(46)ホーソーン「七破風の屋敷」を読んでみる [14]
読むのに使っているのは『世界文学全集 25』(筑摩書房、1970)の大橋健三郎訳で、引用部分のなかにある太字や下線はわたしが足したもの
[前回…]
■ 鈴木清順の“浪漫三部作”4Kデジタル完全修復版が公開されると聞いたときに「ということは、遠からず出るのでは?」と思ったBlu-rayのボックスが、やっぱり来年4月に出るとさっき知った。
作品情報でキャスト&スタッフを見ると、「ツィゴイネルワイゼン」に「原作:内田百閒」とある。生半可な知識ながら、あれってこれまで(公然の事実なのに、なぜか)クレジットされていなかったんじゃなかったっけ。なにか事情が変わったのか。あるいはこれも別に“正式なクレジット”というわけじゃないのかしら。
■■ 「十四 フィービィの別れ」
章題にびっくりして読み始めると、最初の2ページに書いてあることにもっとびっくりする。
ホールグレーヴは、前章でざっとあらすじを説明した自作の物語をフィービィ相手に朗読していた。それは各登場人物になりきり、身ぶり手ぶりをまじえる熱演ぶりだった。孫のマシュー・モールがよこしまなねらいでアリスに催眠術をかけるところでは、マシューがしたであろう魔法の身ぶりと呪文をホールグレーヴもみずから演じた。すると彼の目の前にいるフィービィに催眠術がかかり、彼女は(決して朗読に退屈したためではなく)眠り込んでしまう――
本当にこんなことが書いてある。いま説明した出来事の、実際の書かれっぷりが相当におかしいので引用もする。
《若い作家には自然なことだが、力をこめ夢中になって自分の物語を朗読しつづけていたホールグレーヴは、それぞれの役の人物に、芝居としてもりっぱに発展させ、かつ模範とすることができるような所作をおびただしくつけ加えていた。いまや彼は、あるいちじるしい睡気が(それは、おそらく読者自身が感じていられるものとは、まったく違ったものだった)聴き手の女性の感覚を襲ったのを見てとった。疑いもなくそれは、催眠術を施している大工の姿をありありとフィービィにわからせようとして彼が行なった、あの神秘的な身ぶりのせいにほかならなかったのである。》p.186
《いまや彼は》じゃないよ。そういうことが起きるのはさも当然、というふりをした語り方である。なんだこれ。
不思議な心理状態にヴェールのように包まれたフィービィを見つめる彼の目には力がこもる。
《彼がほんのひと振りその手を動かし、それに応じて意志の力を働かせれば、まだ自由で純潔なフィービィの精神を完全に支配することができることは明らかだった。彼は、この善良な、純粋な、単純な小娘にたいして、彼の伝説物語のなかの大工が薄倖のアリスにたいして獲得し、みずからふるったあの力と同じように危険な、そしておそらくは同じように破滅的な力を確立することができるのだ。》p.186
ホールグレーヴは最後のあとひと押しでフィービィを自分の意のままに操ることだってできたのだが、しかし彼はそうしなかった、だからわれわれは、なんだかんだいってもこの銀板写真師が気高い性質の持主であったことを認めようではないか――と語り手はいう。
《ホールグレーヴのような、思索的であると同時に行動的でもあるといった気質の人間にとっては、人間精神にたいする絶対支配権を獲得する機会というものほど、大きな誘惑はない。また、若者にとっては、若い娘の運命の裁断者となるという考えほど、気をそそるものはない。》p.186
この前提で堂々と話す語り手のほうが危険じゃないだろうか。その誘惑に負けなかったことをもってホールグレーヴが《以後永遠に信頼するにたる高潔な心の持主であったことを認めようではないか。》とまでいわれては、むしろ語り手への信頼が下がる。そういう人だったの?みたいな。
で、知らぬ間に陥っていた危機から知らぬ間に脱していたフィービィは、催眠が解けると「あたしは眠ってなんかいません! そりゃ話の中味ははっきりおぼえていませんけど!!」(大意)とムキになる。
ホールグレーヴ、フィービィ、そして語り手が、三者三様に真面目な顔で道化になっているように見えて、この小説のここまででいちばんコント感があった。
■ いまの挿話からなにがわかるか。2点あると思う。
(1)ホールグレーヴはマシュー・モールのように卑劣なことはしない
これはさっきも書いたことで、あらためて、マシューは卑劣な真似をしたという事実の再確認でもあるだろう。
ただ、第十三章の書きぶりは「マシューがひどい」よりも「アリスは気の毒な運命をたどった」のほうに力点を置いていた印象がある。するとアリスに対してひどいのはマシューだけでなく、あの物語ぜんたいということになる…なるんだけど、作中のアリスが実在のアリスにどれくらい忠実だったのかは不明だ。
「実在したアリスの描き方があの物語はよろしくない」というのと「あの物語はアリスという登場人物の扱いがよろしくない」のとでは、ひどさの質がちがう気がするけどどうなんだろう。
(前者は「人格をもった実在のアリスに照らして、物語のアリスの描き方がよくない」と判断し、後者は「物語のなかに描かれたアリスを人格ある存在ととらえたうえで、その架空の人格に照らし、扱いがよくない」と判断している?? いや、そもそも“実在のアリス”が“「七破風」という小説のなかで過去に実在したとされる人物”のことなんだから、さっきの2通りの分け方はまやかしだった???)
(2)ホールグレーヴは催眠術がうまい
第十二章でホールグレーヴが「最近は催眠術に凝っていて、フィービィの目の前で雄鶏を眠らせてみせたこともある」とあったのにわたしは笑ったが、あれは冗談ではなく、もっと大きな冗談めいた今回の場面への伏線だったようだ。
物語を朗読しながら身ぶり手ぶりを付け加えると、その物語内で働いていた催眠術を物語の外にいるフィービィにかけてしまえるんだから、あの物語は催眠術のマニュアルとして使えるということにも、上手に実践できたホールグレーヴには才能があるということにもなりそうである。
だけど、あの物語じたいが(催眠術の秘伝書なんかではなく)ホールグレーヴが自分で書いたものだという設定を思い返すと、あれはいっそうおかしな場面になると思う。
催眠術に精通したホールグレーヴが、マシューがアリスに術をかけるときに必要とされる動作や呪文をみずからの知識と経験に照らして書き込んだ → そこを朗読するとき、自分で書いた通りの所作にたくさんの追加もしながら演じる(=術をかける) → 実際に術がかかる
なんだこれは。
ホールグレーヴは催眠術のかけ方を文章に変えて物語のなかに封じ込めた。それを朗読する際に自分の身ぶりで解凍し、効力を解き放った、ともいえそうである。
仮にホールグレーヴがフィービィに催眠術をかけたかったのなら、彼は物語をあいだに挟まず直接その力をふるってしまえばそれで済んだ。そうしなかったのはもちろん、この場での彼の目的が彼女に催眠術をかけることではなく、自作の物語を聞いてもらいたかった・それを通してピンチョン家にまつわる伝説をつたえたかった、ということだったからだが、だったらなぜここで術をかけたんだ。
朗読に熱中しすぎて、その気はなかったのについうっかり、催眠術を実践してしまった? そんなまぬけなことがあるだろうか、と今回最初にした引用(この章の始まり)をもういちど読んでみると、
《若い作家には自然なことだが、力をこめ夢中になって自分の物語を朗読しつづけていたホールグレーヴは、それぞれの役の人物に、芝居としてもりっぱに発展させ、かつ模範とすることができるような所作をおびただしくつけ加えていた。いまや彼は、あるいちじるしい睡気が(それは、おそらく読者自身が感じていられるものとは、まったく違ったものだった)聴き手の女性の感覚を襲ったのを見てとった。疑いもなくそれは、催眠術を施している大工の姿をありありとフィービィにわからせようとして彼が行なった、あの神秘的な身ぶりのせいにほかならなかったのである。》p.186
たしかに「そんなまぬけなこと」が起きたのだった。しかしなんのために? いまわたしは、黒々と口を開けた大きな穴をのぞき込んでいる気持だ。底が見えない。
■ 朗読のあともフィービィはホールグレーヴとしばらく会話を続け、そこで章題「フィービィの別れ」が説明される。
第四章での唐突な訪問から数週間、フィービィはいまやこの屋敷が自分の家だと感じるようになった。だからいったん田舎の実家に戻り、片付けをして、母や友達にちゃんと挨拶を済ませてくるためにほんのちょっとのあいだだけここを離れるというのだ。
けれども、お別れはあくまで一時的で、すぐまた戻ってくると強調されるのがかえって不吉である。こう書かれているからには、ふつうに考えて、彼女は不測の事態によりなかなか戻ってこないか、あるいは二度と戻ってこない、そうでなかったら別離のあいだに屋敷でなにか取りかえしのつかない事態が出来することにたぶんなるんだろうと思う。
ということは今回が最後の重要な出番になるのかもしれないフィービィは、ホールグレーヴがピンチョン家の人びとと交際する動機が善意なのか悪意なのかわからない、と不満を述べる。ここから、第十二章にもあった、ふたりがクリフォード&ヘプジバー兄妹に抱く感情のちがいを際立てる対話になっていく。
ホールグレーヴは自分の関心を説明する。ぼくはあの兄妹を観察し分析することで、この土地で二百年近くも続いてきた劇を理解し、その結末を目撃したいのです――
《「[…] それがどんな成りゆきになろうとも、ぼくはそれから道徳的な意味での満足を得ることでしょう。ぼくには、その結末が近づいているという確信があります。」》p.191
これは不思議だし、不遜でもある発言で、彼はいったいどんな立場からピンチョン家を見ているのだろう。
第十二章のとき、わたしはこの野心的な銀板写真師が、彼じしんもその一員であるはずの世界からなぜかひとりだけ半歩抜け出しているかのようなポジションに自分を置いて、世界を「読者の目で」見ているっぽい態度を示す(だから物事をなにかの象徴だと意味づけがちになる)のに危うい感じがしていたのだけど、いま直接に付き合っている家庭にまつわる問題を「劇として受けとっています」と平気で述べる彼にフィービィは、わたしよりずっときびしいことをいう。
《「あなたは、この古いおうちをまるで芝居の舞台かなんぞみたいにおっしゃるし、ヘプジバーとクリフォードの不幸や、お二人の先祖の人たちの不幸を、ちょうどあたしが田舎の宿屋の広間で見たような、悲劇かなんぞのように考えていらっしゃるらしいのね。ただ、いまのこの悲劇は、あなたおひとりだけが楽しむために演じられているみたいだけど! そんなの、あたしはいやよ。このお芝居には、役者たちの犠牲が多すぎますもの――そして観客の心があんまり冷たすぎますもの!」》p.191
そのあと彼女が「結末が近づいている」とはどういう意味か尋ねても返事は曖昧で、ぼくには催眠術の才能だけでなく《ちょっと神秘家的なところ》もある、その自分にはどうもそんな気がする――くらいのことらしい。予知でもできるということか。要領をえないが、ヒントめかして《ピンチョン判事が、みずから大いに手を貸して破滅させたクリフォードにまだ目をつけているのがよくわかる》とも彼はいう。
これが本当なら、クリフォードが30年も監獄に入れられることになった“おじ殺し”にはピンチョン判事の策略があったということになる。そしてそれは読者のわたしがすこし前から予想していた通りだ。
■ 事件の真相はもちろん気になる。気にならないはずがない。でもこういう小説の読み方と感想の書き方をしていると、真相のほのめかしなんかより、さっき引用したフィービィの言葉のほうがずっとクリティカルに響く。
クリフォードはまわりにいる人びとを――生身の体と心をもっている人間たちを――劇の登場人物のようにしか見ていない、そんなのってひどい、とフィービィはいっている。
あなたは自分が芝居の観客になったつもりなんですか? という彼女の非難は、あなたは自分が小説の読者にでもなったつもりなんですか? といいかえても同じだろう。
するとフィービィがホールグレーヴに向けた言葉は、いま「七破風」を読んでいる読者にも向かうものになる。読者のわたしはたしかに彼女たちを登場人物としてこの小説を読んでいるのだから。
そしてまた、ホールグレーヴが彼女の一族を題材にした伝奇物語の作者でもある点で、つまり過去のピンチョン家の面々を登場人物として扱っている点で、フィービィの言葉は「七破風」の語り手を飛び越し、作者に向かうものにもなる。作者こそが彼女たちを登場人物にしてこの小説を書いているのだから。
ホールグレーヴにムカついたフィービィが正面からぶつけた非難を彼の多面性が分光させ、読者と作者の両方を的にしてしまう。ホールグレーヴという男が《ちょっと神秘家的なところ》をもっているとしたら、はっきりしない予知能力よりも、まずここにあると思う。
■ フィービィがなにをいおうと、彼女が小説の登場人物なのは動かしようがない。作者が語り手を通して虚構の存在に割りふった台詞が、カギカッコをつけてページの上に印刷されているだけである。それなのに、というかそれだからこそさっきの発言は、「自分たちを登場人物扱いするな」と、「クリフォードやヘプジバーをはじめ、私のまわりで七転八倒している者たちだって、あなたと同じ人間なんですよ」と、登場人物が読者と作者に向かって声を上げる場面になっている。
これは変だ。小説のなかで、小説のなかから、こんな主張をおこなう登場人物を小説の枠に収めて話を続けるのは、相当やりにくいのじゃないだろうか。そんな“分をわきまえない”ふるまいを登場人物にさせたところが、もしくは登場人物が作者の意図を離れてそんなふるまいに及んだように見えるところが読者のわたしには面白いのだけれども。
2日後にフィービィは屋敷を去る。ヘプジバーは気丈にふるまいながらも心細く思っているのは明らかだし、クリフォードは悲嘆にくれている。ヴェナーおじさんまで出てきて「早く帰ってきておくんなさいよ」と懇願していた。
彼女がいったん・ちょっとだけ実家に帰る事情と、それに反していかにも起こりそうな展開は先に書いた通りだ。でもどうだろう、ここまでのように考えてくると、テキパキ働く心やさしい娘として登場した彼女は、「自分たちは登場人物ではない」とみずからの立場を否定する、もしくは立場を越えかねないほどに成長してしまったわけである。
前章の作中作ではマシューの術によりアリスがこの世とあの世の閾をまたぎ越えるほか、その作中作に本篇の語り手が口を挟むという割り込みもあった。そのつながりでいえば、この章の冒頭でホールグレーヴが催眠術を作中作から本篇に取り出してみせたのも一種の越境行為に見える。
それらの踏み越えがどれも小説のなかで起こっているのに対して、フィービィの言葉は小説の外に向かおうとするものである。
フィービィの説教をきっかけにホールグレーヴが反省して態度をあらためるかどうかはわからないが、そうする可能性はある。しかし、なにをいわれても彼女を登場人物として読む読者のままであるしかないわたしは、彼女が「七破風」の表舞台から退場することになったのは「成長しすぎた」せいじゃないかと思う。
《「ああ、フィービィ!」と、ヘプジバーは言った、「いまのあんたは、はじめてここへやってきたときほどすなおにほほえまなくなったのね! あのときは、あんたのほほえみは自然に明るく輝きだしたものだったのに――いまではあんたのほうから輝かせようとしている。ちょっとのあいだ故郷の空気を吸いに帰るのは、いいことだよ! あんたの心には、あまりにもどっさり重荷がかかってたんだものね。[…] 」》p.194(続く)