2020/09/16

内田百閒『鶴』(1935)

旺文社文庫(1981)

 ごく短い「鶴」を最初に置いたこの本は、次にそれよりは長い「長春香」が続き、そのあとタイトルのついた文章が34篇収められているのだけど、読み進め、また読み返しているうちに、ぜんぶの文章のあり方が「鶴」「長春香」で示されていたように思えてきた。そのことを書く。

 3ページしかない「鶴」は、随筆のように始まる小説である(ちくま文庫の百閒集成では『冥途』の巻に入っている)。
 ぜんたいは、「私」が晴れた日に無人の庭園で鶴に追いかけられる話、ということになるのだが、まともにこっちの顔を見てくる鶴に迫られることと、何かを思い出すことが、なぜか、しかし当然のように重なって「私」を脅かす。
《私は近づいて来る鶴に背を向けて、なるべく構はない風を装[よそほ]ひつつ、とつとと先へ歩き出した。
 急にいろいろの事を思ひ出すやうな、せかせかした気持がして、ひとりでに足が早くなつた。その中には、既に忘れてしまつた筈[はず]の、二度と再び思ひ出してはいけない事までも、ちらちら浮かび出して来さうであつた。小さな包みを袂[たもと]から出して、渡し舟の舷[ふなべり]にそつと手を下ろし、川波がきらきらと輝やいて、その中にむくれ上がつた様な大きな浪[なみ]が一つ、舟の腹に打ち寄せて来た。何年経つても、起[た]ち上がつた拍子に、或は坐[すわ]つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。鶴の足音が聞こえて来た。そんな筈はない。その時もう私は馳け出してゐて、芝生の草の根に足をすくはれ、向脛[むかうずね]をついて、前にのめつた頭の上を、さはさはと云ふ羽根の擦[す]れる荒荒しい音がして、鶴が飛んだ。》pp9-10 *以下、すべての下線・太字は引用者

 下線を引いた《何年経つても、起ち上がつた拍子に、或は坐つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。》は何のことを言っているのか。これがよくわからない。

(1)鶴に追われる「私」がここで思い出しそうになっている(同時に思い出してはいけないとなぜか事前に判断を下している)事柄は、それまでにも何度となく、ひょんな拍子にありありと思い浮かんできたことだったのだ

と書かれているのか、それとも、

(2)鶴がきっかけで何かを思い出しそうになった「私」の舟に大きな浪が打ち寄せて来たという体験が、時を隔てた今、そのことを書いている「私」の頭に何年経っても思い浮かぶのである

と書かれているのか。
 つまり、《何年経つても、起ち上がつた拍子に、或は坐つた途端に、ありありと思ひ浮かぶのである。》という一文が、(1)鶴に追われる出来事の中にあるのか、(2)外にあるのか、何度読んでもどちらなのか位置が定まらない、というふうにわたしは読んでいる。
(おそらく、この一文を、引用した部分の最初のほうにある《急にいろいろの事を思ひ出すやうな、せかせかした気持がして、ひとりでに足が早くなつた。》に引きつけて読めば(1)のように見え、後ろのほうの《そんな筈はない。その時もう私は馳け出してゐて、芝生の草の根に足をすくはれ、》に引きつけて読めば(2)のように見えるのだろう。でも、ずっと考えていると逆であるような気もしてくる)

 しかし、わたしは思うのだけど、思い出すという行為には、というか、思い出したことを書くという行為には、こういった、どの時点のことなのか不明な部分がしょっちゅう、取り除きようもなく、紛れ込んでくるのじゃないだろうか。
 
 過去にあったことを思い出して、文章にしたためる。思い出される内容は過去にあったことで、思い出すという行為は、書いている時点でおこなっていることである。
(この「書いている時点」を「現在・いま」とする。その文章をわたしが読んでいる時点もそれと同じ「現在・いま」である。わたしが読むたびに、文章はその都度書かれている。そう考える)
 もう一回。
 過去にあったことを思い出して、文章にしたためる。思い出される内容は過去にあったことで、思い出した内容を書くという行為は現在おこなっていることである。
 それはそうだ。そのはずだ。それはそのはずなんだけれども、思い出した内容にかたちを与える言葉・文章というものは、過去と現在をそれほど画然とは区別できない。加えて、思い出される過去は繊細な小動物みたいなもので、それを書きたい者の手で隅っこから引っぱり出そうと触れられた途端に固くなったり熱くなったり、もとの格好のままではいない。
 それで思い出を文章にすると、その文章には過去と現在が含まれてしまう。「含まれてしまう」などと書くと大仰だが、「過去」にあったことを「いま」思い出すという単純な物言いのなかにもふたつの時間が入っている。過去の出来事は、思い出されたことによって微妙に変わっている。
 とはいえ、そこを無視することだってできる。年表のように、思い出した過去の事柄だけを動かない事実として並べていくことで、過去は過去として、現在とは切れたむかしのこととして書くこともできるし、そのように読むこともできる。「こともできる」というか、たいていの回想はそういうものとして通用する。そんな書き方と読み方が便利なことも、そんな書き方と読み方が必要とされることもあるのはわかる。
 だけどそうしない人もいる。過去のことをいま思い出しながら、思い出したことを文章にしながら、その「思い出す」というおこないについても文章にする。思い出そうとする働きかけが思い出される内容を変えてしまうことにも触れて書き足す。さらには、思い出された内容によって、思い出している現在の自分のほうが影響を受け変わってしまう、そのいきさつじたいも書き加える。そんな人もいる。
 さきほど「鶴」から引用した部分の最後、《鶴が飛んだ。》のあとはこう続く。
《長い脚がすれすれになる位に低く、茶畑の上を掠[かす]めて、向うの土手の腹にとまり、そこから羽ばたききしながら土手の上まで馳け上がつて、れいれいと鳴き立てた。
 その声が、後樂園を取り巻く土手の藪にこだまして、彼方[あちら]からも、こちらからも、れいれいと云ふ声が返つて来た。
 私は身ぶるひして起き上がり、裾[すそ]の砂を拂[はら]ひもせずに、辺[あた]りを見通すと、池はふくらみ、森は霞んで、土手の上の鶴の丹頂は燃え立つばかりに赤く、白い羽根に光りがさして、起つてゐる土手のうねりが、大浪の様に思はれ出した。》p10

 ここで《身ぶるひ》している「私」は、思い出された過去の中の「私」なのか、思い出している(そして書いている)現在の「私」なのか。そこは区別できるんだろうか。そもそもこれは、思い出された過去の出来事なのか、思い出された過去の出来事として創作されたことなのか。そこは区別できるんだろうか。
 これは創作だし、回想を装っているふうでも創作であるのだし、その創作の中で語り手兼作中人物の「私」が《身ぶるひ》しているだけなのだと、そう言い切ろうとしても、その「私」が何かを思い出しそうになっているという一点で、書いている現在の「私」とのつながりができてしまう。そのつながりは明確でないだけに断ち切るのがむずかしい。それで作中の「私」の動揺は、書いている「私」にまで波及して、書かれる「私」のまわり全体がぐらつき始める。
《柄[え]の長い竹箒[たけばうき]を持つた男が、私の後に起つてゐると思つたら、矢つ張り鶴であつた。爪立[つまだ]てするやうな恰好[かつかう]をして、いつまでも私の顔をぢつと見つめた。
 足もとの草の葉も、池に浮かんだ中の島の松の枝も、向うの森の楓[かへで]の幹も、みなぎらぎらと光り出した。川波に日が射して、眩[まぶ]しい中に一ところ気にかかる物がある。川下の橋から傳[つた]はる得態[えたい]の知れない響きが、轟轟[がうがう]と川の水をゆすぶつてゐる。》p10

「私」が《身ぶるひ》していることだけは確かで、「私」が《身ぶるひ》していることがすべてだと思う。百閒の書くものが小説と随筆のはっきりしないあいだに立っているように、ここでの「私」は、書かれている時点と書いている時点との、はっきりしないあいだに立っている。文章の流れが、自然と「私」をそんな境目の見えない境目に運んでしまう。

 わたしは、この短篇で「私」を不安にさせて急に飛び立つ鶴が、不随意によみがえって「私」を脅かしながら眩惑する記憶なるものの象徴であるだとか、「片付けすぎ」なことは言わないようにしよう(だってわたしはそんなふうには読んでいないのだから)というつもりでここまでを書いてきたのだったが、読み返すと、なんだかいかにもそんなことを言おうとしている感じの文章になっているようで心配である。そう見えるなら、わたしはそう読んだのかもしれない。
 だとするとちょっと残念だが、言いたかったのはこういうことだった――『鶴』は回想の本で、その回想が独特で面白い。22字で済んだ。以下は引用。


「漱石先生臨終記」は、青年時代から「先生」と崇めた漱石との付き合いをあれこれ綴ったものである。家を訪問できる関係になってからのいつだったか、漱石が何かの病気で寝込んでいると聞いた百閒はお見舞いに行ったが、そんなに会話が弾むわけでもないので困ってしまう。
《私の方でつまらないから、もう帰らうと思ふと、今度は、先生が黙つて寝てゐるから、その潮時がないのである。やつと機会を見つけて、「失礼します」と云つて起ちかけた時、ふとさつき門の前で、子供が鬼ごつこをしてゐたのを思ひ出した。私は東京の子供の遊び言葉をよく知らなかつたので、不思議な気がしたから、先生に聞いて見た。
「大勢電信柱につかまつて、がやがや云つていましたが、何と云つて遊ぶのですか」
「いつさん、ぱらりこ、残り鬼と云ふのだよ」と先生が枕の上で節をつけて云つた。
 もう一度「失礼します」と云つて、病室を出てから、廊下を歩きながら、私は口のうちで、繰り返した。病床に寝て、独りで天井を眺めてゐる先生も、さつきの口癖で、又いつさんぱらりこ残り鬼と云つてゐる様な気がした。》pp109-10

 こういった何気ない心の動きを「おぼえている」、そしていま「書くべきものとして書いている」ことに半分感心して、半分は呆れてしまう。よくそんなことをおぼえていた/書いた。
「湖南の扇」は、友人だった芥川龍之介の最期の数日を回想したもの。1927(昭和2)年7月24日、百閒は出版社の人間から知らせを受けた。電話機の向こうの声が並べられる。
《「芥川さんがお亡くなりになりましたが」
 私は、どんな返事をしたか、ちつとも覚えてゐない。
「まだ御存じないと思ひまして」
「自殺なすつたのです」
「麻薬を澤山[たくさん]召し上がつて」
「左様なら」》p115

 こんな大変なときに、大変なときだからこそ、自分の返事をおぼえていない。いかにもそういうことはありそうだ。それでいて、「左様なら」をおぼえている。なるほどそういうこともあるだろう、そんな気がする。そしていま、ここに「左様なら」を書く。なんでだ。
「左様なら」のせいでこのやりとりの生々しさは3倍増しくらいになるが、そういう効果を狙って書き足したのではないだろうことは、この数行だけでも明らかである。百閒は、そうおぼえているから、そう書いた。
《芥川の家に行つて、奥さんに一言お悔[くや]みを述べた様な気がするが、はつきりした記憶ではない。目のくらむ様な空を眺めながら、ふらり、ふらりと坂道を降りて来た。往来に一ぱい自動車が列んでゐて、道が狭いから、うまく歩けない。道傍[みちばた]のお神さんが、「七十台来てゐるよ」と云つた声だけ、はつきり耳に這入[はひ]つて、「それは大変だなあ」と私は腹の中で感心した。》p115

 べつに百閒でなくても、おそらくだれにとっても、記憶はこういういいかげんな働き方をしているのじゃないだろうか。大事な出来事が大ごとすぎて扱いかねるせいなのか、頭のなかに定着しないことがあり、それでいて意識は敏感になっているせいなのか、些事ばかりこびりつくことがある。
 しかしそれらを振り返って書くときに、内容の大小を問わない記憶の定着具合を、大小を問わないまま書くのは、おそらくだれにでもできることではない。小さいことを忘れずに書いているからすごいのではなくて、大小に関係しない記憶のあり方が、個人の頭の中ではなく、だれにでも読める文章のかたちで保存されていることにおどろくのだ。それで、そのような文章を読むのは、他人の記憶のあり方をそのままなぞることになる。
 巻末解説によると「湖南の扇」は1934(昭和9)年の発表で、芥川の自殺から7年が経っている。そしてこう終わる。
《芥川は、煙草に火を點[つ]ける時、指に挟んだ燐寸[マツチ]の函[はこ]を、二三度振つて音をさせる癖があつた。
 芥川の死後、ふと気がついて見ると、私はいつでも煙草をつける時、燐寸を振つてゐた。以前にそんな癖はなかつたのである。又、芥川の真似をした覚えもない。
 亡友を忍ぶよすがとして、私はこの癖を続けようと、気がついた時に更[あらた]めて決心した。
 矢張り歳月は感傷を癒[い]やすもので、今、この稿を草しながら考へて見ても、私は燐寸の函を振つたりなんかしてゐない。いつ頃から止めたか、そんなことも勿論解らない。
 これで筆を擱[お]いて、何年振りかに、燐寸を振つて、煙草に火をつけて、一服しようと思ふ。》p116

 記憶にも層がある。だがその層はでたらめだ。過去の自分が何かを思い、それを忘れてから、忘れていた、と思い出す。順番に重ねられたままではなく、いつのまにか抜け落ちたり入れ替わったりしている思い出の地層の、この時点でのありようを百閒はこうしてひとまず書き留めた。最後のこの部分がさり気なくも大切な註釈に感じられるのは、これを書き上げて一服したあとも芥川の思い出は変化していくだろうことを百閒はわかっていると、読んでいるこちらにもわかるからだと思う。

「蓄音器」では、芥川とも百閒とも知り合いだった「黒須さん」が出てくる。百閒は漱石の没後、夏目家から蓄音器をもらい受けて夢中になる。その時期に訪ねてきた黒須さんに、午後いっぱい、ひたすら蓄音器のねじを巻いて曲を聞かせた。それから百閒は生活が苦しくなり、蓄音器もやむをえず質屋に入れたが、必死で利子を払い続け、5年くらいかかってやっと取り戻すことができた。
《座敷の真中に置いて撫で廻した。
 撚[ね]ぢを捲[ま]いて、蓋を開けて見ると、昔に変らぬ調子のいい囘転の、微[かす]かな音が聞こえてくる。それで手近の盤を一枚のせて見た。聞き慣れた旋律が、何年振りかに耳の底に甦[よみがへ]つた途端に、不意に涙があふれ落ちて、しまひには蓄音器の上に顔を伏せたまま、声を立てて泣き出した。》p138

 ふたたび黒須さんと対面したとき、かつての午後のことを話題に出しても、今度は話だけである。
《うつかり昔を思ひ出す様な事をして、眠つてゐる記憶をゆすぶると、そいつが目を覚ます拍子に、思ひ掛けない涙を押し出す事があるらしいから、黒須さんと昔の話はしても、蓄音器には手を触れないのである。》p138

 記憶が現在の自分に及ぼしかねない威力をこれくらい用心している人である百閒は、ひと一倍記憶にこだわる人でもあり、『鶴』のうしろ三分の一には、幼少期から十代後半まで、岡山で暮らした時代の思い出話がこれでもかというくらい詰め込まれている。それが「烏城追思」「郷夢散録」で、わざわざ地元岡山の新聞に発表していったという。
 尋常小学校の幼稚園に通うようになった最初の年、
《みんなと一緒に手をつないで、
   ひいらいた開いた
   蓮[はす]の花が開いた
と歌ひながら、段段後退[あとずさ]りして、輪を大きくしながら、
   れんげの花がひいらいた
と云ふところで、一ぱいに拡がり、
   開いたと思うたら、
   見る間にすうぼんだ
と云ふ時、急いで前に走つて輪をすぼめて、真中で先生の袴[はかま]に、どしんと頭をぶつけた。四十何年、風にさらした額の奥に、その時の温もりが、微かに残つてゐる様な気がする。》pp171-2

 これぐらいなら微笑ましいが、次第に「よくそんなことをおぼえているよな」という、おぼえている内容に対する感心と呆れよりも、「それをこんなふうに思い出して書こうとしている」という、思い出し方に対して、どうなっているんだという気持が大きくなってくる。
 小学校への通学路を思い出し、学校にあった講堂についても思い出すところ。
《溝を渡ると、右側は晒布[さらし]屋である。中島の磧[かはら]に乾した晒布が、日向[ひなた]に映えてゐた景色は、子供の時のおぼろげな記憶の中の、白い色の大部分を占めてゐる様である。
 晒布屋の前は荒壁の土塀で、それについて曲がる所は四つ角である。ついて左に曲がれば学校に行く道である。右に行くと向うは土手で、袋路になつてゐる。その中に、子供の時のなつかしい人がゐた事だけは思ひ出すけれども、辺りの景色計[ばか]り覚えてゐて、肝心の人の顔が解らない。口髭の生えた人のやうな気もするが、それも曖昧である。》p177

《その講堂の真正面に掛かつてゐた大きな額の字が、はつきり目の底に残つてゐる様な気がする癖に、思ひ出せない。邪魔をする薄い膜の様な物を拂[はら]ひのけようとしても、どうしても取れないのである。》p181

 通学路を書きながら、というか書くことでもって、頭の中に存在している道筋をたどり、しかし一部の記憶エラーのせいで行き止まりになっているかのような書きぶりや、記憶の中にはたしかに掛かっている額に脳内で目を凝らせば、じゃまな幕を払いのけてもっとよく見ることができるとでも言いたげな思い出し方。そんな思い出し方はふつうできないだろうに、「できない」ことを真面目に悔しがっている。
 ささやかなうえにもささやかな思い出の回想でありながら、正確さを求めるアプローチが妙なものに見えてくるこんな文章を読んでいて連想したのは、リディア・デイヴィス『話の終わり』(1995)である。こちらは語り手の「私」が、別れた男のことやその男にまつわる大小さまざまな事柄をえんえん回想し続ける小説ということになっているが、思い出し方という点で百閒の随筆と区別のないところがあちこちにある。
《彼の体に腕をまわすと、指先や腕の皮膚にまず触れるのは彼の着ている服の生地だった。腕に力をこめるとはじめて、その下にある筋肉や骨が感じられた。彼の腕に触れるとき、実際に触っているのは木綿のシャツの袖だったし、脚に触れれば、触っているのはすりきれたデニムの生地だった。》p48

《彼の車の中がどんなふうだったか、このあいだから思い出そうとしている。何か赤いものが見えるが、それが彼のチェックのシャツなのか、車にいつも置いてあった毛布なのか、それとも座席の色なのか、はっきりしない。古びた車に特有の、ひからびた座席の革や中の詰め物のむっとカビ臭いにおいがしたこと、そしてそれに重なるようにすがすがしい洗濯物のにおいがしていたのは覚えている。》p85
(岸本佐知子訳)

 あくまでささやかなまま常軌を逸していく両者の思い出し方は、どちらもそれぞれ思い出したい内容への執着の強さがなせる技だろうし、そしてまた、「触覚」や「見たこと」に負けず劣らず「におい」が重要になってくるのは百閒のほうも同じだった(というか、これはだれにとってもそうかもしれない)。
[…] 今でもワニスの臭[にほ]ひがすると、不意に小学校の時の事を思ひ出す。
 にほひは追憶囘想の媒介となつて、ワニスの他に、私は赤皮のにほひを嗅ぐと、忽[たちま]ち小学校一年生新入の折の事を思ひ出す。それは初めて掛けて行つた、新らしい鞄のにほひなのである。しかし、そのにほひから、次にどう云ふ事件を追想すると云ふ様な、はつきりした気持ではなく、何だかさう云ふにほひを嗅いだ途端に、もやもやした当時の雰囲気を身辺に感ずるのである。だから思ひ出としては、一層直截[ちよくせつ]な姿を再現する事にもなるのである。》p179

「アプローチが妙」「思い出し方がどうかしている」と書いてきた。リディア・デイヴィスにしろ百閒にしろ、そうやって書かれた個人的な上にも個人的な記憶を、国籍や時代の違うわたしが読むということは、そんな「妙」で「どうかした」努力でもってつかみ出された極私的な塊りをこちらに手渡されるということであり、本人にとって貴重なのはまちがいないにしろ、それを自己紹介もしていなければ知り合いでもないこちらに向かってこんなに無造作に譲渡してしまっていいのだろうかと、心配する気持まで生まれてくる。他人の回想を読むのがスリリングなのは、いつのまにか人の思い出し方を追体験しているということのほかに、この「わたしなんかがこんなものを受け取っていいんだろうか」という心配のためではないかと思う。

 ところで、「よくそんなことまでおぼえているよな」「それをよくこんなに思い出したものだな」というこちらの感想は、頭の中におぼえていることを文章として外に出す、という構図が前提になっている。それは自分の実感としてもそうなのだが、「思い出す」と「それを書く」のあいだの、重なっているようで開いている、開いているようで重なっている関係をどう考えればいいだろう。
「烏城追思」の一節を引用する。家から中学校へ通うのに渡し舟で川を渡っていた百閒は、よく渡守[わたしもり]の爺さんに頼んで[ろ]を漕がせてもらっていた。ある朝、雨上がりで川が危険なほど増水しかけているのに「自分が漕ぐから」と無理を言って舟を出させた。そこに中学の先生も乗ってくる。
《荒手の波止は水をかぶつて、いつもの半分も水面に現はれてゐなかつた。それでもその内側には川波もなく、河心の荒れてゐる様子に比べて却[かへ]つて無気味な程静かな水が、ふくらんでゐた。土橋川は大川の水勢に押されて、逆流してゐるらしく、荒手の藪陰の暗い水面を、嵩高[かさだか]く浮いた枯木の根のやうなものが、ひたした影と共に静かに上手[かみて]に溯[さかのぼ]つて行くのが、ありありと見えた
 私は出来るだけ艪を押さへて、舳先[へさき]を殆[ほとん]ど河流に溯航[さくかう]する様に向けた。さうして、滑らかな水面を波止のすぐ下手[しもて]まで漕ぎ上つた。波止の背を越える水勢は、鬣[たてがみ]の様にささくれ立つて、繁吹[しぶ]きを飛ばしてゐる。私は少しづつ艪を引きながら、舟を縦に向けたまま、波止の外れの激流に乗り入れた。水の面が、波止から向うは、中高になつてゐるのが、はつきりと解る様に思はれた。舟の底を板で打つ様な音がして、黄色い波が砕けた。人の頭ぐらゐある大きな泡が、中流を筋になつて流れてゐる。その泡が舟底や舷[ふなべり]で潰れると、生生[なまなま]しい砂泥の臭[にほ]ひが、ぷんぷんにほつて来た。
 中流の波の高さは二三尺もあつた様な気がした。舟は波に揉まれ、流れに押されて、段段下つて行く内に、少しづつ私の手心で向う岸に近づいてゐる。私の少年時代の得意は、その瞬間を絶頂とする様である。青木先生は向うを向いて、ぢつとして居られた。》p169

 この見事な回想を、見事な回想(よくおぼえていて、よく思い出したよな)と言って済ませていいのだろうか。
 目で見た水面のふくらみ、鼻で嗅いだ砂泥のにおい、艪から伝わる水の抵抗などなど、そういった材料はもちろん頭の中にあったにしても、それらを「思い出しながら書いている」というだけではこの文章はおさまらず、「書きながら、書くことで思い出している」と付け足してもまだ足りない気がする。
 ここでなされているのが、思い出の、言葉による再構成であるのはまちがいない。構成という言い方をしたのは、百閒にとってこういうことを書くのは、自分の記憶を言葉で文章に仕立て直す作業だっただろうと想像するからなのだが、しかし「思い出す」と「それを書く」はそのままイコールではないはずだ。

 人は過去を言葉でおぼえているわけではない。材料となる思い出は書く前からずっと頭の中にあったにしても、言葉・文章としてしまっていたわけではないのだから、思い出が言葉になるのは、それを書いているときがはじめてだろう。
 言葉でなかったものを、言葉にする。思い出の再構成は、思い出をその場で、その都度、作り出すことではないか。
 だれにでも、いろんな記憶がある。それらの記憶は頭の中にあるかぎり、だんだん薄れていったりほかの記憶と混ざったりするにしても、「過去にあったこと」なのは変わらない。でも文章にされた記憶は、書かれた時点で(「過去にあったこと」として)あたらしく生まれている。
「過去にあったこと」を文章にするのは、あたらしい記憶の創作になる。そう考えると、回想と創作はほとんど重なってくる。先ほど少年百閒の舟が渡っていたのは、そんな回想と創作が合流して流れる川なのじゃないかと思う。
《土橋川は大川の水勢に押されて、逆流してゐるらしく、荒手の藪陰の暗い水面を、嵩高く浮いた枯木の根のやうなものが、ひたした影と共に静かに上手に溯つて行くのが、ありありと見えた。》

 そして、思い出を材料にして書くことが思い出を作ることであるいっぽう、そうやって作られたあたらしい思い出に合わせて、頭の中にあったはずの、もとの思い出も変わっていくだろう。書くことは双方向に作用する。
《中流の波の高さは二三尺もあつた様な気がした。舟は波に揉まれ、流れに押されて、段段下つて行く内に、少しづつ私の手心で向う岸に近づいてゐる。》

 思い出を書くことによって思い出が変われば、それを思い出すいまの自分も変わる。漱石の思い出を書くことがいまの百閒を支え、芥川の思い出を書くことがいまの百閒のふるまいに影響を及ぼす。漱石や芥川の思い出を書くことは、漱石や芥川の思い出を作り直し、作り変えることであり、そうやって思い出を作り直し、作り変えるのが、いまの自分を作り直し、作り変えることになる。
 つまりは、「過去にあったこと」と現在の自分との関係を、作り直し作り変えることが、思い出を文章にすることだと思う。

 そんな回想の文章の集大成として、この『鶴』冒頭2篇めの「長春香」がある。集大成というと言葉が大き過ぎるが、この小さな文章は、「長野初」という若い女性、《稍[やや]小柄の、色の白い、目の澄んだ美人》の思い出を書いたものである。
 三十代のはじめ、独逸語の教師としていくつかの学校をかけもちしていた百閒は、知人からの紹介でこの長野の個人教授をすることになった。自宅に日参させてスパルタ式の授業をおこない、長野もまたそれによく応えてどんどん進歩する。そんな思い出の合間に、いちど子供を亡くし離婚も経験していた彼女から聞いた、彼女のほうの思い出も混ざっていく。
《その話の中に、臺灣[たいわん]の岸を船が離れて、煙がなびくところがあつた。長野が船に乗つてゐたのだか、出て行く船を岸から見送つたのだか、私は覚えてゐない。子供の時の話の様でもあり、結婚に絡まつた一くさりの様にも思はれるし、何だかその時聞いた話は、全体がぼんやりした儘[まま]、切れ切れになつて、私の記憶の中に散らかつてしまつた。》p13

 そのうち百閒は、長野が両親と暮らす本所の石原町にあった家に招かれて、鳥鍋を御馳走になる。当日、百閒はあいにく胃が痛かった。そんな感覚を繊細な言葉に移していくその日の回想に、不思議なタイミングで「鳥の形をした一輪插(一輪挿)」が挟み込まれる。
《鍋の中を突つつき、骨をかじつた。骨を嚙む音が、その儘[まま]胃壁に響いて、痛みを傳[つた]へる様な気がした。笹身の小さな切れが咽喉[のど]から下りて行くと、その落ちつく所で、それだけの新らしい痛みの塊りが、急に動き出す様に思はれた。
 盃を押さへ、箸を止めて暫[しば]らくぼんやりしてゐた。壁際に長野の机があつて、その上に、今私がこの稿を草する机の上に置いてゐる鳥の形をした一輪插[いちりんざし]があつた様な気もするし、そんな事は後から無意識のうちにつけ加へた根もない思ひ出の様な気もする。》p15

 何のことなのか、読んでいるこちらに少しの謎を残したまま時間は大正の終わりの数年をまたぐ。そして――
《間もなく九月一日の大地震と、それに続いた大火が起こり、長野の消息は解らなくなつた。》p16

《焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起[た]つた。暑い日が真上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけて来た時、焼けた灰の上に、瑕[きず]もつかずに突つ起つてゐる一輪插を見つけて、家に持ち帰つて以来、もう十一年過ぎたのである。その時は花瓶の底の上薬の塗つてないところは真黒焦げで、胴を握ると、手の平が熱い程、天火に焼かれたのか、火事の灰に蒸されたのか知らないが、あつくて、小石川雑司ヶ谷の家に帰つても、まだ温かかつた。私は、薄暗くなりかけた自分の机の上にその花瓶をおき、温かい胴を撫でて、涙が止まらなかつた。》p16

 わたしは百閒の文章はなるべくたくさん、なるべく長く引用したい(そのほうがこのブログを見に来ている人のためになる)と思っている人間だけれども、この前後1ページ、関東大震災の焼跡の様子と、のちに人から又聞きすることになったその日の長野の姿は、ちょっと書き写すことができない。それからも百閒は、竹竿の先に彼女の名を書いた幟[のぼり]を下げて石原町を歩いた。
 秋が過ぎるころ、長野を知る者たちを集めて追悼会が開かれた。その場で即席の位牌を作って長春香を焚き、闇鍋が始まる。肉も野菜もそのほかも鍋に投入され、酒が進むうちに、位牌を蒟蒻[こんにゃく]で撫でる者や、位牌も煮て食おうと言い出す者が現われ(後者は百閒である)、実際に位牌は折られて鍋に入れられる始末、闇鍋の中も、それを囲む座も、ごちゃごちゃになってしまう。
 でも本当にごちゃごちゃなのは、鍋よりも思い出のほうなのだ。
 長野の家の近くにあった煎餅屋も助からなかった。そこの跡取りは向島に出かけていたのに、地震のあとで燃える家の中に戻って焼け死んだ、という話を百閒は《長野から聞いた様な気がする》と書く。
《それで一家全滅したので、家の焼跡にお寺を建てて、殆[ほとん]ど死んでしまつた町内の人達の供養をする事になりましたと長野が話した様にまざまざと思ふ事があるけれども、勿論そんな筈はない。私は年年その小さなお寺の前に起つて、どうかするとそんな風に間違つて来る記憶の迷ひを拂[はら]ひのけ、自分の勘違ひを思ひ直して、薄暗い奥にともつてゐる蠟燭の焰[ほのほ]を眺めてゐる間に、慌ててその前を立ち去るのである。》p20

 ごく控えめに言っても、百閒が長野に特別な感情を抱いていたことは文章のはしばしからよくわかる。その気持をおもてにするためにこの文章は書かれたように見えるほどだ。彼女の思い出も、郷里や漱石や芥川の思い出も、かけがえなく大切なもののはずなのに、どうして記憶はこんなふうに《間違つて来る》のか。
 それは、おぼえている側が生きているからだと思う。思い出す側が生きているから、《間違つて来る記憶の迷ひを拂ひのけ、自分の勘違ひを思ひ直して》みても、どうしたって記憶は薄らぐし、変わってしまう。なかったこと、《根もない思ひ出》が無意識のうちにつけ加えられ、あったことが失われて、失われたことは、もう一度「あれを忘れていた」と思い出さないかぎり、ずっと失われたままになる。その全部は、こちらが生きているから起こる。
 だったら生きているほうは、文章を書くしかない。書くことで思い出が変わってしまういきさつも飲み込んで、思い出をおぼえておくためにも、思い出をおぼえている自分の変化を知るためにも、変わっていく思い出をはかなみながらまた作り直し作り変えるためにも、書いておくしかない。
 過去とは、なくなってしまったもののことだ(当たり前)。なくなった物やいなくなった者を、文章にするたびに更新し、思い出す自分を更新することで、その都度、なくなってしまった過去と自分の関係を結び直す。それは、なくなってしまったものをいまの自分といっしょにあらしめようとすることだろう。回想するのはそのためで、思い出を書くのもそのためなんじゃないだろうか。
 何が人にそういうことをさせるのか。動機となる感情の名前をわたしはひとつ知っているけれども、これだけ書いてきた上でなお、なんだか恥ずかしいのでここには書かないのである。




■ こういうことではない記憶のあり方については、リディア・デイヴィスの翻訳者でもある岸本佐知子の『気になる部分』に収録されている、「真のエバーグリーン」を読んでほしい。巻末近くのあの数ページには、現在の自分を支える過去の記憶というもののうち、大げさでも大仰でもないほうのすべてが書き込まれている。
■「漱石先生臨終記」と「湖南の扇」、「長春香」は、どれもちくま文庫の集成6『間抜けの実在に関する文献』に入っている模様。同じちくま文庫の『私の「漱石」と「龍之介」』では、タイトル通り、ふたりについての文章がまとめて読める。
 このようなことがわかるのは、こちらのサイトにあるこの文庫本目録のおかげである。最高。

 旺文社文庫の百閒、次は『凸凹道』です。


      


■ 旺文社文庫『鶴』(1981)目次:

長春香
三校協議会
貧凍の記
翠佛傳
饗応
写真師
名月
八重衣
蘭蟲
井底雞
稲荷
面会日
秋宵鬼哭
濡れ衣
林檎
牝雞之晨
初飛行
饒舌
澤庵
雞声
軒堤燈
漱石先生臨終記
湖南の扇
忘れ貝
象頭山
口髭
狸芝居
録音風景
蓄音器
柄長撿校
柄長勾当
百鬼園先生言行録拾遺
烏城追思
郷夢散録
 來時ノ道 桐の花 杉鉄砲 学校道 謎 吹風琴 日清戦争 金峯先生 岡村校長 森作太先生 元寇の油絵 勇敢なる喇叭卒 先生の喧嘩 黄海の海戦 李鴻章 亥の子餅 串団子 油揚 大手饅頭
動詞の不規則変化に就いて

解説 種村季弘
「鶴」雑記 平山三郎
2020/02/27

内田百閒『無絃琴』(1934)

旺文社文庫(1981)

《その晩は、表が静かであつた。滅多に人も通らず、通る者も黙つて行き過ぎた。日が暮れて間もなく、二人の足音が、私の窓とすれすれに歩いた。
「要するに」と云つたのは、若い女の声であつた。「早く家庭を持つと、いいんだわ」
 男の方が、「さうです、さうです」と云つて、後からついて行つた。》p81「竹酔日」


『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』に続く、3冊目の随筆集ということになるらしい。
 わたしが百閒の文章を面白いと思うポイントには

(1)変な理屈
(2)感覚の巧みな言語化

のふたつがあり、さらに

(3)そもそも文章がうますぎる

というのもあるが、当たり前ながらどのページもすべてが文章なのだから、(1)も(2)も(3)に含まれるというか、(3)から(1)と(2)が出てくるというか、分類するだけ意味がないと言うための分類だった。でもこういうことは繰り返し言ったほうがいいような気もする。
 入り組んだ事象も込み入った感情も、わりあい簡潔な構文に流し込んでするする読ませながら、読んでから「え、こんなややこしいことをなんでこんなに簡単に書けるんだ?」と不思議になってまた読み直してしまう文章を、今回もなるべく長く引用する。

 変な理屈の例。
[…] 学校の先生を止めて以来、家に籠居して、身体を動かす事が少いので、午飯を廃して、蕎麦[そば]の盛りを一つ半食ふ事にきめた。蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺[もつ]れる事もなく、日がたつに従つて、益[ますます]うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百餘日、私は毎日きまつた時刻に、きまつた蕎麦を食ふのが楽しみで、おひる前になると、いらいらする。朝の内に外出した時など、午[ひる]に迫つて用事がすむと、家で蕎麦がのびるのが心配だから、大急ぎで自動車に乗つて帰る。たかが盛りの一杯や二杯の為に、何もそんな事をしなくても、ここいらには、名代の砂場があるとか、つい向うの通に麻布の更科[さらしな]の支店があるではないかなどと云はれても、そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違ふ點[てん]で、まづい。八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を拂[はら]つて、あわてて帰る事を私は悔いない。
 私は鶯や、柄長[えなが]や、目白などを飼つてゐるので、時時、小鳥達は、毎日ちつとも変らない味の摺餌[すりゑ]をあてがはれて、さぞつまらない事だらうと同情してゐたが、お午の蕎麦以来、味のきまつた摺餌は、つまらないどころでなく、大変うまいに違ひないと想像した。小鳥達が、さもさもうまさうに食ふ有様を思ひ浮かべながら、自分の蕎麦を啜[すす]る事もある。》pp68-9「菊世界」*太字、下線は引用者。以下同じ。

 読んでいるときは変な理屈だと思ったけれども、書き写していると、むしろたいへん素直な、素直すぎてなかなか気付かれない類の感想である気がしてきた。なお、この「菊世界」は百閒が自分の喫煙歴を振り返った文章で、小学校入学前から煙草を吸っていたという有名なエピソードはここで語られている。

 次は「鶯の夜渡」から。夜、「眠たくなってくる」感覚の表現として、これを越えるものはそんなにないんじゃないだろうか。
《鶯があんまり騒ぐものだから、時時、麻姑[まご]の手をとつて飼桶を外から、こつこつと敲[たた]いた。すると、鶯は暫らくの間、おとなしくしてゐるけれど、間もなく又もとの通りに騒ぎ出す。少し眠くなりかけると、何だか大きな羽音をさせるので、又目がさめてしまふ。しまひに、うるさくなつたので、板戸を少し開けてやつたら、有明けの電燈の薄明りが射し込むので、勝手がちがふと見えて、すつかり静まつて来た。その内に私の方も、段段眠くなつて来て、うつらうつら得体の知れない大きな塊りを押してゐる様な気持になりかけた時、不意に頭の上で、鋭い谷渡りの声が、ききよ、けきよと続け様に響いた。脳天から氷の心棒を刺された程びつくりして、私は又目をさました。さうして、溜息をついて、起き直り、また煙草に火をつけた。》p76

「竹杖記」という長めの作品は、大学時代から続いた芥川龍之介との交友と、その芥川の推挽により語学教師として勤めた海軍機関学校の思い出を綴った回想なのだけど、その中で、自分の体に発生した独特の感覚について書いている。
 百閒には迷走神経の過敏症、あるいは神経性心悸亢進症という持病があった。発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある。しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――と言われても、どんなものかわからないだろう。そのままこれを読んでほしい。
[…] 苦しいのを我慢して、一人で医務室まで辿りついた。
 その後からすぐにさつきの下士官が這入[はひ]つて来て、私を診察室のベツドに寝かした。さうして向う向きになつて、薬瓶の一ぱい列[なら]んでゐる大きな硝子[ガラス]戸棚の前に起つて、何かしてゐる、その後姿を見ながら寝てゐると、段段動悸がひどくなつて、肋[あばら]の内側がいたみ出した。何だか気分がわるいなと思ふ途端に、急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸[くび]から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、ほつとすると、その拍子に発作がなほつてゐたのである。「あつ、なほりました」と私が、後向きの下士官に云ふか云はないかに、静まり返つてゐる廊下の遠くから、荒荒しい靴の音が聞こえて、いきなり軍医正が扉を排して馳け込んだ。軍服の釦[ボタン]がまだ全部かかつて居らず、帽子を手に持つて、私の側に起つた軍医正の顔を見上げて、私は本当に穴があつたら這ひ込み度[た]く思つた。発作がなほれば、その後はなんでもないのである。》p133

 発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある、しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――という一切合切が、まるで自分の身に起こったかのように、すみずみまでよくわかる。経験したことのない感覚を、手でさわれるもののようにありありと伝えてくる文章。
 以前ここを読んでいて、わたしが連想したのは筒井康隆「薬菜飯店」(1987)という短篇だった。語り手「おれ」がある中華料理店に入る。そこで出される料理は、体に直接作用してあちこち悪いところを治してしまうものだった。
 眼に効く鮑の料理を食べると、とたんに涙が流れ出て視力まで良くなるとか、鼻に効く蛤料理を食べると鼻水が洪水になって鼻づまりが治るとか、軽いところからはじまり、徐々にグレードが上がって、年来の喫煙者である「おれ」の汚れきった喉と肺、さらに胃まで治す料理が出てくる。食べて飲んで様子を見ていると――
《腹はすぐに鳴りはじめた。と同時に、首の左右の根っこの部分に大きな塊りのようなものがゆっくりとこみあげてきた。それは次第にふくれあがりはじめた。手でさわってみると、顎の下の左右がお多福風邪のように大きく腫[は]れあがり、瘤ができている。さわったり押したりしない方がいいのだろうな。血のめぐりが悪くなって眼がまわりはじめ、吐きたい気分になってきた。や。気管支の方からも何かやってきたぞ。まっ黒けの、何やら機関車の如きものだ。臭い蒸気を吐いている。さらに胃の方からも酸性のピンポン玉がいくつか這いあがってきた。頭がぐらぐらする。何やらえらいことになりそうだ。顎下腺から、ちゅるちゅるとチューブから押し出されるように毒の粘液が口の中へあらわれた。続いて舌下腺からも、耳下腺からもだ。気管支の方からやってきた機関車がピーと蒸気を吐き、ごうごうと音を立てて口と鼻から噴出した。だばだばだばだば、だぼだぼだぼだぼと、その黒く重い粘液はバケツの中に音を立てて落ちていった。その直後、おれは胃からきた塊りを口からがっと吐き出した。次いでがっ。がっ。がっ。がっ。がっ。
 おれは恐慌に襲われた。鼻と口から際限なく粘液が噴き出るため、呼吸ができないのだ。》
 
[…] 彼女はおれの上半身を起し、背後からおれの背中を握りこぶしで力まかせに叩くと同時に、膝でおれの腰骨の上をいやというほど蹴りあげた。
「ぐわっ」
 驚くべき大きさの、タールの塊りの如きまっ黒けのものがおれの口から吐き出され、バケツの中でごろりと転がった。それだけで、バケツの中はほとんどいっぱいになってしまった。》『薬菜飯店』(新潮文庫、1992)pp27-9

 百閒の文章は、じっさいに自分の体に起きた感覚を描写したものである。いっぽう筒井の文章は、並外れた吐き気からありえない嘔吐にいたる現実離れした感覚を、想像力でつくり出したものである。そう考えると、前者は言葉による再現で、後者は言葉による創造、というふうに何となく区別しそうになるのだが、しかし、この分け方はどれくらい妥当なんだろうか。
(百閒が随筆、筒井が小説であることは、いまは何も関係がない)

 百閒の発作の苦しみや、それが急に「抜けた」感覚は、百閒じしんがたしかに体験したものだろう。その意味で実感を言葉に移し換えたものであり、その移し換えが巧みだから、それを読むことでこちらもその感覚を自分の身に起きたかのように追体験できる。実感の再現。
 筒井が想像した、首の根っこにこみあげる大きな塊りや、臭い蒸気を吐く機関車の如きものは、言葉による非現実の造形である。でもそれらはまったくのゼロから発明されたものではなく、日常にある吐き気やらなにやらの延長上に(過激な延長上に)作られている。だからこそ読者も追体験(というか、追想像?)ができる。まったくの未知の感覚だったら、何が起きているのか想像のしようもない。
 であれば筒井のほうだって、実感を再現していると言っていいのじゃないだろうか。実感の延長にあるものの、再現である。百閒の発作だって多くの人間にとってそのまま経験されたことはない特殊な事態であるのだから、実感(百閒)と実感の延長(筒井)の違いは、それこそ距離的なものでしかないように思う。
 そして、両者がどちらも再現としてとらえられるのならば、今度は180度ひっくり返し、両方をどちらも創造として受け取ることだって、できる気がしてくる。
 胃を這いあがる酸性のピンポン玉と毒の粘液。タールの塊りの如きまっ黒けのものが、バケツの中にごろりと転がる。実感を延長した先にあり、どんな読者の体験も届いていない感覚を、筒井は言葉でもって創り出した。
 百閒の胸の中を動く苦しい塊りや、それが耳の内側にぶつかる衝撃も、読者のわたしにおいて未知の感覚であり、未知なんだから非現実を生み出したものとしてわたしに読まれている。「いや、百閒には実体験であり実感だった」という正しいツッコミは、言葉という人工物を組み合わせてつなげた文章なるものが、書く側の実感を写し取るばかりか、読む側の実感まで喚起しうるという言語表現の圧倒的な奇妙さの前に、無力だと思う。
 両者を読み返すほどに、わたしには百閒の文章と筒井の文章の違いがわからなくなってくる。そして、わからなくなっても何ひとつ、いっこうに困らないことにしあわせを感じてしまうのだが、そんな告白をするつもりでここまで書いてきたのではなかった。「薬菜飯店」の入った短篇集『薬菜飯店』は、いまはKindle版で読めるようです。

 見たものの再現であり、それじたいが「見たもの」を創造するものでもある文章として、次は「炎煙鈔」から書き写す。これは前回の『続百鬼園随筆』にも同題で収められていた文章の続きで、好きでたまらない火事を見物したスケッチである。こう書くとヤバい人のようだが、文章はさらに輪を掛けてヤバい。
《風の吹く晩、白山坂下の、電車が通る時だけ、窓の燈[あか]りで明かるくなる道端を歩いてゐた時、洲崎が大火だと云ふ話を何人[だれ]かに聞いて、いきなり電車に飛び乗つた。日本橋を過ぎる頃から、段段知らない道に電車が這入[はひ]り、どこかで大川を渡つてから後は、まるで方角もたたなかつた。次第に道が迫つて来る様に思はれ、それにつれて、短かい橋が無暗[むやみ]に多くなつた。渡る時、急いで窓から覗いて見ると、黒い水が家家[いへいへ]の裏の間を仕切つて、暗闇を掘り下げた底に、遠くの方まで筋を引いてゐる。何だか夢に見た通りの景色だと思つた途端、急に電車が動揺して、前部の救助網で線路を打つ音がしたと思つたら、次の瞬間に、車掌台がどしんと尻餅を搗[つ]いた。私は頭から水をかぶつた様な気がした。
 火事場は一面の火で、焼け落ちた後の燄[ほのほ]は低く、赤い光を放つ雑草の原の様であつた。その向うに暗い海があるらしく、燄と煙の臭[にほひ]に混じつて、潮の香りが鼻を打つた。》p160

《何だか夢に見た通りの景色だと思つた》なんて部分もあって、この電車は百閒の短篇の世界へ地続きに入っていくようでもある。それで導かれていった最後の2行のあやしさはいったいなんなんだ。随筆が回想になり、語りの現在時から遠くなるほど小説に近づく。わたしはいま、とても当たり前のことを書いているのだろうか。あと、百閒、しょっちゅう「頭から水をかぶつたような気」がしがち、とも言い添えておきたい。
《火事は、身体が熱くなつて、逃げ廻らなければならない程の間近から、堪能する程見物した。
 又場所を変へて方方から眺めるために、あちらこちら歩き廻つた。焼け出されて、雑司ヶ谷墓地の石塔の陰に風を避けてゐる人人の頭の上に、火の粉が雨の様に降り灑[そそ]ぎ、葉の落ちつくした裸木の公孫樹[いちやう]の枝にかかつた火の粉は、風にたたかれて、きらきらと光りを増した。
 三方から火の手に囲まれた一軒立ちの二階屋が、閉め切つた雨戸の外に烈[はげ]しい火の明かりを受けて、目の前に浮かび上がつた。雨戸の肌をさつと掃くやうに燄[ほのほ]が走つたと思ふと、有りつたけの戸が、一時にばたばたと外[はづ]れた。さうして家の中には、既に火が廻つてゐたらしく、はつきりした炎の形が、二階の柱を這ひ上がるのが、ありありと見えた。欄間の額の字が読めさうだと思ふうちに、一面が火の渦巻となり、瞬[またた]く間に棟が落ちて、焼け潰れた。》pp162-3

 まるで炎がページを舐めるように言葉が連なり、そのなかで家が焼け落ちても、そう書いている文章は手元に残ったまま何度でも読めるのが不思議になってしまう。書かれる火事ではなく、火事を書く文章の手柄であるのだよなと思うのだが、そこから「対象はどうでもよくて、文章だけがすごいのである」とまではぜったいに思い切らせないのもまた百閒の書くものだった。
「曾遊」で百閒は、友人と石ノ巻へ遊びに行ったときのことを思い出す。
《小牛田と云ふ駅で、軽便鉄道に乗り換へた。さう云ふ駅の名前も東北らしく聞こえて、気の進まない私の旅愁をそそる様に思はれた。もう十何年昔の事で、軽便鉄道の汽罐車は、羅宇屋の笛の様な汽笛を、ぴいぴい鳴らしながら、何時[いつ]までも走りつづけた。いつの間にか、左手が高い土手になつて、それが何処[どこ]まで行つても盡[つ]きなかつた。土手の向うに、ところどころ高い帆柱が見えるから、餘程大きな船がゐるに違ひないと思つた。川舟にしては大き過ぎる様だし、海がこんな所にありさうにも思へなかつた。小さな汽車は、土手の陰を走りながら、夜になつた。燈[とも]し火の稀れな広野が真暗になつても、土手の向うは、ほの白く明かるかつた。水明りだらうと思ふと、急に淋しくなつた。》p93

 百閒の書くもので「土手」「土手の向う」が出てくるとそれだけでうっすら怖い。でもここは宮城県で、まだ冥途ではない。
《どんな道を通つたか覚えてゐないけれど、私共は大きな川に架かつた町中の橋を渡りかけて、又後戻りをした。川下の空が明かるいのは、海が近い所為[せい]だらうと思つた。水際で火を焚いてゐる炎が、妙に細く撚[よ]れて、暗い空に立ち騰[のぼ]り、周りの煙をはつきりと照らし出した。川の底にも炎の姿が深く沈んで、水の色を染めてゐる。橋の袂[たもと]の料亭に上がつた時、もう一度その火を見ようとしたけれど、川の面には、暗い水が盛り上がつてゐるばかりであつた。
 無気味な程大きな蒲焼の串を、藝妓が手際よく抜いてくれた。さうして何か二言三言話す内に、その女の言葉遣ひが、妙に私の耳に甘える様な気がし出したので、君はこの辺の人ではないだらうと尋ねたら、私の生れは備前岡山で、子供の時に京橋川の舟を見に行つた事を覚えてゐますと云つた。
 道を聞いても、人の云ふ事はまるで解らないし、辺[あた]りは暗いし、変な所へ来たものだと、つまらない気持になりかけたところへ、思ひがけなく私の郷音を聞き、同じ町の生れだと云ふので、その女が懐かしくて堪らなくなつた。
 暗い川に舟を浮かべて、夜遅くまで酒を飲んだ。千葉甚と云ふ宿屋に帰つて、蒸し暑い蚊帳に這入つたけれど、転輾[てんてん]反側して夜通し眠れなかつた。
 友達が面白がつて、翌くる日はその藝妓の家へ遊びに行き、それから一緒に連れ出して、小山の上の遊園地に登つて、渚の遠い太平洋の岸を見下ろした。私はその藝妓の側にゐると、上[うは]ずつた気持がして、しまひには寛[くつろ]いだ口も利[き]けなくなつた。》pp94-5

 こういった文章を書ける人がこういった珍しい体験もしていることに「すごい」と言いそうになるが、おそらくこれは話が逆だ。これに類する偶然は多かれ少なかれだれの身にも起こっていて、ただ、下線のような文章を書ける才能だけがこんな偶然を記憶の中から引き出すことができるのだと思う。その意味で、文章が偶然を起こしている。そして何より、こんなにも照れて悶えている百閒はレアなのじゃないか。

 珍しい出来事と、それに発する珍しい感覚を巧みすぎる文章で書き留めたものとして、つまり、対象と文章の双方が噛み合った最高峰として、「搔痒記」がある。
 帝大の独文科を卒業した25歳の百閒には就職の口がなかった。口がなかったというか、就職の口を求めて熱心に活動する気になれなかった。その頃の回想である。
 学校を出たので、郷里に置いていた妻と下の子、さらに近所の女学生(お貞さん)まで東京に呼び寄せていっしょに暮らすことになる。職のないまま、今度は祖母と母と上の子も上京させる。そんな大家族を支える立場のはずなのに無職。
 このままではいけない、それはわかっている、わかっているが……と、想像するだに鬱々と気が滅入ってくるこんな時期、気持や内面や心情の問題を越えて、百閒の身体は猛烈に頭が痒くなるという反応を示す。
《頭の痒さは言語に絶する様になつた。しまひには、自分で搔いたのでは、いくら搔きむしつても蟲がをさまらない。どうしても人に搔いて貰はなければ、承知出来なくなつて来た。妻は初めから逃げを張り、女中には云ひにくいし、子供は小さくて役に立たないのである。するとお貞さんが、無茶苦茶なところがあつて、その役目を敢然と引き受けてくれた。私が新聞をひろげて、両手で顔の前に受けてゐると、お貞さんは後に廻つて、私の頭を縱横無盡にひつぱたいて、搔き廻した。自分の頭が三角になる様で、私は痛快の感に堪へない。いつまで経つても、もういいと云はないから、いつでもお貞さんの方で切り上げた。》pp99-100

《木曜日の晩に、早稲田南町の漱石山房で、津田青楓氏から、今度高田老松町の家を引拂[ひきはら]ふから、その後へ這入[はひ]らないかと云はれて、引越しする事にした。頭に一ぱいおできを載せたまま、掃除町の運送屋に荷物を運んで貰つて、目白臺に移り、郷里から母祖母子供を連れて来て、重苦しい遊食時代を現出した。むしやくしやする程、益[ますます]頭の方は痒くなる様であつた。自分の頭を物差しでなぐり、文鎮でこさげても、いらいらした気持は治まらなかつた。》p101

《家にゐて、何をしても面白くもなく、第一、何をどうすると云ふ心当てがなかつた。いつ迄もかうして、ぶらぶら暮らしてゐられる程の金は、もう家にはないのだと云ふ事を、時時[ときどき]病気の様に思ひ出す。しかし外に出て、人の家に就職の口を頼みに行くには、頭の事が気になつた。当分人前には出たくなかつた。さうして、ごしごし頭を搔きながら、相変わらず、うつらうつらとその日を暮らした。》pp102-3

 頭が痒いのはできものがあるからで、できものができたのはおそらくストレスも一因で…と筋道を立ててとらえていこうとすると、この文章は逃げていくと思う。そのような整理は、この痒みは鬱屈した内心の象徴である、と片付けて続きを読まないのと同じくらいもったいない。
 何をするにも物憂く気がふさぎ、自分が何もしないでいるためにいっそう追い込まれていく鬱陶しい状況と、《言語に絶する》頭の痒みが、ひとりの人間の身に外側と内側からなぜか同時に降りかかる。はたで見て(読んで)いて「なんでだよ」と言うしかない偶然から書かれたこの文章は、「なんでだよ」「本当に、なんでなんだよ」とつぶやきながら読むのがいちばん正しいとわたしは思う。青年時代の百閒がこんな偶然に見舞われたのは、ほとんど奇跡として映る。頭の痒さ、それも奇跡になりうるのだ。
 そんな痒さはおよそ半年後、大学病院に行ったことであっさり快方に向かう。行ってなかったのかよ
《診療室に入れられて、皮張りの腰掛けに腰を掛けた。辺りの物がみんな少しづつ濡れてゐさうで、汚くて身が縮まる様な気がした。看護婦がぴかぴか光る鋏を持つて来て、私の頭を刈り出した。非常に荒つぽく、やり方が痛烈を極[きは]め、髪の毛を切つてゐるのだか、頭の地を剪[つ]み取つてゐるのだか、よく解らなかつた。それが大変私の気に入つて、もつと深く頭の皮を剝[は]いでくれればいいと念じた。
 その後にお医者が来て、何だか冷たい薬を塗りたくり、一言も口を利かないで、又私の頭を看護婦に渡した
 看護婦がその上から、ぎゆうぎゆう繃帯を巻いたので、すつぽり白頭巾を被[かぶ]つた様な頭になつた。巻き方が固くて、特に縁のところが締まつてゐる為、何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登つて行く様な気持もして、上ずつた足取りで家に帰つて来た。
 頭が綺麗に包んであるので、寝る時はさつぱりした気持であつた。しかし枕にさはる工合は、何となく人の頭を預かつてゐる様でもあつた。》p105

《花が散つて、若葉が出揃ふ頃から、段段頭の地が乾いて来る様に思はれ出した。さうと気がついてからは、目に見える様に具合がよくなつて、間もなく綺麗に癒[なほ]つてしまつた。癒つた跡は禿[はげ]にもならず、ただところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけであつた。》p107

「自分の頭がモノとして扱われる」ことそれじたいを、自分でそのまま対象化して文章にしているというか、自分と自分の頭に距離があり、その距離を保ったまま文章にしている感じが絶妙である。《ところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけ》なのを知るには鏡を使って観察しないといけないわけで、そこは書かずに観察した結果だけを書くといったような小さい省略がきっとあちこちにあり、それでいて出来た文章はこんなにもすらすら読める。
 このあと「搔痒記」は、《本当に癒つてしまつた様な気持に》なるために、床屋で丸坊主にしてもらって終わる。わたしはまだそんなに百閒を読んでいない(これが旺文社文庫の6冊めだ)が、それでも数え切れないほどひしめいているあれやこれやの名文の中で、この数行はまちがいなく最上の部類に入る。
《「よろしいんですか」
「頼みます」
 瞬[またた]く間に終つて、椅子の上に半身を起こして見ると、向うの鏡に大入道がぼんやり写つてゐた。
 坊主になれば涼しいかと思つてゐたら、さうではなくて、頭に芥子[からし]を貼つた様にひりひりして熱かつた。その癖、頭の地から少しばかり離れたところが、非常に涼しい様な、よく解らない気持がした。
 往来に出ると、そよそよと吹いて来る夕風が、筋の様になつて頭を渡つた。目がぱちくりする様に思はれた。》p110

 ここは全文を太字にして下線を引きたい。とくに「ぱちくり」は辞書の用例に採用されてしかるべきだと思う。
 なお、毎回本当にありがたい文庫巻末の「雑記」(平山三郎)によると、百閒が大学を出たのは1914(大正3)年7月で、陸軍士官学校に職を得るのは翌1915年の末である。痒いのがおさまってもなお半年以上「重苦しい遊食時代」が続いたことにはほとんど敬虔な気持が湧いてくるが、それはともかく、「搔痒記」の発表は1934(昭和9)年で、じっさいの体験から20年を経ている。
 しかしこの『無絃琴』では、「搔痒記」の次に「駒込曙町」という文章が続いており、こちらも同じ遊食時代の前半を題材にしたものなのだけど、おどろいたのはこの「駒込曙町」、執筆が1915年2月なのである。つまり、無職時代の真っ只中に、リアルタイムでそのことを書いていた。
《私は紹介状のこと計[ばか]り考へてゐる。先方へ行つて、何よりも今迄頼みに来なかつたおことわりを云はなければならない。どう云ふ風に云つたらいいか知らと考へてゐる内に、段段退儀になつて来る。くるくると一と塊りに廻つてゐた考へが、次第に廻りがのろくなつて、ぷうと膨[ふく]れて来る。それが何時の間にか膨れ過ぎて、ぐるりに散らばつてゐるいろんな雑多な我楽多[がらくた]にあちらこちらで、くつ著[つ]く。すると、そのくつ著いた所から、縁側にまるくこぼれてゐる水を、指尖[ゆびさき]で日の出の模様に引張る時の様に、今までの考へが力もなく興味もなく、すうすうと出て行く。気がついた時には、何分か前まではその考へで、はちくれる様に思はれたところが、何もない空つぽになつてゐる。私は起[た]つて、小鳥籠の盆から、糞を搔き落としたりする。
 けれども、何日かすると、また何かの拍子で私は生活問題に、他所[よそ]に出てゐて自分の町内の火事を聞いた時の様に、慌てて帰る。さうして、何時も同じ様な経過を通つては、如何[いかん]とも結末をつけずに、すんでしまふ。その内に日が経つて、何日目かにまた気がついて見ると、私の不安はその前よりも一層暗く、深くなつて居るのに自分で驚く。その度[たび]に私は、かうしてはゐられないと思ふ。早く、一日も早くどうかしなければならぬと思ふ。けれども、さうかと云つて、私はまた明日の日から食へなくなると云ふ程に切迫してもゐないではないかと、時時[ときどき]身の囘り、心の囘りに気を配りながら、そつと考へて見る。すると私の心の中の、厳格な先見者が出て来て、その考を睨み返す。さうだ、そんなことを思つてゐて、愈[いよいよ]の切迫した瀬戸際まで来た時に、自分は安全な道を拓[ひら]く丈[だけ]の力と勇気があるかと、忽[たちま]ち私は考へ返す。するとまた恐ろしくなつて、うろたへ始める。》pp114-5

 先の見えない自分の状況を現在進行形でこのように対象化するのは、どのような胆力のなせる業だったのだろうと思う。あるいはそれは胆力とは別のものなのかもしれなくて、その「胆力とは別のもの」こそが、この文章と、1年半に及ぶ遊食時代の両方を生んだのかもしれない。
「搔痒記」を書く未来のことなんか知りもしなかった時代の「駒込曙町」では、上で引用したように、頭の痒みよりも心の動きが細かく見つめられている。そこからわたしがいちばん気になっているところを拾って今回は終りにする。それは百閒の、急に不安になる箇所である。
 ――百閒の一家と同居していたお貞さんが暮れに岡山へ帰るので、見送りに行くことにした。百閒・娘を抱いた妻・友人の中島でいっしょに東京駅へ向かう(お貞さんは先に出ている)が、そもそも家を出発するのが遅くなったうえに、百閒は郷里に残している息子へのお土産を買ってお貞さんに渡したいので玩具屋に寄る。
《私は玩具が好きだから、あれやこれや、いぢくり廻した。汽車の玩具が一ばん好きだから、大きいのや小さいのや、軌道のあるのやないのや、みな私の気にかかつた。その時ふと店の奥に掛かつてゐる柱時計を見ると、もう二時四十分なので、私は俄[にはか]にあわて始めたすぐにきめなければならぬと思ふと、何にしていいか解らなくなつてしまつた。私としては汽車が買ひ度[た]ひのだけれど、いつもいつも私共が国へ帰る度毎[たびごと]に、又人にことづける序[ついで]のある毎に、汽車計[ばか]り買つてやるので、久吉の玩具は殆[ほとん]ど汽車ばかりだから、今度は何か外[ほか]のものでなければいけないと思ふ。外のものにすると、何にしていいか、私には解らなかつた
[…]
お釣りをくれる間も私はいらいらした。さうして頻りに足ぶみをした。お神[かみ]が出て来て、その玩具を紙函に入れて、その上に源氏紐を掛けてゐるのを私は奪つた。
「これでいいんです。御邪魔をしました」
 私が一足、店から外に出ると、私の後に風をふくんで飜[ひるがへ]つたマントの裾[すそ]だか翼だかが、何かに引かかつて、がちやがちやがちやと音をたてた。私は後をも見ずに停留場へ馳けつけて、丁度来合はせた電車に中島と妻をうながして乗つた。
 私は電車の中に落ち着くと、さつきの玩具屋を出る時の物音が、しきりに気になり出した。割合に高いものを毀[こは]したんではなからうかと云ふ貧相な考へが、何時[いつ]までも離れなかつた。》pp120-1

《電車を降りてから、広場の向うに駅の建物を見たら、私はまた俄にうろたへ始めた今にも出かけてゐる汽車を、あの煉瓦の建物が私の前に遮[さへぎ]つてゐる様に思はれ出した。私は中島と妻とにかまはずに、一人で馳け出した。五六間行つた時、私は振り返つて、
「入場券を先に買つて置くぜ」と辯解した。
 それから、また私は馳け出した。
 駅の建物の中に這入[はひ]つた時、私の胸は激しく鼓動し、私の背には汗がにじんでゐた。私は、勝手を知らない建物の内をきよろきよろ見廻して、入場券を三枚買つた。それから駅の大時計を見て、もう五分ほどしか間のないのに気を揉みながら、中島や妻を急がすべく、また外に出た。彼等はまだ私が思つたよりも一層遠くの方にゐた。遠方から見ると、中島は何所[どこ]となく婆顔の様な印象を與へた。妻は、熟[う]れのわるい白瓜の様に見えた。私は二人に向かつて早く早くと云ふ合図をした。妻は子供を抱いて走り出した。中島は大変な大股を蹈[ふ]み始めた。》p122

 太字にした“不安と焦り”、下線を引いた“それなのに思い通りに事が進まないもどかしさ”、これらはじっさいに百閒が体験したことだろうけれど、こうやって文章で書かれてみると、すべて、“夢で感じる不安”と、“夢で感じるもどかしさ”じゃないかとわたしは思う。
 百閒の小説は夢を題材にしている。それはそうだろう。読めばだれでもそう思う。だが《百閒は夢をえがいたのではない。夢の胸苦しさ、不安をえがいたのだ。》と、この『無絃琴』の「解説」で高橋英夫は述べており、これにわたしは拍子抜けするような気持で100パーセント同意する。そうだ。たしかにそうである。
 百閒が自分の書いたもののなかで急に不安になるポイントは、だから、この人の随筆と小説をつなぐ通路になるのじゃないかと思うのだった。たとえばずっと後年の『阿房列車』(1952)でも、最初の旅で家から東京駅へ向かうところにこんな部分があった。
[…] 釣り皮にぶら下がってぼんやりしてゐる内に、市ヶ谷駅からの三粁[キロ]半を夢の間に過ぎて、鉄路つつがなく東京駅に著いたが、歩廊に降り起つた途端、丁度その瞬間に切符が売り切れる様な気がし出した。発車にはまだ一時間半ぐらゐ間があるけれど、かうしてはゐられないと云ふ気がする
 さう云ふ気持で歩くと、東京駅の歩廊は無意味に長い。》『阿房列車』p17「特別阿房列車」

 このとき1950(昭和25)年10月、百閒は66歳になっている。家族を抱えてこれからどうしたものかという鬱屈は遠くに過ぎ去り、(借金をして)目的のない旅に出ることができる境遇にあってなお、「駒込曙町」にも似た、急な不安ともどかしさが顔を出す。場所が同じ東京駅であることも偶然とは思えな――いや、引き寄せられた偶然に見えてくる。いったいなんだろう、これは。
 次は『冥途・旅順入城式』です。まじか。(→無理だったので『鶴』になります)



■ 旺文社文庫『無絃琴』(1981)目次:
弾琴図
校長就任式
検閲使
絹帽
虎の尾
漱石遺毛
薄目くら
盲人運動会
砂利場大将
風船画伯
旅愁
訓狐
解夏宵行
殺生
菊世界
鶯の夜渡
竹酔日
老提督
豫行
学校騒動餘殃
曾遊
搔痒記
駒込曙町
竹杖記
河童忌
今朝冬
炎煙鈔
一夜会
海鼠
風稿録
夕立鰻
梅雨韻
白猫

解説 高橋英夫
「無絃琴」雑記 平山三郎
2020/01/31

内田百閒『続百鬼園随筆』(1934)

旺文社文庫(1980)

『百鬼園随筆』(1933)がヒットしたので編まれた第2弾、なんだと思う。
 全体は4ブロックに分かれる。最初の「近什前篇」と最後の「近什後篇」がいわば新作パートで、そこに入っている計22篇はだいたいが『百鬼園随筆』のあとに書かれたものらしい(巻末についている平山三郎の「雑記」による)。
 で、それらは――『百鬼園随筆』のあとで読むと――意外なくらい、ふつうの随筆に見える。あの“次に何が出てくるのかわからない”、そして“読んでいるこれが何なのかわからない”アナーキーさを期待すると肩透かしを食う、というのが正直な感想。
 もちろんふつうのエッセイとして面白い、と急いで付け足して、いくつか引用する。

 まず「立腹帖」。子供の時分、腹を立てすぎて怒りのあまり歯ぎしりをしていたら耳が動くようになったという百点のエピソードから始まって、自分が真剣に腹を立てたときの出来事と、その際の心身の具合を書いていく。
 もっとも強烈な怒りは関東大震災の前、新橋駅で駅夫から「不正乗車をした」と決めつけられた話。もちろんそんなことはしていないので抗議すべく駅長室へ行くが、駅長は聞く耳を持たず駅夫に加担する。ここまで、段階的に腹立ちが増していく。
《「失敬な事を云ふな」と云つた拍子に、私は声が咽喉[のど]につかへてしまつた。怒りのために、身体の方方が、ぴくぴくふるへるのが自分で解つた。》p20

《階段や、プラツトフオームにゐた澤山な人の顔が、ただ、ぽかりぽかりと浮動してゐる白い汚染[しみ]の様にしか見えなかつた。》p21

《私は、あんまり腹が立ち過ぎて、口の中がかさかさに乾いてしまひ、咽喉の奥にも苦い物がこびりついて、急には声が出なかつた。》p21

 わかる。すごいよくわかる。わたしも同じような状態に陥った15年くらい前の高田馬場ドトールでの出来事を思い出し、あの店はまだあるのかGoogleマップで探してしまった(なかった)。
 窮した百閒は、自分はそんなことをする人間ではないと示すため名刺を出す。当時教えていた海軍機関学校と陸軍士官学校と法政大学の肩書きをまとめて刷り込んだ「護身用」の名刺である。
《駅長はその名刺を取り上げて、暫らく眺めてゐる内に、不意に足音をたてて起[た]ち上がつた。あつけに取られてゐる私に一礼した上で、
「御身分のある方に対して、誠に失礼いたしました。謹んでおわびを申します」
 それから、駅夫の方を指しながら、
「部下の失態につきましても、私からおわび申上げます。何分数多い乗降客の中で、お人柄を見誤つたものと存じますから、平にご容赦願ひます」と云つた。その云ひ方が、非常にしらじらしくて、私は益[ますます]腹が立つた。何か云はうと思つてゐると、駅長は起つたなりで、重ねて切り口上で云つた。
「私からおわび申上げます。部下は後程よく叱り置きますから、これでお引取り下さい」
 私は駅の前に出たら、空も道も真つ黄色に思はれた。黄色い道がまくれ上がつて、向うの通から、家竝[いへなみ]の屋根の上に跨がつてゐる様な気がした。》pp22-3*太字は引用者、以下同じ

 強い感情が身体(耳)を動かすばかりか、感覚までおかしくするのを文章で書き留める。わたしが百閒の本から拾いたいのはそういうところである。
 そして「続立腹帖」もある。こちらで回想されるのは、森田草平と飲んでいた夜のこと。なりゆきでふたりは別の座敷にいた慶応大学の学生たちに絡まれる。次第に空気が不穏になって、帰る間際、ひとりがとつぜん百閒の横面を張って《私が向き直る隙もなく、その男は、もう往来の暗闇に姿を隠してゐた。》
《帳場から飛び出して来た男達に抱き止められたまま、私は憤激の為に身体がふるへて止まらなかつた。
 私は、どんな手段によつても、この男を探し出さなければ承知しないと考へつめた。二日も三日も心が平静に返らなかつた。
 それから十年たつてゐる。その時殴られた恥よりも、その恥を十年後の今日、なほ忘れ得ない妄執の方を、恥づかしく思ふ可[べ]きである。しかもその恥を更に自ら文に綴つて、人中にさらして悔いない程、私の遺恨は深いのである。》p25

 この文章を百閒は、「三田新聞」の原稿依頼に応えて書いている。ねにもつタイプ。わたしが百閒の本から拾いたいのは、こういうところでもある。

 次は「炎煙鈔」。子供のころから火事を見物するのが好きだった百閒が、数かずの火事の様子を綴る。生き物のような炎の書きぶりを見てほしい。
《昼火事は、従兄の家のすぐ裏なのであつた。もう大方荷物を運び出した後の、がらんとした家の中から見通しになつてゐる裏の藁屋根の家の廂[ひさし]を、炎が流れる様に這[は]つて行くのが見えた。》p170

《さうして今度表に出て見た時には、往来はあわただしくなり、郵便局の前で人人が罵り合つてゐた。外から表の戸を破つたのださうである。何となく辺りが明かるくなつた様に思はれ出した。油屋の中庭から、内側で燃えてゐる燄[ほのほ]の色が、空に映り始めたらしい。さう思つてゐるうちに、不意に大きな火の筒が、屋根の棟を突き抜けて、暗い空に、ばらばらと火の子を吹き上げた。
 燃えさかつてゐる最中に、油屋の二階から、火を引いた油が真赤な瀧になつて、辺りに渦巻いてゐる大きな燄の中に、不思議な光りを放ちながら、流れ落ちた。》p171

 さらっと書き流すようで、百閒の炎は、たしかに流れている。いまのは昭和9年(1934)の文章だが、その11年後、昭和20年4月14日にあった出来事を『東京焼盡』(1955)から書き写す。どうもわたしは『東京焼盡』が好きすぎるな。この日は午後11時に空襲警報が鳴った。
《大概大丈夫と思はれる様になつてから土手の方へ行つて見たが、丁度その時雙葉の一番こちらの外れの一棟が焼けてゐるところにて、その火が土手沿ひの道にかぶさつてゐる何百年かの老松の枝に移り、白い色の燄[ほのほ]が水の傳[つた]はる様に梢から幹に流れた。雙葉の一郭は大変な火勢にて、すつかり火の廻つた庇[ひさし]だか天井だか解らぬ大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふはりと浮かび、宙を流れる様に辷[すべ]つて、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えてゐる。土手が燃えるかと更[あらた]めて感心した。アスフアルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いた様に散らかり、風の工合では吹き寄せられて一所にかたまつたり、又一ぱいに広がつたりしながら、きらきらと光つてゐる。道もせに散る花びらの風情である。[…] 大分寒くなつたが、雙葉の火に暫く向かつてゐると暖かくなる。》『東京焼盡』(旺文社文庫)p115

 どうしてこんな文章が書けるんだ、と空恐ろしい気持でいたが、B29が来なくても、むかしから家は燃えており、むかしからそれを百閒は見ていた。でもだからって、どうしてあんな文章が書けるんだ。

 ところでこの『続百鬼園随筆』が珍しいのは、新作に挟まれた真ん中に、新作ではないパートがあることである。それは旧作も旧作で、なにしろ百閒が十代後半から二十代のはじめに書いた文章が集められ、「文章世界入選文」と「筐底稺稿」というくくりでまとめられている。
 まず「文章世界入選文」。その当時「文章世界」なる文章指導雑誌があり、百閒は17歳から18歳にかけて投稿を続けていた。選者は田山花袋。採用されたもの・されなかったものが計8篇読める。
 とはいえ、それらはいわゆる写生文の練習で、起きた出来事・見た景色をありのままであるかのように綴ったものであり、「百閒の若書き」という前提がないと(いや、あっても)あんまり面白くはない。こんなに細かいところまで気付いたんですよ、という観察のための観察めいた部分も目についた。
 しいてあげれば、8篇中最初の3篇が「乞食」といって家の前を通りかかった盲目の乞食を「おい。目くら」と呼び止め食べ物を与える話と、「按摩」といって家の前を通りかかった按摩を「おい、按摩や」と呼び止め家に入れて祖母のマッサージをさせる話と、「靴直し」といって家の前を通りかかった靴直しを「おい靴を直して呉[く]れんか」と呼び止め靴を直させる話、と連続しており、この一方的な上下関係を繰り返し題材に選んでいる事実が百閒青年の何かを示唆することになったりするのか、ほんの少し気にかかる。
 このころは百閒もまだ百閒ではなかったのかな、とページをめくって「筐底稺稿」。「稺」を調べると「稚」のことだったので、ずっとしまってあった幼稚な文章、くらいの意味なのかもしれない。ところが最初の「鶏蘇佛」を読み始めると、いきなり様子が違うのである。
《何でも本を読まねあおへん、と堀野は何時[いつ]も云つた。それから、早く読むと云ふのが自慢であつた。仰山読まうと思や、早う読めねあおへん、と堀野が口癖の様に云ふ、僕は成程[なるほど]と思つて、成るたけ早く読む様に稽古をした。堀野と友達になつた御蔭で、急に本を読むのが、好きになつた。》pp112-3

 こんなふうに仲がよかった中学(旧制)時代からの親友、堀野。《その堀野が死んで仕舞つたのである》。これは早逝した彼の思い出を綴った追悼文だった(「鶏蘇佛」は堀野が俳句を作るときの号)。
 こんなふうに遊び、こんなことをしょっちゅうやって、《まだ続く筈[はず]の所を、七年目に堀野が死んでしまつた》。堀野はこんなことをした、でも堀野は《死んで仕舞つた》。堀野はこう言って、自分がこう思っていたら堀野は《たうとう死んで仕舞つた》。こんなことがあった、《そのうちに堀野が死んだ》。
 やったこと、言ったことをひとつずつアルバムに収めるように書き記しつつ、時間が経ってからも間隔をおいてぶり返してくる感情をそのままなぞっているのか、「死んだ」「死んで仕舞つた」と重ねていくこの13ページの文章は、さっきの写生文に比べると子供と大人以上の開きがある。百閒がこれを書いたのは高等学校(旧制)在籍時で、写生文とせいぜい2年しか違わないことにおどろく。
《去年の秋、同窓の井上啓夫君が死ぬる前、堀野と二人で見舞に行つた。帰りに色色[いろいろ]病人の事を話しながら、畦道を傳[つた]つた。その内に日が暮れかかつた。僕が何時[いつ]も散歩する辺であるから、僕は割合平気であつた。堀野が、此[この]辺の道案内は、一切あんたにまかしぢや、と云ふ。僕が先になつてずんずん歩く。後から堀野がてくてくとついて来る。何時の間にか、二人とも亡父の話しをして居た。しみじみと話し合つて行くと、秋草が頻[しき]りに裾[すそ]に触れた。農家に灯がちらつき始めた。もうこんな話は止めよう、と堀野が云ひ出した。それから、堀野の内へ帰つて、明かるい洋燈[ランプ]の下で、お祭の御馳走をよばれた。》p118

 このころから百閒はもう百閒だったんだな、と考えを改めながら、今よりずっと身近に死があった時代のことをちょっと思った(この「鶏蘇佛」のあとに続くのも、別の友達の追悼文である)。
《鶏蘇佛の遺友は、君が生前の友誼[いうぎ]をかたみとして、若き日と分れた。これから後の年月に、蚊柱の夕、落葉の暁を数へつくして、黄壌の君が僕を忘れる時があらうとも、僕は嘗[かつ]て君と共に花を踏んで惜しんだ少年の春をいつまでも偲ぶであらう。
   入る月の波きれ雲に冴え返り》p123

 このまっすぐさを見たことで、後年の変幻自在な文章がいっそう底の見えないものになった気がする。なお、ここではひと言も触れられていないけど、この堀野には妹がいて百閒は――というのはまた別の話だった。次は『無絃琴』です。



■ 旺文社文庫『続百鬼園随筆』(1980)目次:
近什前篇
 雞鳴
 春秋
 立腹帖
 続立腹帖
 傅書鳩
 百鬼園師弟録
 或高等学校由来記
 食而
 大晦日
 目白
 学校騒動記
 大鐘

文章世界入選文
 乞食  按摩  靴直し  大晦日の床屋  西大寺駅  初雷  参詣道  私塾

筐底稺稿
 鶏蘇佛  破軍星  雀の塒

近什後篇
 風燭記
 俸給
 啞鈴体操
 黄牛
 薬喰
 忠奸
 掏児
 炎煙鈔
 南蛮鴃舌[ちいちいぱつぱ]
 琴書雅游録

解説 内田道雄
「続百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*確認していないけれども、新潮文庫の『続百鬼園随筆』には(仮名づかい以外は)同じものが入っていると思う。
*ちくま文庫『立腹帖』には、「立腹帖」のほかは鉄道関係の文章が集められている模様。「続立腹帖」がないのか…
*福武文庫『長春香』なら「鶏蘇仏」が入っていることがわかった。

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