2023/12/05

(46)ホーソーン「七破風の屋敷」を読んでみる [14]

読むのに使っているのは『世界文学全集 25』(筑摩書房、1970)の大橋健三郎訳で、引用部分のなかにある太字下線はわたしが足したもの

前回…

■ 鈴木清順の“浪漫三部作”4Kデジタル完全修復版が公開されると聞いたときに「ということは、遠からず出るのでは?」と思ったBlu-rayのボックスが、やっぱり来年4月に出るとさっき知った。
 作品情報でキャスト&スタッフを見ると、「ツィゴイネルワイゼン」に「原作:内田百閒」とある。生半可な知識ながら、あれってこれまで(公然の事実なのに、なぜか)クレジットされていなかったんじゃなかったっけ。なにか事情が変わったのか。あるいはこれも別に“正式なクレジット”というわけじゃないのかしら。

■■ 「十四 フィービィの別れ」
 章題にびっくりして読み始めると、最初の2ページに書いてあることにもっとびっくりする。
 ホールグレーヴは、前章でざっとあらすじを説明した自作の物語をフィービィ相手に朗読していた。それは各登場人物になりきり、身ぶり手ぶりをまじえる熱演ぶりだった。孫のマシュー・モールがよこしまなねらいでアリスに催眠術をかけるところでは、マシューがしたであろう魔法の身ぶりと呪文をホールグレーヴもみずから演じた。すると彼の目の前にいるフィービィに催眠術がかかり、彼女は(決して朗読に退屈したためではなく)眠り込んでしまう――
 本当にこんなことが書いてある。いま説明した出来事の、実際の書かれっぷりが相当におかしいので引用もする。
《若い作家には自然なことだが、力をこめ夢中になって自分の物語を朗読しつづけていたホールグレーヴは、それぞれの役の人物に、芝居としてもりっぱに発展させ、かつ模範とすることができるような所作をおびただしくつけ加えていた。いまや彼は、あるいちじるしい睡気が(それは、おそらく読者自身が感じていられるものとは、まったく違ったものだった)聴き手の女性の感覚を襲ったのを見てとった。疑いもなくそれは、催眠術を施している大工の姿をありありとフィービィにわからせようとして彼が行なった、あの神秘的な身ぶりのせいにほかならなかったのである。》p.186

《いまや彼は》じゃないよ。そういうことが起きるのはさも当然、というふりをした語り方である。なんだこれ。
 不思議な心理状態にヴェールのように包まれたフィービィを見つめる彼の目には力がこもる。
《彼がほんのひと振りその手を動かし、それに応じて意志の力を働かせれば、まだ自由で純潔なフィービィの精神を完全に支配することができることは明らかだった。彼は、この善良な、純粋な、単純な小娘にたいして、彼の伝説物語のなかの大工が薄倖のアリスにたいして獲得し、みずからふるったあの力と同じように危険な、そしておそらくは同じように破滅的な力を確立することができるのだ。》p.186

 ホールグレーヴは最後のあとひと押しでフィービィを自分の意のままに操ることだってできたのだが、しかし彼はそうしなかった、だからわれわれは、なんだかんだいってもこの銀板写真師が気高い性質の持主であったことを認めようではないか――と語り手はいう。
《ホールグレーヴのような、思索的であると同時に行動的でもあるといった気質の人間にとっては、人間精神にたいする絶対支配権を獲得する機会というものほど、大きな誘惑はない。また、若者にとっては、若い娘の運命の裁断者となるという考えほど、気をそそるものはない。》p.186

 この前提で堂々と話す語り手のほうが危険じゃないだろうか。その誘惑に負けなかったことをもってホールグレーヴが《以後永遠に信頼するにたる高潔な心の持主であったことを認めようではないか。》とまでいわれては、むしろ語り手への信頼が下がる。そういう人だったの?みたいな。
 で、知らぬ間に陥っていた危機から知らぬ間に脱していたフィービィは、催眠が解けると「あたしは眠ってなんかいません! そりゃ話の中味ははっきりおぼえていませんけど!!」(大意)とムキになる。
 ホールグレーヴ、フィービィ、そして語り手が、三者三様に真面目な顔で道化になっているように見えて、この小説のここまででいちばんコント感があった。

■ いまの挿話からなにがわかるか。2点あると思う。

(1)ホールグレーヴはマシュー・モールのように卑劣なことはしない

 これはさっきも書いたことで、あらためて、マシューは卑劣な真似をしたという事実の再確認でもあるだろう。
 ただ、第十三章の書きぶりは「マシューがひどい」よりも「アリスは気の毒な運命をたどった」のほうに力点を置いていた印象がある。するとアリスに対してひどいのはマシューだけでなく、あの物語ぜんたいということになる…なるんだけど、作中のアリスが実在のアリスにどれくらい忠実だったのかは不明だ。
「実在したアリスの描き方があの物語はよろしくない」というのと「あの物語はアリスという登場人物の扱いがよろしくない」のとでは、ひどさの質がちがう気がするけどどうなんだろう。
(前者は「人格をもった実在のアリスに照らして、物語のアリスの描き方がよくない」と判断し、後者は「物語のなかに描かれたアリスを人格ある存在ととらえたうえで、その架空の人格に照らし、扱いがよくない」と判断している?? いや、そもそも“実在のアリス”が“「七破風」という小説のなかで過去に実在したとされる人物”のことなんだから、さっきの2通りの分け方はまやかしだった???)

(2)ホールグレーヴは催眠術がうまい

 第十二章でホールグレーヴが「最近は催眠術に凝っていて、フィービィの目の前で雄鶏を眠らせてみせたこともある」とあったのにわたしは笑ったが、あれは冗談ではなく、もっと大きな冗談めいた今回の場面への伏線だったようだ。
 物語を朗読しながら身ぶり手ぶりを付け加えると、その物語内で働いていた催眠術を物語の外にいるフィービィにかけてしまえるんだから、あの物語は催眠術のマニュアルとして使えるということにも、上手に実践できたホールグレーヴには才能があるということにもなりそうである。
 だけど、あの物語じたいが(催眠術の秘伝書なんかではなく)ホールグレーヴが自分で書いたものだという設定を思い返すと、あれはいっそうおかしな場面になると思う。
 催眠術に精通したホールグレーヴが、マシューがアリスに術をかけるときに必要とされる動作や呪文をみずからの知識と経験に照らして書き込んだ → そこを朗読するとき、自分で書いた通りの所作にたくさんの追加もしながら演じる(=術をかける) → 実際に術がかかる
 なんだこれは。
 ホールグレーヴは催眠術のかけ方を文章に変えて物語のなかに封じ込めた。それを朗読する際に自分の身ぶりで解凍し、効力を解き放った、ともいえそうである。
 仮にホールグレーヴがフィービィに催眠術をかけたかったのなら、彼は物語をあいだに挟まず直接その力をふるってしまえばそれで済んだ。そうしなかったのはもちろん、この場での彼の目的が彼女に催眠術をかけることではなく、自作の物語を聞いてもらいたかった・それを通してピンチョン家にまつわる伝説をつたえたかった、ということだったからだが、だったらなぜここで術をかけたんだ
 朗読に熱中しすぎて、その気はなかったのについうっかり、催眠術を実践してしまった? そんなまぬけなことがあるだろうか、と今回最初にした引用(この章の始まり)をもういちど読んでみると、
《若い作家には自然なことだが、力をこめ夢中になって自分の物語を朗読しつづけていたホールグレーヴは、それぞれの役の人物に、芝居としてもりっぱに発展させ、かつ模範とすることができるような所作をおびただしくつけ加えていた。いまや彼は、あるいちじるしい睡気が(それは、おそらく読者自身が感じていられるものとは、まったく違ったものだった)聴き手の女性の感覚を襲ったのを見てとった。疑いもなくそれは、催眠術を施している大工の姿をありありとフィービィにわからせようとして彼が行なった、あの神秘的な身ぶりのせいにほかならなかったのである。》p.186

 たしかに「そんなまぬけなこと」が起きたのだった。しかしなんのために? いまわたしは、黒々と口を開けた大きな穴をのぞき込んでいる気持だ。底が見えない。

■ 朗読のあともフィービィはホールグレーヴとしばらく会話を続け、そこで章題「フィービィの別れ」が説明される。
 第四章での唐突な訪問から数週間、フィービィはいまやこの屋敷が自分の家だと感じるようになった。だからいったん田舎の実家に戻り、片付けをして、母や友達にちゃんと挨拶を済ませてくるためにほんのちょっとのあいだだけここを離れるというのだ。
 けれども、お別れはあくまで一時的で、すぐまた戻ってくると強調されるのがかえって不吉である。こう書かれているからには、ふつうに考えて、彼女は不測の事態によりなかなか戻ってこないか、あるいは二度と戻ってこない、そうでなかったら別離のあいだに屋敷でなにか取りかえしのつかない事態が出来することにたぶんなるんだろうと思う。

 ということは今回が最後の重要な出番になるのかもしれないフィービィは、ホールグレーヴがピンチョン家の人びとと交際する動機が善意なのか悪意なのかわからない、と不満を述べる。ここから、第十二章にもあった、ふたりがクリフォード&ヘプジバー兄妹に抱く感情のちがいを際立てる対話になっていく。
 ホールグレーヴは自分の関心を説明する。ぼくはあの兄妹を観察し分析することで、この土地で二百年近くも続いてきたを理解し、その結末を目撃したいのです――
《「[…] それがどんな成りゆきになろうとも、ぼくはそれから道徳的な意味での満足を得ることでしょう。ぼくには、その結末が近づいているという確信があります。」》p.191

 これは不思議だし、不遜でもある発言で、彼はいったいどんな立場からピンチョン家を見ているのだろう。
 第十二章のとき、わたしはこの野心的な銀板写真師が、彼じしんもその一員であるはずの世界からなぜかひとりだけ半歩抜け出しているかのようなポジションに自分を置いて、世界を「読者の目で」見ているっぽい態度を示す(だから物事をなにかの象徴だと意味づけがちになる)のに危うい感じがしていたのだけど、いま直接に付き合っている家庭にまつわる問題を「として受けとっています」と平気で述べる彼にフィービィは、わたしよりずっときびしいことをいう。
《「あなたは、この古いおうちをまるで芝居の舞台かなんぞみたいにおっしゃるし、ヘプジバーとクリフォードの不幸や、お二人の先祖の人たちの不幸を、ちょうどあたしが田舎の宿屋の広間で見たような、悲劇かなんぞのように考えていらっしゃるらしいのね。ただ、いまのこの悲劇は、あなたおひとりだけが楽しむために演じられているみたいだけど! そんなの、あたしはいやよ。このお芝居には、役者たちの犠牲が多すぎますもの――そして観客の心があんまり冷たすぎますもの!」》p.191

 そのあと彼女が「結末が近づいている」とはどういう意味か尋ねても返事は曖昧で、ぼくには催眠術の才能だけでなく《ちょっと神秘家的なところ》もある、その自分にはどうもそんな気がする――くらいのことらしい。予知でもできるということか。要領をえないが、ヒントめかして《ピンチョン判事が、みずから大いに手を貸して破滅させたクリフォードにまだ目をつけているのがよくわかる》とも彼はいう。
 これが本当なら、クリフォードが30年も監獄に入れられることになった“おじ殺し”にはピンチョン判事の策略があったということになる。そしてそれは読者のわたしがすこし前から予想していた通りだ。

■ 事件の真相はもちろん気になる。気にならないはずがない。でもこういう小説の読み方と感想の書き方をしていると、真相のほのめかしなんかより、さっき引用したフィービィの言葉のほうがずっとクリティカルに響く。
 クリフォードはまわりにいる人びとを――生身の体と心をもっている人間たちを――劇の登場人物のようにしか見ていない、そんなのってひどい、とフィービィはいっている。
 あなたは自分が芝居の観客になったつもりなんですか? という彼女の非難は、あなたは自分が小説の読者にでもなったつもりなんですか? といいかえても同じだろう。
 するとフィービィがホールグレーヴに向けた言葉は、いま「七破風」を読んでいる読者にも向かうものになる。読者のわたしはたしかに彼女たちを登場人物としてこの小説を読んでいるのだから。
 そしてまた、ホールグレーヴが彼女の一族を題材にした伝奇物語の作者でもある点で、つまり過去のピンチョン家の面々を登場人物として扱っている点で、フィービィの言葉は「七破風」の語り手を飛び越し、作者に向かうものにもなる。作者こそが彼女たちを登場人物にしてこの小説を書いているのだから。
 ホールグレーヴにムカついたフィービィが正面からぶつけた非難を彼の多面性が分光させ、読者と作者の両方を的にしてしまう。ホールグレーヴという男が《ちょっと神秘家的なところ》をもっているとしたら、はっきりしない予知能力よりも、まずここにあると思う。

■ フィービィがなにをいおうと、彼女が小説の登場人物なのは動かしようがない。作者が語り手を通して虚構の存在に割りふった台詞が、カギカッコをつけてページの上に印刷されているだけである。それなのに、というかそれだからこそさっきの発言は、「自分たちを登場人物扱いするな」と、「クリフォードやヘプジバーをはじめ、私のまわりで七転八倒している者たちだって、あなたと同じ人間なんですよ」と、登場人物が読者と作者に向かって声を上げる場面になっている。
 これは変だ。小説のなかで、小説のなかから、こんな主張をおこなう登場人物を小説の枠に収めて話を続けるのは、相当やりにくいのじゃないだろうか。そんな“分をわきまえない”ふるまいを登場人物にさせたところが、もしくは登場人物が作者の意図を離れてそんなふるまいに及んだように見えるところが読者のわたしには面白いのだけれども。

 2日後にフィービィは屋敷を去る。ヘプジバーは気丈にふるまいながらも心細く思っているのは明らかだし、クリフォードは悲嘆にくれている。ヴェナーおじさんまで出てきて「早く帰ってきておくんなさいよ」と懇願していた。
 彼女がいったん・ちょっとだけ実家に帰る事情と、それに反していかにも起こりそうな展開は先に書いた通りだ。でもどうだろう、ここまでのように考えてくると、テキパキ働く心やさしい娘として登場した彼女は、「自分たちは登場人物ではない」とみずからの立場を否定する、もしくは立場を越えかねないほどに成長してしまったわけである。
 前章の作中作ではマシューの術によりアリスがこの世とあの世の閾をまたぎ越えるほか、その作中作に本篇の語り手が口を挟むという割り込みもあった。そのつながりでいえば、この章の冒頭でホールグレーヴが催眠術を作中作から本篇に取り出してみせたのも一種の越境行為に見える。
 それらの踏み越えがどれも小説のなかで起こっているのに対して、フィービィの言葉は小説の外に向かおうとするものである。
 フィービィの説教をきっかけにホールグレーヴが反省して態度をあらためるかどうかはわからないが、そうする可能性はある。しかし、なにをいわれても彼女を登場人物として読む読者のままであるしかないわたしは、彼女が「七破風」の表舞台から退場することになったのは「成長しすぎた」せいじゃないかと思う。
《「ああ、フィービィ!」と、ヘプジバーは言った、「いまのあんたは、はじめてここへやってきたときほどすなおにほほえまなくなったのね! あのときは、あんたのほほえみは自然に明るく輝きだしたものだったのに――いまではあんたのほうから輝かせようとしている。ちょっとのあいだ故郷の空気を吸いに帰るのは、いいことだよ! あんたの心には、あまりにもどっさり重荷がかかってたんだものね。[…] 」》p.194
(続く)
2023/11/28

(45)ホーソーン「七破風の屋敷」を読んでみる [13]

読むのに使っているのは『世界文学全集 25』(筑摩書房、1970)の大橋健三郎訳で、引用部分のなかにある太字下線はわたしが足したもの

前回…

■ 「○○さんは陰湿な陽キャだよ」という人物評が耳に入り、見たこともない相手だが納得した。だってそういう人はいる。

■■ 「十三 アリス・ピンチョン」
 前章の最後で予告された通り、この章はまるまる“ホールグレーヴが書き、フィービィに朗読して聞かせた物語”である、ということになっている。作中作だ。
 ピンチョン家で起きた事件を描いているが、この一族とマシュー・モールの呪いについてホールグレーヴがどうやって材料を集めていたのか、前の章までにそれほど詳しい説明はなかった。でも彼はピンチョン家の面々にひとかたならぬ興味を抱いているのをフィービィ相手にみずから熱っぽく語っていたし、ふだんはだれを相手にしても如才なく立ちまわりながら抜け目なく周囲を観察している姿も何度か語られていた。
(ちなみにこの小説の現在時の始まりはヘプジバーが屋敷の一階で食料雑貨店を開店した日だったけど、その時点で彼は屋敷の一室に住むようになってから3ヶ月程度とのことだった)
 ホールグレーヴの物語を拝聴する前に、この「七破風」という小説のあちこちでこれまでに出てきた伝承・噂ばなしをざっとおさらいしておく。

■ いま(1850年前後?)をさかのぼること160年のたぶん1690年ごろ、マシュー・モールの所有していた土地を欲しくなったピンチョン大佐(清教徒)は、彼が魔法使いであるという罪で裁判にかけられるよう画策する。それで絞首刑になったマシュー・モールの最後の言葉が「神様がきゃつに血をすすらせなさるぞ!」。大佐は狙い通りに土地を手に入れる。
・その土地に大佐は七つの破風をもつ大きな屋敷を建てる。大工の棟梁はマシュー・モールの息子のトマス・モール
・屋敷の落成式の日、ピンチョン大佐が書斎から出てこない。不審に思った客たちがドアを開けた。大佐の孫が近づいていって悲鳴をあげる。大佐は襞襟も顎ひげもべっとり血に染めて死んでいた。客たちの耳に「神様がきゃつに血をすすらせなさるぞ!」という声が聞こえる。
・のちのピンチョン家の人間には、咽喉の奥で血をごろごろならす癖(?)が受け継がれる。
・大佐は東のほうにある土地を手に入れる直前だったのに、死んだためそこの所有権は宙吊りになったまま。その土地は広大なばかりか銀鉱もあって、莫大なお金になるらしい。
・いっぽう、モール家の子孫には、他人の夢に影響を及ぼす力が伝わっている。
・屋敷には大佐の代から大きな姿見がある。モールの子孫は催眠術的な方法を使い、その鏡に死んだピンチョン家の者たちの姿を呼びだすことができる。
・屋敷のどこかにはイギリスのギニ金貨が大量に隠されている。
・いまから100年ほど昔、ということはマシュー・モールとピンチョン大佐が死んでから60年くらいあと、屋敷にはアリス・ピンチョンという女性が住んでいた。フィービィの大おばの祖母にあたる。
《この美しいアリスは、ある大きな、不思議な災難に出あい、やせこけあおざめて、いつとはなしにこの世から消えうせてしまったのだった。だが、いまでも、彼女は、この七破風の屋敷にひそんでいるものと考えられているし、いままでに何度も、特にピンチョン家の者が死にかけているときに、彼女がハープシコードを悲しげに、美しく演奏するのが聞かれたことがあった。》第五章 p.76


■ 以上ざっと並べた内容の、おそらくギニ金貨の件をのぞいたぜんぶをホールグレーヴも知っている。それらをみんな事実として扱い、そこに読者にとっては新情報になる出来事を加えたり、さらにはきっと想像力も駆使したりして書かれたのが以下の物語になる。どんな事件のどんな話か。あらすじをぜんぶ書くしかない。

 事件の舞台は、屋敷が完成&ピンチョン大佐が死んでから73年後(ということは1760年ごろのはず)。その間も、処刑された老マシュー・モールが霊となってたびたび屋敷に出没し、地代を払うか屋敷を譲るかしないと千年後まで呪い続けるぞといいはっている。
 大佐が変死したとき、はからずも第一発見者になり悲鳴をあげた孫がピンチョン家の当主になっている。名はジャーヴェーズ・ピンチョン。あの出来事のために屋敷を嫌い、若いころから長くイギリスはじめヨーロッパに住んでいたが、財産が乏しくなって帰ってきた。妻はもうない。彼の娘がアリス・ピンチョンである。
(アリスが若くて美しい娘、というのはジャーヴェーズがすくなくとも70代なのを考えるとやや無理がある気がするものの、そう書いてあるのでしかたない)
 そのジャーヴェーズに呼び出されて屋敷に来たのが、トマス・モールの息子。つまり処刑されたマシュー・モールの孫。名は祖父と同じくマシュー・モールで、父と同じく大工をしている(父トマスはもう死んでいる)。まだ若い彼には、不思議な力を操るとの噂があった。他人の夢に入りこむとか、人を自分の心のなかに引きずり込むとか。
《「[…] この屋敷を建てた男の息子か孫だったね?」
「マシュー・モールでさ」と、大工は答えて――「この屋敷を建てた人間の息子――いや、この土地の正当な持主の孫でさ!」
「君がほのめかしている問題は、私にはわかっているよ。」ピンチョン氏は、少しも動揺の色を見せずに落ちつきはらって、言った。「[…] その問題についての議論は、どうかむしかえさないことにしてもらいたい。[…] 」》p.171

 孫世代のふたりの対面だが、因縁があると思っているのは大工だけで、ジャーヴェーズのほうではそんなものはないと思い込もうとしている感じ。
 そのジャーヴェーズは、所有権の浮いている東の土地をそろそろ手に入れておきたくなった。でもそのために必要な羊皮紙の文書が、大佐の死後、行方不明になったままである。それさえあれば手続きは済むのに。
 ジャーヴェーズには、死ぬ直前のピンチョン大佐がトマス・モールとふたりでその文書をテーブルに広げていた記憶がはっきりあった。だからモール家の人間が行方を知っているんじゃないかとにらんでいるわけだ。
(文書は処刑された老マシュー・モールの骸骨が握っているという噂まであった。それでひそかに墓を掘ってみたら骸骨の右手がなくなっていたとか)

・ジャーヴェーズの提案:マシューが文書を発見して東の土地が自分の手に入ったら、見返りに多額の金を出そう。
・マシューの逆提案:もし文書を見つけたら、引き換えにこの七破風の屋敷を土地ごとモール家に返してもらおう。
・壁にかかったピンチョン大佐の肖像画:顔をしかめて拳を握り、額縁から飛びおりんばかりに激昂しているがジャーヴェーズは気付かない。

 ジャーヴェーズはモールの提案を呑む。というのも、彼じしんは屋敷に執着がないどころか嫌いだし、東の土地が得られれば屋敷なんてどうでもよくなる額の財産が転がり込むから、それでイギリスに戻るつもりでいるのだ。
 ここでマシューがいう、「文書のありかを知るには娘のアリスさんと話をしなくちゃなりません」。
[…] 必要な知識を獲得する唯一の機会は、美しいアリスのような、純粋な処女の智力という、澄んだ、透明な霊媒を通じてしか得られぬということを、彼女の父親に理解させさえした。》pp.176-177

 どうしても文書がほしいジャーヴェーズは娘に協力を頼む。娘は娘で誇り高く、挑戦するようにマシューの申し出を受ける。
[…] 彼女は、何か不吉な邪悪な力が、いまや彼女のはりめぐらした柵を乗りこえようとしていることを本能的に知っていたのかもしれない。だが、それでも、その闘争を拒絶する気持は彼女にはなかった。そこで、アリスは、男の力に女の力をぶつけたのだった。女のほうから言えば、しばしば対等でないことのある試合とも言うべきものではあったが。》p.179

 要はマシューがアリスに催眠術をかけ、その場で彼女を霊媒にして霊界の人物と交信するのである。その手順をマシューはアリスにもジャーヴェーズにも読者にも説明しないまま、いきなり、術を始めている。
《大工は、アリスから数歩はなれたところで両腕を頭上に差しのべて、その腕を、あたかも目に見えない重いおもしをゆっくりと娘の頭上にふりおろそうとするかのように動かしている。》p.179

 いちどアリスは口から声にならない叫びをもらし、そのあとはマシューにいわれるがまま、立ったり座ったりする。あわてたジャーヴェーズがどなってもゆすっても目を覚さない。あれ? 自分の監視下でまんまと娘を奪われてしまった? 激怒するけどもう遅い。
《「あんたが、ひと束の黄いろい羊皮紙を手中におさめたいというそれだけの希望の代償に、娘さんを売り渡してしまいなすったとしても、それはわしの罪ですかね?」》p.181

 マシューの指示のもと、アリスは自分の知覚にあらわれた霊界の人物の姿を説明する。ピンチョン大佐、老マシュー・モール、トマス・モールの3人。ぜんいん文書のありかを知っているらしく、大佐がアリスに伝えようとするが、モール親子が邪魔をして果たせない。あっちの世界で1対2でもみ合っているうちに、大佐の襟に血が流れ出る。
 こっちの世界のマシューいわく、子孫を金持にするはずの文書のありかを決して教えられないというのが、大佐の受ける報いの一部なのだ。せいぜいこの屋敷を守るがいい
 どうやらマシューに屋敷を手に入れるつもりははじめからなく、欲に目がくらんだジャーヴェーズを騙そうとして、見事に成功したのだった。ジャーヴェーズは憤激のあまり、咽喉でごろごろ音を立てる。
 マシューはアリスの目を覚まさせて去る。彼女は催眠中の出来事をおぼえていないが、術は解けていない。どれだけ離れていようと、なにをしている最中だろうと、マシューが手をふって指示を出せばその通りに動くようになってしまった。「笑え」といわれれば笑うし、「踊れ」といわれれば踊る。
《かくして、生命の威厳はことごとく失われてしまった。彼女はあまりにも大きな屈辱を感じて、いっそ虫けらの身になり変ってしまいたいと願ったのである!》p.184

 アリスが薄くて白いドレスを身につけ他人の結婚式に参列していたのと同じ日、マシューはマシューで労働者の娘と結婚した。彼はアリスを自分の宴席に呼びよせて、花嫁にかしずかせる。ここでマシューと嫁の《二人が夫婦となって結ばれたとき》にアリスは術から解放され、嵐のなかを屋敷まで歩いて帰る。もはや誇り高い様子はない。翌日からひどい風邪に襲われ、やせ衰えた姿でハープシコードを奏でて天に召された。
《ああ、よろこばしいかな! アリスはついに最後の屈辱を耐えぬいたからだ!》p.185

 アリスを送る葬列の最後には、《おのが心臓を二つにかみしだかんばかりに歯ぎしりしながら》マシューも加わっていた。《いやしめる気持はあっても、殺すつもりはなかったのだ》――

■ ジャーヴェーズはまぬけすぎるし、孫のマシューは欲望に忠実すぎる(自分がアリスと結婚するのではなく、彼女を自分の嫁にかしずかせるあたり、ぞわぞわする)。そういうことも含めて、荒唐無稽な伝奇物語だった。

・マシューが「見返りに屋敷をよこせ」といった理由がわからない。そこを飛ばして「アリスが要る」と進めれば充分だったのでは。条件を足したのはジャーヴェーズに本気具合を信じさせるため?
・アリスは未婚のまま死んでいるけど、彼女はフィービィの大おばの祖母だったんじゃなかったっけ。ホールグレーヴはまちがった話をもとにしているのか?

 こういう疑問を気にしてもしかたないよなと思わせる、もっとおかしなこと・ありえないことがたくさん起きている。単純に考えれば、ホールグレーヴの小説の趣味はこういう方向だった、ということになる。
(どこまでがこの町に伝わる言い伝えで、どこからがホールグレーヴのオリジナル脚色なのかは判断のしようがない)

■ また別の、これはこれで単純な考え方として、いったんホールグレーヴから離れてみる。
 この第十三章の“作中作”に対し、第十二章までを“本篇”と呼ぶとすると、両者の書かれ具合はだいぶちがって見える。
 ヘプジバーやクリフォードをめぐる本篇に入れるには非現実的すぎて、世間のまことしやかな“言い伝え”だとか、真偽不明の“噂ばなし”であるとかいったエクスキューズを付けてチラ見せするしかなかったたぐいの断片――それが今回、最初におさらいした挿話たちだった――を、この第十三章では、“これはホールグレーヴが書いた物語ですよ”というもっと大きなエクスキューズのもとに組み合わせて引きのばし、だれをはばかることもなく、のびのびと展開しているように見える。
 そりゃまあ、本篇でだって変なことは起きていた(実際の出来事のレベルでも、語り手のレトリックのレベルでも起きていた)けれど、肖像画のなかの大佐が動いたり、催眠術で霊界の人物と交信したり命令を聞かせたり、ついにはそのせいで死んだりといったもろもろは、本篇に較べて好き放題の度合いがはるかに大きい。
 そういうことを本篇ではやらないで、この作中作の枠のなかに集めよう、という判断があったのはまちがいない。この小説は、そこは分けている。それにより、本篇のリアリティの水準は保ったままで、伝奇的な好き勝手を作中に書き入れるという、ふたつの趣向を両立させている。
 でも、どうなんだろう。読者の側では、つまりわたしとしては、「ここは本篇と区切られた作中作だからなんでもありになってるんだな」という意識を読んでいるあいだはもつにしろ、あとからこの「七破風」がどういう小説だったかふり返るとき、「霊が出てくるし催眠術がばりばり効果を発揮するし、呪いは脈々と生きている小説だった」というふうに、作中作から受けた印象と本篇から受けた印象を分けられず、かなり混ざった状態で思い出すと思う。
 書く側がせっかく枠を作って内容を区別しても、読む側のわたしからしたら、本篇の印象と作中作の印象はそんな枠を乗りこえてしまい、たいして区別できるものではない。
 書く側ではそれでいいんだろうか? とか考えていて、いま自分がなにを疑問に思っているのかわからなくなってきた。そこはどうでもよかったかもしれない。むしろ、読者の受ける印象を混ぜるのがこの小説の狙いだったりするのだろうか? 
「超常現象が起こらない(すくなくとも正面切っては起こらないことになっている)部分」と、「どんどん起こる部分」を形式的には区別しておいて、でも全体としては「そういうことって、起こることも、あるよね」みたいに入り混じった、でも確実に「起こる」側に寄った印象をこの小説は与えようとしている? そのとき「それは作中作で起こっているのであって、本篇はそんな不真面目なタイプの作品ではないですよ」と逃げ道も用意している――とはいえ本篇だってあちこち変だけどな――
 どういうつもりで小説がこういう作りになっているのか、あるいは、こういう作りでどんな効果が生まれているのか、考えを進めるには、わたしが作品に追いついていないっぽい。そうなってしまうのは、わたしがふだんは「ひとつの作品のなかにリアリティの水準の異なる部分が混在し、地面がでこぼこしている」小説を「なんの問題もない・面白そうじゃん」とよろこんで読む読者だからだと思う。この件は保留。

■ 次は語り手の話。
 この小説の第十二章まで(本篇)を語っていた語り手について、「語り口が大げさ」とか「フィービィを持ちあげすぎてキモい」とか、「それでもときどき、人物の内面への踏み込みが容赦ない」みたいなことをいろいろいってきた。その語り手と、第十三章(作中作)を語る語り手は別のはずである。本篇の登場人物のひとりであるホールグレーヴが書いた創作を作中作としてはめ込んでいるんだから、そっちの語り手はその創作だけを語る語り手で、本篇を語っていた語り手と同じではない。当然、そうなる。
 上で本篇と作中作の「区別」「区別」と繰り返した。両者の区別をいうなら、内容のちがい以上に、語り手がちがっているのはまちがいない。ここはいくらなんでも確実なはずである。
 それなのに、じつは作中作には1ヶ所、おかしなところがあった。マシュー・モールがアリスに催眠術をかける様子を描写するところだ。
《彼が手で招くと、椅子から立ちあがって[…] 誇り高きアリスは彼のほうに近づいた。彼がもとへもどるように手をふると、アリスは退いていって、ふたたびその椅子にすわりこむのだった!
「この人はわしのものだ!」マシュー・モールが言った。「最高の力をもった霊の権利によって、わしのものだ!」
 この伝説的物語のなかでは、さらにそのあと、この大工が紛失した文書を発見する目的で行なった呪術(そう名づけうるとしてのことだが)についての、長い、グロテスクな、ときには恐怖をおぼえさせるような説明が続いている。どうやら、アリスの心を一種の遠目のきく霊媒に変えて、それによってピンチョン氏と彼自身が霊界をのぞき見ることができるようにしようというのが、彼の目的であったものらしい。》p.182

 2段落め、《この伝説的物語のなかでは》から《どうやら[…] らしい。》へと続いていく記述は、この物語そのものを語る1段落めの声とは明らかに異なっている。物語を語るベタな声を、もっと外側から眺める立場から発された声だろう。
 まるで、作中作(ホールグレーヴによる創作)の進み方をまどろっこしく感じた本篇の語り手が、我慢できなくなって作中作に割り込み、「もうちょっとまとめろよ」と話をかいつまんでいるような語り口が、ここにだけ紛れこんでいるのだ。
 形容のしかたはどうあれ、変なことが起きている。で、ここでこんなことが起きているからには、ほかでも起こりうるし、変に見えないところの裏でも本当は見かけとちがったことが起きているのかもしれない、と考えが伸びていく。なにがいいたいかというと、こんな可能性が出てくるということだ。
 ――ホールグレーヴの物語は、彼が書いたそのままが第十三章にはめ込まれているわけではなく、それを読んだ本篇の語り手が全体を語り直したものであり、だいたいは忠実に再話を行なっているように見えるが、引用した1ヶ所でだけ破れ目ができて、自分の素の声で語ってしまった、だから「だいたいは忠実に再話を行なっている」保証もない――
 するとホールグレーヴが書いた創作の実物は、この「七破風」のどこにもないことになる。で、そうなったからどうなんだというと、この時点でなにか「こうだ」といえることはとくにない。
(わたしが第十三章として読んだホールグレーヴの創作と、作中でホールグレーヴが朗読した物語は別なのかもしれないが、それはわたしがホールグレーヴ本人か、それを聞いていたフィービィに訊いてみないとたしかめようがない)
 ひとまず、作中作であるはずの部分に本篇の語り手が割り込むという、枠の踏み越えがあった。話を広げなくても、ここまでは事実だ。小説の形式上、本当は越えられないはずの閾を語り手が越える事態が起きたこの部分が、まさにモールの術によってアリスが閾を踏み越える――生者の世界に体を置きながら、精神だけ霊界に通じて交信を行なう場面につながっていくのである。
 こういう妙な一致にぶつかったりすると、それだけで小説を読んでいてよかったとわたしは思う。

■ 最後にアリス・ピンチョンについて。
 その若さ・美しさと同等か、それ以上に強調されるのが、いちおうの名門一家に生まれてヨーロッパで教育を受け、ハープシコードを奏でる彼女が「誇り高い」女性だったということだ。
 父のジャーヴェーズ・ピンチョンがマシュー・モールに騙されるというホールグレーヴの物語の大筋は、そんな彼女が身分の低い男の術にかかって恥辱の限りを味わったあげく死ぬ話、と要約できる。ピンチョン屋敷でアリスが最初に姿をあらわしたとき、マシューは彼女が自分を《けだものかなんぞのように》見ていると独り決めして内心に怒りをたぎらせていた。
《彼女はたいへん誇りの高い女であった。高い身分にあたえられているすべての利点を片えに押しのけて、この美しい娘は、みずから自分自身を裏ぎらぬかぎりはおのが領域を難攻不落の城と化することのできる――美と、気高い、けがれのない純粋さと、女性に備わった自己保存の力の結びつきあった――ひとつの力を自覚しているものと思いこんだのである。》p.179

 ちょっとわかりにくいが、つまり、彼女は自分がマシューのようないやしい男から不都合な目にあわされるはずがないと信じて疑わないプライドがあった、ということで、しかし実際には完敗したわけである。
 ずっと上で書いたあらすじをなぞり直すと、このあと彼女は催眠術により命じられたままに行動する屈辱を味わい続ける。最後にマシューの嫁の前にかしずかされてから帰るときには、わざわざ《もはや誇らしい様子は見せずに》と書いてあった。亡くなった様子はこう語られる。
《ああ、よろこばしいかな! アリスはついに最後の屈辱を耐えぬいたからだ! さらによろこばしいかな! アリスは彼女のただひとつの地上の罪を悔い、もはや誇り高くはなかったからだ!》p.185

 高慢でも尊大でもなく、女性がただ「誇り高い」ことをだといっている。マシューの催眠術はそんな彼女に与えられた罰で、誇り高くなくなったことは祝福されてしかるべき変化だった、と。
 この論評がホールグレーヴによる作中作の語り手の声であるにせよ、本篇から割り込んできた語り手の声であるにせよ、ここに関しては、まったくろくでもないやつである。
 今回、最後の最後でやっと確実なことがいえた。ただし、語り手の意見が小説のもつ意見とそのままイコールとはならない、というのもまた確実なことである。
…続き
2023/11/21

(44)ホーソーン「七破風の屋敷」を読んでみる [12]

読むのに使っているのは『世界文学全集 25』(筑摩書房、1970)の大橋健三郎訳で、引用部分のなかにある太字下線はわたしが足したもの

前回…

■ フォークナーの『野生の棕櫚』に加島祥造の訳があったなんて、復刊のニュースまで知らなかった。表面をなぞるくらいだけど、別の訳で読んだときの感想がここにあるよ。


■■ 「十二 銀板写真師」
 前章の最後で思わせぶりに再登場したピンチョン判事がからみ、滞っていた話が動きはじめるのじゃないかというわたしの予想はまちがっていた。今度はホールグレーヴの紹介だった。
 それならそれでぜんぜん構わない、読もうじゃないかと気を取り直して読んだ。ほかに読者のとれる態度があるだろうか。

■ いまあらためて章の頭からたどり直してみると、語り手はピンチョン一族から脇役に焦点を移すのには相応の理由がないといけないと考えていたのか、まずはフィービィにスポットを当てている。
 毎日クリフォードの世話をして、ほかに接する人間がヘプジバーしかいなかったら彼女だって参ってしまう → だから夕方にクリフォードが眠ったあとは外に出かけて買い物をしたり、コンサートを聴きに行ったり、自分の時間をもつのだ → そうして彼女にも変化があった。そしてこの間ただひとり付き合いのある若者といえばホールグレーヴだった → さてこの男は、と段階を踏んで、かの銀板写真師に話をもっていく。律儀である。
 いきなりホールグレーヴの話をするのは不自然だと語り手が(というか、ありていにいえば作者が)考えているっぽい、というわたしの受けた印象が正しいとすれば、最初の導入部分は「必要だから」挟んだ“つなぎ”ということになる。で、そのぎこちない“つなぎ”のなかにかえって不自然なことを書き込んでしまったように見えるのが以下である。
《たとえば、フィービィ自身が観察したところによると、花は、クリフォードやヘプジバーの手ににぎられると、彼女自身がにぎっているときよりもつねにいっそう早くしおれはじめたものだったが同じ論法で、彼女の日常生活全体をこれら二人の病的な人間のための花の香りに変えてしまうことになれば、いかに若い盛りの娘であろうとも、もっと若い、もっと幸福な人間の胸に抱かれるときよりは、かならずやしおれ、色あせてゆく速度もいっそう早いにちがいない。》p.153

 後半を導き出すためにひねり出したんだろう前半が無茶だ。そんなことが起こる小説では「七破風」はない、とここまで読んだわたしのほうで修正しながら読んでいる。でも、こう書いてしまえばそういうことになる、という原理にはなるべく従順な読者でありたいとも思う。
 そんなわたしの気も知らないで、語り手はまたフィービィへの好意を隠さない。
《彼女の目は、以前よりも大きく、黒くなって、深々とした色をたたえているように思われた。ときどき黙っているときなどには、あまりにも深々としているので、それは底しれないほどの深みをたたえた掘り抜き井戸のように見えたくらいである。われわれが最初に乗合馬車から降りてくるのを見たあのときの彼女のような少女らしさは、もうなかった。少女らしさがなくなって、もっと女らしくなっていたのだ!》p.154

 もうちょっと隠すべき感想じゃないか、これ。

■ 七破風の屋敷の一室に間借りして、町にスタジオを持っている銀板写真師。いつも冷静で落ち着いており、ヘプジバーにも愛想よくふるまうが、なにかたくらみを隠しているっぽい。そんなホールグレーヴの経歴が、フィービィに向かって語ったのをまとめた体でわーっと並べられる。
 まだ22歳ながらさまざまな職業を経験し、大陸を遍歴もした野心家である。じつは銀板写真にもそんなに思い入れはなく、ほかに仕事があればいつでもやめるつもりでいる。おぼえておいたほうがよさそうなのは「フーリエ主義者たちとしばらく共同生活をしていた」ことよりも、「最近は催眠術に凝っていて、フィービィの目の前で雄鶏を眠らせてみせたこともある」のほうだと思う。ここはもっと詳しく書いてほしかった。
 それでいて彼はいちども自分を見失ったことがない・つねに良心を守ってきた、だからヘプジバーもフィービィもこの青年を(うさんくさい目で見つつ)信頼できたのだという。
 もっとも、フィービィは彼のことがあまり好きではない。自分を含めたピンチョン家の人間に興味津々であれこれ知りたがるのに、そこには相手に対する愛情がちっともない、というのがその理由。フィービィと会うたびにクリフォードの様子を尋ねるのも知的な関心からであって、やさしさとかではない。特殊な状態にある彼の心のありようをホールグレーヴが根掘り葉掘り知りたがるのは、《人間の知恵の深さを測るのには、その人間の困惑の状態を調べてみるのがいちばんいいのじゃないか》と考えているから、だそうだ。
 ここは面白いと思う。日々、自分の手でクリフォードを世話(介護)しているフィービィのほうが、異常な経験によりこの人物が迷い込んだ精神の謎を解き明かしたい気持は薄いのである。
《「最近あたしは、あのかたをまえよりもよく知るようになってから、あのかたの心のなかを穿鑿[せんさく]したりなんかするのは、あまり正しいことじゃないような気がしていますわ。[…] 陽気でいらっしゃるときには――太陽があのかたの心にさしこんでいるときには――それぁあたしだって、なかをのぞいてみもしましてよ、その光が照らしてくれるだけの範囲内でね、でも、それ以上はのぞきこむ気持にはなれません。そこは、影がふりかかっている聖地のようなものなんですもの!
「とっても美しい言葉でその気持をお述べになりましたね!」と、写真師はいった。》p.157

■ このへんまでは、フィービィとの対話を通してホールグレーヴがどんな人間かを示す書き方がされている。でも次第に語り手は、彼のことを直接自分で説明するようになる。「語り手が自分で」というのは「地の文で」ということだ。当たり前だが地の文は、登場人物であるフィービィやホールグレーヴ本人には見えない場所で綴られるものである。

 ホールグレーヴの考えでは、自分と同じくこの世界もまだ若い。急に話が大きくなったな。
[彼には]《いまの時代ほど、苔むした、くされはてた過去をうち倒し、生命のぬけた制度をなげすて、その屍[しかばね]を埋めさって、いっさいを新しくはじめるにふさわしいときは、かつてなかったように思われたのだ。》p.158

 世界をよりよくするにはいまがベスト、という彼の信念を受けとめて検討を加えるのは、フィービィではなく語り手である。
 ――どんな過去よりも未来よりも、いまの時代こそが世界をよくする運命を担っていると想像するのは、自分がいまを生きているからだろう・自分が力を貸すかどうかが世界の改善を左右すると思いこむのは誇大な誤りであるよ・とはいえ、そんなふうに考えるおかげで青春が充実するのならいいことだし、年をとるにつれ信念を修正せざるをえなくなっても、彼は捨て鉢になったりはしないだろう、エトセトラ、エトセトラ。
 語り手はホールグレーヴより歳を重ね、もっともののわかっている年長者としてコメントを付ける。そこには皮肉な調子もあるにせよ、大筋では彼の若さと信念を肯定的に扱っている。その先にもっと高いものにまでつながるレールを敷きたいからだ。
[…] そして彼が人生の始めにあたってもっているこの高慢な信念は、その人生の終りに際しては、最善の意図にもとづく人間の努力というものも究極的には一種の夢にほかならず、神こそが唯一の現実の作為者であるという真実の悟達によって、はるかにつつましいものに首尾よくすりかえられることになるにちがいないのだ。》p.159

 ホールグレーヴに、あるいは語り手に同意するというのではなくても、ここの話の進め方は面白い。ある登場人物の考えていること(思想1)に、べつの登場人物ではなく語り手が地の文でツッコミを入れ、たたき直したり盲点を補完したりして、もっと深まった考え方(思想2)にまで進ませている。
 小説を読むのには、同意する/しないとは別の読みごたえというものがあるはずで、それが増したものを手渡してくれるのは読者にとってよいことだし、じっさい歓迎する。語り手がホールグレーヴの考えをそのまま伝えるだけでなく、語りながらより深めてくれたのはよかった。そうやって神が出てくるんだ、というのは意外だったし。
 ただ、この考えの深化(思想1 → 思想2)は、語り手が地の文でやってしまっているために当のホールグレーヴにはフィードバックされない、というのがうっすら気にかかる。登場人物である彼はせっかく素材を提供したのに、加工した品物をページ上に表現するのは語り手で、受けとるのは読者だけになる。登場人物は分け前にあずかれず、元の位置から動いていない。
 いまのは「それでいいのかな」というぼんやりした感想であって、この小説の書かれ方に難癖をつけているつもりはない。「七破風」は語り手がこういう語り方をする小説である、という観察だ。でももうひとつ、「ほかの方法はないのかな」と思うし、なんとなく「ドストエフスキーはえらかったんだな」とも思った。ぼんやりに変わりはない。
(調べるとホーソーンの生没年が1804-1864年、ドストエフスキーは1821-1881年とのこと。親子ほど離れてはいないのか)

■ いま書いたことに別の方向から公平を期すと、さっきの部分は語り手がホールグレーヴの考えをたたき台にして“若者論”の一種を述べていたにすぎない、ということにもなりそうだ。
 若者の抱きがちな信念をホールグレーヴという代表者にかぶせ、それを通して自分の(もっと“深めた”)意見を披露する、みたいな。だからその考えをもういちどホールグレーヴに還すことはしなくてもいい、それでああいう書き方をとった、というふうに読むこともできるといえばできる。
 というのはこのあと、“若者一般”のものではなく、もっとホールグレーヴ独自のものといえそうな考えが出てくるからだ。語り手は地の文の語りだけではなくフィービィも巻き込み、彼女との会話も使ってそれに形を与えていく。
“一般的な考え”と“個別的な考え”への重みづけのちがいが、前者は地の文で済ませ、後者は登場人物のあいだで生まれるようにする、という書き方のちがいになっているのかもしれない。
(逆にいえば、たとえありがちな一般論でも、それを主張する人物の様子と主張のしかたを丁寧に描けば、それなりに独自のものに見えてくることもあるかもしれない。一般論に血肉を与えて個別の側に取り戻すというか)

 それでホールグレーヴはどんなことを考えているか。彼はなによりも、自分たちの「現在」にのしかかる「過去」が気にくわない。過去が現在に影響を及ぼすのも、現在の自分たちが過去に縛られるのも耐えがたい。
 その「過去」を、読者が連想するよりもはやく七破風の屋敷という建物に結びつけ、古い建物がいつまでも残っているのがまちがいだ、と持論を展開する。
《「もしそれぞれの世代が、自分たち自身の家を建てることを許されるとするならば、たとえそのこと自体はたいして重要なものでないにせよ、その変化だけでも、今日の社会の苦しみを救ってくれるほとんどすべての改革を意味することになりますよ。」》p.162

 社会を新しくするには、まず建物を新しくすべきだというのである。議事堂や裁判所、市庁舎、教会なんかの公共の建物も、二十年に一度崩して建て直すほうがいい――《「人々がそうした建物の象徴している制度を調査し改革するようにという暗示としてね」》。
 そうして彼は、いまフィービィと話している庭のそばにそびえ立つ屋敷を「火によって浄化されるべき」とまでいう。
《「この屋敷はね、ぼくの考えでは、まさに、たったいまぼくが非難していた、しかも、その本来の悪い影響力をすっかり兼ね備えた、あのおぞましい、嫌悪すべき『過去』をあらわしているんです。ぼくは、そいつをどういうふうに憎んだらいいかいっそうよく知るために、しばらくここに住んでるんですよ。」》p.163

 へえ、と思うのは、ここではホールグレーヴという登場人物が「屋敷=過去」といっているからだ。
 この小説の語り手が、あれこれの具体的な事物をなにかの比喩・象徴として扱いがちであること・しかもそれを自分で説明してしまうことには、これまでも抵抗をおぼえてきた(第六章とか)。
 いまここで、屋敷という具体物を過去という抽象の象徴とするとらえ方を、語り手ではない登場人物までが抱いていることになり、小説のもつ“なんでも象徴にしたがる”傾向がさらに一歩進んだように感じられた。一歩進んでより複雑になったようであり、より単純になったようでもある。
 でもどうなんだろう。語り手にとっては、そしてそれ以上に読者にとっては、庭の植物だろうが屋敷だろうがみんな言葉で、言葉だったらかんたんに象徴に昇華されがちなものだけど、ホールグレーヴにとって屋敷はなによりも具体物のはず(自分がそこで寝起きしている)なのに、そんなにあっさり象徴と見切ってしまえるものだろうか。
 そう見切るのがこの人物なのだ、ということであるにせよ、物事を「象徴として見る」というのは「読者の目で見る」ということかもしれなくて、なんだろう、この銀板写真師は自分が世界を変革する力になりたいというようなことをいいながら、その実、世界の住人の立場を半歩抜け出し、世界の読者になっているのではないか。それって危ない気がする。すでに「火によって浄化されるべき」とかいっているやつが危なくないわけはないのだが。

■ ホールグレーヴは、ピンチョン家とモールとの160年前から続く因縁に話を進める。彼にいわせれば最初のピンチョン大佐(清教徒)からずっと、一族に良心の呵責や不和、さまざまな不幸をもたらしてきたこの因縁こそが忌まわしい“過去からのつながり”で、だから、過去とは“血のつながり”のことになる。
《「[…] ぼくは、そうした災いの源はすべて、いや、たいてい、家族をそこに根づかせ栄えさせたいという、あの昔の清教徒の無法な欲望にまでたどることができると信じているんです。家族を根づかせる――この考えこそが、人間がやってのけるたいていの邪悪の根源にあるものなんです。ほんとうを言えば、せいぜい半世紀に一度ぐらいは、家族なんかは、大きな、名もない人間大衆のなかに消えうせて、祖先のことなんかすっかり忘れてしまわなくちゃいけないんですよ。」》pp.163-164

 社会も家族も定期的にガラガラポンして過去のしがらみを断ち切るようにすればもっとよいものになる、というホールグレーヴの考えを、ピンチョン家の現存メンバーであるフィービィはぜんぜん支持しない。
 ここで彼女の不同意は、「まあ!」とか「古いものはなんでもかんでもお嫌いなのね!」とか、過激な意見に対する常識的な反発のようにしか描かれないんだけど、真っ向から反論をぶつけるのではないところにかえって見るべきものがある。
 過去から続く呪いとそれによる災いを、ホールグレーヴは事実と認めたうえで「過去からのつながりは、そういう不幸を生んできたので否定しないといけない」と熱っぽく主張しているわけである。「否定しないといけない」というために、彼はまず過去を全面的に信じないといけなくなっている。
 でもいっぽうのフィービィは、そもそもの因縁じたいをばかげた迷信として信じていない。どっちのほうが過去から自由なのかは明らかだと思う。

■ フィービィのことをたんに素直な心の持主と思い込んでいるホールグレーヴは、ピンチョン家にまつわるひとつの事件を伝説物語として書きあげたという。フィービィに読んで聞かせるその物語が次の章になるようだ。
《「あなたは雑誌にものをお書きになりますの?」とフィービィがきく。
「それをご存じなかったなんて、ほんとうですか?」ホールグレーヴは叫んだ。――「ああ、文学的名声とは、まさにそういうものなんだ!」》pp.164-165

 うるさいよ。読ませてもらおうじゃないか。ほかに読者のとれる態度はない。
…続き


■ 追記:
・いわくのある巨大な建物が舞台となれば、「小説の最後でその建物は焼け落ちるんじゃないか」と予想しておくのが定石だと思う。この章ではじめてそんな事態がほのめかされたのにはドキリとした。実現するのかしないのか、すくなくともそこについての関心が、最後まで読むうえでの頼りになりそうだ。

・今回、「ホールグレーヴ独自のものといえそうな考え」として書いた過去の否定・建物も家族も長く残すべきではないみたいな考えは、当時のアメリカ知識人の思想を調べたら「べつに独自ではない」みたいなことになるかもしれないが、それならそれで構わない。でも、ホールグレーヴがかつてフーリエ主義者たちと交わっていたという設定が、催眠術で鶏を眠らせたのよりも重要だったら残念だと思う。