさ、気まぐれから始まったものであったが、何やら低脳めいたものを内蔵していた。<br />　なまやさしい仕事ではなかった。》<span style=font-size:x-small>p210</span></Blockquote><br />　勝手に翻弄されていく2人。部屋の天井を見上げれば、傷が矢印をなしている。矢が指しているのは……あのスズメが吊るされていた方向だ！（誰が、何を伝えようとしている？）　意気込んで調べに行くと、今度は塀に木切れがぶらさげられているのが発見された。スズメと木切れ！　「謎」を「解明」するには女中の部屋に忍び込んで調べる<strong>しかない</strong>。果たしてそこでは、縫い針、ペン先、ヤスリが各所に突き刺してあった。いったいどういうつもりなのか？ そして、え、レナは既婚だったんだよ!! なんだって!?　もう大変である。<br /><Blockquote>《僕には物語ることができない……この物語を……なぜならぼくは ex post<span style=font-size:x-small>［事後に。］</span>話をしているから。》<br /><br />《それにしても事後ではなしに物語ることはできないものか？ どんなことにせよ、それ自身の無名<span style=font-size:x-small>［アノニム］</span>な現われのなかで本当に表現し、伝えることはできない、あるつぶやきが生まれる瞬間、そのままにそれを伝えることはだれにもできないのではないか、混沌から生まれたわれわれは、描こうとする対象と結びつくことができず、それを目にしたとたんに、われわれの視線のもとで秩序が……そして形が生まれてしまうのではないだろうか……》<span style=font-size:x-small>pp207-8</span></Blockquote><br />　何事かを筋道立てて物語ることが、こうしているあいだにも無数に発生しては消える出来事、硬軟取り混ぜあっちこっちに存在する事物の群れのごく一部を因果関係の糸で結びつけ、吊り下げてみせる作為の謂いであるとは、とくべつにどうこう言うまでもない、当たり前のことだろう。上の引用は小説が始まってまもないページに書きつけられている。<br />　周囲に繋がりを見出して、そこから何ものかの意図――それも、悪意のあるらしい意図――を勝手にくみ取り、それを自分たちのまわりに広げることで作り出した状況のなかで「ぼく」とフクスは脅え、もがく（もちろん、状況は誰かに「作られた」ものとして感知される）。<br />　それがどんな意図なのか、一片たりとも内容はわからなくても、意図が<strong>ある</strong>ことは譲れない。ああ、パラノイアものなのだなあ、と思って読み進むが、てんやわんやの「ぼく」があるものを実際に吊り下げることから自分も状況を作る側に参加したらしいこの小説の後半は、こんな説明ではぜんぜん見通しがきかない。<br /><br />　何ものかが送ってくるサインを、繋がりの発見によって受け取っていた「ぼく」が、自分もサインを発する側にまわったら、自分こそ“何ものか”である。そして、<strong>発信する側にまわったのに、サインの内容はわからない</strong>ままである。するとどうなるか。まず、たいへんに読みにくくなる。<br /><Blockquote>《ある一つの対象に過度に注意を集中すれば、放心を招きがちである。その一つの対象が周囲をおおいかくしてしまうのである》<span style=font-size:x-small>p197</span></Blockquote><br />　ごく最初、始まって10ページ足らずでこんなこともわかっているくらい聡明である「ぼく」の目には、もはや繋がりしか見えなくなるし、頭は繋がりのことしか考えられなくなる。いや、「見えない」「考えられない」なら自省の滑り込む隙間があるからまだよかった。聡明さはそのままで、目は繋がりしか<strong>見ない</strong>、頭は繋がりしか<strong>考えない</strong>、それで彼の言葉は、繋がりについて、その繋がりのなかから語られるようになる。中身、知らないくせに！　小説の後半はそんなふうになっていく（たぶん、なっていく。よく判読できない）。<br /><Blockquote>《鳥が空に現われた――高速で動かない――禿鷹か、鷹か、鷲か？　ちがう、スズメではない、だが、それがスズメではないということによって、それは非スズメとなる、そして非スズメであるがために、どことなくスズメとなる……》<span style=font-size:x-small>p273</span></Blockquote><br />　おそらくこういうことではないか――　ふつう繋がりは、この世界を理解するための留め金として作られる。手がかりが何もないと、すべては流れていってしまう。放っておいても、人は無自覚に繋がりを作り、その留め金に頼って生きている。<br />　それなのに、まず、繋がりは自分で作っていると認識したうえで、なおかつ繋がりの内実を満たせない「ぼく」にとって、留め金は真の意味で失われる。世界は流動を始める。<br />　フクスからは急に関心が失われ、代わりに（代わりに？）「湯わかし」がせり上がってくる。かと思えば、小市民に見えたレオン氏の抱えていたこだわりの記憶がぶり返し、新キャラともども大騒ぎになる。およそ楽しくなさそうなピクニック。体臭のきつい女。とばっちりをくらう司祭。エトセトラ。そして、それらを描写する意味不明な造語の数かず。<br /><br />「ぼく」が集中し、小説は放心するから、何が書いてあるのかじつのところはわかりようがない、というところまではなんとかわかったと思う。べつに何かが「わかる」ことを求めて小説を読んだりはしていないつもりだが、この小説に“秩序（コスモス）”という題をつけた野心の片鱗くらいは感じとれたような気がする。でもどうだろう。<br /><Blockquote>《おれは妖女と戦っているのか、生きた神に挑んでいるのか！……これは何？　これは何か！　太陽のように熱い甘い夢が、草を、花を、山を包んだ、草の葉ひとつそよがない。ぼくは動かなかった。立っていた。だが、ぼくの立ち往生は次第に無責任なものとなり、気違いじみてさえきた、ぼくには立っている権利がなかった、それは<strong>不可能、行かねばならない</strong>……それでも立っていた、》<span style=font-size:x-small>p305</span></Blockquote><br />　ポーランド－アルゼンチンの鬼才・ゴンブロヴィッチとのファーストコンタクトは、こちらの完敗だった。1965年に出たこんな小説が、2年後には翻訳出版されているというのもすごいことだと思う。<br /><br /><br /><br />　○　　○　　○<br /><br />■ この単行本、ほかの収録作はブルーノ・シュルツ「肉桂色の店」、「クレプシドラ・サナトリウム」の2篇。後者は抄訳。<br /><br />■ 検索して見つかる感想ブログを3件。どれも非常に面白く、それだけでも「コスモス」を読んだ甲斐があったというもの。<br /><br />・モナドの方へ：<br />　<a href="http://d.hatena.ne.jp/leibniz/20051013/1129275910" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/leibniz/20051013/1129275910</a><br /><br />・「石版！」：<br />　<a href="http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080721/p1" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080721/p1</a><br /><br />・キリキリソテーにうってつけの日：<br />　<a href="http://d.hatena.ne.jp/owl_man/20101003/p1" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/owl_man/20101003/p1</a> ]]>
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<dc:creator>　doodling</dc:creator>
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<title>若島正『乱視読者のSF講義』（2011）</title>
<description> 　国書刊行会　若島正がSFについて書いた文章をまとめた本。　タイトル通りにSFの短篇を1篇ずつ取りあげた12回の講義が前半に収められ、後半には、より広くSFを扱ったさまざまな文章と、特別にジーン・ウルフを論じたり語ったりしたものが集められている（ウルフの超短篇も訳載＋読解されている――「ガブリエル卿」）。　といっても、SFに詳しくない私のような人間にもたいへん面白く読めた。それは乱視読者・若島正の姿勢が一貫し
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<![CDATA[ <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/433605441X/outofthekitch-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51RCtyKv-OL._SL160_.jpg" alt="乱視読者のＳＦ講義" style="border: none;" /></a>　<br /><Div Align="right">国書刊行会</Div><br /><br />　若島正がSFについて書いた文章をまとめた本。<br />　タイトル通りにSFの短篇を1篇ずつ取りあげた12回の講義が前半に収められ、後半には、より広くSFを扱ったさまざまな文章と、特別にジーン・ウルフを論じたり語ったりしたものが集められている（ウルフの超短篇も訳載＋読解されている――「ガブリエル卿」）。<br />　といっても、SFに詳しくない私のような人間にもたいへん面白く読めた。それは乱視読者・若島正の姿勢が一貫してこのようなものであるからだろう。<br /><Blockquote>《わたしがよりどころとする立場は、単なる小説読者として小説を丁寧に読むことであり、SFというジャンルの中だけにしか通用しない議論にはさほど興味はない。》<span style=font-size:x-small>p15</span></Blockquote><br />　そういえば『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B9%B1%E8%A6%96%E8%AA%AD%E8%80%85%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84-%E8%8B%A5%E5%B3%B6-%E6%AD%A3/dp/4622048175/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1322769175&sr=8-1" target="_blank"><u>乱視読者の帰還</u>』<span style=font-size:x-small>（2001）</span></a>にも、忘れがたい一節があった。<br /><Blockquote>《作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない。丸い卵も切りようで四角というのは、わたしの趣味ではない。むしろ、丸い卵は丸いということを言うつもりだ。わたしは小説の勘所にしか興味がないのである。》<span style=font-size:x-small>p228</span></Blockquote><br />　この姿勢はもちろん本書にも共通しており、とくに前半の講義部分でそれは顕著だ。毎回、ひとつの短篇を取りあげ、必要最低限の筋の紹介と必要最小限の背景の説明がなされ、あとはたしかに「丁寧な」と形容するのが最もふさわしく思われる読み解きが展開される。<br />　膨大なSFの読書体験と、膨大な読解の実践経験を持つ人による講義が、そのどちらも持たない読者（私のことです）にも「手が届く」、少なくとも「手が届くように感じられる」のだから、おかしな感想だが、読みかたの丁寧さにも書きかたの丁寧さにも、ありがとうございますと言いたくなった。<br /><br />　ではこれがきわめて正攻法でわかりやすい、SF初心者に向けただけの講義およびエッセイかといえば、おそらくそうではない。おそらく、と書かざるをえないのは私じしんは初心者だからだが、そんな留保は捨てて「そうではない」と言い切りたい気持でいっぱいだ。<br />　前半の講義部分で、H.G.ウェルズから始まりスタニスワフ・レムで終わる作品の選択にしてからがこの人独自のものであるだろうし、あくまで個々の作品に即しながら、それでもたびたび繰り返されるテーマ群――たとえば「“言葉で表せないもの”は小説に書けるのか」といった問題は、SFだからどうこうではなく、人間が書く小説の限界をさぐる様相を呈して刺激的なことこの上ない。<br />（レムがすごい、というのは<span style=font-size:x-small>（もしかすると未読の人からも）</span>納得を取りつけやすいかもしれないが、その源流はウェルズにあり、しかもウェルズはもっとすごい、というのは<span style=font-size:x-small>（未読の私には）</span>新鮮でおどろかされた。読まなくては）<br /><br />　そして、決して単純でも簡単でもない小説の勘所を明快な言葉と論理で解きほぐしていく中で、ときおり華麗なレトリックが炸裂するのがたまらない読みどころになっているのは、若島正のほかの本と変わらない。<br /><Blockquote>《従って、ディックの短篇の「にせもの」とレムのディック論の「にせ者」とは厳密には同じではない。それはわかっているのだが、ディックとレムのあいだに「にせもの」という（必ずしもほんものとは言えない）補助線を引ける、その偶然を今回は利用してみたい》<span style=font-size:x-small>p119</span></Blockquote><br />　このような行文に出くわすたびにページの端を折っていったが、「まったく普通の言葉だけを使いながらすごいことを言っている」例は、読み返すほどに多くなった。<br /><Blockquote>《こうして、形式的にも内容的にも、「GOLEM XIV」はSFから、そして小説そのものから逸脱することになる。》<span style=font-size:x-small>p133</span></Blockquote><br />　使われている言葉がまったく普通なだけに、いま一部分だけ引用しても、この一節が出てくるに至る本文の運びの迫力は伝えようがないのがとてももどかしい。その最たるものとして、トマス・M・ディッシュを論じた講義の第十回、次の一文が出てくるページの端を、私はほかのどのページよりも強く折った。<br /><Blockquote>《距離ができると、不思議にわかりやすく見えてくるものである。》<span style=font-size:x-small>pp108-9</span></Blockquote><br />　普通だ。まったく、普通だ。だが、「いま、この人は何かものすごいことを言ったんじゃないだろうか」という、かすかで強烈な印象に引っぱられ、読み終えた第十回をもういちど最初から読み直してみるとき、まだ前置きといっていいあたりに置かれたさっきの一文がスプリングボードになって後半の論旨が方向付けられていく呼吸には、あらためて目を見張らされるのである。どうか実物で確かめられたい。<br />（講義部分では、毎回の締めとなる最後の段落が、つねに格好よく決まっている。そのうち「今回はどう締めてくれるのか」も期待して読んでいった）<br /><br />　あわせて、これだけ面白く発見に満ちた書物を読んでいて、私がもっとも「！」となったところをメモしておきたい。それは、いちばん低級な小説は何か、と訊かれて「<strong>SFだ</strong>」と即答した英文学の教授のことをカート・ヴォネガットが書いており、そんなのてっきり作り話だと思っていたが、あれはどうやら<a href="http://www.amazon.com/fabulators-Robert-Scholes/dp/B0006BRH1I/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1322508362&sr=8-1" target="_blank"><u>ロバート・スコールズ</u></a>だったらしい、という説の紹介だった<span style=font-size:x-small>（p219）</span>。そうか、推測とはいえ、まさかのスコールズだったか……。<br />　しょうもないといえばしょうもないエピソードである。しかし若島正だって書いているではないか――<br /><Blockquote>《本を読む意味は、どこまでも個人的なものである。発見の驚きと喜びは、たとえそれがどれほどささやかなものであっても、読者個人にとって大きな意味を持つものであればそれでいいのだ。》<span style=font-size:x-small>pp270-1</span></Blockquote><br />　誰よりも魅力的に小説を読み解ける人がこんなふうに考えていることに、おどろくべきなのだろうか。こんなふうに考えている人だからこそ、誰よりも魅力的に小説を読み解けるのだと私は思っている。<br /><br /><br /><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622048175/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41D1G11NMSL._SL160_.jpg" alt="乱視読者の帰還" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4622048175/outofthekitchen" target="_blank">乱視読者の帰還</a><br />(2001/11)<br />若島 正<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622048175/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4327376906/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/411TSKSYGSL._SL160_.jpg" alt="乱視読者の英米短篇講義" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4327376906/outofthekitchen" target="_blank">乱視読者の英米短篇講義</a><br />(2003/07/11)<br />若島 正<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4327376906/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4327376922/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51SN205Z3XL._SL160_.jpg" alt="乱視読者の新冒険" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4327376922/outofthekitchen" target="_blank">乱視読者の新冒険</a><br />(2004/12)<br />若島 正<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4327376922/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862380174/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41RYKTYSDSL._SL160_.jpg" alt="殺しの時間-乱視読者のミステリ散歩" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4862380174/outofthekitchen" target="_blank">殺しの時間-乱視読者のミステリ散歩</a><br />(2006/09/20)<br />若島 正<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862380174/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table> ]]>
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<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:date>2011-12-03T03:47:50+09:00</dc:date>
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<title>ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』（1996）</title>
<description> 三浦岳訳、群像社（2007）《「本当のところ、何が本当かわからないぐらいです。いま揺られている馬車が本物なのか、それとも毎晩白衣の悪魔に苛まれるタイル貼りの地獄が現実なのか」「本当のところ、何が本当なのか」とチャパーエフはくりかえして、また目を閉じた。「おまえがこの問いの答を理解することはあるまい。本当のところ、どんな『本当のところ』も存在しないのだから」「どういうことです？」「やれやれ、ピョートル･･
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<![CDATA[ <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903619044/outofthekitch-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41IeLYBOjML._SL160_.jpg" alt="チャパーエフと空虚" style="border: none;" /></a><br /><Div Align="right">三浦岳訳、群像社（2007）</Div><br /><Blockquote>《「本当のところ、何が本当かわからないぐらいです。いま揺られている馬車が本物なのか、それとも毎晩白衣の悪魔に苛まれるタイル貼りの地獄が現実なのか」<br />「本当のところ、何が本当なのか」とチャパーエフはくりかえして、また目を閉じた。「おまえがこの問いの答を理解することはあるまい。本当のところ、どんな『本当のところ』も存在しないのだから」<br />「どういうことです？」<br />「やれやれ、ピョートル･･････。昔、中国に荘子という同志がいたんだ。彼にはよく見る夢があった。自分が草原を舞う蝶になる夢だ。だがそいつは目が覚めても、これは蝶が革命に従事する夢を見ているのか、それとも地下活動家が花から花に飛ぶ夢を見ているのか、よくわからなかった。だからこの荘子は、モンゴルでサボタージュのかどで逮捕された際、尋問に対して、自分はこの世界を夢に見ている蝶だと答えた。尋問をしたのはユンゲルン伯爵だった。伯爵には理解の深いところがあったから、ではなぜその蝶は共産党を支持しているのかと訊いてやった。彼は、その蝶はべつに共産党を支持してなどいないと答えた。今度は、ではなぜその蝶は破壊活動に従事しているのかと訊いた。すると荘子はこう答えた、人の業<span style=font-size:x-small>［わざ］</span>などなべて曖昧なもので、何をするかなどにたいした意味はない」<br />「それで、どうなったんです、彼は？」<br />「壁の前に立たせて、しかるべき現実的な手段で目を覚ましてやったそうだ」<br />「つまり、彼は？」<br />　チャパーエフは肩をすくめた。<br />「飛んでったんじゃないか？」<br />「なるほど、ワシーリイ・イワーノヴィチ。なるほど･･････」僕は考えこみながら言った。》<span style=font-size:x-small>pp276-7</span></Blockquote> ]]>
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<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:date>2011-11-19T21:28:57+09:00</dc:date>
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<title>長嶋有『安全な妄想』（2011）</title>
<description> 平凡社　誰もがあの番組を見たという。だが、いったい誰があの番組を本当に見たというのだろうか。　長嶋有のエッセイ＆エセー集『安全な妄想』に収められた「愛しのジャパネット」および「続・ジャパネット考」というふたつの文章は、ジャパネットたかたから何の利益も得ていない人間の記したものとして唯一、ジャパネットの社史に刻まれてしかるべきテクストであると思われる。　誰の人生にとっても素敵な何かではない、《むしろ
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<![CDATA[ <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458283535X/outofthekitch-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/510zhd9QGWL._SL160_.jpg" alt="安全な妄想" style="border: none;" /></a><br /><Div Align="right">平凡社</Div><br />　誰もがあの番組を見たという。だが、いったい誰があの番組を本当に見たというのだろうか。<br /><br />　長嶋有のエッセイ＆エセー集『安全な妄想』に収められた「<strong>愛しのジャパネット</strong>」および「<strong>続・ジャパネット考</strong>」というふたつの文章は、<a href="http://www.japanet.co.jp/shopping/" target="_blank">ジャパネットたかた</a>から何の利益も得ていない人間の記したものとして唯一、ジャパネットの社史に刻まれてしかるべきテクストであると思われる。<br />　誰の人生にとっても素敵な何かではない、《むしろノイズに近い存在》であるあのテレビショッピングを、2008年には《ほぼ毎晩みていた》という長嶋有が描き出すのは、見ているつもりでまるで見ていなかった、あの番組の姿であった。<br /><Blockquote>《彼らはいつも「ぽん」と押す。デジカメのボタンも、ハードディスク内蔵テレビの録画ボタンも。「ご覧のように、ぽんと押しますと」という。怖い機器ではないことを擬音で示している。女性陣は色のことを「お色」という。》<span style=font-size:x-small>「愛しのジャパネット」p65</span><br /><br />《「最近は社長ではなく若い男性がやっている」と簡単にいうが、それは誰のことか。塚本君だろうか、中島君か、それとも浦川君だろうか。若者だけで複数いるのである。》<span style=font-size:x-small>「続・ジャパネット考」p189</span></Blockquote><br />　指摘の正確さのみならず、《と簡単にいうが、》がすでにおかしい。この言い回しの中に、あの番組を本当に見た者がいる。<br />　ここで十全に発揮される観察力と、それをもとにふるわれる熱弁は、当然ながら対象をジャパネットに限定しない。本書の1冊を通し、外部の様々な事物におぼえる“納得のいかなさ”や、内面に渦巻く私的なこだわりの漏出をきっかけとして急に起動される考察は、こういうものとしてうやむやなまま受け入れていたこの世界を、たちまち長嶋有の世界に書き換えていく。そこには、「餃子パーティー」と称されるイベントの前半、参加者全員で餃子を包んでいる時間は「パーティー」の名に値しない！といった主張を理路整然と（かつ、拳を振り上げて）述べる大人がいるのである。<br /><br />　発想が、あるいは目のつけどころがまったく独自なのか。そうではないと思う。少なくとも、それだけではない。たとえば、携帯電話の機種を変える際に待たされる四～五十分についての文章。<br /><Blockquote>《先日、久々に機種変更したのだが店員は「そうですね、だいたい」と僕ではなく壁の時計をみながら、やはり四十分といった。》<br /><Div Align="right"><span style=font-size:x-small>「待ち時間」p216</span></Div></Blockquote><br />「だいたい」で言葉を句切ったあとの、《僕ではなく壁の時計をみながら》という仕草を見たおぼえは多くの人にあるはずだ。“そこを拾って文章にする”のが特異なのであり、その選択まで含めた観察眼があれば、とくべつに珍奇ではない発想も、にわかに息を吹き返す。<br />　誰によってでもいい、初夏を迎えると自動販売機の「あたたか～い」がすべて「つめた～い」に切り替わってしまう、だけど夏だって「あたたか～い」が飲みたいときがあるんだよ、という意見が口にされるのを、または活字になっているのを、私たちはこれまでにいったい何十回聞かされ、読まされてきただろう。<br />　そんな、内容じたいはもっともでありながら（もっともであるだけに）、えんえん繰り返されてありきたりになってしまった物言いを、長嶋有もまた取り上げてみせる。いまいちど、あえてこの件を訴えかけるには、人はどんな声音と話法をもって向かうべきなのか。ハードルは高い。回答はこうだ。<br /><Blockquote>《少し前、暑い日があった。<br />（くる！）と思った。授業中に一人だけ「魔の波動」をキャッチしてしまい、顔をあげた少女のように。<br />（近い）とも。街の自動販売機の、あたたか～い、が、つめた～い、に置き換わってしまう瞬間がやってくる！<br />（待って！）授業中なのに立ち上がってしまう。<br />「どうした、長嶋」チョークを持つ手を止め、怪訝そうな老教師に早退を告げ、後ろの扉から駆け出す。<br />（いけない！）「あたたか～い」をなくしてはいけない！　少し暑くなったからって！　だってまだ、肌寒い日がくるもの！<br />　なぜ自販機のホットドリンクはすぐになくなってしまうのだろうか。》<br /><Div Align="right"><span style=font-size:x-small>「あたたか～い」pp36-7</span></Div></Blockquote><br />　最後の1行での戻りっぷりがたまらない。では、広く共感される題材を記述する、文章力が特異なのか。もちろんそうだ。だがそう見ると、やはりそこだけには還元されない、根本の部分がどうかしている例も次々に出てくるのである。<br />　引用はしないが、好みの女性に「してほしい格好」として<strong>溶接工のマスク</strong>を挙げ、作業中、こちらに気付いた彼女がそれを外してくれるシチュエーションがなぜ魅力的なのかを考察し、説明を行う文章は、ジャパネットと並んで本書の白眉をなしていると思う。というのはつまり、私はそこで示される理路にかなり説得されてしまったからだった。しかも長嶋有じしんは、論理の筋道に乗って、溶接工よりさらに遠くへ行く。どうかご自分で確かめられたい。<br /><br />　こうしてみると、いきなり発生しているように見える妄想も、じつは強固な理屈の積み重ねの末に花開くものであり、理屈を支える考察は小さな観察ひとつひとつの結果であることからして、妄想力と観察力がひとりの人間の中に同居するのは当然のこととして納得されてくる。<br />　今年2011年の初め、大相撲の八百長メール事件が世間を騒がせた。あの問題について、メールの内容ではなく文面そのもの、それも語尾にだけ注目した人間を、私は長嶋有のほかに知らない。（さらにこの人は、「そのメールに絵文字は使われていたか」を気にし、新聞社に尋ねさえしたという）<br /><Blockquote>《僕が気になるのは「では、ゆっくりと休んでね！」とかだ。「橋を渡った所で待っているよ！」も異常だ。》<br /><br />《「最終的には右をさして寄り切りかすくい投げ辺りがベストだと思いますよ～」。<br /><span style=font-size:x-small>［…］</span>頻出する感嘆符に「思いますよ～」。これまでの八百長疑惑の時と今度の件との決定的な差異が、この<strong>ノリ</strong>にこそある。<br />　我々も時にメールがきついニュアンスにならぬよう「～」や「！」をつけるが、彼らはそれのみを選び続け、別のノリを迂回した。》<br /><Div Align="right"><span style=font-size:x-small>「思いますよ～」pp214-6</span></Div></Blockquote><br />　観察力の人・長嶋有はなによりも言葉を観察する作家であった。それでいて、この『安全な妄想』の雰囲気は、<a href="http://www.n-yu.com/essay/index.html" target="_blank"><u>特設・公式サイト</u></a>と見事に一致する。これはいったいどういう本で、長嶋有とはどんな人物なのか。読み終えて、ますますわからなくなっているのである。<br /><br />　終わりにもう1箇所、「続・ジャパネット考」からどうしても引用しておきたいところがある。あの番組での高級ブランド腕時計の売りかた・買われかたに疑義を呈したあとである。<br /><Blockquote>《ただ、白手袋の浦川君が「素敵ですよね、クリスタルガラスに長針と短針が･･････」とかいって拡大されたオメガの文字盤が、本当に<strong>そのときの時間</strong>を指している時があり、そのことにはかすかに興奮もする（やはりそんなテレビ放送は、他にない）。》<span style=font-size:x-small>p193</span></Blockquote><br />　ジャパネットで売られるオメガの時計によって、テレビの中とテレビの外がつながっていることに気付かされた、おどろき。それを伝える長嶋有の文章によって、この瞬間、エッセイの中とエッセイの外がつながっていると、読んでいる私も気付かされ、そのことにかすかに興奮した。<br />　もう少し詳しく書く。ほとんどすべて同時代の時事風俗を扱っている『安全な妄想』の中でも、この一節だけ感触がちがう。ナマの時刻がぜんぶの虚飾をはぎ取り、テレビの枠さえ無化して“事実だけになる”瞬間を書いたこの部分の印象を説明するのに、唐突だが、「小説っぽい」という以外の言葉を私は持たない。<br />　というのは、この感じには（新聞やルポ・ドキュメントではなく）まず小説でいちばんおぼえがあるからで、それこそ長嶋有なら<a href="http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-581.html" target="_blank">『ねたあとに』<span style=font-size:x-small>（2009）</span></a>がすぐに連想される。山荘に集まって遊び続ける大人たちを描いたあの長篇のうち、携帯電話の電波が入りにくいという話題が出るところ。<br /><Blockquote>《「何年か前に、コモローの友達が、電波がくるかもって屋根にのぼって着信してたよ」とおじさん（友達は、一応いるらしい）。皆で天井を見上げる。当たり前だが屋根の上は（もちろん、数年前の友達も）みえず、電球に虫がたかっていた。》<span style=font-size:x-small>p169</span></Blockquote><br />　ここの《皆で天井を見上げる。》の一文は、登場人物の「皆」だけでなく、読んでいる私まで、いっしょに天井を見上げる動作に加わらせてしまう（じっさいに見上げるのではなくても、動作の実感を与えられる）。この小説は、ここのやりとりで突然、「皆」の中に読者をも“巻き込みにくる”。このやりとりを覗き窓にして、<strong>小説がこちらを見ている</strong>ように感じられたのを、私は生々しくおぼえている。<br />　紙の上やディスプレイの上に書かれたものでありながら、不意にこちら側への通路を開く文章。そういうのが、私は小説の中でもっとも「小説っぽい」部分だと思う。そして「小説っぽい」文章は、小説ではないところでもたまに発見される。<br />　もともと生放送のテレビショッピングだから相当に薄かったはずのあちら／こちらを隔てるバリアを、まったくのゼロにまで解除するオメガの文字盤は、上の一節と似た働きをしているのではないか。だとすると、その不思議な瞬間のことを書き留めた長嶋有の文章が、同じようにこちらを高揚させるのも不思議ではない――いや、読み返すほどに、いっそう不思議さが募る。<br />　ジャパネットも『安全な妄想』もおそるべし、である。<br /><br /><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022505311/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41BB1NqznOL._SL160_.jpg" alt="ねたあとに" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4022505311/outofthekitchen" target="_blank">ねたあとに</a><br />(2009/02/06)<br />長嶋 有<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022505311/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table> ]]>
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<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:date>2011-10-16T22:24:54+09:00</dc:date>
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<title>内田百『東京焼盡』（1955）</title>
<description> 旺文社文庫（1984）　昭和19年11月1日（水）から、翌20年8月21日（火）までの生活をしるした日記。このあいだ百は奥さんと共にずっと東京にとどまり、5月25日の夜には自宅を焼かれた。それからは、人の家の庭にあった3畳の小屋を借りて終戦までをやり過ごす。《○ ナゼ疎開シナカツタト云フニ行ク所モ無カツタシ又逃ゲ出スト云フ気持ガイヤダツタカラ動カナカツタ○ 何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気モアツタ》「序ニ代ヘ
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<![CDATA[ <br /><Div Align="right">旺文社文庫（1984）</Div><br />　昭和19年11月1日（水）から、翌20年8月21日（火）までの生活をしるした日記。このあいだ百は奥さんと共にずっと東京にとどまり、5月25日の夜には自宅を焼かれた。それからは、人の家の庭にあった3畳の小屋を借りて終戦までをやり過ごす。<br /><Blockquote>《○ ナゼ疎開シナカツタト云フニ行ク所モ無カツタシ又逃ゲ出スト云フ気持ガイヤダツタカラ動カナカツタ<br />○ 何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気モアツタ》<br /><Div Align="right"><span style=font-size:x-small>「序ニ代ヘル心覚」</span></Div></Blockquote><br />　何を食べたか。何が起きて、何をした。会社に行った、 行けなかった。いつから下痢をしていつまで続いた。天気は何時までこうで、それからこう変わった。ラジオを誰にもらい、しかし壊れてしまった。周りの人間の様子。市街の変化。日記の記述は、なぜ、とあきれるほど細かい。<br />　なにより異様なのは警報の克明な記録で、警戒警報→空襲警報→空襲警報解除→警戒警報解除、と続く様子が、日によっては何回も、時刻付きで記される。どうやってメモしていたのかおどろきながら、いつのまにか、空襲という異常事態が日常に割り込み、「よく起こるもの」として日記に組み込まれていくのを、自然なこととして読みそうになっている。<br /><br />　空襲があったから、今日は会社に行けなかった<br /><br />　めまいがする。当然だ。そして、異常だ。そこに何度でもおどろいてしまう。生活は空襲も飲み込んで続く。よくある言い方だけど、ほんとうにそうなっている事態は、よくはない。<br /><Blockquote>《ただ思ふ事は、寿命の縮まる様なこはい思ひをした後で、空襲警報が解除になり、ほつとした気持で今度もまた無事にすんだかと思ふ時、お酒か麦酒が有つたらどんなにいいだらうと云ふ事で、いつもそればつかり思ふなり。》<span style=font-size:x-small>4月4日</span></Blockquote><br />　年が明けてから、物資はいっそう乏しくなっていき、使い途のなくなったお金が余って、食べものはない。お酒がない、お酒が飲みたい、お酒を飲んだらうまかった。お酒がない(以下ループ)。拡大する空襲の被害は、百と、何かれとなく百の世話を焼いてくれる近辺の人たちのすぐそばにまで及ぶ。<br /><Blockquote>《雙葉の一郭は大変な火勢にて、すつかり火の廻つた庇だか天井だか解らぬ大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふはりと浮かび、宙を流れる様に辷<span style=font-size:x-small>［すべ］</span>つて、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えてゐる。土手が燃えるかと更<span style=font-size:x-small>［あらた］</span>めて感心した。アスフアルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いた様に散らかり、風の工合では吹き寄せられて一所にかたまつたり、又一ぱいに広がつたりしながら、きらきらと光つてゐる。道もせに散る花びらの風情である。<span style=font-size:x-small>［…］</span> 大分寒くなつたが、雙葉の火に暫く向かつてゐると暖かくなる。》<span style=font-size:x-small>4月14日</span></Blockquote><br />　ああ、なぜいまそんな名文を、と小さくうめき、こちらまで胃が縮こまる感覚をおぼえながら、ますます強く思うようになるのは、<strong>はやく戦争終わってくれ</strong>ということで、この日記に書かれる人間たちが、つまり百と同様、この時代にたしかに息をして生活していた生身の人間たちが、親切な人もそうでない人も、なるべく死なずに済みますようにと願いながら、日記が8月15日まで進むのを待つようになる。<br />　そして気付くのは、百にしろほかの誰にしろ、ここに描かれている人たちは、家がなくなったり火から逃げたり、風呂に入れなかったり満足な食事もとれなかったりといった状況のもとで生きていたばかりか（それらは一応、ほんとうに一応だけど、想像はできる）、なんと、<strong>8月15日に戦争が終わることを知らないままで</strong>毎日を辛抱しているということだった。これにはちょっと呆然とする。<br />　もちろん、発表がどうあれ、首都もあちこちの都市もこんなに空襲を受けているんだから、戦局が思わしくないことは知られていただろう。覚悟を決めていた人だってずいぶんいただろう。でも、終わったあとから見ればこの上なくはっきり打ち立てられている「区切り」がいつ来るのかを、この人たちは、わかっていない。その心持ちばっかりは、うまく想像するのが難しい。しばらくがんばっても「こんな感じか？」と思えるようにはならなかった。<br />　だから、状況の内側で書かれたこの日記は、過去についての記録であるのと同時に、過去についての記録ではない。変なはなし、終わったあとから書かれるものは、次々にあたらしいものが出てそれより前のものを古びさせていくのに、「リアルタイムで書かれたもの」は、更新ができないためにこそ、古びないかのようだ。それはもしかすると、ないものはなくせない、という百の不思議な理屈とすこし似ているのかもしれない。<br /><Blockquote>《忘れてゐる物なら焼けたも焼けないも同じ事である。又忘れてゐない物でも、有つた物が焼けて無くなつたのだが、無くなつたところから云へば有つた物も無かつた物も同じ事である。もともと無かつた物も焼いた事にしようと私が教へる。ピアノ三台、ソフア一組、電気蓄音機、合羽坂の時分から家内が欲しがつたのを許さなかつた電気アイロン、それから蒸籠、ミシン等、惜しい事にみんな焼いてしまつた、焼けたので無くなつた。もともと無かつたかも知れないが有つたとしても矢つ張り同じ事である。》<span style=font-size:x-small>7月1日</span></Blockquote><br /><Blockquote>《岡山は六月二十九日の午前二時頃B29七十機の空襲を受けた。人死にが多かつたと云ふ話を聞いたが町は大体無くなつたのであらうと思ふ。<span style=font-size:x-small>［…］</span> 些とも顧ない郷里ではあるが敵に焼き拂はれたと云う事になれば人竝<span style=font-size:x-small>［ひとなみ］</span>以上の感慨もある。しかしどうせしよつちゆう行つたり来たりする所でもないとすれば記憶の中の岡山は亜米利加もB29も焼く事は出来ないのだから、自分の岡山は焼かれた後も前も同じ事であるかも知れない。》<span style=font-size:x-small>7月21日</span></Blockquote><br />　この『東京焼盡』、私はたまたま古本で安かった旺文社文庫版で読んだけど、中公文庫にも、ちくま文庫の百集成にもふつうに入っていた。たいして厚くないとはいえ、一気に読むものではないけれども（私は3ヶ月かけて読んだ）、日記の日付と実際の日付を合わせて読んだりしても面白いのじゃないかと無責任に思う。<br /><br /><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480039023/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41K2HYP695L._SL160_.jpg" alt="内田百けん集成22 東京焼盡" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4480039023/outofthekitchen" target="_blank">内田百けん集成22 東京焼盡</a><br />(2004/07/08)<br />内田 百けん<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480039023/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122043409/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51V6EJV6B2L._SL160_.jpg" alt="東京焼盡 (中公文庫)" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/4122043409/outofthekitchen" target="_blank">東京焼盡 (中公文庫)</a><br />(2004/03)<br />内田 百けん<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122043409/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table> ]]>
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<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:date>2011-09-17T23:50:54+09:00</dc:date>
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<title>尾辻克彦『整理前の玩具箱』（1982）</title>
<description> 大和書房　尾辻克彦／赤瀬川原平の文章って何なんだろう。　たとえば『芸術原論』（1988）という本のなかで、印象派の絵について書かれた部分がある。まず、《絵具を塗ることが一番楽しかったのは、やはり印象派の人々ではなかったかと思う。》としたあとに、こう続く。《キャンバスにはいちおう風景や人物というものが描かれてはいるけど、それはただ絵具を塗る快感のための手続きである。それを塗る快感の残した痕跡が、結果とし
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<![CDATA[ <a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J7O8QQ/outofthekitch-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://images-jp.amazon.com/images/G/09/icons/books/comingsoon_books.gif" alt="整理前の玩具箱 (1982年)" style="border: none;" /></a><br /><Div Align="right">大和書房</Div><br /><br />　尾辻克彦／赤瀬川原平の文章って何なんだろう。<br />　たとえば<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006021038/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">『芸術原論』<span style=font-size:x-small>（1988）</span></a>という本のなかで、印象派の絵について書かれた部分がある。まず、《絵具を塗ることが一番楽しかったのは、やはり印象派の人々ではなかったかと思う。》としたあとに、こう続く。<br /><Blockquote>《キャンバスにはいちおう風景や人物というものが描かれてはいるけど、それはただ絵具を塗る快感のための手続きである。それを塗る快感の残した痕跡が、結果として絵になっている。そう思えて仕方がない。だってそこに描かれているものは、何でもない風景ばかり。何でもない静物や人物ばかり。<br />　そのあとの「近現代」の絵画というのは、印象派と同じことはしていられないというわけで、テーマや工夫ばかりが開発されて、自意識が絵具の外に丸出しになってくる。思えば印象派の絵には、自我の蒸発という感覚さえ味わわされて爽快である。現代美術に魅力的な絵があるとすれば、それは必ず印象派の絵具と命脈がつながっているはずである。》<span style=font-size:x-small>pp72-3</span></Blockquote><br />　ひとつも難しい言葉を使っていないので、すらすら読めるが、すらすら読みながらおどろき、読み終えてまたおどろいて読み返す。どうしてこんなことを、ここまで簡素なふうに書けるのか。<br />　小説の場合も同じだ。<a href="http://outofthekitchen.blog47.fc2.com/blog-entry-190.html" target="_blank"><u>前にも書いた</u></a>のだけど、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407455/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">『父が消えた』<span style=font-size:x-small>（1981）</span></a>をはじめて読んだときは本当にびっくりした。<br /><Blockquote>《三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけれど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある。<br />　私はいままで、この三鷹駅からは東京「行き」の電車にばかり乗っていたのだ。だけど今日は三鷹駅から東京「発」の電車に乗って、八王子の墓地へ行ってくるのだ。電車はいつもの三鷹駅の固まった風景を、もう一枚めくるように動き出した。いつも見慣れていたつもりの風景が、どんどんめくられて通り過ぎて行く。珍しいことである。電車というのは反対に向かうとじつにどんどんと動くのだ。この電車が動くという感じが嬉しくなってくる。》</Blockquote><br />　日常的ではありながら、理屈をはみ出したところに生まれる不思議な感覚を、まったく日常的な言葉だけを使ってこんなにも的確にあらわせることに、つくづくおそれ入った。<br />　私が読んだなかでは、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J7HNHC/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">『国旗が垂れる』<span style=font-size:x-small>（1983）</span></a>収録作のいくつかでは、日常的な言葉で的確に書きあらわすことにより、非日常的な出来事と感覚まで文章として定着させてしまう、一種の逆流まで起きていたおぼえがある。<br />　そこまでいかなくても、小説で新人賞をもらった短篇<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407447/outofthekitchen/ref=nosim/" target="_blank">「肌ざわり」<span style=font-size:x-small>（1979）</span></a>にしてからが、（これはたしか本人ものちにどこかで自慢していたけれど）冒頭がこうだった。<br /><Blockquote>《本日は晴天である。カラリと晴れわたっている。》</Blockquote><br />　いや、いまのは例としてふさわしくなかったかもしれないが、すこしも飾らない言葉で、なんでも書きあらわすことができる、そんな気持にさせてくれる文章が尾辻／赤瀬川の書くものではあちこちに発見されるので、それを目当てに、私はこの人の本を年に1、2冊のペースで買ってきては、ちびちびとめくって面白がっている。<br /><br />　それでさっきまで読んでいた『整理前の玩具箱』は、時事についての文章を集めた本だった。おもに1970年代後半から80年代はじめに連載として書かれたものがまとめられているから、内容としては昔のことに決まっているが（王貞治が現役である）、「古い」感じはぜんぜんしない。<br />　毎回、書くことを決めてから書き始めるのではなく、まず書き始めてから、続きをどうしていくか考えつつ書き進めるやりかたなのは読んでいてよくわかる。なるほど題材が古くなってもこのスタイルじたいは古くならない、とは説明がつけられる。<br />　でも、それだけではない。こんなことは証明のしようがないけれども、私が30年前にこの本を読んだとして、そのときに感じるのと同じ面白さを、いまの私はこの文章に感じていると思う。<br /><Blockquote>《道路工事というのはいつもやたらと傲慢で派手なくせに、やめるときはいつも黙ってやめるんですね。予告もなしに、いつの間にかやめている。気がついたらもう普通の道路になっている。あれ？ という感じ。だけどもう自動車なんていうのは、あれ？ とも思わないで、当り前みたいなスピードでその道路を平気で走っている。そんなあなた、日露戦争なんて、昔の話ですよ、というような感じなのだ。それはそうだ。日露戦争なんて昔の話だ、と私も思う。だけど何か、こう、割り切れないものが残る。》<span style=font-size:x-small>p66</span></Blockquote><br />　ここで日露戦争をたとえに出してこれるのを何度でも「すごい」と言いたい。しかも、自分の受け取りかたを細かく振り返ると、「絶妙なたとえを出した」ことだけでなく、「ここに書いてもらったことではじめて、私はこのたとえが絶妙だと知った」のである。こういうことは、どうしてもメモしておきたい。<br /><br />　つぎは千代の富士が出てきたころの話で（繰り返すが30年前である）、この力士が《今ノシて来ている》という勢いが、見ただけでわかってしまう不思議について。<br /><Blockquote>《それは本人の表情だけでなくて、それを見る周りの反応の仕方にもあるのかもしれない。ウルフの勢いに、周りが感じ入っている。観衆の拍手のどこがどう違うのかわからないけど、その勢いがはっきりと観衆に反射していて、その反射して輝く観衆の勢いというものをまたウルフがはっきりと握りしめて、それがさらに自分の勢いとなって輝いている。それが口ではいえないけれど、とにかく見ていてわかってしまうのだ。おそば屋さんのテレビで見ている私にさえもその勢いというものが反射していて、その反射したものがテレビの中に返って行って、それをまたウルフが握りしめている。何だかそういう感じである。》<span style=font-size:x-small>pp40-1</span></Blockquote><br />《それが口ではいえないけれど、》と言いながら、こんなにも明晰に文章にできているじゃないか。そう思う。<br />　このような調子で、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3%E7%81%AB%E7%81%BD" target="_blank">ホテルの火災事故</a>について、日本の漁船が引き揚げて棄てた「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC" target="_blank">新しいネッシー</a>」について、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0" target="_blank">インベーダーゲーム</a>について、そのほか今ではちょっと見当がつかない時事風俗について、そして当時からしても10年前になる「横井庄一」が放っていた不吉な匂いについて、もろもろの考察が並べられており、文章のかたちで発揮されるこの人特有の観察眼を、丸1冊ぶん堪能できた。<br /><br />　ところで、古本で買ったこの本には、こんな栞が挟まっていた。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-44.fc2.com/o/u/t/outofthekitchen/CA390169.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-44.fc2.com/o/u/t/outofthekitchen/CA390169s.jpg" alt="vegetable" border="0" width="200" height="150" /></a><br /><br /><br />　この難解な写真とコピーを、尾辻／赤瀬川ならどのように読み取ってくれるだろう。そんなことを考えていた。 ]]>
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